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五感侵食

【五感侵食】仮面

作者: 渋谷千立

よろしくお願いします。

夏だった。アスファルトは陽炎を揺らし、コンクリートのビル群が熱気にうねって見えた。

汗をぬぐいながら歩いていると、スマートフォンが震えた。母からの短い連絡――祖母が亡くなったという。

一瞬、胸の奥がひんやりと冷たくなる。けれど、なぜか涙は出なかった。


そういえば、上京してから一度も帰ったことがなかったな、と独り言ちながら、電車に乗る。

実家は辺鄙な田舎で、乗り換えに次ぐ乗り換え。最後は日に数度しか走らないバスに乗り、実家への帰路に就く。

家に近づくにつれ、空気の熱もどこか質を変えていた。湿った土の匂い。どこか青臭い匂い。



バスを降りると、セミの声が耳にまとわりついた。

舗装の剥げかけた道を歩きながら、ふと見上げた空には、入道雲がひとつ、遠くの山の上にかかっていた。


玄関の前には母が立っていた。

「帰ってこれてよかったわね」と笑いかけるが、その顔には疲労の色が濃く滲んでいた。

葬儀は明日。今日は身内だけで仮通夜をするという。


靴を脱いで家に上がると、むっとするような空気が肌を這った。

懐かしさと微かな違和感が入り混じっている。家具の位置も壁の色も変わっていないはずなのに、どこか「祖母がいない空間」がぽっかりと胸をざわつかせた。


仏間に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わったように感じた。

静寂が支配するその空間には、扇風機の風さえ届かず、外の世界とは異なる時間が静かに流れていた。


正面の祭壇に飾られた遺影に、私はふと足を止めた。


――若い。


思わず心の中で呟く。


たしかにそれは祖母の顔だった。穏やかで、どこか厳しさのにじむ眼差し。けれど、そこに映っているのは、私が最後に会ったとき――病院のベッドに横たわり、痩せ細っていたあの姿とは明らかに違っていた。

もっと輪郭がしっかりしていて、肌にも張りがある。髪も染めていたのだろうか。黒々としていた。


台所にいた母に声をかけた。


「この写真……いつ撮ったの?」


母は手を止め、少し考えるように視線を泳がせる。


「たしか……春だったかしら。三月の末頃。あの人が急に“写真を撮ってくれ”って言い出してね。自分で服まで選んで。珍しいことだったけど……まさか、遺影になるなんて思わなかったわ」


そう言って、ふと遠くを見るような目になる。


「それにね、あの写真、撮ったあとすぐ、祖母さん……“これで間に合う”って言ったのよ。不思議でしょ?」


背中を冷たいものが這う。


間に合う――何に?


まるで、自分の死を見越していたかのような口ぶりだった。


そして私は、その遺影の中の祖母の目が、ほんのわずかに口元を緩めたような錯覚を覚えた。


その夜、仏間で一人、遺影と向き合う時間があった。電気の届かぬ部屋の隅に灯るろうそくの炎が、遺影のガラスにちらちらと反射している。


私はふと、スマートフォンのライトを点け、写真をもう一度じっくり見つめた。


――やはり、何かが違う。


その微笑は穏やかなはずなのに、どこか「知っている」ような、不気味な笑みに思えた。まるで、これから起こることを見越しているかのような――。


翌日、私は母に遺影の写真データがまだ残っているか尋ねた。


「ええ、残ってると思うわよ。パソコンに取り込んであったはず」


古いノートパソコンを起動し、指定されたフォルダを開くと、一枚だけでなくいくつもの祖母のポートレートが保存されていた。どれも同じ日に撮影されたものらしいが――最後の一枚だけ、明らかに雰囲気が異なっていた。


