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アークライセンス  作者: 植伊 蒼
第6部‐彼と彼女の心の距離は‐
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16:『月見亜紀』

 遥が指さした、彼女の傍らに立つ女性。

「月見亜紀です。はじめまして、星野君」

 微笑みを浮かべた女性は、尊大な態度を崩さぬまま名前を名乗っただけだった。

 月見亜紀ツキミアキ

 遥の母親であることは間違いないようだが、まるで似ていない。佇まいにどこか似通った部分があるとはいえ、顔立ちに近いところは無かった。その闇色の髪も、深い黒の瞳も、傍らに立つ銀と瑠璃の少女を想起させるものではない。

 一つ共通点があるとすれば、亜紀もまた、遥同様に異質なほど端正な容姿をしていることだ。ただそれも、どこか無自覚的な遥に対して、自身の美貌を理解しきっている振る舞いの亜紀とでは、両者を視界に収める飛鳥には同種のものとは思えなかった。

 単純な見た目の問題ではなかった。他に適当な言葉の見当たらない、強いて言うならば色気のようなものが、二人の決定的な違いであるように感じられる。

 いつだったか、ジョージ=マクスウェルの言った「彼女ほど女性らしい女性はいない」という言葉が、やけにすんなり腑に落ちた。そして初対面の飛鳥にその言葉を理解させるほどの何かを、亜紀という女性は備えていたのだ。

「…………」

 ただどうだろうか、これほどまでに親子らしい二人もそうはいまい。飛鳥がそう思ったのは、亜紀が持つ特有のものを除いた二人の雰囲気、例えば立ち姿や表情のようなものが、驚くほどそっくりに感じられたからだ。

