45:『舞台上のロミオ』
あーだこーだと騒ぐアルフレッドを説得するのにかかった時間、約10分。
最後まで不満げだった彼を見送った飛鳥は、次のシフトでの担当場所に向かっていた。
担当する仕事は連絡係というちょっと特殊なもので、各所で発生したトラブルに対して近くにいる巡回係に連絡し派遣するというものだ。
巡回係というのはその名の通り学校内をそれぞれ決まったルートで巡回し、何かトラブルがあった場合に適宜対応するというものである。実行委員の仕事としてはその場の判断が問われるものなので、基本的には1年生ではなく2年生が対応するものとなっている。
また巡回係一人では対応できない問題が発生したときは、それも連絡係に連絡し、そこから応援の実行委員を呼ぶか、本部に居る生徒会の人間に判断を仰ぐという形までマニュアル化されている。
基本的に連絡係は直接問題には関わらないので1年生があてがわれている場合が多い。
そのため普通に仕事をしようと持ち場である多目的室へ向かった飛鳥だったが、そこで彼はキョトンとした表情を浮かべることになる。
「え? 変更ですか?」
「ええ、そうよ」
何故か向かった先に居た遥に、飛鳥は唐突に仕事の変更を告げられていた。
なんで、と書いているかのような間抜け顔で首を傾げていた飛鳥に、遥は噴き出しそうになりながら続ける。
「アスカ君、本郷さんの分も代わりに実行委員の仕事をしていたんでしょう? あまり回れていないと思ったから、私がアスカ君の代わりに入ろうと思ったのよ」
「……それ言うなら遥さんも生徒会で拘束されてたんじゃ?」
「まぁそうなんだけど、今日はそれ以外の仕事は無かったのよ。生徒会自体は持ち回りでやっているから、動ける時間自体はあったしね。ついさっきまで、クラスの方の手伝いもしていたの」
言わんとしていることは分かるが、それでも巡回だって立派な実行委員の仕事だ。学校全体を満遍なくめぐるものだが、それにだって順路は決まっている。遊びというようなものでは決してないのだが……。
「はぁ。そう、ですか……」
大変釈然としない様子ながらも、ひとまず納得した飛鳥は続けてこう尋ねる。
「それじゃ、巡回のルートとか教えてもらえますか? 巡回の仕事やったことないんで、細かいところまで把握しきれてないんですよ。なんで、とりあえずルートだけでも」
「ないわ」
「は?」
そんな短い答えに、飛鳥は思わず口を半開きにする。遥は肩をすくめた。
「だから、順路は決まってないの。アスカ君の自由に学校を巡回してくればいいわ」
「…………」
想定外の回答を受けて見事にフリーズしてしまった飛鳥。
茫然と突っ立っていた飛鳥の元に1歩踏みよると、遥は彼の耳元でこう囁いた。
「クラスの演劇、ちゃんと見てあげたら?」
「あ……」
驚いた様子で目を見開く飛鳥に、遥は小さく微笑んでみせる。
飛鳥はその悪戯っぽい笑みでおおよその意図を理解して、苦笑しながら頭の後ろを掻いた。
「そういうことっすか。……わかりました」
この時間のシフトは午後4時には終了するため、午後3時半から1時間上演される飛鳥のクラスの演劇は、後半30分だけなら見ることができる。遥はそれを、最初からちゃんと見るようにと言っているのだ。
巡回のルートは、特別に飛鳥の自由らしい。となると例えば講堂でのトラブルに対応するために張り込んでいても、それはそれで巡回係の仕事は果たしていることになる、ということでもある。
「といっても、あくまでも実行委員の仕事の一つだから、何かあったらしっかり対応してね。もし手に余る事態だと思ったら、こちらに連絡してちょうだい。サポートするわ」
「はい。……ありがとうございます。それじゃ」
「ええ、頑張ってね」
見送る遥に手を振り返して、飛鳥は多目的室を後にした。
「あー……。さすがに一回見たものじゃ、大して暇つぶしにもならないなぁ」
色々と展示に目を通しながら、かれこれ2時間ほどかけてのらりくらりと学校全体を何周か歩きまわった飛鳥は、校舎の入り口辺りで一人ごちた。
模擬店や展示を行っている生徒達に声をかけたりしながら、割と広い学校をくまなく何回も歩き回ったところで、飽きが限界を感じてなお2時間しか経っていない。
あくまでも巡回の仕事なので、堂々と校舎内の飲食店に居座ることもできない。できたところで、確かに退屈しのぎにすらならないのだが。
実行委員の腕章は付けているため、行き交う来訪者に道を聞かれる程度は有ったのだが、それ以上に大したトラブルになどは、まるで見舞われなかった。
