小さな脳みそと、チベットの教え。
――いつからだろう。
スマートフォンやPCの画面を開くたび、
世界の声が、ひどく尖って聞こえるようになったのは。
SNSや動画サイトを開けば、
そこには、溢れかえる情報の海が広がっている。
けれど、その海の水は、どれも妙に塩辛い。
かつて美徳とされた「協調」や「対話」は、
退屈なものとして脇へ追いやられ、
『それ、あなたの感想ですよね』とばかりに、
相手を言葉の刃で叩き伏せる「完全論破」ばかりが、
まるで英雄の凱旋のようにもてはやされている。
右とか左とか、そんなことはどうでもいい。
けれど私は、
相手を言い負かすことが出来ない優しい人や、
上手く言葉に出来ず、黙ってしまうような弱い人の方を愛する。
そして、中間のグラデーションに潜んでいる豊かな思考が、
ノイズとして切り捨てられていくことには、正直うんざりしている。
さらに恐ろしいのは、
この海には、見えない底引き網が仕掛けられていることだ。
溢れかえる情報。
その中から、
ほんの好奇心で、一つの主張をすくい上げる。
すると。
画面の向こうのシステムは、
「お前はこれが好きなのだろう」と言わんばかりに、
似たような色の情報ばかりを、雪崩のように集めて押し付けてくる。
――もう、たくさんだ。
そう思う。
けれど気がつけば、
自分の視界は偏った意見だけで埋め尽くされ、
それ以外の世界が、少しずつ見えなくなっていく。
エコーチェンバー。
あるいは、フィルターバブル。
気づけば、
自分と似た怒りばかりが並んでいる。
同じ色の言葉だけが、
延々と流れてくる。
アルゴリズムが作り出した、
「心地よくも狭い檻」の中へ、
私たちは、いつの間にか閉じ込められていく。
そんな極端な情報の嵐の中に長く身を置いていると、
心は少しずつ摩耗していく。
他者への不信感。
正体の分からない焦燥感。
そして、
何でもいいから敵を見つけて、
ずっと怒っていなければならないような、
妙な疲労感。
そんな時。
昔観た、一本の映画を思い出した。
ブラッド・ピット主演、
1997年公開の映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』。
第二次世界大戦中、
チベットの聖地ラサへ迷い込んだオーストリアの登山家ハラーが、
若き日のダライ・ラマ14世と出会い、魂を交流させていく実話ベースの物語だ。
傲慢だった主人公ハラーが、
まだ少年だったダライ・ラマの言葉をきっかけに、
少しずつ変わっていく。
その言葉を、私は今でも覚えている。
たしか、こんな感じだった。
『回答のある問題なら、悩む必要はない。
回答のない問題なら、悩んでも仕方がない』
当時の若かった私は、
「回答」を「解決方法」だと解釈した。
つまり――
解決出来る問題なら、
考えても、どうせ決まった解決になるのだから、
考える必要はない。
そして、
解決出来ない問題なら、
それは自分の手の届かないことなのだから、
考えるだけ無駄。
……だと。
「いや、じゃあ一体いつ考えるんだ?」。
そう問われると、解釈が間違っているのかもしれない。
けれど私は、その時、本当に思ったのだ。
「いや、もう別に、そんなに考えなくていいんじゃない?」
「チベットの偉いお坊さんが、そう言っているのだから」
――と。
かなり雑な受け取り方だったとは思う。
でも。
私は、その言葉にずいぶん救われてきた。
その言葉を懐に忍ばせてきたからこそ、
ここまで、あまり余計なことに頭を悩ませ過ぎずに、生きてこられた気がする。
今、目の前では、
ネット社会の狂騒が渦を巻いている。
その問題に、本当に「回答」があるのかどうか、
私には分からない。
けれど、ひとつだけ言えることがある。
心を削ってまで向き合わなければならない問題ではない、ということだ。
世の中には、
自分一人で背負わなくてもいい問題がある。
人生の貴重な時間を、
怒りや不安だけに使わなくてもいい。
私は、そう思って生きてきた。
だから今でも、
誰かを鮮やかに論破する言葉なんて、私は持っていない。
けれど――
それでも私は、
誰かを静かに安心させられる言葉の方を、
大切にして生きていきたいと思っている。
そして、私の大切な人たちへ――
疲れた時くらい、
世界の全部を背負わなくてもいいと思います。




