4章『陽炎色の思い出』:6
夏休み最後の週をややローテンション気味に過ごした飛鳥は、ある程度持ち直しながらもやや元気が無い様子のまま久々の学校に来ていた。
約1ヶ月ぶりにやってきた星印学園の教室は、以前と何も変わった様子はない。顔と名前の一致がやや曖昧な者も含め、クラスメイト達がにぎやかに談笑していた。
5分ほど遅刻しておきつつ、気だるい感じに入室するのが飛鳥の普段の行動なのだが、今日はあくまでも始業式だ。開始時間自体は授業と同じだが、気分的な問題で飛鳥はずいぶん早く学校に来ていた。
「やぁ」
のらりと教室に入ってきた飛鳥に最初に声をかけたのは、自分の席で文庫本をペラペラとめくっていた隼斗だった。
彼は本に向けていた視線をドアの方に送ると、鞄を肩で担ぐようにした飛鳥にいつも通りの笑顔を向けた。
「アスカ、早かったじゃないか」
「いつもに比べればってだけだろ? 始業式の日ぐらいは俺だって間に合うように来るさ」
「それはいつもそうするべきだと思うけど」
「あーあー聞こえねー聞こえねー」
ぱたぱたと片手を仰ぎながら隼斗とすれ違うと、すぐ横の自分の席だった場所に鞄を置こうとして、そこで黒板に書かれた文字に気付いた。
「あ……? 席は名前順って、どういうこった?」
夏休み前までは飛鳥の席だった場所に腰掛けていた生徒に疑問の言葉を投げかけてみるも、その生徒もまた「さあ?」と小さく首を傾げるだけだった。
目が悪いわけでもないしまぁいいか、と適当に結論した飛鳥。席も以前は前後で真ん中のあたりだったが、名前順なら黒板に示されている通り、後ろから2番目あたりの位置になる。
遅刻常習の彼としては席が後ろの方にあるのはありがたかったので、特に文句を言う理由もなかったのだ。
「ってか、なんだ。俺の後ろ空席か?」
名前順なら本来、飛鳥の後ろにもう一人来るはずなのだが、黒板の座席表では飛鳥の後ろは空欄になっている。
分かりやすく首を傾げながらも、飛鳥はまたしても「まぁいいや」で考えることを止めた。
そうして鞄を机の横に掛け、ほんのりと頭にわだかまる眠気に任せて机に突っ伏しかけたタイミングで、教室の前の方から背の高い男子生徒が歩み寄ってきた。その傍らには小柄な女子生徒もいる。
男子の方は伊達蓮治。陸上部期待の新人、というか現状では星印学園陸上部で短距離最速を誇るスプリンターだ。もともと体育会系の雰囲気を全身で発していたような奴だったが、見ないうちにいくらか日焼けしたようで余計に汗臭い感じになっている。
傍らの女子は美倉由紀。飛鳥が所属するこのクラスの委員長で、そこそこ勉強ができる以外は特に語ることのない地味な子だ。徹底的な委員長体質であり、飛鳥の最も苦手とする悪意ゼロの説教を淡々と繰り広げる様はまさしく邪神だ。
「ちょっと、いきなり顔逸らさないでよ」
「今日の俺は遅刻してないんだ! 休み明け初っ端からメンタル削られる謂われはないぞ!!」
腕を組んで作った枕の上でぷいっと首をあさっての方向へ向ける飛鳥。一体何歳だと問い詰めたくなるような彼のリアクションに、美倉も思わず脱力する。
狭い空間に引きこもった飛鳥の頭を、伊達がスパンとはたいた。
「よぅ、久しぶりだなアスカ」
「久しぶり……まぁそうだな」
一瞬鬱陶しそうな表情を浮かべながらも、飛鳥はのそりと頭を持ち上げた。
「終業式以来だっけか、1ヶ月ちょいだな」
「んな感じだな。つかよお、お前も隼斗もだけどなに登校日サボってんだよ?」
「あー……」
そういえばそんなものもあったなぁ、と飛鳥は天を仰ぐ。
恐らくアメリカで研究にいそしんでいた期間にあったことなのだろうが、日にちすらまったく覚えていない。
確定した1学期の成績はアメリカにいる間に遥から渡されており、終業式前の仮成績から謎の大幅下落をすることもなく、補修も追加課題も無しとなっていた。
それも理由の一つとして、何かと忙しかったため飛鳥は完全に登校日の存在を失念していたのだ。
(ま、覚えてたら来たってわけでもないけど)
登校日自体、夏休みの中旬あたりにある。ただの登校日が優先される理由も特にない以上、どのみちそのタイミングでわざわざアメリカから日本に帰ることはなかっただろう。
「ちょっと忙しかったんだよ。成績も問題なかったから補習も無かったし、別にいいだろ?」
「俺はとやかく言うつもりはねぇよ。しかし隼斗もサボったのは珍しいよな」
「……さあな」
話題に上がった隼斗のようにとっさに適当な言い訳が思いつくことはなく、飛鳥は肩をすくめてごまかした。美倉が眉を寄せたのも見えないフリだ。
「しかしえらく焼けたな、伊達」
かなり適当に話題を変えた飛鳥に対して、伊達は夏用カッターシャツの短い袖をさらにまくって見せた。
「夏休み中はずっと陸上ばっかだったからな。日焼け跡がすっげぇはっきり出てるんだぜこれ」
「ほう。で課題は?」
「…………」
「おい」
「お、終わった! 終わってるって! そ、そりゃまぁ写させてもらったりはしたけどさ……」
伊達がチラッと視線を向けたのは、少し困った表情を浮かべた美倉だった。課題を写させてもらった相手というのが美倉だったのだろうが、ナチュラルに周囲にも勤勉さを強要する彼女がそれを許すというのも珍しい。
