1章『銀枠の空』:4
授業が始まるのと同じく味気のないチャイム音が響いて、長かった4眼目の授業が終わった。
長かったというか、1時間であることに変わりはないのだが、授業が退屈だと体感の時間が長くなる。
飛鳥は遅刻常習ではあるが授業自体をサボるわけではなく、丸ごと全部を寝て過ごすということはほとんどない。
入学した当初から少しの間は保健室へ行って授業をスルーしたりもしていたのだが、初っ端の試験でなかなか酷い結果を出して以降はそれも控えているのだ。
「あー、終わった終わったー!」
午後からも授業は有るわけだが、それは一旦忘れて飛鳥は大きく伸びをした。張り詰めた筋肉の悲鳴が音になって聞こえてきそうなほど大きく背を逸らすと、そのついでに真後ろに視線を向ける。
「…………ッ」
直後に目が合った泉美は露骨に嫌そうに顔をしかめた後、去り際に舌打ちギリギリの何か変なリップ音を残して颯爽と教室を出て行ってしまった。
「…………えぇ~」
仰け反った姿勢のまま数秒固まっていた飛鳥は、ふらりと脱力して天井に愚痴る。
「うっわこれ傷つくわぁ…………」
ハッキリ言って余計なことをした飛鳥が悪いということで間違いないのだが、それにしても辛辣すぎるものだった。しかしだいたいアクリルぐらいのハートを持つ飛鳥の、鼻にツンとこみ上げてくる何かは決して泣いてるわけではないのである。決して。
「えらい派手にフラれたな」
落ち着きかけたところで上から降ってきたのは、聞きなれた伊達の声だった。飛鳥は上体起こしの要領で上半身を振り回すと、その勢いのまま自分の机に突っ伏した。
「……んだよ」
「やべぇ、ちょっと記念写真撮りたい」
「や、やめろ!」
慌てて飛び起きて、今まさに彼の姿を記録せんと構えられていたケータイを上から押さえつける。直後に響いた無慈悲なシャッター音は、彼らの足もとに向けて放たれていた。
ただその過程で伊達とは真正面から睨みあうことになる。
今の一瞬のやり取りで全力だった飛鳥の血走った目を2秒ほど見つめて、どういうわけか伊達は「ブふっ」と汚らしく噴き出した。
笑いをこらえるのに必死という様子で、伊達は震える声で続ける。
「何お前、泣くほどショックだったのか?」
「は、はぁ!? んなワケねーだろうがっ!」
「じゃあなんでちょっと目赤くなってんだよ」
「っ、あ、い、意味分かりませんけどなんのことでございませんか!?」
「落ち着け落ち着け、何言ってんのかワケ分からんことになってるぞ」
不覚にも伊達になだめられることになり、飛鳥は不本意そうに思いきり鼻を鳴らすと、しかし反論はせずに大きく深呼吸をした。
引きつった喉のせいで大きくむせて10秒ほど派手にせき込んだ後、飛鳥は何事も無かったかのようにぶすっとした無表情を浮かべた。
「なんだよ」
「変わり身はえぇな」
「なんのことやら」
「つか若干気持ち悪い」
「……ほっとけ」
飛鳥の表情をピクリとも動かさずに答える様子に逆に笑いそうになりながら、伊達は持ってきていた弁当箱のケースを胸の高さに掲げた。同時に彼の背後から、やや元気の無さそうな美倉が顔を出す。視界端に映っていた隼斗も、自分の席に着いたまま身体だけを飛鳥の方に向けていた。
伊達はケースをブラブラさせながらこう続けた。
「みんなで一緒に飯食おうぜ。慰めてやるよ」
「ブッ殺すぞお前」
飛鳥は目一杯舌をブン回して、そこらのチンピラ程度なら目力で物理的に吹っ飛ばせるほどに凄んでみるが、伊達は逆に近所の優しいお兄ちゃん顔で盛大に煽ってきていた。
「はははっ」
「ああああああああああああ!!!!」
腹パン4連打が怒涛の勢いで伊達の鳩尾に吸い込まれる。この間わずか0.5秒、直後に「おげっ」と唸った伊達が床に膝をついた。
「伊達君っ!?」
肉を撃つ鈍い音の直後にガタイのいい男がうずくまるという光景に、美倉も驚愕の表情で口元を押さえていた。
一瞬固まっていた美倉だったが、慌てて腰をかがめて伊達の背中に手を添える。
飛鳥は一連の美倉のリアクションを冷めた目で眺めると、ため息一つと共におもむろに席を立った。机の横に吊ってあったコンビニ袋を指先に引っ掛けると、うずくまる伊達と寄り添う美倉に背を向ける。
