プロローグ He knew nothing._even now
窓から差し込む夕日の光が、教室の白い壁に朱色を垂らす頃。
放課後の喧騒に取り残された部屋で、僕は手元に落していた視線を上げた。
黒板の上。
壁に掛けられた時計の針は、歪みの無い縦一直線を描いていた。
「もうこんな時間か……」
手元から聞こえた紙ずれの音で、自分が本を握っていたことに気付く。
この本を手に取ったのは授業後のホームルームが終わってすぐだったから、3時間ぐらいは読んでいたことになる。
内容は、道端に落ちていた本を拾った男の子が、その本に描かれていた世界を旅するという簡単な小説だ。
読み始めたところで、ちょうど主人公の男の子が、紙とインクで出来た鳥の化け物に追いかけられている場面だったと、曖昧な記憶を探る。
ページは進んでいなかった。
いま僕が開いているページの真ん中のあたりで、逃げていた男の子が地面に開いた穴に落ちるところを淡々と描写していた。
逆さまの重力に引かれる男の子の叫び声は、文字列を追うだけで頭に響いてきそうなほど生々しいのに、その様子を語る『ぼく』の言葉は、まるで適当な日記を読んでいるみたいに希薄な感情をのぞかせている。
まるで落ちていく男の子である『ぼく』自身が、自分の感覚に共感出来ていないような薄気味悪さがあった。
初めて読んだときはたぶん続きが気になって仕方なくて、急かされたようにページを捲り続けていたのだろうけど、続きを知っている今となっては、その動作はただの作業でしかなかった。
本を閉じても男の子が辿る物語の行く末は簡単に思い出せる。それぐらい、飽きるほどに読み返した本だった。
好きな本だけど、特別面白い物語ではなかったように思う。
だけどおとぎ話のような不思議な世界で心躍らせる男の子の姿と、それを無感動に語り続ける『ぼく』の間の隙間が、どうしてか『僕』の中の乖離した部分に噛み合うのだ。
僕にはそう、ふとある感覚を覚えるときがある。
自分が自分で無いような、振る舞う自分と感じる自分がどこか別の場所にいるような、そんなズレた感覚だ。
男の子には振る舞う僕を。
語る『ぼく』には感じる僕を。
そんな風に自分を二つに切り分けてこの本を読むと、ズレた僕の歯車に物語が入り込んでくる。
その物語の中では、この本を読んでいる間は、まるで僕が二つあることが自然であるように感じられた。
だから、本当はいつものめり込んでしまうはずなのだ。
でも今の僕は、振る舞う自分と感じる自分が背中合わせになっている。歪んだ僕で、普段通りの僕だった。
理由はたぶん一つしかない。
「…………」
ため息はつかないように、僕は閉じた本を持って椅子から立ちあがった。
音をたてないようにと思っていたけど、伸ばした膝の裏側が腰かけていた椅子を押して、教室の床と擦れた椅子の足が耳障りな音を鳴らす。
同時に背後で、もう一人の生徒が顔を上げる気配を感じた。
「もう帰るのか?」
尋ねてきたのは、このクラスの生徒。つまりは僕の同級生、星野飛鳥という少年だった。
「う、うん。もう本も読み終えたから」
「さすがにその嘘はわかるぞ」
「……だよね」
出来れば早く立ち去ってしまいたくて、思わず口をついた嘘を、星野君は落ち着いた様子で否定した。その人差し指が、序盤まで読んで畳んでしまった本に向けられていた。
下手な嘘がばれてしまったせいで逆に帰り辛くなった僕を、星野君は無感動な瞳でじっと見つめてくる。
中学のときの先生みたいなどこか探るようなその視線からは、普段の彼からは想像し難い大人びた印象を受けた。