 しかし目で見た二人の姿は、親子どころか、ほんの少しの血縁関係すらないように見える。里親と養子と言われた方がまだ納得がいきそうなほどだった。

「アスカ君、どうかした?」

 あまりにもまじまじと見ていたからか、少し居心地悪そうにした遥がそう尋ねた。

 慌てて首を横に振る飛鳥に、遥は苦笑気味の表情を浮かべて続ける。

「似てないでしょう?」

「ん…………確かに、そうっすね」

 迷ったものの、嘘をつくようなことでもないかと思い直し、飛鳥は曖昧に肯定する。自分から話を振っただけあって、飛鳥のリアクションを見ても、遥に動じた様子はなかった。

 傍らに立つ亜紀へと向き直り、感情の乗らない声を発した。

「日本に来ていたのね、母さん。連絡してくれればよかったのに」

「昨日来たところなのよ。今日の夕方まで用があって、それが終わったらすぐに日本を発つつもりだったから、連絡しても会って話をするような時間がある予定ではなかったの」

「そう。ところで、どうして日本に?」

「仕事よ。思ったより早く終わったから、こうして時間を潰していたの。……それにしても、大きくなったわね、遥。かれこれ2年近く会っていなかったから、少し驚いたわ」

「そういう割には母さん、すごく無感動に見えるわ」

 思わずといった様子で肩を震わせる遥。

 確かに傍目からも、再会に対して感慨があるようには見えない。それは亜紀だけでなく、遥も同様だったが。

「でも、そう……。ならもうすぐ行くのね」

「そうなるわ。ごめんなさいね、忙しい時期だから」

「気にしていないわ。母さんなら、それがいつもどおりじゃない」

「そう言われると返す言葉が無いわね。本当、ずっと別々に暮らしていたものね」

 肩をすくめる遥と同じ表情で、亜紀はう服笑った。

 ふと降りた沈黙の後、先ほどまでとは少し違う、慈愛のような感情をのぞかせる瞳で、遥を見つめた亜紀は尋ねる。

「何かあった、遥?」

「えっ……」

 驚いた様子で遥は両眼を見開く。上から覗き込むようにしていた亜紀と目が合うと、何故か、感情の読み取れない透明な表情で亜紀を見つめ返した。

 応じるように、亜紀の眼が静かに細められる。

「…………?」

 意図の読めない二人の行動に飛鳥が首を傾げたとき、黙って母親を見ていた遥がふと肩の力を抜いた。

「ほんと、もう2年も顔なんて合わせてなかったのに……。よくわかるわね、母さん」

「母親だもの、当然でしょう?」

 呆れたように言う遥と、尊大に胸を張る亜紀。どこまでもそっくりで、同時に対照的な二人だ。

「それで、何があったの?」

 優しい声で尋ねる亜紀。

「一つ、聞きたいことがあるの」

 遥は目を閉じたまま深呼吸をして、やがて意を決したように口を開いた。

「ねぇ、母さん」

「なに?」

「私は……。私は、本当に母さんの子供なの?」

 恐ろしくさえ聞こえるその問いを、遥は喉から絞り出した。

「ぁ…………」

 掠れた声は、飛鳥のものだった。

 初めて聞いた、彼女のすがるような声。刺すような痛みが彼の胸を貫いた。飛鳥の声は、彼の中で生まれた形容の出来ない感情が、獣のように呻いたその切れ端だったのかもしれない。

 遥と二人なら、きっと何かを言っていただろう。何を言えばいいのかは分からなかったが、それでも飛鳥は沈黙だけは選ばなかったはずだ。

 だが今は母親に、亜紀に向けられた言葉だ。

「当然じゃない」

 笑って、亜紀はそう答える。

 それは決して適当な答えではないと飛鳥は思った。心配するなと、言外にそう語っているように感じられたからだ。

 だが遥は唇を強く噛んで、首を横に振る。

「この目も、この髪も、私は全部母さんとは違う。父さんだって誰だかわからないって言ったもの。それでも……それでも、私は母さんの子供なの?」

「ええ。……何度でも言うわ、もちろんよ」

「…………そう」

 恐らく、亜紀は遥の中の不安を理解しているのだろう。思い付きや冗談でそんなことを訊いてきているのではないのだと、言葉ではないもので感じ取っているようだった。だから亜紀の口調にふざけた様子はなかったし、こんなことを尋ねた遥に憤りを覚えた様子もなかった。

 だとするなら、この問いは何度重ねても同じだ。嘘か真かはともかくとして、亜紀が何かを考えた上で返答していることは明らかだったからだ。

 同じように考えたのだろう、遥は瞑目して、次に何かを言うことはなかった。

「でも、どうして急に?」

 逆に尋ね返す亜紀だったが、遥は顔を俯けたまま首を横に振る。

「わからなくなったのよ……いいえ、そもそも最初から分からなかった。ずっと気にせずにいたけど、やっぱり……」

 要領を得ない返答に、どこか作為的なものが混じる。まるで道を妨げるように迷路を置いて、立ち入る者を拒むかのようだった。

 そこから踏み込むなという意図を汲み取ったのは、飛鳥だけではない。亜紀も困ったような表情を浮かべながらも、腰を軽く曲げて遥と目を合わせた

「ねぇ、遥」

「……なに?」

「わからないなら、それでいいのよ。人は理屈だけで出来てはいないから。たとえ遺伝子の関係や容姿の相似で親子であることを証明されても、私や遥が納得できなければ意味なんてないでしょう? でもだからこそ、私の答えで遥の不安が払えるなら、何百回でも、何千回でも聞いてくれればいい。その度に私は胸を張って、あなたは私の子だと答えるわ」

「母さん……」

 遥はまだ俯き加減だったが、その一言から悲しげな感情は含まれていなかった。亜紀は今度こそしっかりとした笑みで続ける。

「だから、顔を上げなさい。後輩君の前で、カッコ悪い所なんて見せるものじゃないでしょ?」

「あっ……」

 恐らく存在ごと忘れていたのだろう。

 慌てて顔を上げた遥は、傍らにいた飛鳥に申し訳なさそうな表情を向けた。

「ごめんなさい、人に聞かせるような話じゃ無かったわね」

「あー、いや、俺のことは気にしないでください」

 むしろ盗み聞きをしているような気分にすらなりかけていた飛鳥は、遥の言葉を受けて逆にばつが悪そうな表情を浮かべる。

 ただ奇しくも間に飛鳥を挟んだことでフラットに戻ってしまった場の空気感では、遥も再び話題を蒸し返す気にはなれなかった。とはいえ、これ以上続けていたところで意味はなかっただろうが。

 ふと、飛鳥と亜紀の視線がぶつかる。亜紀はバチリとウインクしてみせた。

「っ……」

 どうやらこれは、亜紀に体よく利用されたようだ。

 露骨なアピールで気付かされた飛鳥だったが、話の重さに耐えかねていたところを助けられたという部分もあって、亜紀の行動が善意によるものかどうかを読めずに思わずしかめっ面になってしまう。