「俺は今日は一人で食うからいいよ。それよか隼斗は食堂だろ? 一緒に行ってやれよ」
「う、ぐ……。アスカ……、待て……」
「そんな復活して再登場したはいいけど速攻かませ犬化して這いつくばってるライバルキャラみたいに呼んだって待たないっての」
適当に答えると飛鳥は教室の後ろの扉までノンストップでスタスタと歩いていく。
しかし廊下一歩手前でふと立ち止まると、くるりとその場でターンして、
「あと伊達、今日のお前は絶対に! 俺より気持ち悪いから」
全身全霊をもって作り上げたゲス声で吐き捨ててから、飛鳥は意気揚々と教室を出て行った。
彼に行き先は分からないが、論理とは違う何かで足は勝手に目的地へと向かっているのを感じていた。
いつだったかと同じように、教室を横切り階段を上る。一番上の階にあった扉を押し開いた。
「しっかし何で屋上なんか行けるようにしてるんだか」
千切れ雲の浮かぶ青空に覆われた屋上は、遮るもののない太陽光によって真夏上等なほどに熱されていた。
「眩しいっつか、あっつ……」
かれこれ2カ月ほど使っていなかった言葉が口をついて、あれこれ忙しかった夏の出来事がふと想起される。その中にはホライゾンとの邂逅、そして泉美との再会の思い出も含まれていた。
日除けにしていた片手を下ろして前方を見渡したが、そこには人影はなかった。
「あれ?」
完全にフィール任せだったとはいえ予想が外れたことに、ほんの少しだけ驚いた様子を見せる飛鳥。
しかしとりあえずと踏み出して、改めて周囲を見渡すと、ドアの位置から死角になる部分の狭い日陰に、体育座りをしている女生徒の姿を見つけた。
というか泉美だ。
「うわー……」
言葉にできない切ない光景に、飛鳥の頬も思わず引きつる。
他人を避けている状態の泉美なのだから一人でいること自体はある種当たり前なのだが、壁を背に膝を抱えてコンビニパンをちまちま頬張っているという光景は、傍から見ている者の精神にもなかなか響くものがあった。
ドアが開く音は聞こえていただろうからここに誰かがいることには気付いているはずだが、泉美は飛鳥の方には一切注意を向けようとはしない。
それどころか飛鳥が近付いていっても、わざとらしく視線を逸らすばかりだった。
「おーい」
「…………」
「おい泉美ー」
「……………………」
「聞こえてるかー?」
「………………………………」
「だめだこりゃ」
いっそ気持ちのいいほどの無視っぷりに、飛鳥も「あ゛ー」とか呻きながらガジガジと頭を掻き毟った。
転入初日からしばらくは多少のリアクションは返してくれていたのだが、クラスにおける泉美への対応が決まってくるにつれて、彼女から飛鳥へのリアクションも冷たくなっていった。
ここ1週間ほどはずっとこんな感じで、声をかけても無視されることの方が多くなっている。一応のリアクションは返される美倉などはまだまだマシな方なのだ。
そう考えると幼馴染だというメリットよりも、アーク関係者というデメリットの方が強く働いているように思えた。
この調子で大丈夫だろうかと不安にもなる飛鳥だったが、できるかどうかはこの際二の次だった。
(とにかく無視されてんじゃ話にならん。なにかしらリアクションぐらい返してもらわにゃどーにも……)
さてどうしたもんかと首をひねった飛鳥。
あーでもないこーでもないと、座り込む泉美の目の前でたっぷり5秒ほど考え込んだ後、彼はポンと手を叩いた。
すぅ、と息を吸いこむと、ビシィッ!! と人差し指を眼下の泉美に突きつける。
「やーいぼっちぃ一人メ「ふんッ!!」シィいってぇええええ!?!?」
――ズガッ!! と。
風を切って放たれた高速のつま先が、仁王立ちの飛鳥の右すねにクリーンヒットした。
セリフを激痛によって遮られた飛鳥はすねを押さえてその場にうずくまる。
「~~~~~~~~ぁッ!!!!」
飛鳥がクリティカルなダメージにバタバタとのたうちまわる様子を、食事を一旦停止した泉美が、ゴミを漁るカラスを見るような絶望的に冷たい目で見下ろしていた。
