31:『星空の幻想』
泉美の個人練習を時間ギリギリまで続けてから、飛鳥達は講堂の鍵を閉めて教室へと戻った。
腹がへっては戦はできぬ。
飛騨が残して行った差し入れで腹を満たして、飛鳥達は背景の修理に取り掛かった。
「夜にこの作業って危ない気がするなぁ」
手の平にトントンと鋸を打ちつけた泉美が、壁にかかった時計を確認しながらひとり言のように呟く。
狭い教室で二人しかいないのだから、飛鳥にもその声は聞こえていた。
少し瞬きが多くなった様子の泉美を見て飛鳥は軽く肩をすくめる。
「眠そうだな。大丈夫か?」
「アスカは眠くないの?」
「まだ11時だろ。俺は普段から夜更かし気味だし、このぐらいならまだまだ余裕かな」
「それで朝遅れてるんじゃ世話ないわよ」
相変わらず鋸を持ったまま、腰に手を当てた泉美が呆れたように言う。飛鳥は眉を寄せた。
「…………泉美が転入してきてから、確か俺まだほとんど遅刻してないはずなんだけど」
「クラスの人に聞いたよ。アスカが遅刻の常習犯だって」
「おいそいつ最近の星野は星野じゃないとか言ってただろ」
「……あんたエスパー?」
「面と向かって言われてるからだよ」
額を押さえて天を仰ぐ飛鳥。天ではなく天井だが。
恐らくその話をしたのは篠原だろうが、陰口で使っていた文言をそのまま当人に面と向かって言う辺り、本当にいい度胸をしている。潔いともいうだろうか。
なんにせよ、残った作業はさっさと片付けてしまわなければならない。
終わらせたところで家に帰ることはできないのだが、遅くなればなるほど眠気は加速するし、それだけ怪我をする確率もあがる。面倒事はなんとやら、だけでなく、安全面からも早めに作業を終えてしまうべきなのだ。
「まぁいいや、さっさとやっちまおう。そんなに難しい作業は残ってないから、2時間もあれば終わるだろ」
「2時間で終わるかなぁ」
飛鳥が隼斗に指示していた九十九を呼び出す時間は、そういった理由から決めたものだった。30分程度だが大道具班の作業は手伝ったし、そこである程度の作業時間は見積もっている。
「たぶん……」
ポケットから取り出した、桐生製の作業手順をまとめた紙を広げた飛鳥は、そこでちょっと頬を引きつらせる。
先ほど軽く見た時は気付かなかったのだが、紙の右下の方に小さく『星野達でも2時間あれば終わるハズ』と記されている。
予想が噛み合ったのだから、信用度が上がったと判断できるところなのだが――いや実際に飛鳥はそういう風にも感じていたのだが――しかしこうもドンピシャだと少し怖い。
「…………」
無言で紙を教卓の上に置いた飛鳥は、気を取り直して顔を上げた。
「うん、ま、間に合うんだろ。恐らく絶対」
「はぁ?……まぁいいけど。早くしないと守衛さんが見回りにきちゃうし」
なんだこいつみたいな目をしている泉美には構わず、飛鳥はさっさと作業に向かう。
壁に立てかけられていた長い木材を乱雑に床に倒して、適当なところに置いてあった椅子を2つ引き寄せた。
「アスカはそういうのは経験あるの?」
鋸を器用にくるくる回しながら、泉美が尋ねる。
「そういうのって?」
「それ……えっと、DI……I、だっけ?」
間隔を空けた椅子の上に、長い木材を横たえながら訊き返す飛鳥を指さして、泉美は補足する。
一旦作業の手を止めた飛鳥が、ひらりと手を振りながら答えた。
「DIYのことか? いや、やったことねーよ。ただまぁ鋸を使ったことぐらいならある、いつかは忘れたけど。泉美はどうなんだ?」
「私も全然。サバイバル術なら一通り覚えてるんだけどなぁ」
「意味分かんねーよ」
さらっととんでもないことを言ってのける泉美に、飛鳥は苦笑気味に返すしかなかった。
彼は教室の端に置かれていたメジャーを手に取ると、さっさと作業を再開させる。
「やっちまうぞ。とりあえずは指定の長さに線を引いて、鋸で切るだけだ」
「枠の部分はそれでいいと思うけど、真ん中の斜めになってるのは綺麗に切るのは難しくない?」
「適当に切って、あとはそこの妙にデカイやすりで形を整えるしかないな。面倒だけど、それが一番確実だ」
言って、飛鳥はメジャーをぐいと伸ばす。
教卓の上に広げたままの、設計図というほどでもない作業説明図を見て、そこに記されている長さに合わせて木材の上にボールペンで短く印を入れる。
