プロローグ!なぜ男は異世界漂流することになったのか!?
主人公が異世界転移するまでのお話!世界設定の確認が主で、今回はヒロインたちは出てきません!!読み飛ばして一話から読みはじめてもいいし、世界観に興味があったらぜひ呼んでみてください!
異世界に移る前の記憶はもはやほとんど残っていない。だが、そこで得た数少ない教訓は、およそ自分の手の及ばぬ運命という大きな波が、無情にもそれまで積み上げてきたものの全てを一変させるという事実である。激流は草木を飲み込みながら渦を成す。そこに呑まれたなら、人はきっと、どのように抗うかではなく、いかに苦しまずに溺れるかという点に知性を発揮することになるのであろう。
厳しい寒さが和らぎつつある、三月下旬の頃であった。私は知人の紹介により、市内の図書館での蔵書整理という、短期アルバイトを行うことになった。新年度に向けて、長らく放置されていた倉庫にある、貸し出しを行なっていない蔵書を処分するという内容であった。もとより知人が応募していたのだが、前日に腕に怪我を負ったらしく、力仕事であるゆえに他の者に任せるべきと判断され、私に白羽の矢が当たったという経緯である。
作業は、一人で倉庫に入り、ひたすら本を棚から段ボールに移すという、至極単純なものであった。朝9時から、17時まで誰とも関らず給料がもらえるというのは、私にとって心地の良い環境であった。本は、古くなった百科事典や辞書類がほとんどであった。中には聖書などもあったが、なるほど、市の図書館に置いても借りる人は少ないであろうというのが一眼でわかるラインナップであった。
歴史書、教訓書、漢籍などを休憩がてら、時折パラパラとめくりながら、特段本の内容に興味を示すことなく、頭を使わずに作業を進めていた最中であった。
棚の奥から手に取ったのは、表紙や背表紙に何も書かれていない本であった。A4版で、300ページほどあり、ザラついた黒い布に金色の糸で刺繍が施された表紙が糊で貼り付けられていた。刺繍は四隅を囲うように施されていて、丸みを帯びた線が西洋ゴシック的なデザインを作り出しているが、その筋に不勉強であるため、年代や国などは特定できなかった。
表紙をめくるが、何も書かれていない白紙があるのみで、めくれどめくれど同じ有様であった。私は最初、未使用のノートが紛れ込んだのだと思ったが、それにしては豪華な装丁と厚みが不自然であった。手がかりを探そうとあれこれ眺めているうちに、ちょうど本の真ん中あたりの1ページに、文字が書いてあることを見つけた。それは、手書きのメッセージであった。
「20◯◯年、3月31日、23時20分、●●市公園、池のほとり。私を見つけてね」
日付は今年、数日後もうすぐのことであった。指定されている公園は、図書館から歩いて数分もかからない、隣接した市営の大公園である。字は、印字にも劣らない綺麗な楷書体で、驚くほど読みやすかった。しかし、筆跡では、この書き手の性別や年齢は全く予想できなかった。
最初に私の頭をよぎったのはイタズラである。しかし、この書庫がもう何年も、ともすれば十数年使われていないものであるゆえに、ますます奇妙であった。私はこれに、何かタイムカプセルのようなロマンチシズムを感じ、この指定の日付に、この場所へ向かってみることにした。この本は持ち帰ることにした。元々処分する予定のものなので、いくらか本を持ち出しても、なんら問題はなかった。
この場所に向かったとき、誰が、あるいは何が待っているのか?そもそも、「私をみつけて」ほしいのは、この本を見つけた人か、あるいは特定の誰かなのか?あれこれ期待と予想を重ねているうちに、指定の日付になった。
夜の公園、一人、例の白紙ばかりの黒い本を持って、私は歩いていく。そこで待っていたのは、人でも、物でもなかった。本来そこにあるはずもない、ちょうど人が一人入れる程度にバックリと口を開いた、空間を引き裂く紫色のなにかであった。
