4章『彼である事』:4
5月末日とはいえ、午後の8時近くともなれば既に夜の帳は降りている。
数時間前までは残っていただろう夕焼けの色も、今は群青色に染め上げられていた。今日明日と天気のいい日が続くようで、透き通る空には綺麗な月が浮かんでいる。
視界に映る建物は月明かりと、実は結構犯罪抑制に役立っているらしい街灯に照らされて青く、あるいは蒼く色付いていた。
そんな何の変哲もない街中を、飛鳥はのらりくらりと歩いていく。
いつぞやと似たような光景だが、いつぞやと違うのは既に空は夜の色であることと、彼が手ぶらであることだろう。
飛鳥はこの前の日曜に買い物は済ませているので、自宅の冷蔵庫にはある程度食材が放り込まれているはずだ。彼の母は普通に主婦なのでそんなことはないが、彼自身に関しては安いものを買い求めようなどという節約精神はほぼ無いため時間が空いたときに買い物を済ませるという形をとっている。
飛鳥は金を惜しむぐらいなら手間を惜しむタイプのため、一人暮らしをしている割には所帯じみた様子がほとんどうかがえない。彼は作る料理も簡単なものばかりで、身体を壊さない程度に栄養バランスに気を使うのがせいぜいだった。
そんなわけで、帰ってから夕飯を作り始めるには少しばかり遅い時間ではあるが、飛鳥はほとんど気にしていない。そして空を見上げながらぼんやりと考えていることも夕飯のメニューなどでは決してない。
考えているのは、やはりアークのことだった。あるいは、それに関わることとなった自身のことについてか。
確かに特別な人間にはなっただろうが、これで夢がかなったかというと流石にそんなことはないわけで。
ただ、世界で26機しかない兵器のパイロットになったということが、今後の自分に決して小さくない影響を与えるだろうことは想像に難くない。逆に自分の行動が周囲、ひいては世界に何かしらの影響を与えることも同様だ。
自分の身も、必ずしも安全ではないという事実。
気楽に考えるにはどうにも大事で、深刻に考えるには彼はあまりにも無知だった。
遥や隼斗がこのことをどう考えているかは想像のしようもないが、少なくとも飛鳥よりは膨大といえる知識を持っているのは確実だ。となれば、彼女らが見据える未来のビジョンは飛鳥のそれとは別物で、かつ鮮明なものだろう。
(まぁ、今考えたってしょうがないことだろうし。いろいろ、知ってかなきゃならないな)
現状の自分を理解したうえで、飛鳥は前向きにそう考えることにした。
安易に気楽に考えず、正しく判断しようと学ぶ姿勢を持てるのは彼の長所ともいえる。問題の先送りには違いないが、いずれにせよ単純に『わからない』と切り捨てるよりは随分マシだろう。
今の自分の知識では考察を巡らせるだけ無駄だと判断した飛鳥は、ややこしいことはすっぱり頭の中から捨て去った。多少身の不安はあるが、殺されたりなどよほどのことがない限りまず起こり得ないだろう。
軽くなった頭を上に向け、ぼんやりと空を仰ぐ。
わかりやすいヒーローものには、わかりやすい悪役がいる。
今回で言えばその悪役はバーニングで、明確に周囲に被害が出る行動をとっていた。だからこそ飛鳥はためらわず戦うことができたといえる。あの場に関して言えば、飛鳥は間違いなく脅威から民間人を守るヒーローだったのだから。
結局は全て仕組まれていたことだったわけだが、バーニングとの戦いで掴んだ感覚は悪いものではなかった。妄想の領域にしかいなかったヒーローという存在が、自分という人間に重なった感覚。
その感覚はパイロットという立場になったこと以上に、飛鳥自身に大きな変化を与えたようにも思えた。
(なれるかな、夢じゃなくて本当に……)
飛鳥はそれに微かな興奮のようなものを覚えていた。
それは例えるならはじめて自転車に乗れた時のそれと同じ感動で、決して大したものではない。だが、当事者からすればそれは大きな感動である。
不思議な高揚感に包まれて、ともすれば鼻歌さえ歌いだしそうな飛鳥は意気揚々と夜道を歩く。
