第1話 ジュリエットは毒と称して酒を飲む①
「聞いたか?また広報課のジュリエットが振ったらしいって」
隣に座る同僚が声を低くして呟く。
もはや恒例過ぎてこっそり話さなくてもみんな知ってるんじゃないか?
「まぁあの人にも色々あるんじゃねぇの?」
契約書の文言でびっしりと埋め尽くされたモニターから目を離さずに応える。
「興味なさげだな〜」
「実際ないからな……自分の彼女もいないのに、他人の心配なんてしてられるかよ」
これが社会人数年目、アラサー限界独身サラリーマンの悲痛な叫びだ。世界よ聞いてくれ。
「……ごめんて」
心底申し訳なさそうな同僚の声に思わず笑ってしまう。
「いいってことよ、後でコーヒー奢りな?」
「現金なやつめ」
じゃれ合いは終わり。今日こそ定時退勤を実現するために、俺たちは果ての見えない砂漠へと足を踏み出した。
◆ ◇ ◆ ◇
社会という大空にパラシュートなしで放り込まれて数年、未だに無味無臭な自由落下を楽しんでいた。
俺、立野圭が所属するのはとあるメーカーの法務課。
毎日のように営業課が取ってくる契約を書面に落とし込んだり、企画課や広報課が提案する新規事業の法的リスクを審査したり、総務課が購入する備品の契約書を巻いたり。
根底には「契約」という共通項こそあれど、その仕事は多岐にわたる。
先ほど同僚との話題に上がった瑚夏ゆり。人呼んで広報課のジュリエット。
俺より数年先に入社していたはずだから先輩か。
曰く、「名前がゆりだから」「昔演劇部に所属していて、ジュリエット役をやったから」「告白した男はバッサリと切られて悲恋となるから」などなど、噂によると理由は様々である。
原作ロミオとジュリエットが悲恋となるのは、男が振られるからじゃないだろ、なんてツッコミは野暮か。
まぁ広報課なんて狙ってか狙わずか、男女問わず華がある人ばかり。噂が立つのもわからなくもない。
明白なのは、彼女が「広報課のジュリエット」という呼び名を嫌っていること、下心を少しでも見せた瞬間に心のシャッターが降りることだ。
◆ ◇ ◆ ◇
外は真っ暗、気がつけば時刻は22時を回っていた。
昼間に同僚と話していたのが懐かしい……くそ、あいつ予定があるとかで先に帰りやがって。
会社から出て駅まで真っ直ぐは向かわず、少しだけ遠回りする。
春の気温は人々を散歩に駆り立てる。
生活が光や匂いとして漏れる住宅街が好きだ。
世界に自分一人しかいないような、それでいて自分の預かり知らぬ人々が同じ空間で暮らしているという実感を得られるから。
社畜に許された数少ない自由時間を満喫していると、ぼんやりと辺りを照らす提灯が目に入る。
ああいう個人経営の居酒屋って中々入りづらいよな……と足早に通り過ぎようとしたところで、店先にうずくまる女性に視線が吸い寄せられた。
普段なら絶対に声をかけないだろう、変なことに巻き込まれても面倒だし。
緩く穏やかに生活を送ることを目指す俺としては、君子危うきに近寄らずがモットーである。
しかし、しかし今日は違った。
自分でもどうしてかわからないが、無性にこの人を放っておけないと感じたのだ。
「あの、」
新しい世界に足を踏み入れる時は、いつだって緊張する。
でもその勇気ある一歩を踏み出した者だけが見ることのできる景色も、間違いなくある。
「大丈夫ですか?」
何気ない一言。
声を発した瞬間に彼女は顔を上げる。
艶のある髪に隠れていた、夜空を借りてきたような瞳。
綺麗な形の鼻筋に東の空から浮かび上がった月のような唇、赤くなった頬。
広報課のジュリエット。
目の前にいたのは、瑚夏ゆりその人だった。
「あ、お気になさらず……ってあれ?見たことある人だ」
彼女は立ち上がって、俺の身体を上から下まで舐め回すように見る。
途中で一瞬ふらついたのは、アルコールが入っているからだろうか。
「立野圭くん」
フルネームを呼ばれたのなんていつぶりだろう。
一発で正解を弾き出す瑚夏さん。
「お、よくわかりましたね……っとすみません」
夜散歩で気が抜けていた。思わずくだけた調子で話してしまう。
反省反省、夜道で知ってる人とはいえ女性に声を掛けたんだ、極力怪しまれないようにしなければ。
「そのままの感じがいい!どうしてここに、というか私に?」
「居酒屋の前でうずくまってた人がいたので……同じ会社の人だとは思ってませんでしたが」
「ってことは赤の他人を助けようとしてくれたんだ?」
口の端を持ち上げて彼女は笑う。
「まぁ、目の前で人が倒れるのは寝覚めが悪いんで」
「ふへっ、おもしろいね、立野くんって」
思わずといった感じで笑い声を漏らす。
「馬鹿にしてます?」
「3割くらい?」
「結構な割合じゃねぇか!……あぁすみません」
だめだな、プライベートで人と話す機会が少ないから、いつもの自分が簡単に出てきてしまう。
まだまだ社会人としての修行が足りない。
「んーん!ねね、このまま駅まで送ってよ」
先程までうずくまっていたとは思えないほど軽々しいステップで、瑚夏さんは一歩踏み出した。
意図が読めない。
「図々しいですね……」
「なんか早くも遠慮なくなってない?」
「そんなもの元からないですよ」
「それはだめでしょ!」
けらけらと笑いながら俺の腕を掴んで引っ張ると、彼女は歩き出した。
何気ない選択が人生を変えることなんて、みんなどこかで知っている。
果たして彼女に声をかけたのが正解か不正解かはわからない。
それでも今は、この胸の高鳴りを信じてみようと思った。
初めましての方は初めまして、そうでない社会人ラブコメ好きの方はお久しぶりです。
七転です。
性懲りもなく社会人ラブコメを書き始めてしまいました。
なにとぞ!