強いて言うなら迷子の子供に出会ったことだが、これもその子の親のケータイに連絡をとってわずか2分で解決出来てしまうようなものだった。
何事もないのに越したことは無いのだが、こうも平和だと退屈ささえ感じてしまう。
歩きまわって見てみる限り、人の流れはあると言えばあるのだが、かなり落ち着いたものだった。大方の予想通り講堂の方に大半の人が流れているからだろう。トラブルの無い理由の一つであろう。
模擬店の並ぶエリアも昼時を過ぎてからは徐々に人の数は減り続けて、ピーク時の歩くことすら容易ではなかった状態は、もはやその名残もない。
そんな状況に退屈さを感じているのは何も飛鳥だけではないようで、部やクラスの方で役割に当たっていないらしき生徒が数人、グラウンドでサッカーを始めていたほどだ。
こんなときなら大して親交が深くなくとも、顔見知り程度で話をしたりすることもできるのだろうが、飛鳥にはそれもままならない。
演者や背景に限らず照明やら音響やら何やらで、ほとんどのクラスメイトが講堂の方に駆りだされていることもあって、校舎を歩いていてクラスメイトに出会うことはついに一度もなかったからだ。
そんなこんなで残りの仕事は1時間。ラスト30分は講堂で演劇を見ようと決めていたので、実質はそれまでだ。
「んー…………ん?」
はてさて残った30分をどう消化しようか。そんな風に考えながら辺りをぐるりと見渡した飛鳥は、いつの間にかすぐ近くまでやってきていた九十九の姿を見とめた。
九十九は金曜の夜、別れ際に見た顔と同じ表情を浮かべている。
「こんちわ。……どうしたんすか?」
「…………」
あの日の事が思い出されて、意図せず攻撃的な口調になってしまう飛鳥。それとは対照的に、九十九の態度にいつもの力強さは感じられない。
俯き加減に何かを迷うような様子を見せた九十九は、一拍置いて顔を上げた。
「少し、話せるか?」
伊達眼鏡をかけている彼は、本来なら優等生である九十九一のはずで、その時は相手が同級生でも後輩でも変わらず敬語で話していた。
そういったキャラクターの使いわけができなくなっているのか、あるいは自分が今優等生を演じなければならないということ自体を忘れているのか。いずれにせよ今は優等生モードでありながら、彼の口調は敬語ではなかった。
そのことを少しだけ考えた飛鳥は、変わらず無表情で答えた。
「いいっすよ」
まばらだが人の行き交いのあった校舎入口から少し離れて、飛鳥達は人気の無い場所のベンチに腰かけていた。このベンチは普段ならその場所には無いものだが、文化祭期間ということで臨時に設置されていたのだ。
いつかと同じように、二人はコーヒーと炭酸ジュースの缶を握ったまま並んで座っている。違うのは、今回は飛鳥の奢りだというところか。
「で、話ってなんすか?」
呼びだしておいて一向に口を開こうともしない九十九を、飛鳥は苦笑気味に急かした。
九十九はまだ迷うようなそぶりを見せていたが、やがて踏ん切りがついたのか、小さな声で話し始める。
「クラスの方、見てきたよ」
眉間にしわを寄せて語る彼の指先は、強く缶を握っていたせいで白くなっていた。
「うまくやれてないと、勝手に思ってたんだがな……。一葉の奴、いつの間にかクラスで友達つくって、楽しそうにやってたよ。……俺が間違ってた。何も見ないまま勝手な思い込みだけで、身勝手に振る舞ってたんだと思い知らされた。一葉が今も俺がいなきゃダメな奴だとか思ったままで、それを傷つけられたからって勝手に憤って勝手に正義感を燃やしてたんだ」
スチールの缶に凹みが出来るほど手に力を加えたまま、九十九は苦しげな表情を浮かべていた。
「あいつはもう、そんなんじゃないんだな……。あいつなりに得れるものが有るから、月見と仲良くして、そしてアークっていうものにも関わってる。ちゃんと見ていれば、それぐらいすぐに分かることだった。本当に、俺は何も見ちゃいなかった……」
噛みしめた奥歯をギリリと鳴らして、九十九は顔を俯けた。
飛鳥はそれを最後まで聞き遂げてから、缶の中の液体を煽る。
「気付けたなら、それでいいじゃないすか」
「…………」
「間違いますよ、誰だって。気付いて、それで正せれば、まずは十分でしょ」
感情をぶつけるようなことはせず、飛鳥は静かにそう返した。
九十九が一葉に対してどんな想いを抱いていたのかは、飛鳥には知る由もない。だがそのために、得体のしれない意思に近付こうと決意し努力できるほどに、強い想いを九十九は持っていたはずだ。
そしてその想いが九十九自身にも制御できなくなってしまって、それが伊達が怪我をするという事態に繋がったということだ。決して悪意が有ってのことではないのだろう。