 遥とは違う、年季の入ったコミュニケーション能力というか、人の考えをコントロールする術を知る大人の対応だった。

 下世話な話だが、亜紀も美人だ。言い寄る男が多いのは簡単に察しが付く。波風立てぬよううまくあしらうには、こういったスキルが必要なのかもしれない。

 月並みだが、魔性の女というのが一番しっくりくる表現だろう。

 遥も亜紀の性質はよく理解しているのか、どうも一連のやり取りに気付いたらしき視線を飛鳥に向けていた。

 実際のところ、この短いやり取りで亜紀という女性の一部を見抜いた飛鳥の洞察の方がやや異常なのだが、ほとんど無意識でやっていた彼はそれには気付かない。もっとも、これこそ飛鳥の嫌う、人の顔色を伺うという行為そのものではあるが。

「ごめんなさい、母さん。変なこと聞いて」

「いいわよ、私は気にしないわ。思春期なんて、周りの大人に迷惑掛けてなんぼってものだからね」

 空気が変わったのに合わせてか、亜紀はいくらか砕けた口調になっていた。つられたように、遥の表情に明るさが戻る。

「母さんもそうだったかしら?」

 いじわるな顔で遥は尋ねるが、どういうわけか亜紀はぐいと胸を張った。

「そりゃあ私なんて、もう夜な夜なあっち行ったりこっち行ったりよ。あんまりにも家に帰らないものだから、高校卒業した途端に実家から締め出されちゃったぐらいだもの。その後はどうせ行く当てが無いからって、思い付きで海を渡ったりもしたし、よく知らないどころかまともに言葉も通じない人の家に居候させてもらったりって、迷惑掛けまくりだったんだから」

「……すげぇ」

「アスカ君、そこ感心するところじゃないわよ」

 とんでもない行動力だと感嘆のため息をつく飛鳥だったが、即座に遥に咎められてしまう。

 亜紀の昔語りなど、遥にとってはこの場で初めて聞いたものではないだろう。話題は遥が振ったようなものだが、「またこの話か」と言わんばかりの呆れに満ちた表情からは、既に何度か聞かされた話であることが伺えた。

 だとすると変な話である。単なるズレた自慢話でもないなら、一体今の話は誰に向けられたものなのだろうか。問うまでもないかもしれない。亜紀と遥を除けば、この場には飛鳥しかいないのだから。

(けど、俺だとすると、そいつは一体なんで……)

 意図が見えない。

 まるで天高く浮かぶ雲に手を伸ばしているかのような空虚な感覚に、飛鳥はめまいすら覚える。さながら釈迦の手の上でもてあそばれる孫悟空のようだった。

 置き去りにされている間に、遥達の話は進んでしまう。

「まぁ、これは昔に話したことだったかしら。ともかく私の真似をしろとは言わないけれど、自分を無理に縛る必要なんてないの。あなたが今どんな立場であれ、頼れる相手は持つべきだし、困ったら力になってもらうべきよ。抱え込んだって、周りもあなたも苦しいだけよ」

「……だから、こうして訊いたんじゃない」

 拗ねたような態度でボソッと答えた遥。

 亜紀は笑って肩をすくめる。

「そうだったわね。……だから私はいつだって話を悩み事くらい聞いてあげるわ。会える機会は今後も少ないでしょうけど、電話くらいなら時間もとれるから。それに学校の先生だって、あなたの友達だって、例えばそこの星野君だって、相談の一つぐらい聞いてくれるわよ。ね?」

「ぇ、あ……はい、もちろんっすよ」

 あまりにも唐突に話を振られたものだから、飛鳥の返事もしどろもどろだ。字面だけなら全く自信が無いかのようだが、過程を考えれば最後に真剣な表情で返しただけ、飛鳥の真面目さ度合いが伺えるというものだろう。

 傍らの遥が、顔をほころばせていた。

 何か、それで納得がいったのだろうか。亜紀はおもむろに足を踏み出した。

「そういうことだから、遥、頑張んなさい。応援してるわ」

「うん、ありがとう、母さん。またね」

「ええ、また。1年後か2年後かは分からないけど、その時までには、もっといい女になってなさい。それと、五郎さんにもよろしく。それじゃあね」

 亜紀はひらりと格好よく手を払って、久方の再会には似つかわしくないほどに颯爽と去って行く。

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