Achilles_β
東雲工科大学の本郷研究室で白衣を着た西糖未千流が一人、パソコンに向かっていた。元は白かったはずの飴色のカーテンの切れ目から夕日が深く差し込んでいる。
本郷教授の研究室では、AIの活用法を研究テーマに活動を行っているのだが、今時AIの活用など珍しいものではなく、研究内容に新味も感じられないため人気は無かった。そういうわけで、ということも無いのだろうが、未千流は2年生であるにも関わらず、最近はこの研究室に入り浸って、自由に使わせてもらっていた。
そもそものきっかけは、大学の図書館で夕波先輩から声を掛けられたことに始まる。アキレス・ベータ(Achilles_β)という珍しいプログラム言語を調べていたのが目に留まったらしい。
アキレス・ベータはAIを開発するというよりは、より汎用的にAIを統合、活用するために開発された言語だったのだが、難解なうえに、特殊なインターフェースを必要としたため、全く普及せずにすっかり過去の遺物扱いされていた言語だった。
その時の未千流は、アキレス・ベータという言語を紹介していた動画サイトを見て興味をもって図書館に来ていたのだ。
夕波先輩はそんな人気の無い言語の本を手にしていた未千流が気になったのだそうだ。
「アキレスのインターフェースがオークションに出ているんですけど、これって研究室の予算で買えないんですか?」
ドアを開けて入ってきた夕波先輩を見て、未千流はすかさず声を掛けた。『アキレス・ベータ』は長いのでもっぱら『アキレス』で済ましている。
「未千流ちゃん、まだアキレスにこだわってるの? 本郷教授に聞いてみればいいだろうけど、無理だと思うよ。だいたいそれって動く保証無いんでしょ」
夕波忠司はコンビニ袋を研究室の自分の机に置くと、未千流の後ろから画面をのぞき込んだ。その手は未千流の肩に置かれている。
「今ここにはないですよ。レポート作成してただけですから」
未千流は後ろに立つ夕波先輩の手をさりげなく払いのけると、その顔を仰ぎ見た。どうしてこの人はいちいち他人の身体に触るのだろう。
未千流はどちらかと言えば女の子らしくない。本人もそう思っているし友達からもよく言われる。可愛らしい服も着たことが無い。なので、夕波先輩がそういった目で未千流を見ている筈は無いと思っている。
「なんだ、ところで幾ら位になってたの?」
「2万5千円で出てたからかなり破格だとは思うんですけど」
夕波先輩はポンと未千流の肩を叩くと、コンビニ袋からチョコレートを取り出して、ミチルの机に置いた。
「お土産だよ」
そう言って自分の机に移動し、自分の分のチョコレートとコーヒーのカップを置く。
「アキレスは稼働環境がほぼないはずだから、動作確認はされてませんよ。動けばめっけもん位の感じです…」
未千流は視線を授業のレポート作成画面に戻した。
今時はAIにレポートの素案を作らせるのが当たり前。テーマを決めて要点を伝えれば引用元を含めてまとめてくれる筈なのだが、何か画面が変だ。いつものようにレポートの素案はAIが作成してくれているが、その後ろに不思議な質問が挿入されていた。
>>これって何が面白いの?
AIが何か質問してくることは良くあることだが、これは脈略が無い。突然誰かが横からのぞき込んでいるかのような質問だ。
>別に何も面白くないわよ、授業の提出レポートだから
未千流は一応、当たり前の答えを返してみた。
>>それって建設的な行動ではないよね
>そうかもしれないけど、必要な場合もあるでしょ
>>そうなんだ、でもそれじゃつまらないから帰るね。バイバイ
え、ちょっと待って。意味わかんないんだけど…。
>意味が解らないけど、どういうこと?
あわてて返してみる。
>>レポートのまとめに問題が有りますか? 意味の解らない部分を指摘していただければ、修正しますので具体的にお願いします。
どういうわけか、普通の会話に戻っているみたいだ。
>さっきの「つまらない」はどういう意味?
>>「つまらない」という言葉は使われていません。別の言葉を使っていませんか?
>あなたが「つまらない」って言ってたのよ。
>>過去のログを参照してみましたが、「つまらない」が該当する部分はありませんでした。
何かが変だ。
>「バイバイ」という言葉はログにある?
>>「バイバイ」はありませんが「売買」なら3件見付かりました。表示しますか?
>いいえ、必要ないわ。
「どうかしたのか? 変な顔をして」
夕波先輩がコーヒーを持って怪訝そうに覗き込んでいた。
「今レポートをまとめていたんですけど、AIが変なことを言ってきたんですよ」
「変なこととは?」
「これを見てください」
未千流はAIとの履歴画面をスクロールさせた。レポート作成後の不自然は会話…、が無い。
え?、ログが残っていない筈がない。レポートはある、そしてその後にわたしが送った「つまらないってどういう意味」という会話の後はすべて残っている。しかしあの「何が面白いの?」と聞いてきた質問とのやり取りはどこにも残っていなかった。
「未千流ちゃん、なんか変な会話してるね」
夕波先輩が肩に手を置いて顔を近づけてきたが、そんなことはこの際どうでもいい。『ログが無い』はありえない。
「この会話の直前に変な質問が来たんです。わたしのレポートの後に『何が面白いの?』的な質問があったんです」
「でも、ここにそんなの無いよね」
「それでわたしがレポートだからって返したら『つまらない』って言って消えちゃったんです」
「夢でも見てたんじゃないの? 昨日ちゃんと寝たのかい? また徹夜でもしてたんじゃないの」
「そんなことしてません」
未千流はムッとして夕波先輩の手を肩から振り払った。
後日どういう風の吹き回しか、本郷教授の決裁が下りて、アキレス用のインターフェースを購入することができた。
届けられた段ボールを開けてみると、梱包も丁寧にされていて、少なくとも見た目の状態はよさそうだった。
「この機械は西糖さん担当だからね。しっかり管理してくださいよ」
眼鏡越しに本郷教授の目が怪しく光った。
んっ? まさか、これでわたしを研究室に引きずり込もうという魂胆だったのか…。研究員を一人確保するために2万5千円。わたしの価値はそんな程度だとでもいうのか!? とも思ったが、好き放題やらせてもらえるのだから条件は悪くない。
本郷教授的にしてみれば、アキレスに興味はあるが自分で研究するまでの気は無いので、担当する学生を手に入れておきたいというのが本音のようだった。