住宅街の中を抜け、小さな公園に差し掛かる。
歩行は不自然にリズミカルで、全身を使って浮かれた頭を表現していた。
だからこそ、だろう。
「久しぶり」と声をかける、目の前にいた彼女に気付けなかったのは。
へ? と素っ頓狂な声を上げて、飛鳥は空を泳いでいた視線を前方に向けた。
腰かけていた高さ1m程の公園の柵から飛び降りて、彼女は飛鳥と対面する。
「如月?」
問いかけると、彼女―――愛は小さくうなずいた。
「え、と、なんで?」
知り合ったばかりの少女の唐突な登場に飛鳥は一瞬事態を飲み込めず、曖昧にそう尋ねた。もしかして自宅がここの近くなのかとも考えてみたが、たとえそうでもこんな時間に一人で公園にいる時点で何か目的があると考えるべきだ。
飛鳥は少し訝しげな表情になる。
対して愛の方は、変わらずの無表情で飛鳥の方を指さして、
「アスカが来るの、待ってた」
飛鳥は今度こそ、はっきりと困惑の表情を浮かべる。
愛は確かに知り合いではあるが、わざわざこんな時間に待ち伏せされるような間柄ではないはずなのだが。
「そりゃまた、どうして?」
疑問に思った飛鳥が先程と同じ質問を繰り返すと、愛は小さく頷いた。
「アスカが、アークのパイロットになるって決めたこと、聞いた。だから来た」
何故、彼女がそれを知っているのだろう、飛鳥の思考が一瞬のうちに混乱に呑みこまれた。
「え……」
その言葉はついさっき決まった事実に基づくものだ。いくらなんでも情報が早すぎるし、それ以前に何故一般人の彼女がそれを知っているのだろうか。
飛鳥の頭がさらに混乱を深め、その中で一つの事実に辿り着く。
(…………如月が一般人だなんて、いつ誰が言った?)
前提が違う。
そもそも先日の4人のうち、自分以外が一般人である証拠がどこにあるというのか。それこそ出来過ぎていると思うかもしれないが、現に飛鳥の親友であった隼斗は関係者どころかバーニングのパイロットだった。
ならば、彼女も関係者か。
(いや、そもそもあの場所に俺を導いたのは誰だ。ほとんど変わらない距離の近道をわざわざ選ぶように言ったのは――――)
飛鳥は困惑の表情のまま、目の前の少女に尋ねる。
「如月…………お前は……」
愛はそんな飛鳥を不思議そうに見つめながら、首をかしげてこう言った。
「私も、パイロット。アークの」
その一言は、その一言だけで、飛鳥の思考を見事なまでにフリーズさせた。
どうやら現実は、彼の想像以上に出来過ぎていたらしい。
世界で26人の3人目が、当然のように目の前にいる。
何の変哲もない街中で、60億分の26が二人いる。
「本当、なのか?」
恐る恐る尋ねる飛鳥だが、愛は何を躊躇うのか分からないといった様子で首肯した。
なんてこった、と飛鳥は軽いめまいさえ覚えた。
何せ、世界に影響を与えかねない人間に自分がなったと思ったら、知り合い二人から自分も同じだと唐突な告白があったのだ。冷静でいるほうが無茶なのかもしれない。
困惑から思考がまとまらない飛鳥だったが、その中でもなんとか考えをまとめ、問いをひねり出した。
「じゃあ、如月も星印学園の研究所の人間……?」
「違う。私はコードI、鞍馬脳科学研究所にあるアークのパイロット」
鞍馬といえば、先日隼斗から話を聞いたところだ。飛鳥の記憶が正しければ、鞍馬大学から派生した研究機関だったはず。
国内の研究機関だし、言うなれば飛鳥と同じ立場の人間なら流石に彼の命を狙うなどということではないだろう、と飛鳥は判断した。
「そのアークのパイロットが、俺に何の用なんだ?」
「理由が、聞きたい。パイロットになった、理由」
どこか鋭さを含んだ視線で、飛鳥をまっすぐ見据える愛。
理由と言われても、正直なところ飛鳥には成り行きと答えるより他ないのだが、そういう適当な回答が望まれていないのは彼女の眼を見れば明らかだった。
答えに詰まる飛鳥を見かねたのか、愛は諭すように話しだす。
