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アークライセンス  作者: 植伊 蒼
第6部‐彼と彼女の心の距離は‐
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26:『飛鳥の決断』

 時間ばかりが悪戯に過ぎ去っていく実感に、飛鳥が思わず頭を抱えた時だった。

 トン、と。右肩に何かが優しく触れる。

「っ…………」

 振り返る飛鳥の肩に左手を添えた泉美が、彼を真っ直ぐ見つめていた。

「アスカ」

 静かで、しかし力のある声が彼の耳に届く。

「大丈夫よ。美倉さんは、あたしに任せて」

「泉美……」

「…………」

 茫然と呟く飛鳥に泉美は何も言わず、ただニコリと笑って見せた。

 言葉通り、大丈夫だと安心させるように。

 触れていた穏やかな熱が肩から離れ、それと同時に泉美の走りだす背中が見えた。

 その背を呆然と見送って、

「よしっ…………」

 まるで右肩の熱が広がるように、あやふやだった全身の感覚が戻ってくる。反対に風邪の時と同じに熱のわだかまっていた頭が、一気にクールダウンしていく。

「よし、よしよし! 冷えてきた冷えてきた!」

 苛立ちと焦燥に満ちていた思考が、深呼吸一度で冷静さを取り戻した。

 パンとふとももを叩いた飛鳥は、瞑目して考える。

 美倉は泉美が追いかけて行った。不安はあるが、今はただ信じればいい。

 たった一つの問題が取り除かれたことが、この場を支配する状況の本当の姿を暴き出した。

 落ち着いて考えれば何のことはない。全て別個の問題である。それぞれ順に対応していけばいいだけの話だ。

「篠原! それと松田!」

 この場に居ることがわかっている生徒の名前を呼ぶ。

 搬入口近くに立っていた二人が慌てて降りてくる。

「ほ、星野、伊達は……」

「今はいい。篠原、松田、頼みたいことがある」

「なんだ?」

「今から保健室へ行って、養護教諭の……えっと、誰だっけ」

「錦先生か?」

「そうそれ、呼んできてくれ」

「わかった!」

「ああ、ちょっと待て!」

 すぐに走りだそうとする二人を慌てて呼びとめて、飛鳥は続ける。

「それでついでに担架を……いや、待て……。そうだ、車椅子! 保健室に車椅子があったはずだから、それを持ってきてくれ。できれば人目につかないように気をつけてな」

「人目につかないようにって……。つかなんで車椅子」

「いいから! ダッシュダッシュ!」

 疑問を口にする篠原を手で追い払って、飛鳥は改めで伊達の方を見る。

 相変わらず痛みは酷そうだが、荒い呼吸はいくらかマシになっていた。

「伊達、まだ痛みは酷いのか?」

「いや、少しだけ楽になった。それとも、ははっ、麻痺してきたのかも」

「軽口叩けるなら十分だバーカ」

 下手クソな伊達の強がりに笑って返せる程度には、飛鳥も落ち着きを取り戻している。

 次にすべきことは、と考えて、飛鳥はケータイを取り出した。

「チッ、ダメか……」

 いくつか操作をした飛鳥は舌打ちをして、すぐに近くに居た水城に視線を向ける。

「何?」

 視線に気づいた水城が苛立たしさを隠そうともせず言ってくるが、飛鳥はあえて彼女の気持ちには気付かないふりをした。

「水城、お前飛騨……先生のケータイ番号わかるか?」

「一応知ってるけど」

「そうか、ならケータイでここに呼んでくれ。事情は俺から話す」

「っ、……わかった」

 一瞬何か言いたげな態度を見せた水城だったが、そんな状況ではないと考え直してすぐに自分のケータイを手に取った。

 彼女がクラスでの中心的立場に居られるのは、感情優先な部分があっても、有事においては自分の気持ちよりも他の人間を優先できる冷静さがあるからだ。

 この場ばかりは水城の性格に感謝して、飛鳥は周囲を見渡してパンパンと手を叩いた。

 戸惑いの渦中に居たクラスメイトの視線が、その音源である飛鳥へと吸い寄せられる。

「みんな、落ち着いて対処しよう。とりあえず舞台裏に運ばなきゃいけない物はすぐに運んでしまってくれ! 大道具も小道具もな。それとその壊れてる背景は教室に持って戻って修理しなきゃならないから、手が空いてる奴がやってくれ! それが終わった人から教室に戻って待機だ。飛騨先生を呼んであるから、後でその指示に従おう。それじゃ、始めてくれ!」

