1章『銀枠の空』:5
何はともあれ放課後である。
授業で飛鳥にとって何か特筆するようなことなど有るわけもない。彼らしくというか、いつも通り適当に先生の話を聞き流し、板書からさらに要点だけを抽出してノートに写すという作業をダラダラと続けて、6コマ有った今日の授業をすべて消化した。
昼時と同じように大きく伸びをする飛鳥の後ろで、椅子を引きずる重い音が響く。確認しないまでも、泉美が席を立ったのだと彼は気付いた。
思い立ったが吉日とは言うが、行動を起こしたその日に全てが解決するわけではない。今日ばかりは彼自身過剰とも思えるほどに泉美にアプローチを仕掛けた訳だが、依然彼女からの態度はこんなものだ。
今更それに憤りを感じるほど飛鳥の器量は小さくない。というか事情を鑑みれば、今日のグダグダしていた飛鳥を完全に無視していないだけでもいくらかマシなものである。
これといったきっかけが無い限りは時間をかけて説得をするしかないし、そのきっかけは来月に迫った文化祭ただ一つだ。結局のところ、その時に状況を一気に改善できるように泉美の態度を少しでも軟化させておくのが目下の目標となる。
それ自体に具体的な基準はないが、泉美が自分から他の生徒に話しかける気になるぐらいまで行ければ御の字といったところだろう。そうなれば今度は、クラスメイトの側から勝手に泉美に歩み寄ろうという動きが生まれるはずだ。
「うぇ……」
あまりにも打算的な人間関係の構築手順に、いつだったかの自分の思考が思い起こされて飛鳥は思わずえずいてしまう。
根っこの部分の変わらない自分の汚さに吐き気さえ覚えるものの、泉美のためにも必要なことだと割り切り、今は清濁まとめて飲み干した。
「どうしたんだい、アスカ。顔色悪いよ?」
「ああ、隼斗」
頬づえをついていた状態から顔を上げると、机の傍で飛鳥の顔を覗き込んでいた隼斗と目が合った。飛鳥は喉を鳴らして不快感を腹の方に押し戻した。
「なんでもない、ちょっとやな夢見ただけだ」
「授業終わってすぐだけど……」
「うん? それがどうかしたか?」
「いいや、なんでもないよ」
隼斗はそう言って苦笑いを浮かべるが、飛鳥は首を傾げるばかりだった。
要は隼斗としては直前まで授業をやっていたのに寝ていたのかということを指摘したつもりだったのだが、飛鳥にそんなことは関係ないのである。そもそも「やな夢」の時点から嘘なのだが。
飛鳥は机に両手をついて立ちあがり、その横に掛けていた鞄を肩で担ぐ。
「さて、泉美もさっさと行っちまったし、俺も行くとするか。隼斗は?」
「ああ、僕はちょっとやることがあるから少し遅れていくよ。現社のレポートが残り少しだから、仕上げて提出してしまいたいんだ」
「あれ? 終わってなかったんだ」
隼斗の言うレポートの提出期限は木曜日の授業までだ。ただ担当教員に手渡せば先んじて提出を済ませてしまうこともできる。
飛鳥は前日の夜に適当に片付けるのは分かりきったこととして、隼斗はいつも即日、遅くとも課題が出た次の休日には終わらせているはずなのだ。
「ああ。今週は日曜日に人と会っていたんだ。それで時間が無かったというわけでもないんだけど、どうにもやる気にならなくて」
「珍しいな。ちなみに誰よ?」
「彼だよ、伊集院正太郎君」
「伊集院……ああ、あの子か」
飛鳥にとってはこれといって親交のある相手ではないが、流石に名前ぐらいは覚えていた。エンペラーのパイロットだった少年で、今はライセンス所有者のサポート環境が整った中学に通っているのだという事まで思い出す。
「けどなんだ、何か問題でもあったのか?」
「いや、そんな大層なものじゃないよ。ただ生活面で不備はないかとかを聞いたり、あとは少し相談に乗ったりするためにたまに会っているってだけさ。彼の今の生活環境を手配したのは東洞だけど、頼んだのは僕だからね。投げっぱなしにするわけにもいかないだろう?」
「ははー、なるほど真面目なこって」
「アスカも似たようなものだよ」
「そんなもんか」
適当に答えた飛鳥は、自分がさっきまで座っていた椅子を机の下に押し込んだ。
「そゆことで。じゃあ行ってくるわ」
「わかった。僕もすぐに向かうよ」
「りょーかい」
