第三章 上海の灯火
夕闇が迫る天草の屋敷で、胡蝶は上海での日々を思い返していた。庭の灯籠に灯が入り、その光が雪路の横顔を柔らかく照らしている。
「上海という街は、まるで光の海のようじゃった。港には世界中の船が行き交い、街には様々な国の人々が暮らしていた」
胡蝶は懐かしむように目を細める。
「私が教鞭を執った宣教師の女学校は、租界の一角にあってな。そこで出会ったのが、マリア・ローズ先生じゃった」
雪路が身を乗り出すように聞き入る。
「初めて彼女とお会いした時のことは、今でも鮮明に覚えているよ。校舎の裏庭で、一人静かに数珠を握りしめていらした」
胡蝶は古い数珠を手に取り、その感触を確かめるように撫でる。
「その時、私の持っていた数珠を見て、マリア先生は驚きの声を上げられた」
「その数珠……。まさか、あなたは花柘榴さんの……?」
「その一言で、私の心臓は大きく跳ね上がった。母の名を、この方が知っているなんて……」
胡蝶の声が震える。雪路は静かに手を重ねてきた。
「マリア先生は、長崎の丸山遊郭で働いていた頃の母のことを、少しずつ話してくださった。母は、遊女でありながら、密かに深い信仰を持っていたそうじゃ」
庭の灯籠の明かりが、風に揺れる。
「夜な夜な、こっそりと祈りを捧げていた母のことを、マリア先生は涙ながらに語られた。そして、出島の通詞だった父のことも……」
「おばあ様、それで真相が……?」
「いいや。マリア先生は、その核心に触れる直前に、激しい咳に襲われたのじゃ」
胡蝶の表情が暗く沈む。
「それから数日後、私は先生の臨終に立ち会った。最期の時、先生は私の手を握り、震える声でこう告げられた」
「天草の……古い蔵に……あなたの求める真実が……。花柘榴さんが、そこに……」
「しかし、その言葉の続きを聞くことは叶わなかった」
静寂が二人を包む。遠くで波の音が聞こえる。
「ただ、臨終の直前、先生は不思議な言葉を残された」
「月の鏡に映る真実を、あなたは必ず見つけるでしょう」
胡蝶は深いため息をつく。
「その時は、その言葉の意味が分からなかった。でも、何か大切な手がかりを示唆されているような気がして……」
庭の木々が風に揺れ、灯籠の光が揺らめく。
「マリア先生との出会いは、私の人生の大きな転換点となった。母の存在が、少しずつ具体的な像を結び始めたのじゃ」
雪路が静かに頷く。
「その後、私は天草への帰郷を決意した。たとえ古い蔵が残っていなくても、きっとそこに何かがある――そう信じてな」
夜の帳が降りてきた天草の空に、一つの星が瞬く。
「人は誰でも、自分のルーツを求めて歩むものじゃ。私の上海での日々は、その歩みの重要な一歩だった」
胡蝶は立ち上がり、庭の灯籠の明かりを見つめる。
「雪路、あの頃の私は、まだ真実の半分も知らなかった。でも、それでも前に進むことができたのは、マリア先生のような導き手がいてくれたからじゃ」
月が昇り始め、その光が庭を静かに照らしていく。
「月の鏡に映る真実――。今になって思えば、それは単なる手記の在り処を示す暗号ではなかったのかもしれない。私たち一人一人の心の中に映る、魂の記憶なのかもしれんな」
夜風が、二人の間を優しく通り過ぎていった。