 もう一度飛鳥が手を叩くのに従って、周囲に居たクラスメイト達が動き始める。

 倒れたままの伊達に心配そうな視線を向ける者も居たが、それでも各人が与えられた役目に従って行動していた。

 本来彼らに、飛鳥の言葉に従う義理などない。そもそも飛鳥はクラスの活動にほぼ関わってこなかった生徒なのだ、部外者同然ですらあった。

 だがこの混乱の中で真っ先に行動を起こした飛鳥は、ある意味でこの場における絶対的な基準となっている。戸惑い、自ら判断ができなくなった他の生徒にとって、飛鳥の言動がこの状況における彼らの行動の指針となっていたのだ。

 それを最大限に利用して、飛鳥は他の生徒をここから離れさせた。人だかりができることを避けて、極力怪我をしている伊達が目立たないようにしたのだ。

 動き出した生徒達から隔絶されたような場所で、飛鳥はもう一度ケータイを操作する。

 相手は隼斗だ。

『どうしたんだい?』

 連絡手段から緊急の様であることを察したのか、2秒と待たずに隼斗は通信に応じた。

「隼斗。悪い、手短に済ませるぞ。伊達が怪我した」

『っ!……それで?』

 一瞬驚いた表情を浮かべるが、すぐさま隼斗は落ち着きを取り戻して尋ねる。相変わらず頼もしい親友である。

「そんなに酷くないとは思うけど、足の骨を折ったかもしれないから、病院に連れて行かなきゃならない。一応飛騨にも連絡はしてある」

『そうか、わかった。僕はどうすればいい?』

「車椅子は用意してるから、伊達は移動できる。……目立たないように、病院へ連れて行く方法だ」

『目立たないように……? なるほど、なら僕に考えがある。手配しておくよ。それと僕もそっちに向かう』

「講堂舞台側の西側搬入口だ。助かるよ」

 流れるようなやり取りで事情と要求を伝えて、彼らはすぐに通信を切る。

 かなり省略した説明だったが、隼斗なら全て理解してくれると信じることにした。

 人の流れからはずれた場所で、飛鳥は一度だけ深く息を吐いた。



 担任の飛騨が到着したのは、それから数分後のこと。

 ほとんど同時に養護教諭の錦洋子ニシキヨウコが到着した時には、周囲にクラスメイトはほとんどいなかった。

 錦は極めて落ち着いた様子で、上体を起こして地面に座りこんでいた伊達の右脚を診ている。

 時折痛みに呻く伊達に心配そうな視線を横目に送りつつ、飛騨は飛鳥から事情を聞いた。

「それで、美倉は?」

 一通りの説明を受けた飛騨は、さすが教師と言うべきか、取り乱した様子はなくそう尋ねた。

 飛鳥は首を横に振る。

「わかりません。ただ泉美が行ったから、たぶん大丈夫のはず」

「……今は信用するしかないか」

 ひどく曖昧な飛鳥の回答でも、飛騨は頷いた。

「ただの打撲や捻挫ではなさそうですね」

 横から聞こえてきた声に振り返ると、顔を上げた錦が飛騨の方を見ていた。

「はっきりは分かりませんが、骨が折れているかもしれません。いずれにせよ、テーピングだけで済ませる訳にはいきませんね。しっかり病院へ行ってレントゲンなどで確認してもらうべきです」

