1章『銀枠の空』:3
飛鳥が自分の席にどさりと腰かけて数秒、友達の席近くで話しこんでいたのであろう他の生徒達の全員がそれぞれの席に着いた。
ショートホームルームとはいえ本来ならば起立の号令から始めるのだが、今しがた生徒が席に座ったという事実を鑑みてか、飛騨は号令無しで始める。
「……うーん」
出席簿代わりのタブレットを指先で何度か弾いた飛騨は、そこで眉を寄せて首を傾げた。
どうやらクラス全体の空気の異質さを感じ取ったのだろうが、それは飛鳥も感じていたことだった。
どこか、教室の空気がやや張り詰めているように感じられる。泉美が転入してきてから割といつものことではあったが、今日のそれはいつもより少しだけ程度が酷い様にも感じられたのだ。
原因は間違いなく今朝の泉美と美倉のやり取りだが、どうもそれだけではない様子だ。
「…………」
飛騨と同じように飛鳥もそれとなく周囲を見渡してみる。
先ほど美倉を慰めていた女子生徒達だ。チラチラと飛鳥の後ろを窺う生徒たちの中に、3人ほど睨みつけるようにそちらを見ている生徒がいた。
「はぁ……」
思ったよりも事態は深刻なのかもしれない、と認識して、飛鳥は思わずため息をこぼす。
教壇の飛騨も似たように感じたのか、彼にしては珍しく困ったような表情を浮かべていた。
「ん、んー! あー、……とりあえず、いくつか連絡事項有るからな」
飛騨がわざとらしく咳払いをすると、こちらに視線を向けていた数人の生徒が慌てて視線を前に戻した。
「うーんと、全員いるみたいだな。遅刻も欠席も無しか、よしよし」
どうせ何かまた余計なことでも言われるのだろう、と出席確認をしているのだと気付いていた時点で思いきり顔を逸らしていた飛鳥だったが、飛騨は彼をチラリとみただけで、すぐにタブレットに視線を戻した。
飛騨らしくもないそんな様子を横目で見る飛鳥。ぼんやりと顔を向けた先は、ちょうど泉美が眺めるのと同じ窓の外の景色だった。
「まず一つ目の連絡は、再来週にも定期試験があるから、各自早いうちから勉強しておくように。今回は中間試験だからいくつか試験が無い教科もあると思うが、だからってそれもサボらないようにな」
「はーい先生!」
話が一旦切れたタイミングを見計らって、教卓のすぐ前の男子生徒が手を挙げた。
「ん? なんだ、野村?」
「先生の数学Ⅰは試験あるの? 範囲は?」
「無いわけないだろう。範囲は授業でやったところ、ノート見ろノート」
「先生、ノート取ってません」
「補習な」
「嘘です冗談です許して下さい!」
机に額をこすりつける勢いで懇願する野村。彼は実は教壇からは遠い席の方がよく見えるという特徴を利用して、一番前の席にいながらかなりの授業を寝て過ごすという、飛鳥とはまた別ベクトルでのサボり魔なのだ。
補習という言葉に一瞬ピリリとした緊張感が走るも、野村の必死な態度に思わずといった笑いがあちこちで起こる。
同じように軽く吹き出した飛鳥だったが、肩越しにチラリと後ろを窺った時に見えた窓を眺める横顔で、すぐに笑みを引っ込めた。
「はぁ……」
意図せずため息を漏らしたタイミングで、左前の席でニヤニヤと笑う篠原の顔が見えて、飛鳥は余計に深くため息をついた。
もういいや、と面倒くさくなった飛鳥は視線を前に向け直す。
「それで、だ。テストについてはまた来週にでも追って連絡するとして……。もう一つの連絡なんだが、来月、ついに文化祭がある。準備は試験明けから始まるが、どんなことをしたいかぐらいは今のうちから個人個人で考えておいてもいいだろうな」
おお、と歓声が上がる。
高校という舞台であれば、恐らくは1年でも最大の規模になるイベントだ。楽しみにしている生徒も多いだろうし、実際あちこちで後ろやら隣の生徒とあれこれ話始める様子がうかがえた。
「文化祭、か……」
ただ飛鳥はその言葉でわくわくした表情になるでもなく、何かを思案しだした。
「おいおい、まだ1ヶ月も先の話だぞ。今は静かするように! お前達余裕そうだが、本当に試験大丈夫なのか……?」
楽しい話題にはことさら敏感な生徒たちをぐるりと見渡して、飛騨は思わず額を押さえる。その態度に気付いた様子も無く、またしても野村が手を挙げた。
「先生、文化祭が来月にあるのは分かったけど、この学校は体育祭って無いの?」
「あー、体育祭なぁ。1学期の中間試験が終わったあと、6月の頭ぐらいにある予定だったんだが、今のところ2学年しかいないから生徒数も少なくてな。見送りになったんだ。来年はちゃんと開催されると思うぞ」
ふーん、と頷く野村含む数人の生徒。
飛騨は思い出したようにこう続けた。
「ちなみに生徒数が少な過ぎるってことで、去年は文化祭も無かったんだよ。できないわけじゃないが生徒主導となると、会場の設営だけで人数が取られ過ぎてクラスや部活の出し物に回れないからな。その分今の2年生はやる気満々だろう。1学年少ないってことは規模に対して生徒数が少ないってことだから、それなりに準備は大変だと思うが、みんな頑張って盛り上げてほしい。なんせ年に1度しかないイベントだからな」
「はーい」とお行儀よく返事をする集団の中で、やっぱり飛鳥は顎に手を当てたまま、あれやこれやと考えていた。
(文化祭……、何かに利用できるか?)