祖母は笑っていなかった。


部屋の片隅に正座し、こちらをまっすぐに見つめている。背景は仏間で、すでに祭壇が整えられ、線香が立てられていた。


まるで、自分の死を再現しているかのように、祖母はそこに“居た”。


「ねえ、この写真……いつ撮ったの?」


母はしばらく画面を見つめ、小さく首をかしげた。


「こんなの、あったかしら……? 見覚えがないわ」


パソコンのプロパティを確認すると、撮影日は祖母の命日と一致していた。


その日は誰も写真など撮っていないはずだった。


祖母は、死ぬ前に“その瞬間”を撮らせていたのだろうか? あるいは――。


それとも、この写真は「誰かが」「死のあとに」撮ったのかもしれない。


どちらにせよ、その意図は明確だった。


祖母は「この写真を残したかった」のだ。


そしてそれは、単なる記念ではなく、「記録」だった。


“私がここにいた”という証明。


あるいは――“これからここに来る誰か”への、警告。


無事葬儀も終わり、夜――家族が寝静まった後、私はふと目を覚ました。


雨音がする。――そんな予報はなかったはずだ。


耳を澄ますと、音は屋根ではなく、仏間の奥から聞こえている。ぽた…ぽた…と、水の雫が何かを叩く、湿った音。


寝間着のまま廊下を歩き、仏間の襖をそっと開ける。


――誰かがいる。


遺影の前に、正座する人影があった。だがそれは、母でも父でもなかった。


ゆらゆらと揺れる蝋燭の光の中、その影はまるで布を被ったような形で、顔が見えない。ぬらり、と濡れた髪のようなものが床に垂れていた。


私は息を呑んだ。


そして――影が、ゆっくりと首をこちらに向けた。


何も見えなかった。ただ、仏壇に飾られた遺影のガラスに、もう一つの顔が映っていた。


祖母の顔ではない。こちらを見て笑う、異様に長い口元と、裂けたような目の影――。


私は気を失った。


目覚めたのは、翌朝。仏間には誰もおらず、蝋燭も消えていた。だが、床は確かに濡れており、黒い髪がいくつか、まるで“何か”がそこにいたことを証明するかのように落ちていた。


