第二章 旅立ち
明治四十五年の春の陽が傾きはじめ、胡蝶は縁側で懐かしい記憶を辿っていた。雪路の真摯な眼差しを受けながら、彼女は静かに語り始めた。
「長崎に向かう汽船の甲板で、初めて見た街の風景を、今でも鮮明に覚えているよ」
潮風が二人の間を優しく通り過ぎていく。
「十五の春――私は長崎女学校への進学を決意したのじゃ。お種さまは最後まで、私の決心を優しく支えてくれた」
胡蝶の声は、遠い記憶の方へと向かっていく。
「港に着いた時、何もかもが目新しくて……。石畳の坂道、異国の香りの漂う街並み、そして遠くに見える出島の景色。すべてが私の心を揺さぶったよ」
雪路は息を呑むように聞き入っている。
「そして、その女学校で出会ったのが、早苗じゃった」
胡蝶の瞳が、懐かしさと哀しみを湛えて潤む。
「蘭学者の娘だった早苗は、まるで別世界の人のように私には映った。洋書を自由に読みこなし、西洋の音楽を奏で、そして何より――自由な精神を持っていた子じゃ」
胡蝶は古い数珠を握りしめながら、当時を振り返る。
「ある日、早苗が私の部屋を訪ねてきた時のことじゃ。彼女はこの数珠を見て、不思議そうに首を傾げた」
「西洋のロザリオに似ているわね?」
「その一言で、私の心は大きく揺れたのじゃよ」
胡蝶は深いため息をつく。
「その後、早苗と私は、こっそりと大浦天主堂に通うようになった。そこで見た祈りの形は、どこか懐かしいものに思えてな……」
雪路の目が輝きを増す。
「でも、早苗の探求心は、時として危険なものを孕んでいた。彼女は私の出自に強い関心を示し、古い記録を探り始めたのじゃ」
胡蝶の表情が曇る。
「出島の古い記録の中で、彼女は一つの名前を見つけ出した。天草朔夜――私の父の名じゃ」
庭に春の陽が落ちていく。その光が、まるで過去の光景のように揺らめいていた。
「しかし、その直後――早苗は突然の病に倒れた」
胡蝶の声が震える。
「毎日のように看病をしたが……。最期まで、彼女は私の手を握りしめ、こう言ったのじゃ」
「胡蝶さん、あなたの中には、きっと大切な物語が眠っているわ。私にはそれを見つけ出す時間がなかったけれど……。約束して、いつか必ず……」
胡蝶は言葉を詰まらせる。雪路が優しく肩に手を置く。
「その時の私は、まだ早苗の言葉の本当の意味を理解できていなかった。ただ、彼女の遺品の中から見つけた上海行きの切符に、不思議な運命を感じたのじゃ」
「それで、上海へ……」
「そうじゃ。早苗の夢見た世界へ、私は旅立つことにした。そこには、きっと私の探し求める何かがあるという、漠然とした予感があってな」
夕暮れの光が、二人の姿を優しく包んでいく。
「人生とは不思議なものじゃ。一つの出会いが、思いもよらない道へと私たちを導いていく。早苗との出会いは、私の人生の大きな転換点となったのじゃよ」
胡蝶は立ち上がり、庭に降りていく。夕陽に染まった空を見上げながら、彼女は静かに続けた。
「雪路、あの頃の私は、まだ自分の歩む道を明確には見出せていなかった。でも、早苗との出会いが、私に新しい視界を開いてくれた。そして、その視界は今、あなたとの出会いによって、さらに広がっているのかもしれんな」
遠くで潮騒が響いている。それは三十五年前、長崎で聞いた波の音と、どこか似ているような気がした。