ごろんごろん転がっていた飛鳥だったが、なんとか喉の痙攣が治まる程度に痛みが落ち着くと、涙で潤んだ目で泉美を睨みつけた。
「蹴ることないじゃん!」
「蹴るしかないじゃん」
「超痛いんだけど!」
「狙いどおりだわ」
「おのれ……」
思いっきり避難の目を向けても、やはり泉美はどこ吹く風だ。飛鳥は飛鳥で痛みのせいか口調が若干おかしなことになっている。
余計なことを言った飛鳥が全面的に悪いと言えば確かにそうなのだが、それでは納得できないほどにすねの痛みは大きい。あとでアザになる確信が彼にはあった。
とはいえ身体を張ったアピールでなんとか泉美の注意を引くことに成功した飛鳥は、痛む右脚には体重をかけないようにして立ちあがる。そのままフラフラと歩いて、泉美の隣にどさりと腰かけた。
わざわざ立ちあがって離れたところにまで行かれるのではないかという不安が頭をもたげるが、泉美は特別何の行動も起こさなかった。
「いっつー」
飛鳥はコンビニ袋を脇によけて、蹴られた部分を黒いスラックスの上からさする。ふと視線を感じた飛鳥が顔を上げると、飛鳥の足を見つめていたらしき泉美と目が合った。
飛鳥はぱっと両手を広げると、少し強がって笑って見せた。
「大丈夫だよ、このぐらい」
「き、気にしてないし」
ぷいっと顔を明後日の方へ向けた泉美の態度に噴き出しそうになりながら、飛鳥は「さいですか」とだけ答えた。
脇によけていたコンビニ袋から適当に一つパンを引っ張り出し、封を開けて口につっこむ。
二人は隣あったまま無言で食事を続けていたが、しばらくして、飛鳥がパンを頬張ったままおもむろに口を開いた。
「なぁさ」
口に含んでいたものを呑み込んで、泉美は無愛想に答える。
「……何?」
「俺はともかく、美倉とか他の奴にまであんな態度取ってんのは何でなんだ?」
「別に、なんでもいいでしょ」
取りつく島も無い回答だが、飛鳥は構わず続ける。
「前言ってたこの学校の奴は根本的に信用できないとかって奴?」
「……そうよ」
「ふぅん」
飛鳥はさして興味もなさそうに鼻を鳴らすと、再び手元のパンを頬張った。
泉美からは何かを語りかけることはない。飛鳥の言葉が止まると、それに合わせて二人の間には無言が生まれる。不思議と気まずい感覚が無かったのが、飛鳥としてはありがたかった。
何を言おうか、と咀嚼のついでに軽く悩んで、呑み込んだ後こう問うた。
「あいつはそんなんじゃないと思うけどなぁ。そんなに上手く人を騙せるような奴に見えるか?」
「さあ? でも印象なんて関係ない。根拠が無いもの」
「じゃあさ……嘘つく奴は、嫌いか?」
「嫌いよ。……嘘は、嫌い」
「……そっか」
泉美の吐き捨てるような言葉は、間違いなく本心だろうと感じられた。
7年前の、絶対という言葉を違った飛鳥はやはり、嘘をついたということになるだろう。それが彼女をどれだけ傷付けたかは今の飛鳥には知りようもなかったが、あの日の自分に力があれば、という想いは未だ彼の中で燻っていた。
自分から尋ねておいて、しかも予想していた通りの返答だったにも関わらず、飛鳥はそこで口をつぐんでしまった。
食事を続けていた口の動きも止めて、細めた目を手元に落とす。
「泉美は、中国ではどんなことやってたんだ?」
続く言葉に意味のあるものは選べなくて、どうせ答え分かりきっていることを尋ねてしまう。
泉美は退屈そうにため息をついて、面倒くさげに答える。
「アークの軍事利用に必要な訓練だけよ。他にはわざわざ言うような事は何もしてないわ」
「……訓練以外には、何もしてないのか?」
「そんな自由あるわけないじゃない」
「じゃあ――」
「もういいでしょ」
なんとか話を繋ごうとする飛鳥に見切りをつけて、泉美はその一言と共にスッと立ちあがった。いつの間にか昼食を全て食べ終わっていたらしい彼女は、そのまま飛鳥の脚を跨いで去って行った。
「ああ…………」
残された飛鳥は欠片になったパンの切れ端を口へ放り込み、ペットボトルの炭酸ジュースで流しこんで深く息を吐いた。
もたれかかっていた壁に頭を預けて、穏やかに白を漂わせる澄んだ青を見上げる。
「ままならないなぁ」
かすれた彼の呟きを、空を泳ぐ千切れ雲が東の空へと連れ去った。