25:『アクシデント』
叫んでいる場合ですらない。
真っ白になった思考になど気にしていられず、飛鳥は眼前に続く10段の階段を迷わず飛び降りた。
「づッ……」
モロに衝撃の集中した足首が痛みを発するが、それだけだ。痺れて動きの鈍くなった右脚を引きずるようにして、飛鳥は数歩の距離に居た伊達と美倉に駆け寄る。
「伊達、美倉ッ!!」
ほとんど四つん這いの姿勢のまま、地面に倒れ込んだ二人の肩をゆする飛鳥。
恐怖からかキツく目を閉じていた美倉が、恐る恐る目を開けた。
「あれ、私……?」
階段から落ちた辺りから状況が把握できていないのか、戸惑った声を上げながらも、美倉は上半身を起こした。
「大丈夫なのか、美倉?」
「大、丈夫……だと思う……」
状況に思考が追いついていないのだろう。本当に飛鳥の言葉が届いているのか分からないほど、美倉は無表情だった。
ただその様子から、最低限怪我をしていないということだけは伝わって、飛鳥は安堵の息を吐く。
「美、倉……」
かすれた声が聞こえた。弱い声だが、伊達のもので間違いない。
飛鳥は慌てて声の方向へと顔を向ける。
「伊達、大丈夫か!?」
美倉を庇うように伸ばされていた腕が、彼女が体を起こすのに合わせて滑り落ちる。
とさっ、と酷く軽い音を立てて、伊達の右腕が地面に落ちた。
「伊達、君……?」
起き上がろうとしない伊達の姿に、美倉の目が徐々に見開かれる。
それでも伊達は彼女を安心させようと、必死に笑みを浮かべて答えた。
「怪我ねぇか、美倉?」
だがその笑顔は痛みのせいかあまりにも歪で、ハッキリと分かるほどの冷や汗が滴となってそこらじゅうに張り付いていた。
「お前……!?」
伊達の態度。どこか痛むのではないか。
いち早く異変に気付いた飛鳥が素早く視線を向けた先で、彼の足にのしかかかる大道具の背景を見つけた。
正確には、美倉と一緒に搬入口から落ちた背景の骨組みが、伊達の右足首に直撃していたのだ。
「っざっけんな!」
立ち上がることすらもどかしいと、屈んだ姿勢のまま伊達の足元へ駆け寄って、その上に覆いかぶさっていた背景を投げ飛ばすようにどけた。
途端、伊達の表情が苦痛にゆがむ。
「っ…………!」
「チィッ!」
呑みこもうとして漏れ出た悲鳴が、くぐもった音となって伊達の口から溢れる。
思わず硬直してしまう飛鳥の腕。
だがこのままでは怪我の状態がわからないと、伊達の足首を覆っていた靴下を飛鳥は慎重に引き下げる。
「づぁッ…………」
「クソッ!!」
苦しそうな伊達の声に爆発する苛立ちを、飛鳥は悪態にまとめて吐き出す。
自然と眉が寄ってしまう中でもなんとか目だけは見開いて、目の前にある伊達の右足首を睨みつけた。
周辺よりやや赤く染まって見えるが、はっきりとはわからなかった。
だがそれで安心できるようなものでもない。仮に骨折などしていたとしても、外見でハッキリと分かるような違いが出るのにはしばらくの時間がかかる。
何より伊達の様子が、ただの打撲などには見えなかった。
「伊達……君? ど、どうして!? えっ、えっ……!?」
ここにきてほんの少しでも状況を理解したのか、美倉が戸惑ったような声を上げる。
そんな美倉の場違いな態度が、飛鳥を一層苛立たせた。
舌打ちしたくなるのを押さえようとして、奥歯がギリギリと軋んだ音を鳴らす。
「アスカ、伊達は?」
落ち着いた声が背後から聞こえて、眉間に皺を寄せたまま飛鳥はそちらを振り返る。
片膝をついた体勢の泉美が、真剣な表情で飛鳥を見ていた。
「わからん。だがただの打撲とかじゃなさそうだ」
首を振って、飛鳥は答える。
彼の肩越しに伊達の右足首を確認した泉美は、数秒目を伏せて唇を噛んでから、すっと人差し指を水平に伸ばした。
「あれ」
指先の指し示す方向を視線で追った飛鳥は、そこで地面に倒れた背景を見つけた。目を凝らすまでもなく、少なくとも骨組みの足部分がへし折れているのが見える。
「マジかよ……」
これから最終リハーサルというタイミングであることを思い出して、飛鳥は強く拳を握った。
だがここで泉美が一つ声をかけたことで、飛鳥は周囲に注意を向けることができていた。
「…………」
他の生徒はまるで何をすべきか分からないという様子で、少し離れたところからこちらへ視線を向けるか、あるいは周囲の生徒と戸惑った様子で言葉を交わすばかりだった。
飛鳥の切羽詰まった態度や、伊達の尋常ではない様子が、こちらに来ることを躊躇わせていたのかもしれない。
叫んで真っ先に行動を起こした飛鳥達以外が、どうしたって動けない空気のようなものが既に出来上がってしまっていた。
「っ、由紀!」
それでも、搬入口近くで立ちつくしていた水城が、なんとか身体を動かして階段を一気に駆け降りてくる。