じっと見られるという行為は居心地が悪いのに、その行為はどうしてか、不快だと感じ始めるほんの少し手前でまでしか至らない。
身体は微動だにしないままの星野君。じっと見つめてくる中で細かく視線を外すのは、僕が不快感を覚える境界を見ようとしているのだと感じられた。
何かを考え込んでいるような彼の態度に、僕も言葉を発せないでいた。
僕にとって、星野君は特別印象深い相手じゃない。
まだこのクラスに配属されてから2週間程度しか経っていないからであり、僕自身、積極的にクラスメイトと打ち解けようとはしていなかったからでもある。
確かにクラスメイト全員の顔と名前は一致するけど、それも僕にとってはただの世渡りの方法でしかなく、特別自分にとって印象のある人というものには心当たりすらない。
そういう点では、僕には彼も同じように見えていた。
いつも遅刻ギリギリの時間にやって来ては、休み時間も眠たそうにしている事が多い。それどころかときどき授業をサボって保健室に行っているなんて話も聞く。
それでも他の生徒に話しかけられれば、それなりに明るく応対するような人だった。
積極的に友人関係を広げようとはしていないのは、ある意味で僕と同じなのだ。
……いや、そういえばついこの間、クラス委員の担当でひと悶着あった伊達君と美倉さんの仲を取り持ったりもしたんだっけ。そう考えると、彼の言動からは彼の単一の性格のようなものは見えてこない。
もしかしたら彼も、他の生徒たちと何ら変わらないごく普通な彼も、僕と同じようにズレたいくつかの自分を持っていたりするのかも。
「久坂。お前さ、人付き合いとか苦手か?」
「……ど、どうして?」
唐突にそう尋ねられた僕はふと我に帰って、言葉に詰まりながらも質問を返した。
星野君は首を横に振ると、顎を乗せていた手と机の上に置いていた手を組んで、まっすぐにこちらを見返してくる。
「あー、なんて言うか、普段はそんな風には全然見えないんだけどさ。というか、クラスの連中とは仲良いようには見えるんだけど……。ほら、いつも放課後教室に一人で残ってて、他の奴らと部活に行ったり遊びに行ったりしてるのを見たこと無かったから。……うん、だからちょっと不思議に思ったんだ」
自分の中で思案をしているみたいに、途中で視線をあちこちに飛ばしながら星野君はそう答えた。
言葉を選んでいるのだということに気付くと、おのずと彼の言いたい事が分かった気がした。
「もしかして、友達いないように見える?」
「……お前、案外あけすけなのな」
星野君は目をぱちくりさせると、脱力したように笑う。
何かおかしなことを言ったかな、と疑問に思っていると、星野君はおもむろに椅子から立ち上がった。
けれで近付いてくるわけでもなくて、自分の机の前に回ってその上に改めて腰かけていた。
僕達の間の間隔が、ちょうど今の僕と彼の距離感のようでもある。机3つ分離れていた。
「どういうこと?」
「そういう奴には見えなかったから、思ってたのと違ってちょっと驚いてる」
「ああ、なるほど、そういうことなんだ。でもそれなら星野君もだと思うよ」
「……俺も?」
首を小さく傾げて、星野君は訝しげにそう尋ねてきた。
窓の外の夕日が作る彼の長い影に、僕は答える。
「うん。意外と他の生徒の事見てるんだなって。もっとなんていうか、こう……冷めてる人に見えてたから」
うまく言葉が出てこなくて、僕は、ともすれば悪口に聞こえてしまいそうなことを言ってしまう。
怒らせてしまったかもしれない。そんな不安を抱えながら星野君を見返すと、星野君はやっぱり苦笑していた。
……やっぱり?
