エピローグ Ark-Memory_4
星の無い夜のような暗闇が、曖昧な色に染まったように感じた。
夢から覚める重苦しい感覚に、自分を覆う闇は両の瞼が作ったものなのだと理解する。
痺れを溜めこんでいた指先が微かに震え、ざらついた何かにこすりつける感覚が全身の神経へと伝播していく。
末端から連鎖的に動き始める身体が、生まれた熱を隅々まで沁み渡らせる。
瞼が震え、横に伸びる光が上下に広がっていく。
喉が痙攣し、くぐもった吐息が耳に鮮明に届いた。
「目が覚めたか?」
声が聞こえた。
年老いた男のそれだと分かる、穏やかで低い声だった。
「…………ぅ」
地面を這うしかできなかった指先に力がこもり、押しつけた掌が上半身の体重を支える。
霞がかった重い頭を首で支えて、俺はその身体を持ち上げた。
額に片手を添え、頭を振った。
「ここは……?」
「導の祭壇だ。お前がここに来るのは10年来だろうが、忘れてしまったか?」
「ああ、いや……覚えているよ、ウラナ」
知らぬ景色を覚えていると言い、続けて俺の口をついた名前は聞いたことも無いものだった。
四方を石で囲まれた細く長い空間は、壁に掛けられた透明の箱から溢れる青い光に照らされている。
夢、だろう。これも俺ではない、この男の記憶なのだろう。
乾いた空気が鼻腔をくすぐる。
「儂の名も覚えておったか。あのアルマも変わったものだな」
感心したように頷く老人は、深いしわの刻まれた頬を持ち上げた。
「生きて帰ってきてくれてよかった。……アルマ一人なのは、悲しいことだが」
「言うな。ミルラも、兄ブルディも、俺に道を譲っただけだ。……それが、俺の受けた導きなんだ」
抑揚のない声で答えた俺は、痛いほどに強くその手を握りしめていた。
「7年に一度、選ばれた3人の子供に世界をめぐる旅をさせる。……古いならわしのために、無用な別れを強いてしまった」
「もとより身寄りの無い身だ。ミルラとブルディ以外、別れを悲しむ相手もいなかった」
「ならばその二人は、せめてアルマが悲しんでやれ」
「もう十分したさ。最初に砂漠を渡り終えた時、ミルラはもういなかった。火の街を過ぎて海を渡り、だがブルディは再び大地を踏むことさえ叶わなかった。鋼の街についたのは2年前だったか……。一人になって久しいよ」
諦めたような笑みを、俺は浮かべていた。
ウラナと呼ばれた老人はそんな俺から顔を背けて、深く息を吐いた。
「そうか。だとするなら、なおの事よく帰ってきてくれた。……世界は、見えたか?」
「子供の頃に聞かされた昔話の通りだ。いろんな人たちがいたよ。だが皆一様に空を見ない。彼らにとって、空は蓋でしかないのだろうな」
「……やはり変わらんな、人間というものは」
顎ひげをさすったウラナは俯き加減でそう答える。
「俺達の次の子は、もう行ってしまったのか?」
「いや、旅はお主らで最後だ。元より帰ってこれた者もお主を除いて他におらん」
「そうか、良かったよ。しかしそうか……スヴェアも帰っては来なかったか」
俺の呟きに、ウラナは神妙な面持ちで頷く。
「だからこそ、今のアルマは我々にとっての導なのだ。巫女の言う、神の慈悲か。これも古い話だ」
「大仰な名は止めてほしいがな。……役割は果たそう」
「覚悟はあったか」
「この旅はそのためのものだろう? ミルラとブルディにも、報いなければな」
そう言って、俺は立ちあがる。
石の地面に胡坐をかいたまま、ウラナは後ろを指さした。
「ならば行け。巫女が待っておる」
「ああ、行ってくるよ」
汚れた布を払い、俺はウラナとすれ違う。
「アルマに星の導きを」
「ウラナに神の祝福を」
そう言って、俺はこの場所のさらに奥を目指し歩いていく。
光が消え、暗闇に覆われた世界で、俺の足音だけが響いていた。
そうして歩き続けた先に、青い光が見えた。
一歩を踏み出すごとに大きさを増すそれは、また別の部屋から漏れる光なのだと気付いた。
やがて俺はその部屋へと辿り着く。
正方形の広い部屋は、一際眩しい青の光によって照らされていた。
その中央にある台座の上に、白い巨人が片膝を立てていた。
「これは……………………」
どこか神秘的でさえあるその光景に言葉を失った俺は、巨人の前に跪く一人の人間の姿に気付く。
俺の呟きが聞こえたのか、白磁のように眩しい肌の人間がこちらをゆっくりと振り返る。
「お帰りなさい、アルマ」
それは瑠璃色の瞳と白銀の髪を持つ、一人の美しい少女だった。
方舟は、そうしてまた夢を見る。