恐る恐る遺影を見た。


……写真が、変わっている。


昨日まで、静かに笑っていたはずの祖母の口元は、今は引き結ばれ、わずかに硬い表情を浮かべている。顔はわずかに斜めを向き、その視線は、仏壇の“右下”――


そこに敷かれた、空の座布団を見つめていた。


まるで、そこに“誰か”が座っているのを見届けているように。


慌てて家族に確認してみたが、「写真は昨日と変わっていない」と言う。私の思い違い? けれど、確かに違っている。そう確信できるほどの「違和感」が、そこにはあった。


その夜、私はふとした拍子に、もう一度その写真を覗き込んだ。


遺影の中の祖母の目が――かすかに、ほんのわずかに、こちらを追うように動いた気がした。


気のせいだ、と何度も言い聞かせようとした。けれど、その視線の重さは、夢の中までついてきた。。


目を凝らして見つめると、遺影の中の祖母の口元が、かすかに歪み――にやり、と笑ったように見えた。


思わず目を逸らす。だが、胸の奥に冷たいものがじわじわと染み出してくる。


「気のせいだ、気のせい……」

自分に言い聞かれる言葉が、空回りしているのがわかる。


寝る前、確かめずにはいられず、もう一度仏間を覗いた。


――遺影の前に置かれた座布団。そこに、確かに“誰か”が座っていた。


目に見えるわけではない。けれど、そこにある「気配」が、空間の密度となって押し寄せてくる。


部屋の空気がひんやりと冷え、背筋を氷の指で撫でられたような感覚。


私は襖を乱暴に閉め、逃げるように部屋を後にした。


その夜から、夢の中で祖母の声が繰り返し、私の名を呼ぶようになった。

まるで、何度でも確かめるように、深く、ゆっくりと。


――「そこに、いる?」とでも、言いたげに。


それからというもの、家族の様子がどこかおかしく感じる。常に笑っているように見えるのだ。

その笑顔はどこか不自然で、目の奥が冷たく光っているように思えた。


母の声も、普段よりどこか軽やかすぎて、まるで感情のない機械のように聞こえる。


祖母の遺影の前で家族が揃うと、誰かが必ずそっと囁くように笑い声を漏らす。


その夜、私はふと気づいた。あの遺影の中の祖母の笑顔と、家族の笑みがどこか似ていることに。



まるで、家族そのものが“仮面”と化してしまったかのような錯覚に襲われた。

その仮面は微笑みをたたえているが、瞳は空洞で、もはや人のぬくもりを感じさせなかった。


私は息を呑み、ふと母の顔に視線を移す。

彼女の笑顔は不自然に広がり、まるで硬い殻のように変質していた。

その“仮面”は、もはやただの覆いではなく、家族の本質そのものなのだと悟った。


彼らはもう、かつての家族ではない。

その“仮面”が彼らの中身を塗り替え、意志も感情も奪い去ってしまったのだ。


凍りつくような恐怖が胸を締め付ける。

私は、その仮面の秘密を解き明かさねばならない。

さもなければ、彼らを取り戻すことは決してできないだろう。



皆が寝静まったころ、私は祖母の部屋を訪れた。

この異常には祖母が係わっているに違いないと、私は確信していた。


タンスや押入れを一つずつ開けていく。

埃の匂いと、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。


そして、ふと視線の先に――仮面があった。

それは祖母の笑みにそっくりな形をしていた。

薄くヒビが入り、しかしどこか艶めかしいその仮面は、まるで生きているかのように私を見つめ返してきた。


息が詰まる。思わず手を伸ばしかけるが、指先が震えて止まる。

この仮面が、この家の歪みの核なのか。


私は心のどこかで、これを壊せば全てが元に戻ると信じたかった。

だが、同時にそれが何か取り返しのつかないことを引き起こす予感もした。




仮面を手に取ると、指先にひやりとした感触が走った。

ただの木でも、陶器でもない。

まるで――皮膚に近い。

けれど、どこか“死んだもの”のような冷たさだった。


「……これさえ、壊せばいいんだ」


私は金槌を取り出し、仮面を板の上に置く。

一呼吸、深く吸って――振り下ろそうとした。


……だが、手が動かない。

関節が凍りついたように、腕が震えるだけだった。


「なんで……」


かすかに、仮面が笑ったように見えた。

気のせいだ。そう、思いたかった。


今度こそと、力を込める。

金槌は――仮面に届かない。

空間そのものが歪んで、打撃を逸らしているかのように。


何度振るっても、力は空を裂くだけ。


気づけば、私はその仮面を両手で丁寧に包み込んでいた。

撫でるように、その笑みを――なぞっていた。


「……違う。こんなことをしたいわけじゃ……」


仮面の微笑みは、さらに深くなる。

まるで最初から――壊されることなど、一度も想定していなかったように。




翌朝。目を覚ました時、空気がどこか――湿っていた。

リビングに下りると、家族がいつも通り朝食を囲んでいた。

父も母も妹も、揃って朝食をとっていた。いつもより饒舌で、よく笑っていた。

その笑顔が――昨夜の仮面と、どこか似ている。


「ねえ、疲れてるんじゃない?」


不意に母が声をかけてきた。

「顔色、あんまり良くないわ。……つけてみたら? おばあちゃんが残してくれたあれ」


あれ? と私は聞き返しかけたが、父が口を挟んだ。


「そうだな、あれは――気持ちが落ち着く。俺も時々つけてるんだ」


妹までがうなずきながら微笑んだ。


「おばあちゃんの仮面、きれいだよね。つけると、心が楽になるの」


私は喉の奥に小さな恐怖を感じた。

誰も仮面の名前を言わない。ただ「あれ」とか「つけるといい」とか、

まるで“何か”に言わされているような言葉。


「……いいよ。なんか、怖い夢見たし」


「夢?」母が首を傾げた。「……なら、なおさらよ」


「そうそう」父が穏やかな声で言う。「“あれ”は、夢を見なくなる。

なにも怖くない。なにも悩まなくなる。……楽になれる」


そのとき、ふと視線を感じて顔を上げた。

家族全員が、笑顔のまま、私を見ていた。


無言で、じっと。


私は食卓から離れた。

手が震えていた。けれど、視線を外せば、家族は何事もなかったように朝食に戻った。


……ただの気のせい?