「はははっ、なんつーか容赦ねーなぁ。このやろー」
「あっと、ごめん。もっと良い言い方あったよね……」
「いいよ、そんな風に見られるだろうなって、それは自分でも思ってたから」
彼は両手を広げて、軽く肩をすくめてみせた。
どうやら僕の言葉は、彼を怒らせてしまうようなものではなかったらしい。
だがどうしてだろう、そうなるような気がしていたんだ。いやもっと確信に近い何かが、僕の中にあったのだと感じる。
信頼、だろうか。
自分の感覚を信じるなら、きっとそれで間違いはない。でも同時に客観的な状況から考えれば、その信頼を築くだけの時間や出来ごとに心当たりはなかった。
不思議な感覚だった。
何よりも、自分が言葉を選ばずに口を開いたということが、僕の中に大きな衝撃として残っている。
ぼんやりと天井を見上げている星野君に、僕は抱いていた疑問を投げかけた。
「ところで、なんだけど……。どうして僕がそんな風じゃ……、えっと、あけすけじゃないと思ったんだい?」
「ん…………何か、隠し事がある奴の顔してたように見えたんだ。ほんと、なんとなくなんだけど」
歯切れ悪く答える星野君は、どこか遠慮がちというか、自分の言葉に自信が無いように見えた。
だけど、驚いた。自信なさげな彼の言葉は、まさしく今の僕を的確に示していたから。
僕はこれで内心を隠したりするのは得意だという自負がある。正直な話、クラスメイトと接するときに、彼の指摘したような態度は表に出ていないと思っていた。
隠し事なら、確かにある。だけどそれは文字通り隠し事だからこそ、これまで誰にも打ち明けなかった事でもあるんだ。
「隠し事、は……」
話すべきか、否か。
僕が迷い、言い淀んだところで、星野君の声が割り込んだ。
「いや、無いなら無いでいいよ。仮にそんなものがあったとして、その事情を聞いたからって俺に何ができるってわけでもないだろうし。……それに友達だからって、全部知ってなきゃいけないってわけでもないしさ」
「星野君……」
言えないなら言わなくていい、という意味だろうか。
いやむしろ、言わなくたって自分達は友達だ、と。そんな風に言われた気がした。
頷いて、僕は笑顔で首を横に振る。
「隠してる事なんてないよ、何もね」
そうして、僕は嘘をついた。
「そっかそっか、ならいいんだ」
不思議と罪悪感が無かったのは、星野君が満足げな表情を浮かべていたからかもしれない。
「あ、でも、あんまり仲のいい友達がいないっていうのは、まぁ事実かな」
「くくっ、なんだよそれ」
おどけて見せると、星野君は堪え切れなかったみたいに軽く噴き出した。
もう肩の力は抜けて、重くのしかかっていた緊張感はお腹の中に溶けていた。
一際長く伸びた影が、向かい合って話す僕達二人の姿を、朱色く染まった教室の壁に描き出している。
それが僕にはちょうど、今日という日の物語に描かれた、一枚の挿絵のように見えた。
「隼斗は、家どこなんだっけ?」
「僕は家というか寮暮らしだよ。アスカは?」
「河川敷近くの住宅街の、それなりに新しいアパートみたいな奴」
「……みたい?」
「俺にはアパートとマンションの区別がつかないんだ。自分が住んでるのがどっちなのか、正直よく分かってない。……でもそう、なら校門のところまでだな。一緒に帰ろうぜ」
「うん、いいよ!」
あれから僕達は友達になったんだと思う。
今では伊達にもそう呼ばれているけど、『隼斗』という名前で呼ばれるのは、この頃はまだ慣れていなかったりもして。
たった1週間でも、お互いの知らなかったことがたくさん分かっていった。
アスカの夢がヒーローだっていうのを知ったのもそのころで、僕には最初、それが本気で言っている言葉だとは思えなかった。
いつかアスカに古代兵器に乗るかと聞いた時、「ヒーローに近付けるなら」と答えた彼の言葉で、その時の彼の目で、初めてそれが本気なのだと確信したぐらいだから。
でもだからこそ僕は、親友だと思っていたアスカにもう一つのアークを託して、僕の秘密の一つを打ち明けたんだ。
きっとあの日の放課後、僕は彼に救われていた。
感じる自分と振る舞う自分が別々のままでも、それをまとめた一人の人間としての僕であることが最も自然なのだと、少なくとも彼の前ではそう思える。
嘘と取り繕いで塗り固めて、素性も何もかもが偽物であっても。そんな瑣末なことなんていくら抱えたままでも、相手を信用することはできるんだと、僕はそう教えられたように感じていた。
人はそれができる生き物なのだと、そう思えたことが、迷っていた僕に一つの方向性を与えてくれたんだ。
だけどあの日僕は隠し事をしたままで、だからアスカは僕について、知らないことは少なくなかった。
そして、それは今も変わっていない。