具体的には背後の彼女、泉美の状況改善のためにだ。
飛鳥だって学生、目前に迫った試験をガン無視してあれこれ奔走するほどの余裕はない。時間的に余裕のない中で、そこに転がってきた文化祭という機会だ。利用しない手はないだろう。
あまりだらだらと様子見を続けていれば、泉美に対しては関わらないという方向でクラスの歯車がかみ合ってしまうし、そうなってからではその対応が普通になる。状況の改善には苦労するはずだ。
文化祭はクラスが一丸となって何かしらを作り上げようというイベントである。実際、ここが最後のターニングポイントと言っても過言ではない。
(だとすれば、それを最大限活用できるように状況を整えておくのがベターか)
具体的に何をするとまではいかないものの、飛鳥は漠然と今後のプランを構築してみる。
考えごとは性に合わないとは普段から言いつつも、なんだかんだ計画的なのも飛鳥という人間なのだろう。
まぁしばらくはいろいろ考えてみるか、と適当に結論して、飛鳥は俯けていた視線を戻した。
「さて、俺からの連絡はこれで終わりだ。みんなからは何か質問あるか?」
飛騨はそう言ってクラスを見渡して、特に挙手も無いのを確認すると「はい」と手を叩いた。
「じゃあホームルームはこれで終わりだ。授業まではまだ少し時間があるが、騒ぎ過ぎないように待っておくように」
言った途端ガヤガヤと騒がしさを取り戻す教室のドア付近で、ふと飛騨が振り返った。
「あー、星野!」
「ん?」
喧騒の中でも十分に届く大きな声で呼ばれ、飛鳥は顔を上げた。
「お前ちょっと職員室に来い。話がある」
「……は!?」
唐突な話に飛鳥は飛び上がるように席を立ったが、飛騨は言うだけ言ってすぐに教室から出て行ってしまう。
「なんだってんだ……」
クラスの何人かが飛鳥の方へ好奇の視線を向けてくるが、それは一旦無視した。
左の方に目を向けて、疑問の表情を浮かべる隼斗に対してアヒル口で両手を広げておどけて見せる。
いきなり噴き出した隼斗につられて笑うと、飛鳥は渋々といった様子で教室から出た。
飛鳥達1年生の教室は3階で、職員室は今は使われていない3年の教室と同じ1階にある。大したことはないと言えば間違いはないが、それでも少し手間だ。
だが面倒そうに階段を下った飛鳥は、3階と2階の中間にある踊り場で、壁にもたれかかった飛騨の姿を見とめた。
飛騨もまた飛鳥が来たのに気付くと、組んでいた腕を伸ばして手招きをする。
(…………?)
疑問に思いながらも、あえて彼の手招きを無視してゆっくりと階段を下りていく飛鳥。
一瞬飛騨を無視して職員室に向かってやろうかというアイデアが頭をよぎるが、面倒さが勝って結局向かい合う位置で立ち止まった。
「職員室なんじゃ?」
「ここでいいんだよ、他の教師に聞かれるとマズい」
「……アーク関係?」
「察しがいいな」
飛騨が素で驚いた表情を浮かべると、眉間にしわを寄せた飛鳥は鼻を鳴らして返す。
目元にほんの少しの緊張感を乗せて飛騨に向ける。飛騨は単刀直入にこう言った。
「話は本郷のことだ」
「あいつがどうかしたんすか?」
「クラスに馴染めていないだろう? 本来は担任である俺がなんとかしなきゃならないことなんだが、あの子自身があの様子じゃどうにも手が出せなくてな」
「……あ、もう何言いたいかわかりました」
飛鳥は話を遮る勢いで、呆れたように呟く。聞こえてはいただろうが、飛騨は何も言わずに続ける。
「それで、だ。この件、できればお前に任せたい」
「やっぱり。でも何で俺? いや、言われなくてもそうするつもりではあるけど、先生が手を出せないってどういうことですか?」
伊達に対しても答えた手前、今更飛騨に頼まれなくとも飛鳥自身行動するつもりではあった。その上で気になったことを尋ねた訳だが、飛騨は腕を組んで「うーん」と唸った。
「あの子は今もアークのライセンス所有者だし、以前は軍にまで在籍していただろう? 俺のクラスに配属された理由がそれでもあるんだが、アーク研究に関わりある教師でないとあの子の生活面でのサポートに対応できない。しかし当の本郷がアーク関係者に対して特に強い警戒心を抱いているようでは、どうしようもないんだ」
厳しい環境に置かれていた分、泉美が強く自己を持っているのも飛騨からすればマイナスに働いていると感じるのだろう。