 それだけを告げて、錦は立ち上がる。

 飛鳥は正面の飛騨を真っ直ぐ見据えた。

「先生、これ大事にしたくないんだ。これからリハーサルもあるし、それが最後の練習になる。それに背景の一つが壊れた分も、これから修理しなきゃならない」

「リハーサルは分かるが……。背景の修理? 今からやっても終了時刻に間に合わないだろう」

「だから誰かが居残ってやんなきゃならない」

「準備のために居残りさせろって言いたいのか? その様子だと許可も取ってないんだろう? それに怪我人が出たクラスだぞ」

 怪訝な表情を浮かべ、それでも至極まっとうなことを言う飛騨。

 飛鳥はただ、真正面からそれを肯定した。

「ああ。だから大事にしたくないんだ」

「隠せってことか。他の先生や生徒から。教え子に怪我人を出しておいて、それを隠せってなぁ……」

 飛鳥は頷く。

「頼む。知ってるのが先生だけなら、あとは先生が見て見ぬふりしてくれりゃいい」

「その上で終了後も生徒を居残りさせて誤魔化せってか。無茶苦茶言うんじゃないぞ……」

 飛鳥の無茶振りに飛騨はガジガジと激しく頭を掻いた。

 生徒主導とはいえ、担任である以上彼にだって責任はある。生徒が怪我をしたことを隠すなど、本来許されることではない。そしてその上で臨時の時間外活動を許可しろと飛鳥は迫っているのだ。

「俺からも頼むよ、先生。せっかく練習してきたんだし、完璧な形で本番をやってほしいんです」

 座った姿勢で、首だけをこちらに向けた伊達がそう言った。

 怪我をした本人に言われてしまい、飛騨も困り顔だ。

「そうは言うがな。そもそも、主役が出られないんだぞ、今から代役なんて……」

「そっちはなんとかする」

 きっぱりと言い切ったのは飛鳥だった。考えがあると、口に出すまでもなく顔に書いていた。

「あー……。というか、そもそもどうやってバレないように伊達を病院に連れて行くつもりだ。救急車なんて呼んだら一発だぞ」

「それは僕が手配しておきましたよ」

 その声は、少し離れたところから聞こえた。

「隼斗!」

「すまないアスカ、思ったより手間取ってしまった」

 黒いケータイを片手に握った隼斗は、しっかりとした足取りで近付いてくる。

「飛騨先生。校庭側、東門の向こうにある公園に救急車を読んでおきました。あと10分ほどで到着する見込みです。それと運動部の屋台はちょうど1時間ほど前に全て準備が終了したとの報告を受けているので、運動部所属の生徒はほぼ全て帰宅、仮に残っていてもクラスの方の準備に回っているはずです。ですから部室棟一階には人がいませんし、校庭も同じです。だから講堂裏から体育館裏、部室棟を通って校庭を回るようにして東門から出れば、余程運が悪くない限り目立って他の先生に気付かれるということもないと思いますよ」

 一気にまくし立てた隼斗は、最後まで言いきってニコリと笑った。

 いきなり横から梯子を外された飛騨は「ぐぬぅ……」と呻く。

 彼が縋るように視線を向けた先にいた錦は、眼鏡の縁を指先でクイと持ち上げた。

「……救急車を呼んでいるのなら言うことはありません。判断は飛騨先生にお任せします。私は何も聞いておりませんので」

「えっ、ちょっと、錦先生!?」

 言うだけ言って、錦はスタスタと立ち去って行ってしまった。

 独り取り残された飛騨は深く深くため息を吐く。

「先生」

 そんな彼に、居住まいを正した飛鳥が語る。

「成功させたいんです、なんとしても。だからやれることは全部やってください。無理って言うのはその後でいいじゃないですか」

「星野……」

「お願いします、飛騨先生」

 頭を下げた飛鳥に、飛騨は驚いた様子で目を見開いた。

 止まったまま飛鳥を前にして、飛騨はふっ、と笑う。

「まさかお前が、敬語を使うだけじゃなく、頭まで下げるとはな」

 口調が変わったのを感じ取った飛鳥は、顔を上げて真顔で言う。

「そりゃまぁ……この時のために、取っておいたんすよ」

「……くっ、くくっ。……普段からそうしとけバカタレ」

 おおよそ教え子に向けるものではない悪態をついて、飛騨は覚悟を決めたように空を見上げた。

 はぁ、と。今度は諦めたようではなく、割り切ったような息を吐く。

「これでクビになったら、ホントどうしてくれんだが」

 有りもしない煙草を吹かすポーズでハードボイルドを気取る飛騨に、飛鳥はにやりと笑みを浮かべる。

「そんときゃアレっすよ、蛍の光熱唱してやりますよ」

「やかましい、仰げば尊しだろ阿呆」

 飛騨は飛鳥の頭にポンと手を乗せて、笑いながらワシャワシャとかきまわした。

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