いや。

リビングの隅に、“仮面”が置かれていた。

昨夜は自室の引き出しにしまったはずだ。


誰が――あそこに?



あの朝以降、私は眠るのが怖くなった。

仮面はつけていない。けれど……夢の中で、私はいつもそれを「つけている」。


夜中、ふと目を覚ますと、自分の手が――自分の顔を探るように動いている。

まるで、仮面がそこにあると信じているかのように。

けれど触れても、何もない。ただ皮膚と汗の感触だけ。


夢だったのか、それとも……私は、つけてしまったのか?


朝起きると、鏡の中の自分が微笑んでいる。

――意識していないのに、口角が上がっている。


「……やめてよ」


そう呟いても、笑みは消えない。

鏡の中の自分は、静かに、微笑んだまま瞬きをする。


私は慌てて鏡から目をそらし、部屋を飛び出した。

廊下を歩く途中、ふと柱の陰に立つ“誰か”の気配を感じる。


振り向いても、誰もいない。


けれど、そのとき、背筋を凍らせるような笑い声が聞こえた。

家族の誰でもない、けれど、どこかで聞き覚えのある声。

その声は、廊下の闇に吸い込まれるように消えていった。


 


その日、母が言った。


「あなた、ちゃんと眠れてるの?」


「……たぶん」


母は笑っていた。いつもと同じように――けれどその目は笑っていなかった。

見透かすような視線が、私の顔をまっすぐに見ていた。


「じゃあ、よかった。じゃあもう、つけても平気ね?」


「……え?」


「仮面のことよ。もう怖くないでしょう?」


私は言葉が出なかった。

母はふわりと笑って、部屋の奥へ消えた。

でも、私の視線はその手元に釘付けだった。


母の手に、仮面があった。

あの、祖母の笑顔にそっくりな……。


「気がつくと、私は居間にいた。いつの間に移動したのか分からない。手には、仮面が握られていた。冷たく、妙に重い感触だった。


『え……?』

何度も手を見つめるけれど、そこにあるのは確かに自分の手。なのに、どこか自分のものじゃない気がして、震えが止まらなかった。


目の前の鏡に映る自分を見る。

その唇が、いつの間にか不気味に笑みを浮かべているのに気づいた。


「私は……仮面を、つけたのだろうか?」


その答えは、どこにも見つからなかった。


鏡の中の自分だけが、静かに笑っていた。




次の日。朝、玄関を出ると、空がやけに白んでいた。

まるで曇っているのに光が強すぎるような――そんな、異様な明るさだった。


近所の道を歩いていると、違和感はさらに増していった。


いつも見かける向かいの家。赤いポストがあるはずの場所に、今日は何もない。

代わりに、妙に背の高い鉢植えが立っていた。


「……変えたのかな」


そう思ったが、門にかかっている表札が読めない。

漢字がにじんでいて、どうしても目が滑る。じっと見ていると、頭の奥がきしむように痛み、耳の奥で低いざわめきが聞こえた気がした。


角を曲がると、いつもと同じ風景――のはずだった。

だが、周囲の音が急に遠のき、足元の感覚もおかしい。


どこかがおかしい。


道の両側に咲く紫陽花が、すべて同じ色をしている。

以前は白や青、淡いピンクが混じっていたはずなのに、今日はすべて、ねっとりとした“血のような赤”。


そのとき、向こうから来た見知らぬ老女が、私の顔を見るなり、ふと笑った。


――祖母に、似ていた。


「暑いねぇ」

そう言って通り過ぎていく。


声も、仕草も、祖母によく似ていた。

でも、そんなはずはない。祖母は……


背中を見送りながら、気づいた。

老女の後ろ姿が、妙に揺れている。左右に、細かく。

まるで、誰かがその皮を被って歩いているような、そんな不自然さだった。


心臓がひとつ、大きく跳ねた。


その瞬間、風が吹いて、あの香りがした。

熟れすぎた果実のような、あるいは血に混じった花のような――あの“仮面の匂い”。


 