二本指に引っ掛けた鞄を肩の後ろでぶらぶらさせながらドアへと向かう飛鳥。
途中で視界の端に、今朝と同じ表情でため息をつく美倉の姿を捉えるが、一瞬歩みを遅らせただけで飛鳥はそのまま教室を出てしまった。
上下に分かれて伸びる階段の手前で、トイレに行っていたらしき伊達の姿を見とめる。
ひらりと片手をあげたのは伊達の方だった。
「おうアスカ、今から部活か?」
「同好会だよ」
「そういやそうだったか」
それだけ言って、教室へ戻ろうとする伊達とすれ違う瞬間、飛鳥はふと足を止めて振り返った。
「なぁ伊達」
「どうしたんだ、アスカ?」
振り返る伊達の目を見ながら、飛鳥はもと来た方向――つまりは教室の方を顎で指して言う。
「泉美のことは俺がなんとかする。……けどあいつのことは、お前が気に掛けてやれよ」
返事を聞かずに背を向け去っていく飛鳥に、伊達は目に強い意志を乗せて静かに頷いた。見るまでもなく、そうしているだろうことは飛鳥にも分かりきったことだった。
そうして一つ階を下りたところで、今度は見慣れた女生徒の背中を見つける。肩までより少し長いぐらいのダークブラウンの髪を三つ編みにして、小さな鞄を身体の前で両手に持った姿。
飛鳥の一つ上の先輩、音深一葉だ。
「一葉さん」
「あ、アスカくん、こんにちは」
振り返って声の主が飛鳥であったのを確認すると、彼女は微笑んで答えた。眼鏡の縁が淡く光を反射する。
残りの階段をピョンと飛び降りて、飛鳥は一葉のいた1階と2階の間にある踊り場に着地した。
「こんちわ。一葉さんも今から古技研すか?」
「ええ、そうですよ」
「じゃ一緒に行きましょっか」
「はい」
短く言葉を交わした二人は、そこから一緒に歩きだす。
一葉は女子にしては比較的背が高い方だ。並んで階段を下りていても、肩の高さは飛鳥とほぼ同じか、あるいは飛鳥よりも少し高いほどだった。
どちらかが顔を真横に向ければ、それで目が合う。飛鳥は一葉の方をチラリと窺ってこう尋ねた。
「そういえば遥さんとは一緒じゃなかったんですか?」
遥というのは生徒会長である月見遥のことで、彼女は古技研――古代技術研究会という同好会のメンバーでもある。とはいえ古技研自体が東洞グループ所有のアーク研究施設、星印学園地下研究所のカモフラージュなのだが。
「いいえ。遥は授業が終わった時にはもう教室にいなかったような気がします。……本当に最後の授業ちゃんと受けてたんでしょうか?」
「いや、それは俺に聞かれても……。でもえらく早いんすね」
「そうですね。でもいつもこんなものですよ、あの子は」
一葉の言う通りで、飛鳥が放課後研究所に行ったときに遥がいないということはまず無い。教室で特に駄弁ったりすることなく研究所に向かった時もそうなのだから、遥は大抵授業が終わったらうすぐに教室から消えているのだろう。それでも今日は早過ぎるようだが。
階段を降り切って、1階の廊下を踏みしめる。そこでぐるりと辺りを見渡して、飛鳥はポツリと呟いた。
「やっぱり……」
「アスカくん、どうかしたんですか?」
「ああいや、泉美いないなって。授業終わったすぐに出て行ったんで、古技研の部屋にでも行ったのかと思ったんすけど、見当たんないですね」
「確かに、それっぽい人影は見当たりませんね」
1階は元々3年生が使う教室があるのだが、現在3年生は不在のためがらんとしている。職員室や生徒会室もこの階にあるとはいえ、上二つの階に比べれば随分と静かなものだ。ちなみに古技研の活動場所は生徒会室の隣にある。
現状この階は大部分の生徒にとってはただの通り道であり、それ故に人通りはまばら。だがちらほらと見える生徒の姿を注視してみても、泉美らしき人影はなかった。
そこでふと、飛鳥は見知った男子生徒を見かけた。
「あ、一さんじゃん」
九十九一。この学校の生徒会に所属し、副会長をしている少年だ。成績優秀で人当たりも良い模範的な学生でもある。
生徒会室がある方だろう廊下の奥から一人歩いてきた彼もまた、飛鳥達がいることに気付いたようだ。
少しだけ歩くスピードを速めると、飛鳥達の一歩手前で立ち止まった。
「どもっす」
「こんにちは、星野君。……と、一葉」
飛鳥、一葉と順に視線を送る九十九。一葉は小さく頷いた。
(……あれ、呼び捨て?)