紫色のなにかは入り口のように見えた。その中は、渦を巻くようにうねり、こちらを招いているようであった。私はこの異様な光景を目の前にして、自分でも驚くほど冷静に、この中に足を踏み入れようと考えていた。「謎の本を見つけ、向かった先には何かがあったので帰ってきました」では、なんの話のタネにもなるまい。たとえこれが怪異の類で命を落とすような事態になったとしても、確認をする必要があると思ったのだ。
足を踏み入れると、視界が暗くなった。それが暗闇のせいではなく、目隠しのせいであると気がついたのは、しばらく時間を置いてのことであった。まず不快に思ったのは手の感覚である。両手首を体の後ろで締め付けられているようだ。動かせば食い込む感覚は、おそらく縄であろう。同様に、両足首もきつく縄で結ばれているようであった。目隠しを取ることはできず、音と、感覚で状況を把握するしかなかった。
体に当たる風、ガラガラと車輪の回る歪な音、体に伝わる道路の感覚から、私は何かに載せられていることに気づいた。馬車であろうか。他の積荷もあるようで、木箱やら、陶器の壺やらが、揺れるたびに体を圧迫してくる。自分に何が起こったのか、全くわからなかった。私が予想していたのは、別の空間に立っている自分であった。まさか、あの紫色の何かをくぐった瞬間、自分が拘束されて荷物と共に運ばれているとは。あの一瞬で何が起こったのか。
自分を運んでいるものが馬車であると確信したのは、けたたましい馬の悲鳴のためであった。鳴き声が耳に入るのと同時に馬車は倒れ、荷物と共に私は身を投げ出された。幸い、落ちた先はやわらかな土と草の上であった。地面に顔を擦り付けてズリズリと目隠しを外し、あたりを見渡す。天高くから照りつける太陽、一面緑の草原、舗装された道路。私がいた夜の公園とは全く異なる景色であった。
まず目に映ったのは、道路の遥か遠くを走っていく芦毛の馬の姿であった。おそらくあの馬が私と積荷を運んでいて、連結部が外れたため逃げていったのであろう。ついで目撃したのは、馬車の御者と思われる人物の亡骸である。中年の男で、右のこめかみを鉄製の矢で射られていた。この男の声は全く聞こえなかったので、即死だったのだろう。右手には高台があったが、この男を射たはずの人の姿はなかった。
馬を繋いでいた金具に縄をぶつけ、なんとか手足の自由を得た。一呼吸し、冷静に状況を確認する。男は長い髭をたくわえており、彫りが深く西洋人のように見える。鉄の板を無理やり曲げてこしらえたかのような胸当てを、細い革のベルトで固定している。動物の毛皮をそのまま剥いで腰に巻き、露出した手足には大小さまざまな傷がある。ここから、明らかに現代日本の人間ではないこと、そして盗賊か山賊かわからないが、いずれにせよ悪意を持って私を運んでいた人物だと予想された。
続いて積荷を探る。陶器の壺は割れている。割れた木箱からは、エキゾチックな模様の布がのぞいている。あとは、布袋の中にいくらかの草や花が入っていたばかりで、手がかりになるようなものはなかった。幸い、私が持ってきたあの黒い本も積まれていた。私は唯一の手がかりである黒い本だけを手に取り、道なりに歩いていくことにした。太陽が眩しいが、気温は15、6度ほどに感じ、比較的過ごしやすかった。しばらく軽快に歩みを進めるうち、大きな街にたどり着いた。
そこで私の予想は、再び裏切られることとなる。私を運んでいた男、馬車、それまでの草原や石造りの道路から、中世ファンタジーのような文化水準を予想していたが、その街は文明が奇妙に混ざり合っていた。大理石のような白く美しい建築物は、新宿の高層ビルのように高く、その周辺は、歯車や蒸気で動く装置が囲っている。これが動力源なのかと推測できるが、店の看板はネオンで照らされており、電気が使われているようでもあった。看板の一つには、日本語で「デカ肉店・デカお」と書かれている。私の持つ黒い本が日本語で書かれていた理由は、この世界にも日本語があるからなのか?しかし、そもそも日本という概念があるのか?