私は目を閉じ、深呼吸する。

目を開けると、目の前に見覚えのある通学路が広がっていた。

けれど、数秒前に見た紫陽花の色が、もう思い出せない。


まるで、記憶ごと上書きされたかのように。



私は恐ろしくなり、家へと走り帰った。

肩で息をしながら玄関の戸を閉め、背を預ける。


冷たい汗が額から顎へと伝う。心臓はまだ早鐘のように打っていた。

けれど、ふと手の中にある“それ”に気づいた。


――仮面。


祖母の部屋から持ち出していたはずのそれが、なぜか、私の手にあった。

途中で落としたはずだ。あの時、確かに置いてきたのに。



乾いた木の感触。なめらかな頬。わずかにほころぶような笑み。

私はその笑顔を見つめているうちに、次第に震えが収まっていくのを感じた。


おかしい。怖かったはずなのに。

胸の奥から、じわじわと温かさが広がっていく。


それは、奇妙な安心感。

それどころか――私は、笑っていた。

唇が自然と、ゆるやかに吊り上がっていく。

「……なんだ、平気じゃないか」


誰に言うでもなく呟き、仮面をそっと撫でた。

そうだ、これさえあれば大丈夫な気がする。

外の世界も、人の顔も声も、何もかもがおかしくても。


これをつければ、きっとすべてが“穏やか”になる。


その瞬間、どこかで「これはおかしい」と思った自分がいた。

けれどその声は、小さな泡のように浮かんでは、すぐに消えた。


仮面の微笑みはあまりに穏やかで――

まるで、私を迎え入れる“家族”のようだった。



怖い。

これは、違う。おかしい。


私は仮面を床に叩きつけようとした。

けれど、腕が動かない。


「……え?」


右手は仮面を握りしめたまま、固まっている。

まるで自分の意志とは無関係に、“大切なもの”を守ろうとしているかのように。


今度こそ力を込めるが、指はびくともしない。

震えているのは腕でも手でもなく、たぶん、私自身だった。


「こんなもの……!」


声がうわずる。口が乾いていく。

それでも、腕は言うことを聞かない。


鏡に映った自分の姿を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。


――笑っていた。

私の顔が、私の意志とは関係なく、ゆるやかに、穏やかに笑っていた。


それは祖母の笑みそっくりだった。

いや、それ以上に“あの仮面”に、似ていた。


「やめて……やめてくれよ……!」


それでも指は仮面を手放さない。

まるで、もう仮面と私の区別が曖昧になってしまったかのように。


頭の中に、囁く声が響く。

柔らかく、甘く、でもどこか腐りかけた果実の香りを帯びて。


――ねえ、もういいでしょう? こっちにおいでよ。みんな、あなたを待っている。


「うるさい……」


私は声を震わせて呟いた。

でも、その声はやがて微かに笑い声へと変わり、私の唇をゆるませていく。


それはもう、“私”ではなく、どこか遠い誰かの影のようだった。。



私は、もう限界だった。

何かが、内側から静かに軋んでいる。

「抗わなければ」と誰かが囁いていた気がする。

けれどそれが“私”だったのか、“仮面”だったのか、もう定かではない。


指先が、ゆっくりと震えながら仮面を持ち上げる。

木の感触はすでに皮膚に近い。温もりも冷たさも曖昧で、

まるで、それが“私”の一部であるかのように。


視界の中心に、それはぬるりと滑り込んできた。


仮面が“こちら”を見ている。

瞳孔のない目の奥に、暗い湖のようなものが静かに渦を巻いていた。

吸い込まれる。記憶が軋む。