飛鳥は次に印に会わせ横線を書こうとして、短い長さの場所でメジャーをなんとか垂直に合わせようとする。眉間にしわを寄せながら細かくメジャーを動かして垂直を取ろうとしていると、肩を何か薄いものでトントンと叩かれた。
「これ使ったら?」
鋸かと思って飛鳥は慌てて振り返るが、そこでは泉美が何故か持っていた三角定規をひょいと差し出している。
「……おう、サンキュ」
数秒キョトンとしてから、飛鳥は笑ってそれを受け取った。
ピッと印の位置に素早く線を書き込む飛鳥。この線に合わせて、鋸で木材をカットすればよいのだ。
反対側も同様の手順で線を書きいれる。
長さは違うが、もう二つ分他の木材に線を引いて、外枠用の木材への処理は終了だ。10分も掛からない内容だった。
斜め用の部分は端も斜めにカットなので少し手順が多くなるが、桐生のメモに従えばそれも簡単だった。あっという間に下準備を終わらせて、飛鳥は泉美の方を振り返った。
「始める?」
手持無沙汰に飛鳥の作業を眺めていた泉美が、待ってましたとばかりに手元の刃物をクルクルクルクルッと器用に回転させる。
「おい待て、まず危ないからそれやめろ」
無意識にやっていたのか、飛鳥に注意されてやっと、泉美は手の平の上で回転する鋸に目を向けた。
「おっとと」
ポンと上に放り投げた鋸の、これまた器用にグリップ部分をパシッとキャッチすると、特に得意げな表情を浮かべるでもなく椅子の上の木材に歩み寄った。
この刃物をもてあそんでいるのは、恐らく手癖か何かなのだろうと飛鳥は予想をつけておいた。何故癖になっているのかまでは考えない。
「じゃ、俺押さえとくから、その線に合わせて切ってくれ」
「はいはい。ところで、何かコツとかある?」
「コツ?……ああ、それ押す時じゃなくて引く時に切るもんだから、押す時は軽く、そんで引く時に力を入れて押さえつけながらやると切れやすいと思うぞ。あとはなんだ、身体に向かって真っ直ぐ引けるような場所に立つとか。そんなとこかな」
飛鳥のあやふやな説明に頷いておいて、泉美はカットする木材の上に足を乗せる。滑らないように押さえつけて、鋸の歯を木材の線の位置に合わせたところでふと手を止めた。
「ねぇアスカ」
「なんだよ、なんか問題あったか?」
「これ普通逆じゃない?」
泉美は鋸を持っていない方の手で、自身と飛鳥を交互に指さしていた。
片や座った姿勢で木材の片端を両手で抑えつけている男子と、片やスカートのまま足を上げて木材を踏みつけている女子。
それらを確認して、意図を察した飛鳥は脱力してこう言った。
「ズボン貸そうか?」
「スカート穿きたいの?」
ジト目で返された。
そんなこんなで作業は進んで、木材の切断は全て終わった。
斜めのパーツは後処理も含めてかなり大変だったが、それでも使いものにならないほど酷い物になることは無く、無事に全てのパーツが揃った。
しかし、いざと金槌を持って組み立て作業を始めたタイミングで、泉美が飛鳥を手で制した。
「しっ」
「どうした?」
「ちょっと静かにしてて」
声を張らずに人差し指を口元に寄せた泉美は、キョトンとした様子の飛鳥を無視して耳をそばだてる。
彼女の耳にカツン――……、という音が微かに聞こえた。
「マズいマズい」
握っていた金槌を放ってその場から飛び上がった泉美は、ダッシュで教卓側のドアの方へと向かうと、壁に取り付けられていた照明のスイッチをまとめて切った。
「うぉわ!? ちょ、いきなりなにしてんだお前……」
「守衛さん来るって言ったでしょ。バレちゃうから!」
暗くなった教室にまだ目が慣れない飛鳥が戸惑っているのをしり目に、泉美は廊下側の窓の下へと素早く身を隠した。
飛鳥もおぼろげな輪郭を頼りに、せめて足元に転がる釘だけは踏まないようにと、千鳥足でそちらへと向かう。
泉美同様に窓の下で屈んだ状態になって数秒、しかし飛鳥には泉美に聞こえたような足音は聞こえなかった。
「…………」
「えっ、ちょっとアスカ!?」
相変わらず声は張らないものの、驚いているとハッキリわかる声音で言う泉美。
無言で立ちあがった飛鳥はそれには構わず、そこの窓から廊下の様子をチラリと窺った。
「つかホントに来てんのか……?」
訝しげに呟きながら、なんとか目を凝らして廊下の奥にピントを合わせようとしたとき、今度こそハッキリと足音が聞こえた。
「っとと」
「だから隠れなきゃダメだって!」
「おま、ばっ――――」
慌てて屈もうと重心を落としたタイミングと、泉美が突っ立ったままの飛鳥を隠れさせようとその腕を引いたタイミングがぴったり重なる。