疑問に思った飛鳥の視線が、美倉のそれとバッチリぶつかった。
「ほら、伊達君の練習を何度か見させてもらってたんだけど、練習頑張ってたみたいだから……その、断れなくて……」
「甘やかされてんなぁ」
「言うな……。けどおかげで、練習には集中できたってもんよ。そういうお前はどうだったんだよ、課題は写す主義だとか言ってなかったか?」
「今年はまぁ、自力で片付けたよ。……うん、自力で」
「なんか嘘くせぇ顔してるぞ。人の事言えた義理じゃねぇけど」
「まぁ終わったんならそれでいいだろうさ。……あ、そういや大会だったかがあったんだっけ? そっちはどうだったんだ?」
伊達は、というか陸上部は、この夏休み期間中に陸上の1年生大会の地区予選に参加していたのだ。
飛鳥達はアメリカでの共同研究があったためその応援には行けなかったのだが、それでも結果は気になる。
伊達は得意げに腕を組むと、若干腹の立つドヤ顔を浮かべた。
「当然勝ったぜ、優勝だ! つっても、高校生記録には届かなかったんだけどさ」
「おー、やっぱりか、流石だな。……美倉の応援も効いたってトコか?」
「ん、おう、まぁな」
美倉には聞こえないように小声で尋ねると、伊達は若干恥ずかしそうに頬を指先で掻いた。
もともと飛鳥と隼斗が、伊達から応援というか観戦に誘われていたのだが、前述の通り彼らはアメリカへ行くためそれが叶わなかった。そこで飛鳥が美倉に応援に行ってやれよ、と半ば勝手に勧めたのだが、プラスに働いたようで何よりだった。
「で、どんな感じだったんだ? お前から見てさ」
飛鳥は軽く身を乗り出して、伊達ではなく美倉に尋ねる。
どんな感じ、というかなりあいまいな質問に美倉は少し困った表情を浮かべつつも、さほど悩まず答えた。
「どんな感じって言うか……。うん、すごく速かったよ。他の選手なんて目じゃないぐらいだった。短距離なのに最後なんて独走してたもん。すごいかったね、伊達君」
「ま、まぁな! 俺はこれぐらいしかできねーしな!」
「それ自分で言うこっちゃないだろ。まぁでも、良かったな」
「……ああ」
伊達が美倉に対して片思い状態なのは、今更言うことでもないだろう。それを飛鳥は適当に茶化しつつ、適当に応援しているという状態なのだ。
カッコいいところを見せられたらしいという事実は、飛鳥としても一安心というところだった。
(お節介が過ぎるというかなんというか……いいや、どうせいつもこんな感じだし)
ザ、思考停止。これもまたいつものことなわけだが、余計なことをしてやしないかとふと不安に思うのもまたいつものことだった。
「それでアスカ、お前は夏休みの間何やってたんだ?」
「俺、は……」
ここで正直にアメリカでアークの研究やってましたと答えるわけにはいかない。
一応伊達も親が東洞関係で働いているとかで関係者に近く、微妙に飛鳥達の事情も知ってはいるのだが、どこまで詳細に知っているかというと、正直ほとんど何も知らないといった方が良いレベルなのだ。
さてどうしたもんかと思ったところで、ちょうどこちらを通りかかった隼斗が助け船を出してくれた。
「アメリカにいる両親の元へ久々に帰ったってことじゃなかったっけ? 僕も一緒したんだから間違ってないよね」
「おぉ、隼斗。うん、まぁそういうこった」
「あー、なるほど。長期休みだから帰省してたのか」
「帰省……? 生まれは日本だし実家も日本だから、これ帰省って言わないんじゃね?」
「旅行でもないよな。って、それはいいじゃねぇか。しかしそうか、どおりでテンション低そうに見えるわけだ」
「は? 誰が?」
「お前だよ、アスカ。さっきからミョーに元気ねぇから何かあったのかと思ったらさ。……親とは折り合い悪いんだろ?」
「ん……」
テンションが低い理由は泉美がらみの事なのだが、何やら勝手に勘違いしてくれたようで飛鳥はほっと胸をなでおろした。
そして、少し表情を曇らせる。
「折り合い悪いっつーか、必要以上に干渉しあってないだけだ。もういいんだよ、面倒くせーし。受験前のゴタゴタなんざ向こうはもう忘れてるよ。そういう奴だ」
「そうか」
伊達はそれ以上何も言わなかった。
当然親に会ったこと自体嘘っぱちなので、適当な恨み事をつづった以外に語ることなどない。
黙り込んだ飛鳥に気を使ってか、伊達は努めて明るい様子で話題を変えた。
「そうだアスカ、こっち戻ってきたのは昨日とかじゃないんだろ? 戻ってからは何してたんだよ」
「なにって、そりゃ一気に残ってた宿題片付けて……、あと溜まったアスターの録画を連続再生してた」
「なんつーかお前らしいけど、……お前らしくないな」
苦笑気味に呟いた伊達は、ふと眉を寄せて続けた。
「あ? どういうことだ?」
「お前、いつだったかそういうのはリアルタイムで見なきゃ意味がないんだって言ってなかったっけ」
「ああ……。いや、まぁいいんだよ。何かとゴタついてたし、それどころじゃ無かったってのもあるし」
いつも通りの表情で肩をすくめた飛鳥は、本当に何でも無いかのようにそう答えた。
からかうように両手を広げた伊達の隣で、ふと腕時計に視線を落した隼斗が口を開いた。
「そろそろ行こうか。始業式、始まるよ」