祖母の声、家族の笑い声、誰かの夢の断片。すべてが重なって、沈んでいく。


「……これは、私じゃない」


そう言ったはずだった。けれど、言葉は霧になって喉の奥でほどけた。

音にならなかった。感情すら、形を失っていた。


仮面は手の中でふと質量を失い、

意志のようなものを纏って、私の顔へと這うように近づいてくる。


「……やめろ……」


かろうじて心の奥で響いたその声は、

もう私のものではなかったのかもしれない。

湿った壁を滑る水音のように、意味を持たず、ただ流れ落ちていく。


それでも、手は止まらなかった。


まるですべてが最初から“このため”だったかのように。



吸い寄せられるように、仮面が顔に触れ――ぴたり、と貼り付いた。


その瞬間、何かが剥がれた。

皮膚でも仮面でもなく、“私”という輪郭そのものが。


音が変わった。世界が反響する。

耳の奥にざわざわとした声が満ちてくる。

言葉なのか風なのか、それとも思考の残響なのか、判別がつかない。


それでも心地よい。

沈んでいく。水底のように、深く、静かに、温かく。


視界は濃密な光に満たされる。

畳の目がうごめき、柱の木目が囁き、壁の写真が笑っている。

みんなこちらを見ていた。最初から、ずっと――。


ふと、鏡の中の自分と目が合った。


笑っていた。

私の知らない笑み。

祖母のものにも似ている。けれど、それ以上に“あの仮面”と同じだった。


「……だれ?」


気づくと、口がそう呟いていた。けれど、自分の声には聞こえなかった。


“私”はどこにいる?

この笑顔は、私のものだろうか?

目の奥に感じる視線は、内からこちらを覗いていないか?


境界が曖昧になる。

「私」と「仮面」の区別がつかない。

何が本物で、何が表情で、何が外側だったか――もう思い出せない。


けれど、不思議と、それが怖くない。

むしろ、心が静まっていく。


思考が、感情が、名を持つすべてが、柔らかく融けていく。


やっと、溶けあえる。

やっと、“私”から自由になれる。


そして私は、笑っていた。

“私ではない何か”として。



この笑みこそが、正しさだった。

これが“私”――最初から、ずっと。

私はようやく、“私”に還ったのだ。





ちゃぶ台に湯気の立つ味噌汁。

焼き魚、漬物、そして祖母がよく作っていた煮物。

どれも懐かしく、手の込んだ家庭の味だった。


「おかわりあるわよ」


母がにこやかに声をかける。

その顔には、仮面。

頬の丸みや瞳の形まで、仮面の造形は見事に“人”を模していたが、

どこか不自然に整いすぎていた。

完璧な笑顔。動かない唇。


私もまた、静かに頷き、茶碗を差し出す。

自然に。何のためらいもなく。


父も、妹も、そして席の端にいる祖母の席にも――仮面はある。

誰もそのことに触れようとはしない。

まるで、それが当たり前のことのように。


笑い声が漏れた。

それは私のものだったのか、誰かのものだったのか判然としない。

けれど、温かく、心地よい音だった。


テレビの音が遠くで流れていた。

バラエティ番組の笑い声。拍手。

その中に、かすかに混じるように、別の笑い声が聞こえた気がした。


「今日は暑くなりそうね」


母の声。

その仮面の裏の声は、なぜか湿っていた。


私も、笑って応える。


「うん。夏、だもんね。」


外では蝉が鳴いている。

その音も、仮面越しにはどこか平板で、機械的に響いた。


そして、ふと思う。


――この暮らしは、いつから始まったのだろう?

――私は、何かを忘れているのでは?