自分の頭だけで考えることに限界がきたため、誰かにこの世界の仔細を尋ねることに決めた。往来の人々の様子も様々で、麻布の黒いフード付きローブを着込んだ、いかにもファンタジー世界の魔術師といった様子の者もいれば、機械のような銀色の指をカチカチと鳴らして歩く男、狐のような獣の耳を生やした露天商などが目に入る。顔つきは西洋風の者もいれば、日本人に比較的近い者もいる。まだ言語についての確信が持てなかったため、私は日本人の顔つきに近い者に尋ねることを決めた。
街をしばらく歩くと大きな噴水の前に出た。四方から道路が伸びている点から、街の中央部のようである。噴水を囲ってベンチが並び、植木が整えられている美しい景観に思わず息を呑んだ。ベンチの一つに腰をかけ、ぼんやりと噴水を眺める70歳ほどの老人に、勇気を持って声をかけることにした。年寄りで耳が遠いといけないので、大きな声で叫ぶように、ここはなんですか、と聞いたが、老人は「びっくりした!うひー!知らん知らん!そんなん知らんって!!」と言い捨てて走って逃げてしまった。
やっぱり昼間からベンチで休んでるようなジジイは、異世界でも日本でも頼りにならないな、ハズレを引いてしまったと、私は黒い本で自分の胸を叩き、地団駄を踏んで大声で泣いた。すると、憐れに思ったのか、一人の若い女性が声をかけてくれた。黒髪のボブカットと澄んだ大きく黒い瞳が特徴で、素朴だが整った顔立ちの、清潔感のある美しい女性であった。女性は「何かお困りですか?力になれるかわかりませんが……」と、優しく、恐る恐る訪ねてくれた。この世界に来て初めて人に優しくされたので、私はその感動を表そうと頭の上で手を激しく叩きながら彼女の周りをぐるぐると走り回り、これまでのことを細かに伝えた。
「なるほど……」と、難しそうに眉間に皺を寄せつつ、彼女は私の疑問にできるだけ答えようと努めてくれた。なんでも、この街は「アル=ラティーナ」という都市で、交易の中心地であるために、様々な文化が混ざり合っているのだという。彼女は私の目をしっかりと見つめながら色々と丁寧に教えてくれたが、情報を洪水のように浴びた私は、途中で覚えられなくなってしまった。
覚えているのは、私が元いた地球に対応するこの地の名は「エリオスト大陸(Eliost)」といい、「Elios(太陽)+St(静けさ)」、すなわち光のもとで穏やかに暮らす場所を指すのだという。
また、いくつかの言語が存在するが、私や彼女が使う日本語に対応する言語は「アヴァレ語(Avare)」であるといい、「Ava(風)+Re(言葉)」、すなわち風のように流れる、変化に富んだ言葉であるという。会話は素朴で親しみやすく、しかし詩になると美しいという特徴も日本語に共通していた。私は最初、「アッパレ語」だと聞き間違え、アッパレアッパレと叫んでいたが、女性に真剣に嗜められてしまった。「アッパレ(App +Aulle)」はアヴァレ語で「うんこが漏れる」を指す言葉らしい。無知とは恐ろしいものである。
種族も様々存在するらしいが、人間族は「ノアリア(Noaria)」といい、「Noa(静寂・理)」+「Aria(調和・民)」が語源であるという。彼女や、先ほど走り去っていったジジイ(思い出すとムカつく)は、ノアリアの中でも「ヤシュレ(Yashure)」という種族で、これが日本人に相当するようだ。しかし、私の1番の疑問、すなわち私がなぜこの世界に来たのか、そしてこの本を書いたのは誰なのかという点については、彼女も全くわからないようであった。
「ただ……アーカラのセリオムであれば、何かわかるかもしれません」
「アーカラ(Aarkala)」は、外見は人間族に近いが魔法分野に精通した知識の種族であり、主に彼らが務める、高等魔導学を専門とする学者のような職業を「セリオム(Seriom)」と呼ぶらしい。彼女はこの街のセリオムの居場所を教えてくれた。私は、地図を書いてほしいと黒い本の表紙をめくった。するとその1ページ目には、これまでになかった文字が浮かんでいた。
「彼女が現れる前に、契約が交わされてはいけない」
その意味こそわからなかったが、この本の余白に地図を書くのはどうにもマズイと思ったので、他の紙に書いて渡してもらった。彼女に別れを告げる前に、アッパレはどこでできますか、と聞いたが、彼女は戸惑ったような呆れたような表情で去っていってしまった。私は本当に脱糞したかったのだ。トイレを借りるため(あれば良いのだが)、私は地図に書かれたセリオムの元に駆け出した。
この世界でのトイレは、「星霧の小殿」と呼ぶ。「星霧」は、“排泄の浄化”を司る神秘的な霧であり、汚れを星の塵に変えるという伝承があるという。「小殿」は書いて字のごとく、神聖な個室、静寂の空間という意味である。一般的に、友人や家族では「しょでん」と呼び、田舎の方では「星小屋」、この「アル=ラティーナ」のような都市部や若者の間では「シャム室」と呼ぶそうだ。
紙の中でも、聖なる綿の木「カローナ・ツリー」から採れる繊維で作られた紙を「星綿紙」と呼び、ふわふわで、肌に触れた瞬間スッと分解される。清潔かつ無痛であることから、日本で言うトイレットペーパーとして用いられることが多い。一部の貴族の間では桃の香りがついている星綿紙が愛用されているらしい。
