第57話 広報課のシンデレラ⑤
瑚夏さんに案内されるがまま、部屋の中へ入る。
いつもの香り、彼女が近くにいるという事実が鼓動のテンポを早めていく。
「ごめんなさい、体調悪いのに……これ置いたらすぐに帰るんで」
髪を手で梳く瑚夏さん。やっぱりまだ目は合わない。
「あ、わざわざ色々買ってくれたの、ありがとう」
待てよ、この反応……まさか。
「いえいえ、千波から連絡ありましたよね……?」
「ちなちゃん?どうしたの突然。今日の朝、熱出たからお休みもらうね〜って連絡はしたけど」
少し頬を膨らませる瑚夏さん。ハムスターみたいでかわいい。
その赤い頬を指で突きたい衝動をなんとか理性で捻り潰す。相手は病人だぞ……というか会社の先輩の頬を突こうだなんて衝動、まともな人間なら出てこないはずなんだが。
それにしても千波、やりやがったなあいつ。
「くそ、やられました。広報課に行ったら千波が『瑚夏さんが風邪で、私お見舞い行こうと思ってたんだけど仕事が急に立て込んで、あんた代わりに行って。連絡はしとくから』と」
「えぇ!なーんにも来てないわよ、チャット」
「嵌められましたね……じゃあ俺すぐ帰るんで、ゆっくり寝てくださいね」
ダイニングテーブルにレジ袋を置いて背を向ける。彼女の熱が籠った部屋は、俺にはちょっと刺激が強い気もして。
ついさっき歩いた廊下は、来た時よりも長い気がした。
あぁ、少しだけだがプライベートの瑚夏さんと話せてよかった。まだ気まずさは少し残るけど、その理由もわからないけれど。
あっそうだ!クラゲのキーホルダーを返さないと!
「あの、瑚夏さ……」
後ろを振り返った瞬間、胸に柔らかい衝撃。
ふわっと髪が舞う。
「やだ、もうちょっとお話したい。ここにいて?」
腰に回された腕にぎゅうっと力が込められる。
こんな夏の日に抱きしめられると暑いな、なんて場違いな感想が浮かんでは消えていく。防衛本能だろうな。
「ちょ、ちょっと、どうしたんですか突然」
「なんだかこのまま帰しちゃったら二度と会えない気がして」
小さな声でぽしょぽしょと耳元で呟かれる、耳元がくすぐったい。
「会社で会えるじゃないですか」
「でもそれって……ちなちゃんもいるじゃん」
拗ねたような声。
だめだ、理由がわからない。
「立野くんったらダメなんだよ、ちなちゃんに言われたからってこんな女の子の家に一人で来て。彼女がどんな気持ちになるか考えないと!」
それは抱きつきながら言うセリフじゃないだろ。
というか待てよ、なんだかとんでもない勘違いが発生しているような……。
「あの、瑚夏さん」
「なーに、浮気者の立野くん」
「ちょっと謂れのない悪口については一旦置いておくんですが」
「置いとくんだ〜」
「置いとかないと長いですよ?ここから俺の反論が」
マシンガンもかくやの勢いで喋ってやる。これまで数週間話せなかった分も。
「いいよ、どうせ今日はもうお休みにしてくれたんでしょ?」
瑚夏さんは誘うような艶やかな目元を見せつける。
なんだか花火の前の感覚に戻ってきた気がする。瑚夏さんはこうじゃないと。
胸のつかえがフッと消える感覚。
あぁやっぱり俺はこの人のこういうところが好きなんだって。みんなの人気者なのにちょっとネガティブなところとか、しっかり者なのに幼さが残るところとか、すぐに不安になってしまうところとか。
それを全部知ってて、ちゃんと人前では「演じて」いるところとか。
彼女が話す度、耳と、顔が埋められた胸から骨を伝って声が聞こえる。
「ねぇ瑚夏さん」
「なぁに、立野くん」
このやり取りも何度目だろう。
呼びかけたら返ってくる、そんな日常を取り戻したくて。
「多分ですけど、瑚夏さんは何か勘違いしてます」
「ん〜?なにを〜?」
「まぁまぁ、ベッドに戻りましょう」
病人を立たせたまま話せるかってんだ。
早く元気になってもらわなければ。
「えっ……と、私ちょっとそういうのは……熱あるし、そもそもちなちゃんに悪いというか、婚姻関係になくても浮気は浮気だし」
「なにを訳のわからないことをごちゃごちゃと」
「訳わかんないのは立野くんの方だよ!」
「はいはいそれでいいです〜」
抱きついたままの瑚夏さんの脇に手を差し込む。
「ひゃっ!」
「ちょっとだけ我慢してしてくださいね〜」
そのまま持ち上げてベッドまで運ぶ。
これじゃあお姫様っていうか。
「赤ちゃんみたい」
「失礼ね!立派なレディよ!」
顔を見合せて笑う。
言葉とは裏腹に、彼女は体重を預けてきた。
「……もっと食べた方がいいんじゃないですか?」
「色々あるの!」
どうやらそれ以上は教えてくれないらしい。
開いたままの扉を抜けて寝室へ。
閉め切ったカーテンのおかげで、昼下がりだというのに薄暗い。
彼女を丁寧に寝かせて布団を掛ける。
最後にぽんぽんっと叩いて隣にしゃがみ込む。
「瑚夏さん、実はですね」
「うんうん」
律儀に相槌を返してくれる。
「俺、今彼女いないですよ」
「……ふぇ?」
彼女は目を見開いてガバッと起き上がる。
こら、せっかく寝かせて布団まで掛けたのに!
「ちょちょ、病人なんですから」
「そんなことはどうでもいいの。だって花火の日、ちなちゃんと……」
目を伏せて首を振る。ちょうど瑚夏さんから花火に誘われた日に断ったときのように。
「確かに千波から告白されました。でも、断ったんです」
「え、なんで……じゃあ……」
そこまで言ったところで、彼女はゆっくり身体を倒して目を閉じる。
何事かと思えば、数秒後には寝息が聞こえ始めた。
そりゃそうだ、体力がない状態であれだけ話せば電池切れにもなるか。
ふぅ〜っと息を吐いて、瑚夏さんの髪に手を滑らせる。これで誤解は解けただろうか。
ずっと二人で話せない理由もわかった。ならもう厭うことは何もないよな。
起きた時に彼女がらすぐ飲めるよう、スポドリでも取りに行くかと立ち上がったところで、きゅっと手を握られる。
今はただ、この体温が少しでも落ち着くことを願って隣にいよう。
ふわふわとそんなことを考えながら、俺も彼女と同じく意識を海底に沈めた。
あわよくば同じ船に乗っていられたら、なんて都合のいいことを考えながら。
『』←これは作品名をあらわすときに使用します。
という意味深なあとがき