だがその疑問も、すぐに柔らかな笑みに溶けて消えた。

なぜなら、ここでは、すべてがうまくいっているのだから。


もう不安も、怖れもない。


仮面がある限り、私たちは“幸せ”でいられる。





その日も、いつもと同じ朝だった。

母が台所で味噌汁をつくり、父が新聞をめくり、妹が制服の裾を整えている。


私は仮面をつけたまま、ぼんやりとその光景を眺めていた。

もう、重さも、違和感もなかった。まるで仮面が、私そのもののように感じられる。


ふと、茶の間の障子の隙間から、光が差し込んだ。


いつもと変わらない、朝の光。

……のはずだった。


だが、仮面越しに見るその光は――黒かった。


ただ暗いのではない。

まるで煤のようにねばつき、空間に染みついた影そのもののような“光”だった。


私はゆっくりと立ち上がり、障子を開ける。


庭が、変わっていた。


木々はすべて黒く干からび、地面にはひび割れが走っている。

空には、太陽のかわりに、巨大な何か――無数の目を持つ黒い球体が浮かんでいた。

それは音もなく、ただこちらを見下ろしている。


「見てる……」


私はそう呟いた。

その瞬間、背後から母の声がした。


「なにが?」


振り返ると、そこには“ふつう”の朝の景色が戻っていた。

母は微笑み、湯気の立つ味噌汁を手に持っている。

だが――私は気づいてしまった。


仮面を通して見る世界と、仮面を外して見る世界は、違っていた。


そして、それは単なる“幻”などではない。


仮面越しにしか見えない、もう一つの現実。

この家に、家族に、町に張りついている、もう一つの“顔”。


私はその日から、ときおり試すように仮面を外したり、つけ直したりするようになった。


外すと――何も見えない。ただ穏やかな、田舎の風景。

だが、つけると――


闇が、ねじれが、無数の目が、私の暮らす世界の底に渦巻いていた。


仮面は、視界を覆っていたのではない。


“本当のもの”だけを、見せていたのだ。




。仮面をつけてから数日が経った。

最初は日常の違和感だけだった世界が、徐々に狂い始めているのを私は感じていた。


朝、目覚めると部屋の壁がゆがみ、天井は波打つように揺れていた。

窓の外の景色も、いつもの田舎の風景ではなく、黒く朽ち果てた廃墟のように見える。

鳥の声は聞こえず、代わりにどこか遠くで低くうなり声が響いていた。


私は必死に仮面を外そうとした。だが、それは体に張り付くように剥がれず、まるで皮膚の一部になったかのようだった。


鏡を見ると、仮面の向こうの私の顔は崩れ、目は漆黒に染まり、口元には不自然な笑みが浮かんでいた。


「やめろ……これは、違うんだ……」


声は出ているが、自分の意思がまったく通じない。

体は勝手に動き、仮面を通して歪んだ世界を歩かされている。


通り過ぎるはずの家々は姿を消し、代わりに無数の影がうごめく闇が広がる。

家族の声も、友人の声も届かない。あの温かかった日常は、もう遠い記憶になっていた。


仮面は囁く。


「あなたはここにいる。ここがあなたのいるべき場所だ。」


私は必死に抵抗するが、仮面の力は強く、現実は侵食されていく。

世界はもはや、私が知っていたものではなかった


そして、仮面の中で私は気づいた。

このねじれた現実の底にいるのは、もう一人の“私”――仮面に支配された“私”だということに。


果たして私は、この迷宮の中から逃げ出せるのか。

それとも、完全に仮面に飲み込まれてしまうのか。


答えは、まだ見えなかった。



それからというもの、毎日のように空を見上げる。相変わらず、無数の目を持つ黒い球体がこちらを見つめている。。

通りには布を被ったような人影が歩いている。雨も降っていないのに濡れそぼった髪。顔は見えない。でも、きっと笑みを浮かべているのだろう。

あの祖母の写真は警告だったのだ。死に際になりやっと解放されたのだ。あの張り付いたような笑みから。

僕は帰るべきだったのだ。仮面のことなど放っておいて。

しかしもう遅い。僕はつけてしまった。いつだったのだろう。仮通夜の夜から、すでにつけていたのかもしれない。

仮面をつける安心感と高揚感。つけてはいけないと思っているのに、心の奥ではつけることを望んでいる。



僕は大学を中退した。そして、ここに残っている。家族も喜んでくれていた。これでいっしょだと、張り付いた笑顔のまま。

僕の顔もきっと同じ顔をしてるのだろう。だが、これでいいのだ。ここには笑顔にあふれた家族がいて、空にはあの黒い球体もある。

あれはずっとこちらを見ている。だが、それはきっと見守ってくれているのだ。あれを見ると安心感が湧く。


僕は幸せだ。これからはずっとここで生きていけるのだから。








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