直後、バランスを崩した飛鳥は泉美の方へと勢いよく倒れ込んだ。
「きゃっ――」
「くっ!」
飛鳥はとっさに反応して、慌てて泉美の手を振り払って床に手の平を叩きつける。そこに全体重を任せて、逆の手で真後ろへと倒れ込む泉美の後頭部を支えた。
間一髪、二人の身体は床に打ちつけられることなくとどまった。
「っぶねー……」
ギリギリのところで対応が間に合って胸をなでおろす飛鳥。
だがそこで、彼の下敷きになる形で仰向けに倒れていた泉美と目があった。
「な、あんた急に――――」
「しーっ! 静かにっつったのお前だぞ」
今にも大声を出しかねない泉美を慌てて静止する飛鳥。真上から泉美を見下ろしている状態になっているのは気付いたが、いま彼が騒げば収拾がつかなくなる。
支えていた泉美の頭をゆっくりと下ろして、彼は彼女の真似をするように人差し指を口元に寄せてみせる。何か言いたげな泉美だったが、状況は理解しているのか、ひとまず口を閉じた。
まるで覆いかぶさるような姿勢になった飛鳥に見下ろされて、泉美は居心地悪そうに胸元へ片手を乗せる。
飛鳥は身じろぎの度に聞こえる布ずれの音に居たたまれなくなって、視線を明後日の方へと向けた。
「………………」
「………………」
カツン、カツン、と音が聞こえる。どんどんと近付いてくるのが音の大きさからわかった。
そして二人重なったその姿勢は、たとえ目を逸らそうとも微かな温度や息遣いでそこにいることがはっきり感じられる。
どちらによるものか分からないまま、二人の心音が加速度的に大きくなっていく。
もはやその心音も、緊張から荒くなる吐息の音も、それが自分のものなのかもう一方のものなのかの判別がつかなくなる。
切り取られた世界に二人だけが残されたかのような奇妙な感覚が襲ってきて、
「あっ……」
そこでやっと、飛鳥は足音が聞こえなくなっていたことに気付いた。
数度ぱちくりと瞬きをしてから、泉美に覆いかぶさっていた上半身を持ち上げる。膝立ちで窓から奥を窺って、誰も居ないことを確認した。
「行ったみたいだ。……ほら」
「っ……」
手を差し伸べて起き上がるのを手伝おうとしたが、泉美はそれには触れずに自分で身体を起こした。
飛鳥は肩をすくめて立ち上がると、ドアからもう一度左右を確認して、部屋の明かりをつける。
途端、眩しさに焼かれて視界が白く染まった目を軽く揉んで、飛鳥は泉美の方を振り返った。
泉美は床に座ったままの姿勢で、少し赤くなった顔で飛鳥にきつい視線を向けていた。
「あ、アスカ、あんた……」
「いや言いたいことは大体わかる。悪かった。けど怒る前に……まずは状況理解してからだ。オーケイ?」
「…………」
両手を顔の高さに上げて、ややおかしな口調で答える飛鳥を泉美はジト目で数秒睨みつけて、それからぷいと背中をむけてしまう。
「……ありがと」
それだけ言って、泉美はバッと立ち上がった。
「さ、さっさと続きするわよ」
振り返らないまま続ける泉美に、飛鳥はふっと小さく笑った。
「あいよ。もう少しだ、一気にやっちまおう」
床に置いたままだった金槌を拾い上げて、飛鳥はポンと手の平に打ちつける。
残りは木材を組み合わせて釘を打ってずれないようにして、接着剤で固定する作業と、他の部分の骨組みと蝶つがいで接続する作業だ。
宣言通りぱぱっと作業を始めた飛鳥達は、カンコンカンコンとリズムよく、接着材を塗った木材に釘を打って固体させていく。
鋸と違って基本一人でも出来る作業なので、二人別れて二カ所で作業をしていた。
恐らく30分もあれば終わる作業だろうし、今でちょうど午前0時30分の少し前と、かなりぴったりである。
木材を切断する作業の中で、桐生の残したメモの見方は分かったのか、泉美も飛鳥に特に確認はせずに一人で作業を続けていた。
だが同様に黙々と金槌を振っていた飛鳥は、泉美が金槌を振るうペースが遅くなっていることに気付く。
「眠いのか?」
視線は向けないまま声だけで尋ねる飛鳥。
泉美は小さく欠伸をして「少しだけ」と肯定する。
「……ねぇアスカ」
「……なんだ?」
眠気を誤魔化すためか、ゆっくりとしたペースで声を発した泉美に、飛鳥も作業の手は止めないまま答える。
一定のペースで金槌を振りながら、泉美は言葉を続けた。
「……演劇、うまくやれるかな」