「アークは、色んなものを変える。そのパイロットも、人生が変わることだってある。私もアークのせいで、大事なものを失くした。これは遊びじゃない。きっと、何も思い通りにはならない」
どこか哀しそうな目で、愛はそう言った。
はっきり言って、今の話は飛鳥にはほとんど理解できていない。なんとなく言いたいことのニュアンスは伝わってきたが、だからといって何か答えを返せるような言葉でもない。
ただ、『大事なものを失くした』という言葉だけが、飛鳥の心に楔のように打ちこまれていた。
何か、答えなければ。
衝動的な感情に抗わず、何を言うかも決めないまま飛鳥は口を開く。
「えーと、悪い……。俺はそこまで深いことを考えて決めたわけじゃないんだ。なんていうかその、成り行きみたいな感じでさ」
苦笑いしながらそう答えると、どういうわけか愛はゾクリとする程に冷ややかな目を飛鳥に向けた。
読み取れる感情は、拒絶あるいは侮蔑。少なくとも、相入れ得る相手に向けた視線でないことだけは確かだった。
「何も考えてないの……? アークはその周りだけじゃない、もっと大きなものに影響を与えるのに。そんなのじゃダメ、利用される」
断定的な口調、攻撃的な視線。
そんな彼女の姿を視界に収めていられず、飛鳥は目を逸らしてはぐらかすようにこう言った。
「あ、いやなんだ、その……心配してくれてるのか? そんな気にする程の事でも……」
「違う!」
遮るように放たれた怒気を孕んだ声に、飛鳥は歪んだ作り笑いを引っ込めた。
今度こそまっすぐ愛を見据えた飛鳥に対し、彼女は火が点いたように、
「アスカは、何も分かってない。アークが抱えてるものは、たくさん人を巻き込む。なのにアスカが何も考えてないんじゃ、利用される。悪いことを考える人だっている。私たちが自分で考えないと、みんなを不幸にする。それなのに、アスカは!」
「ストップだ、如月」
「っ……」
飛鳥の言葉に、愛は何かを言おうとして口をつぐんだ。
興奮した愛の様子を見ているうちに、どこか混乱が残っていた頭も冷えてきた。
泣きそうにさえ見えた愛に、飛鳥はできるだけ優しく声をかける。
「なぁ、如月。お前に何があったのかを俺は知らないんだ。だからって話してくれとは言わないけど、俺には如月がどうして必死になってるのかがわからないんだよ」
「だって、それはアスカが何も考えてないから……。自分で決めなきゃ、また大事なもの失くしちゃう……」
さっきまでの様子が嘘のように小さな声で答える愛。飛鳥はゆっくりと首を横に振って、
「さっきから俺が利用されるみたいに言ってるけどさ、あの人はそんな悪い人じゃないよ。少なくとも自分から誰かを傷つけるようなことはしないはずだしさ」
「……でも、利益のために他人を踏み台にする人はいる。少なくない」
「だとしてもだ」
如月が誰を思い浮かべているのかは知らないが、飛鳥はあの人―――遥の顔を思い浮かべながら、話を続ける。
信頼すると決めた以上、信じると言った以上、他人の言葉一つで揺らぐわけにはいかない。
「俺はあの人を信じてる。それこそ騙されてるのかもしれないけど、最後に断る権利を用意して全部事情を話してくれた人だからさ。……それに、俺は流されるだけのつもりはないぞ。自分に関わることぐらい自分で決める、それぐらいはできるつもりだ」
「……うん」
俯く愛の頭に、飛鳥はポンと掌を乗せた。撫でるわけでもなく、ただ乗せるだけ。けれど如月が振り払おうとしないということは、今はこれが必要なのだろう。
飛鳥はその場で片膝立ちになると、不安そうに身体を小さくする愛の目を下から覗き込むようにする。
「俺は今は何も知らないけどさ、でも無知なままでいるつもりはない。これからいろいろ勉強して、もっとアークの事もそれ以外のことも知っていくつもりだ。だから、俺はあいつを―――アストラルを間違って使ったりしない。約束する、だから安心しろって」
「アスカ……」
俯けていた顔を上げて、愛はゆっくりと飛鳥と視線を交わす。