踏みつけそうになった背景を辛うじて飛び越えて、水城は美倉の傍へと駆け寄った。
「っく……」
茫然と状況を眺めていたことに気付いて、飛鳥は慌てて被りを振る。
こんな状況である以上、動ける人間が行動しなければならない。
一呼吸ごとに思考が消え去ってしまいそうなほどの極度の緊張を必死にこらえて、飛鳥はなんとか頭を働かせる。
「由紀、怪我してない?」
「私は……でも、伊達君、伊達君が……」
身体をこわばらせる伊達の傍らで、口元を覆った美倉が肩を震わせていた。
駆け寄った飛鳥が、伊達の肩に手を添える。
「伊達、痛むのか?」
「アスカ、か……」
痛みからか荒い息を吐きながら、伊達はなんとか薄眼を開けて飛鳥の顔を確認した。
少しだけ力の抜けた様子で、伊達は膝を抱えるようにして右足首を上半身に近付ける。
「づ……少し、だけ……足がな……」
「少しってレベルかよ……!」
この期に及んでまだ強がる伊達だが、口調から既に少しの痛みなどではないことは明らかだった。
触れて悪化しないようにするためだろう。痛みを誤魔化すために足首を押さえようとする右手を、伊達は太ももに爪を突き立てることで必死にこらえていた。
だが彼らの会話を聞いて、美倉の視線が一点に吸い寄せられる。
「伊達君、足が……!?」
いつの間にか青紫に染まりつつあった伊達の右脚を見て、美倉が三度その目を見開いた。
「なんで、どうして!?」
「バカ美倉、下手に触んな!」
彼女が伸ばした手が伊達の足首に触れる寸前のところで、飛鳥が慌ててその手首を掴んで止める。
とっさの状況だったせいで全く手加減できなかったが、美倉は痛がる様子も見せなかった。
そんなことを気にしていられないほど、彼女は混乱の極みに居たのだ。
「伊達君っ!!」
「だ、から止めろって言ってるだろ!」
もう一方の手を伸ばそうとしたところで、飛鳥は即座にその手を掴んで、一息に押し返す。
顔の横で両腕を固定される形になった美倉の眼は、あふれる涙の奥にごちゃまぜになった幾多の感情をのぞかせていた。
「美倉さん、落ち着いて」
美倉の肩を押さえていた泉美が注意するが、美倉はまるで赤子のように首を横に振るばかりだ。
「でも、伊達君怪我してる……!」
「わかってる」
眉間にしわを寄せた飛鳥が頷く。
「私が階段から落ちたから……? 私の不注意で……!?」
「それもわかってる!」
「伊達君、大会だってあるのに……こんなの……どうして!!」
「いい加減にしろッ!!!!」
いつまで経っても落ち着こうとしない美倉に、苛立ちが頂点を超えた飛鳥が怒号を飛ばす。
支離滅裂な言葉を発することしかできなかったその口がぴたりと止まる。
「ごちゃごちゃ喚いてんじゃねぇよわかってるっつっただろ!」
掴んでいた手を力一杯払って、飛鳥はギロリと眼前の少女を睨みつけた。
「……テメェどっか行って頭冷やしてこい。邪魔なんだよ」
「あ…………」
言葉を失い、口元を震わせる美倉。怯えの色に染まる目の端から、堰を切ったように涙があふれる。
「――――っ!」
「美倉さん!?」
「由紀!!」
肩を押さえていた泉美の手を振り切って、美倉は逃げ出すようにその場から走りだした。
走り去っていく泉美の背中を見ていた水城が、怒りのこもった鋭い視線を飛鳥に向ける。
「星野、もうちょっと言い方ってもんがあるでしょ!」
「……るせぇ」
「聞いてんの!?」
「うるっせぇよ!!」
ガンッ! と爪が食い込んで血がにじむほどに強く握った拳を、飛鳥は地面に全力で叩きつけた。
飛鳥は眉間にしわを寄せ、下唇をキツくかみしめる。
(くそがっ…………)
彼の眼下には、今も荒い息を吐き続ける伊達。これ以上無駄な時間を費やして苦しませるわけにはいかない。
そして伊達の足元には、骨組みが目に見えて破損している背景。これからリハーサルがある以上、こちらも対処しなければならない。
加えて泣きながら走り去って行った美倉。彼女だって放っておくわけにはいかない。
そして伊達が怪我をしたということ、つまりは事故が起こったという事実を大事にするわけにはいかなかった。
破損した背景は修理の必要があるが、まず今日の準備時間内には終わらない。下校時刻後に居残って対応する他ないが、あらかじめ許可を取っていない臨時の居残りが、事故を起こしたクラスで黙認されるとも思えなかった。
今はまだこの場にいるクラスメイトしか状況を認識していないが、いつまでもこうしていてはやがて騒ぎに気付いた生徒達から、教師に話が行ってしまうかもしれない。迅速な対応が必要だ。
羅列された複数の問題。時間は進み続けていた。
(畜生、何から片付けろってんだ!!!!)