「……大丈夫だろ。セリフは完璧だし、演技も仕上がった。立ち位置もあとは他の人に合わせればいいだけだ」
「……そっか」
「……ああ、お前に出来なきゃ誰にも出来ねーよ。自信持て」
「……うん、うん」
二度頷いて、泉美は目を瞬かせながらも作業を続ける。
再び無言で作業を続けていた飛鳥に、泉美はぼんやりと語りかける。
「でも、美倉さんは大丈夫かな……」
「…………」
「美倉さんさ、知ってたのかもね、あたしたちのこと」
「……知ってたよ」
「……そうなの?」
「ああ。……俺が初めてアークに乗った時、アイツはその場所にいたんだ」
「それって……」
作業の手が鈍る泉美だったが、飛鳥は変わらず手を動かし続けた。
「たまたまだ、俺にとっても、アイツにとっても。それに最初のとき以来、一度もアークとか研究に関わった話はしてない。具体的に何やってるかまでは知らないはずだ」
「……そうだったんだ。……美倉さん、最近ずっと何かを気に掛けてたんだよ。練習の無い時に、ずっと教室から離れてたのも……あの時、階段から足を滑らせたのも、きっと……」
「…………」
「もしかしたら、疑われてたのかな、あたし達。何をしてるかが分からないから、ずっと気にしてて、そのせいで美倉さんが……」
「……だとしてもお前には責任なんてねーよ。いろいろ、うまくいかなかっただけだ」
不安げな泉美に、飛鳥は曖昧な言葉を返した。
もう彼には大方の予想が付いている。確実な根拠があるわけではないが、推測はできる程度の物はあったからだ。
友人の怪我に自分が間接的にでも関わっていることを感じて、飛鳥の腹に向かう先のない憤りが積もる。
「美倉さん、本番は来てくれるかな……?」
「お前が大丈夫だって言ったんだ。そう思う理由があったんだろ? なら、必ず来る。心配すんな」
「……そっか」
それっきり、二人が言葉を交わすことは無かった。
黙って作業を続けて、背景の描かれたプラスチック板を骨組みに接着し終える。
そして最後に、蝶つがいをタッピングビスで固定する作業に映った飛鳥達。
右側を飛鳥、左側を泉美が担当して作業を始めた。
会話もなく、いい加減眠気を感じ始めていた飛鳥だったが、ほぼ無心でなんとか作業を終えたところで、彼は疲れたようにぐいと背筋を伸ばした。
「くぅ~、っしゃ! こっちは終わったぜ……っと」
背を伸ばしながら横を窺うと、そこでは泉美がドライバーを握ったまま背景の骨組みの上に突っ伏していた。
「あーあー……。ま、仕方ないか」
疲れていたのだろう。それに飛鳥ほど普段から夜更かしをしているようでもないし、仕方の無いことだ。
「…………」
泉美を起こさないように気をつけて、飛鳥は残っていた彼女の分の作業も自力で終わらせた。
「ふぅ……。これでひとまず、か」
立ち上がって伸びをした飛鳥は、足音を立てぬよう教卓側のドアの方へ行って、部屋の明かりを消す。
差し込む月明かりを頼りに、適当な椅子を4つ横に並べてから、飛鳥は眠ったままの泉美を抱きあげた。
「よっ、と……」
完全に脱力した人間は意外に重いものだが、飛鳥は落とさないようになんとか堪えて、泉美を胸の高さで抱える。
ふと窓の奥、澄んだ夜空にたくさんの星が見えた。
――田舎でもあるまい、ただの錯覚だ。
立ちすくんだまま窓の外を見つめていた飛鳥は、抱えた泉美に向かって、しかし聞こえないように小さな声でポツリと呟く。
「ほんと、頑張ってるよ、お前は」
身じろぎもせず深い眠りの中にいる泉美は、いつも以上に、ただの少女に見えた。
ただ頑張って、誰かのために力を尽くしている少女に見えたのだ。
飛鳥が見た星空は、きっと彼女が立つ舞台の輝きだったのだろう。
自分が並べた椅子の方へ、飛鳥は泉美をゆっくり運ぶ。
「……成功するさ、お前の舞台なんだから」
並べた椅子に泉美を横たえて、彼は優しげな声音でそう言った。
明るい茶髪をポニーテールに結っていた髪ゴムを静かに抜きとる。滑らかな髪がふわりと広がって、普段気の強く装っていた少女を、今は酷く儚いものに見せていた。
取った髪ゴムを泉美の手に握らせて、飛鳥は自分の羽織っていた上着を彼女に被せる。
「だから他のことは心配しないで、しっかり休めばいい。あとは俺に任せな」
そう言って彼は立ち上がる。
窓の向こう。校舎の端の屋上に、一つの人影があった。
見据えて、彼は口を開く。
「ケリは俺がつける。……俺が、この手で」
たったそれだけの言葉を残して、飛鳥は教室を去って行った。