飛鳥はできるだけ自然な笑顔を浮かべて「な?」と問いかける。
「うん……」
愛は頷いて、やっと小さく笑顔を浮かべた。
初めて見せたその笑顔は可憐な花のように本当に可愛らしくて、彼女によく似合っていた。
「……っ」
不覚にも飛鳥は一瞬言葉を失って、あまつさえ自覚できる程に顔が熱くなった。
飛鳥がさりげなく視線を逸らしていると、愛は先ほどとはうって変わって優しい声音で、
「アスカは、ちゃんと考えてる。ごめんなさい、勝手に決め付けて」
「い、いや、それは最初に紛らわしいことをいった俺の責任でもあるし、おあいこってことでいいじゃんか」
「うん、わかった。ありがと」
水に流してくれたことへのお礼か、愛は小さく頭を下げた。
その拍子に彼女の頭に乗せていた飛鳥の右腕が自由になり、手持無沙汰になった飛鳥はとりあえずといった様子で立ちあがる。
なんとなくお互い話すこともなくて、数秒の沈黙。
飛鳥が、おもむろに口を開いた。
「えーっと、如月の要件はそれだけか?」
「うん。アスカの考え、聞きたかった。だから、もう満足」
そう言って愛は公園の時計をチラリと見ると、
「そろそろ、時間。帰る」
「お、おう」
唐突に飛鳥とすれ違うように歩き出した愛に、飛鳥はなんとかそれだけ答えた。
と、ふと思い出して飛鳥は離れていく愛の背中に声をかける。
「なぁ、如月―――」
「愛でいい」
「え?」
予想外の回答に飛鳥が言葉に詰まっていると、愛はくるりと振り返った。
「私はアスカのこと、名前で呼んでる。だから、私も名前でいい。私の方が、年下」
「え、と……」
「きっと、また会う。アスカとは、もっと話したい。今はバイバイだけど、また近いうちに、会いに行く。だから、バイバイ」
小さく手を振りながらそれだけ言うと、愛は踵を返して立ち去って行った。
一応手を振り返しながら、飛鳥は暗闇に消えていくその背中を見つめていた。
「愛は、やっぱ心配してただけか……?」
終始ペースを握られっぱなしだった会話を終えて、飛鳥は一人そう呟いた。
飛鳥は最後に何故彼女が自分のところへ来て、あんなにも必死な様子で話をしていたのかを聞こうと思ったのだが、尋ねる前に立ち去られてしまってはどうしようもない。
とは言っても、おおかた単純に心配だっただけだろうと飛鳥は考えていた。
流石に飛鳥のことが心配で、というほど親しくはないからそういうのではないだろうが、彼が適当な考えで周りの人に何かしらの被害を与えてしまったらどうしようか、と。
星印学園地下研究所の計画に協力はしたものの、いざ結果が出てみるとそんな不安が頭をよぎった、とかそんなところだろう。
となると、鞍馬研究所とやらと星印学園地下研究所は対立関係ではないのだろうか。同業者だからあり得るかとも思ったが、平和なのに越したことはない。
それよりも気になるのは、
(『大事なものを失くした』っていう愛の言葉……。それに、あの無表情なあいつがあそこまではっきり感情の読める顔を見せてたってことは……)
少なくとも、ロクなことでないのだけは飛鳥にも分かっている。
その事実とつながるのは、どこか控えめな態度だった遥の要請。そして命を狙われるとか、身分を変えたとかいう隼斗の冗談。
(遥さんも、隼斗もいつも通りじゃなかった。それにあんな巨大な研究施設、俺一人をパイロットにするためだけにあんな大がかりな演出まで……。常識的ではないよな)
漠然とした疑問は不安にすり替わり、気持ちの大部分を占めていた高揚感のようなものも今はもう跡形もない。
風が吹き、木々が揺れる。
ざわりざわりと、彼の心に黒い何かが広がっていく。
飛鳥はただ茫然と、藍色に染まる空を見上げていた。
(アーク…………。お前は一体、何なんだ?)
その問いに答えはなく、ただ時間だけが過ぎていく。
夜は静かに、その深みを増していくのだった。
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