「すまない」
だが九十九は、それでもなお頭を下げた。
「俺の身勝手で、お前の友達に怪我をさせてしまった。だから……本当にすまない」
「九十九先輩……」
どう声をかければいいのか、今の彼には分らなかった。
だが腹のそこで燻っていた微かな敵意が、九十九の態度の前にかき消えて行くのを感じていた。
瞑目して首を横に振った飛鳥も、同じように頭を下げる。
「俺も、っすよ。自分にも責任有るってのに、一方的にキレて、殴ったりなんかして。……すんませんでした」
顔を上げた九十九は驚いたような表情を浮かべたが、すぐに「いや……」と否定した。
「謝る事はない。俺がお前の立場でも、きっと同じことをしたと思う」
思慮の浅い行為だったと、飛鳥にも悔いる部分はあったが、九十九は飛鳥の行動を肯定したのだ。
もう起きてしまったことを無かったことにはできないが、それでも互いを許し合うことはできる。
飛鳥が顔をあげると同時、九十九は立ち上がった。
飛鳥は座ったまま、その背中に声をかける。
「先輩はこれからどうするんすか? 俺達がやってることはもう忘れるのか、それとも」
「干渉はしないさ。少なくとも、今後決めたことを違えることは絶対にない。ただ、全部を無かったことにして、見ないふりをするつもりもない。もし……もし今後のお前達が無関係な生徒を巻き込んでしまいそうになったら、その時は必ず俺が止める。それが俺の償いで、俺のやるべきことだと思っている。だからまぁ、そうだな。まだ俺は……お前達の敵ってやつになるのかな」
「敵、ねぇ。……ま、いいんじゃないすか、それぐらいで。……そうするつもりなんてないですけど、仮に俺達の研究に他の奴が巻き込まれそうになったら、その時はちゃんと止めて下さい。俺はそれでいいっすよ」
「ああ」
奇しくも九十九が出した結論は、遥が彼に求めていた役割そのものだった。九十九が気付いていてあえてそうしているのか、あるいは結果として遥の手の中に事態が収まってしまったのか。
いずれにせよ、これが彼らにとって最も自然な形なのだと、飛鳥にはそう感じられた。
軽く手を振って立ち去っていく九十九の背中を見送って、飛鳥もベンチから立ち上がった。
「そろそろ時間だな。よし、行くか!」
ケータイで時間を確認した飛鳥は、缶の中身を一息に飲み干すと、早歩きで歩き始める。行先は講堂、あと数分で泉美達の部隊が始まるのだ。
「遅かったじゃん、兄弟」
講堂入口で壁にもたれかかっていたアルフレッドが、中に入ろうとする飛鳥を呼びとめた。
「フレッド、待ってたのか?」
もうとっくに中に居るものだと思っていた飛鳥は驚いた表情で尋ねるが、アルフレッドは首を横に振った。
「いいや、そろそろ来るころだろうと思って出てきたんだよ。さっきまで中に居たんだ」
「わざわざそんなことしなくてもこっちから探したけど……」
「いーだろそういうのはさ。ほら、ちんたらしてると始まっちまうぜ」
足を踏み出しながら手招きするアルフレッドについて行く形で、飛鳥も講堂の中へと入る。
入口はドアとは別に、即席の分厚いカーテンで仕切られていた。次が演劇だからというのも有るだろうが、講堂の中は随分暗い。人の行き交いの度にドアが大きく開けられていたのでは目立つからだろう、最小限のスペースで出入りができるカーテンが使われているという話だ。
「……座る場所なくないか?」
「こりゃ立ち見だな。じゃーここで見るか。いいよな兄弟?」
「ああ。というか、もう始まってんじゃん」
既に舞台は照明に照らされ、暗闇に浮かびあがる壇上に立つ演者が発するセリフが、講堂を埋め尽くす静寂の中に響き渡っていた。
観客が注目する舞台。その端から、青いマントを纏った一人の生徒が、背筋を伸ばして堂々と舞台の真中へと歩いて行く。
「ロミオか、おはよう!」
大きな身振りと大きな声で、壇上の男子生徒が一人、舞台の中央に向かう『ロミオ』に言う。
「そんなに早いかな」
音を立ててマントを払い、照明の光を一身に浴びる『ロミオ』はそう答えた。
ロミオの役は、泉美がやっている。
だが少女がする演技は思えないほどに、振る舞いもセリフの調子も、力強くそして昂然としていた。
「おぉ……」
その役は彼女でしかあり得ない。そう思わせるほどの自身に満ちた振る舞いに、飛鳥も思わず息を呑む。
それは、きっと飛鳥だけではなかったのだろう。
一層静まり返った講堂を、彼女たちの声が席巻する。
そうして観客の心を引きつれて、1時間という短い時間、泉美は物語の中を邁進していった。