泉美が転入してきた初日、激情と共にぶつけてきた言葉とほぼ同じ内容だった。飛鳥としては泉美があの話を、信用できないと言いきってしまうような相手に話すとは思えないし、だとすれば飛騨は泉美に言われるでもなくそのことを感じ取ったのだろう。
元々は言葉の通り自分で何とかするつもりだったのかもしれない。「教師としては情けない話だが……」という言葉の悔しそうな口調から察するに、飛鳥に頼むのも苦渋の決断だったようだ。
「だから星野、悪いが本郷の事は………………」
飛騨が唐突に口をつぐんで階段の上の方を睨みつけた。
「……?」
「いや、気にするな」
飛鳥が首を傾げるのが見えたのか、飛騨は頭を振ると、そのまま話を続ける。
「とにかく星野。今回の件、申し訳ないがお前に一任させてほしい。本郷が7年前の、アークに関わる前の事を知っているのは星野、お前だけだ。俺はアーク研究の関係者で、あの子が唯一信用できる相手がお前なんだと思ってる。面倒かもしれないが、頼む」
「……はぁ、言ったじゃないすか。言われなくてもそうするって」
神妙な面持ちの飛騨とは反対に、飛鳥はあくまでも軽い調子でそう返した。
「でもあいつ、なんだってあそこまで警戒してんですか? 思い出美化とか関係なしに、小学校のころはもっと普通にいい奴でしたよ」
「そうだったのか。……いや、俺もあの子の昔のことはそれほど詳しくないんだ。が、中国にいる間の事については俺も独自に調べさせてもらった」
そこで飛騨は一度言葉を詰まらせ瞑目する。乾いた深呼吸の音が、飛鳥の耳にやけに響いた。
「酷いものだったよ。自分の認識の甘さを痛感させられた。……正直な話、事情を知ってしまえば本郷のあの態度は自然なものだとも思えるほどだ」
「……そこまで? 一体あいつは何をやらされたんですか?」
「悪いが、打ちとけた後にでも本人に聞いてくれ。こればっかりは俺の口からは言えん」
「あー……はい、分かりました」
興味本位で首を突っ込んでいい話題ではないとでも言いたげに、飛騨はそう言い捨てた。これから当事者になろうという人間にそこまで言うのだから、文字通りよほどのことなのだろう。
「じゃあ星野、頼んだぞ」
「ういっす」
飛鳥の迷いの無い返答を受けて飛騨は満足そうにうなずくと、踵を返して階下へと去って行った。
飛鳥もまたどこか重い気持ちを引きずりながらも、眼前に続く階段を上る。
「隼斗?」
最上段に差し掛かったところでふと飛鳥が顔を上げると、申し訳なさそうな表情をした隼斗が立っていた。
「……ごめん、ちょっと盗み聞きしてたよ」
「いいんじゃねぇの? 飛騨は気付いてたみたいだし」
彼が途中で言葉を切ったのはそういうことか、と飛鳥は得心する。しかし彼の位置からは見えなかったはずだが、誰かいることはともかく誰がいるのかにまではどうやって気付いたのだろうかという疑問は残った。アーク研究に関わりのある者だという確信はあったはずなのだが。
「泉美の事だよ」
聞かれる前に飛鳥は答えた。
「俺に一任するってさ。最初からそのつもりだったから、今更って感じだけどな」
「そっか」
「まぁなんだ、いろいろ考える事が出てきたみたいだぜ。……でもなんつーか、これもチャンスなのかな」
「チャンスって?」
「前にはできなかったことだからさ、そのリトライができるって意味じゃ、チャンスなのかもしれないって思ったんだ。あぁ、ちょっと不謹慎か」
いくらなんでも身勝手すぎる言葉じゃないかと反省して、飛鳥は言葉を切った。
さてこれからどうしようとぶつぶつ言い出したところで、隼斗がおもむろに口を開いた。
「あ、そうだ、アスカ。昨日のことなんだけど――」
「うーん、でもなぁ、それは………………ん? あ、悪い、聞いてなかった。どうかしたか?」
自分の世界に入りかけていた飛鳥が訊き直したが、隼斗は首を横に振った。
「いや、何でもないよ」
「え、何だよそれ、気になるじゃん」
「いやいや、ホント何でもないから、気にしないでくれ」
「お、おう……?」
飛鳥が首を傾げながらそう答えたところで、電子音全開な風情の無いチャイムの音が鳴り響いた。
始業のチャイムだ。
「あ、やっべ!」
「マズい、急ぐよアスカ!」
「おう!」
廊下に響く音に急かされ、二人は慌てて教室へと駆けて行った。