村を追放された元婚約者が、どうやら「世界を救った」らしいが信じていない。
五年前の朝、机の上に一枚の紙が置かれていた。
『追放された。すまない。必ず名誉を取り戻す』
たったそれだけ。
アリアは三度読み、紙をそっと引き出しにしまってから言った。
「……馬鹿ね」
いや、馬鹿である。疑いようのない阿呆である。
なぜなら、村の“魔術師見習い”に王都から正式な追放が下るはずがない。権限も地位も足りない。つまりこれは、勘違いか、もしくは自分で勝手に言い出しただけだ。
この男は、そういうところが致命的に残念だった。
それでも、五年前のアリアは、そんな残念さも含めて彼が好きだった。
……だった。
五年も経てば、人は落ち着く。恋より生活が大事になる。アリアは一人で水を汲み、薪を割り、焦がさずにパンを焼けるようになった。幾人かの求婚は、穏やかに断った。「もう少し一人に慣れたいの」と笑って。
嘘ではないが、真実のすべてでもない。心のどこかで「馬鹿が帰ってくるかもしれない」と思っていた。帰ってこないとも思っていた。どちらも本音だった。
◇
その日も村の広場は穏やかだった。井戸端で洗濯をしていると、新聞売りの少年が走ってきた。
「アリアさん!これ、見て!」
大見出しにはこうある。
『勇者リオン、魔王を討伐す!』
「…………は?」
「リオンって、あのリオンだよね? 魔術の修行してた人!」
「ええ……あのリオンね」
紙面には「王国の新英雄」「聖杖を持つ光の賢者」と賛辞が並ぶ。アリアは洗濯物を絞りながら無表情で言った。
「立派になったのね」
桶の水面が、わずかに波打った。静かな人ほど、怒ると静かになる。
◇
夜。パン生地がふくらむ匂いが台所に満ちるころ、扉が二度ノックされた。
まさか、と思った。いや、まさかでもなかった。
開けると、見覚えのある馬鹿が立っていた。
「……ただいま」
「おかえりなさい。どちらさま?」
「どちらさま!?」
「追放されたんでしょう? 今のあなたは、うちの戸籍にないはずよ」
「いや、その、あれは誤解で……」
「そうでしょうね」
リオンは情けない顔で頭を掻いた。相変わらず髪はぼさぼさ、マントの裾は土だらけ。手にした杖だけがやたら立派だ。
「それ、どうしたの」
「ああ、これ? 王様からもらった。聖杖アルミナっていうんだ。……あ、押すと光る」
杖の頭の宝石を押すと、ぱっと部屋が明るくなった。夜回りの子どもの遊びのようで、勇者の貫禄はない。
「魔王は?」
「倒した」
「本当に?」
「倒した……と思う」
妙な間。アリアはパンを切り分けながら問う。
「あなた、魔王と何をしたの?」
「話し合った」
「戦わなかったのね」
「うん。向こうも“もう疲れた、戦うのは飽きた”って。で、“じゃあやめるか”って」
「……平和的解決ね」
五年。五年も何をしていたのかと思えば、魔王と腹を割って話していたらしい。彼らしいといえば彼らしい。
アリアは皿を並べながら、針の先ほどの棘を刺す。
「で、王女様とはどうなったの?」
「……あれ? もう噂になってるの?」
「あなたの名前で号外が出てた。“勇者、王女と婚約”って」
「嘘だよ!」
「知ってる」
「ほんとだよ!? 勝手に周りが言ってるだけで!」
「嘘だって言ってるでしょう。信じてないとは言ってないわ」
アリアは椅子を引いて向かいに座る。リオンは戸惑いながらも隣に腰掛けた。
「……ねぇアリア。怒ってる?」
「怒ってるわよ」
「やっぱり」
「でも、許してるわ」
「ほんとに?」
「ええ。五年も経ったの。怒り続けるほど、私も暇じゃない」
アリアは小さく笑った。リオンは安堵して杖をテーブルに置く。
「よかった……」
「でも」
「でも?」
「その杖でパンを焦がしたら、叩くわよ」
「……気をつけます」
◇
翌朝。村の入口に人だかり。王都からの使者が並び、立派な馬車が停まっている。
「勇者殿、王都へご帰還を。殿下もお待ちです」
家の戸を開けると、青ざめたリオンが突っ立っていた。
「ねぇ、説明してくれる?」
「え、えっと、たぶん誤解で……」
「その誤解、多すぎじゃない?」
馬車から王女が降り立つ。光るドレス、完璧な笑顔。
「勇者様。国王陛下の御前へ。英雄を村に留め置くわけにはいきません」
リオンがしどろもどろになるより早く、アリアが一歩前へ出る。声は静かだが、よく通る。
「殿下。勇者様は今、パンを発酵させております」
「は?」
「魔王討伐の次に、家庭の平和を守る“任務”がありまして」
ざわめき。王女の眉がわずかに動く。
「……勇者様は王国の英雄。朝食など——」
「英雄も朝食は召し上がります」
アリアはさらりと言い切る。そして正面から王女を見る。
「それに。あなた方の国を救ったのは、彼の“言われた通りに戦う力”ではなく、“自分で選ぶ優しさ”です。命令で動くなら、彼はただの兵。選んだから、勇者と呼ばれるんでしょう?」
王女が言葉を失う。空気が変わった。リオンは横で、ただ杖を強く握っている。
アリアは視線を杖に落とす。
「見せて」
「え?」
「それ、光るんでしょう? 今、つけて」
「いや、つけても意味ないけど……」
「いいから」
リオンが宝石を押す。杖は眩しく輝いた。村人たちが歓声を上げ、何人もが拍手した。王女も目を細めて光を見上げる。
アリアは微笑む。
「ね? 立派でしょう。魔王を退け、夜は村の灯りにもなる。あの人にとっての“勇者の仕事”は、そういうことです」
数拍の沈黙ののち、王女は顔をそらし、静かに馬車へ戻った。去り際に小さく呟く。
「……どうぞ、お幸せに」
◇
夜。台所でパンの香り。杖の光が柔らかく揺れる。
「パン、焦げてる」
「うわ、ほんとだ……」
「ほら。杖が光るからって気を抜くから」
「でも便利なんだよ。夜も明るいし」
アリアは呆れた顔で笑う。
「まさか、世界を救った英雄の功績が、台所の照明になるなんてね」
「平和って、だいたいそういうもんだよ」
「そうね」
窓の外で星が瞬く。室内では杖の灯りが食卓を照らす。
アリアはその光の中で言った。
「——おかえりなさい、リオン」
「ただいま」
今度は、誰も追放されなかった。