飛鳥はふと疑問に思う。
九十九は一葉と同様に後輩相手でも丁寧語で話すし、相手の名前には何かしらの敬称をつけて、呼び捨てにすることはまずないはずだ。極稀にため口で話し呼び捨てで相手の名前を言う時もあるが、それは『このモード』のときの彼の言動ではない。
飛鳥が怪訝な表情を浮かべていると、それに気付いた一葉がそちらを振り返った。
「アスカくん、何かありましたか?」
「えっと……。もしかして、二人とも仲いいんすか?」
「仲が良いというか……」
抽象的な飛鳥の質問だったが、一葉は合点がいった様子で九十九の隣に立つと、手の平を彼に差し向けた。
「幼馴染なんですよ、一と私は。小学校より前……幼稚園ぐらいからでしたっけ?」
一葉の問いに軽く頷いて、九十九は証左とばかりに伊達眼鏡を外して胸ポケットに引っ掛ける。
彼は周囲に生徒がいないのを確認してから、それまでとはうってかわって口角を釣り上げる悪っぽい笑みを浮かべた。
「ま、そういうことだ」
飛鳥は偶然知ってしまったものなのだが、九十九は元々はこんな性格なのだ。彼は基本的にこの態度を他の生徒には向けないし、そのことを踏まえればやはり一葉は九十九のことをよく知っているのだろう。
二人の様子を交互に見た飛鳥が「はー……」というように茫然としていると、九十九が眉をひそめた。
「どうした、アスカ」
「世間は狭いなーって」
「何言ってんだか」
意外なところで人間関係が繋がったことに驚いている飛鳥の言葉を、九十九はそう言って一蹴した。
隣に寄り添っていた一葉を見て、一は尋ねる。
「ところで、二人は何をやっていたんだ? 一緒にでも帰るのか?」
「同好会っすよ」
答えたのは飛鳥だった。
「同好会? ああ、古代技術研究会か。……一葉も、か?」
「はい、そうですよ」
一葉が頷いたその一瞬、九十九の眉間にしわが寄る。だが飛鳥がそれに気付いた時には、既に直前の表情へと戻っていた。
「あちらから来たということは、一は生徒会活動ですか?」
「その通りだが……それは別にいいだろう」
廊下の奥を覗き込む一葉と、不動のまま答える九十九の様子がどこか違和感を抱かせる。
「古技研は今どんな活動をしているんだ? 生徒会は文化祭が近付けば多忙になるし、お前達のところのメンバーには何人か生徒会の人間がいただろう」
「何ってこともないですよ。いつも通り、名前の通りに古代技術の研究や調査をしているだけです」
一葉は浮かべた微笑を崩すことなくそう答えた。
アークはまさしく古代技術の産物であり、地下研究所で行なっているのはそれの研究調査に他ならない。表現はマイルドだが、全く嘘は無いのである。
それだけ聞く分には文献やネットでオカルトチックなオーパーツでも調べているようにしか聞こえない言葉のはずだが、九十九はどこか渋い顔をしていた。
「そうか……。危険なことは、していないよな?」
「外に出て調査なんて、よほどの事が無い限りしてません。大丈夫ですよ」
「わかった。……なら、ならいいんだ」
渋々といった風に頷くと、九十九は俯けていた顔を上げた。
「じゃあ俺は生徒会の仕事があるから行くよ。……気をつけてな」
一葉の方を見ながらそれだけ言い残すと、九十九は早足でその場から立ち去ってしまった。
何の言葉も向けられなかった飛鳥は、怪訝な表情で首を傾げる。
「……なんか変じゃなかったっすか?」
「さあ……?」
残された二人は、そうして首を傾げるばかりだった。