ウォシュレット的な存在もある。「精霊の慈流」と呼び、小殿の座面に座ると、自動で水の精霊「スイルネ」が召喚される。彼女が「やさしさ100%の癒し流」で尻を洗い流してくれるのだ。貴族用には温水モードや乾燥モードがあるとのことで、さらに宮廷レベルにいたると、至れり尽くせりの"フルスイルネ対応型しょでん"が存在しているらしい。尻を洗ってもらっている時、私はスイルネに、人間の尻を洗うのは嫌じゃないかと訪ねたが、人間が家畜の体についた泥をホースで洗い流すようなもので、あまり気にならないらしい。私は流れていく小殿に向かって、ありがとうと伝えた。
「えーと、あとは、古代の神殿に存在している特別な浄化装置があってね……。私のようなセリオム(魔法学者)は、これを「光洗の碑」と呼んでいる。現代の「シャム室」ではあるが神具レベルの装置でね、排泄物が自動で小宇宙に封印されるという代物だ。この使用者は“清き者”として讃えられ、神官から「光洗の碑証明書」が発行されることで初めて使用が認められたと文献には……」
私にしょでん(トイレ)を貸してくれて、かつその文化を教えてくれるのは、骨董品屋を営む元セリオムのラズロ(Lazro)さんだ。見た目は40代ほどで、髪や顎髭にシルバーが混じった渋い長身男性である。左目から頬にかけて、黒い魔法陣のような紋様が浮かび上がっており、これが魔術に熟達したアーカラ人の特徴であるという。
「いや、というか君は……私に何か重要な用があったんじゃないか?なぜそんなにシャム室のことを事細かに聞くんだ……?本当にアプ(うんこ)したかっただけなのか?」
もちろん違うが、アプも重要な用事には違いなく、また、トイレは文化水準を知るための重要な要素になるからだと伝えると、ラズロさんは「確かに……」と、深く頷いて納得してくれた。アッパレでスッキリしたので、私はこれまでの経緯と、例の黒い本について尋ねた。
「なるほど……。それならば、私を訪ねたのは正解だったようだ。この本、装丁からしてラステル=ティアナのものだ。文字遣いに特徴があって、間違いなくセレノだろう。イーヴェル=ガルドのルクス・ノワールにおけるユグド=コードが……」
待って!私は叫んだ。これ以上知らない言葉が出てきたら、またアプが出ちゃうから!!なるべく簡単な言葉で教えて!と、ラズロさんの足元に縋りつき、泣きながら懇願した。
「あっ、ご、ごめんね……!泣かないで……!えっと、つまり、これはめっちゃ古い都市の、今使われてない書体で書かれた本だよ。昔は、めっちゃ怖い魔物と人間がバチバチしてた…えーっと、激ヤバ裏世界みたいなところがあってね、そこにある、魔族のお城で作られた本がこんな感じだったって、聞いたことがあるよ!」
めっちゃわかりやすかった!ありがとう!と、私はラズロさんの手を握り、お礼を言った。ついでに、この書き手とその目的に見当がつくか訪ねた。
「そこが不思議なのだ……えっと、わからないんだよね。異世界から人を呼ぶなんて、アーカラ……私たちでもできないもん。きっと魔族のしわざだろうね。すっごく、危ない感じがするよ」
しかし、恐れは進展を生まないのである。このままでは、私がこの世界に来た理由も、戻る方法もわからない。せめて、この書き手が「私をみつけて」と述べた真意にたどり着かなければならないのだ。
「君の言うとおりだね。私のほうでも調べてみることにするよ。君は……この街から南に進んだところにある廃墟を探索してみるといい。激ヤバ世界とこの世界をつなぐ神殿だったと言われていて、今でも当時の本とか遺品が見つかることがあるよ。それに……」
ラズロさんは、一呼吸おき、私の方を見つめる。
「その本、文字が浮かび上がったんだろう?それは、君が“正解”だからだろう。導こうとしているんだ。だから、君が真実に辿り着こうとするなら、その本が道を示すはずだ」
しばらくすると、骨董品屋の前にラズロさんが手配した馬車が停まった。代金はラズロさんが先払いしてくれたらしい。私は何度もお礼を言い、店を後にしようとしたが、「ところで……」と、ラズロさんが呼び止めた。
「なぜ君は服を着ていないんだい?」
確かに、言われてみればこの世界の人たちは、みんな服を着ている。当然のことであり、疑問にも思っていなかった。
「なぜって……夜の公園行くだけだから、別に服着なくても大丈夫かなって思って……!あと、もしドッキリだったら、逆にこっちが全裸だったら仕掛け人をビックリさせられるかなって思ったから……!えっ!もしかして、この世界は全裸ダメなの!?」
「なるほど……」ラズロさんは大きく頷いて納得してくれた。
「いや、別にダメじゃないよ。地方にもよるけど、エリオスト(この世界)で明確に犯罪とされるのは、盗み、暴力、殺人くらいだよ。なんで服着てないんだろう、寒くないのかな、恥ずかしくないのかなってみんな思うだろうけど、特別ダメってわけじゃないよ」
ルールじゃなくてモラルの問題か!よかったー!私は胸を撫で下ろし、馬車に足をかけた。ゆっくりと車輪が回り始め、手を振って見送るラズロさんがどんどん小さくなっていく。目指すは南方3キロ先。旅はまだ始まったばかりだ。