第一章 天草の記憶
明治四十五年三月、天草の海は春の光を湛えていた。五十歳になる天草胡蝶は、古い屋敷の縁側で、養女の雪路とお茶を飲んでいた。
「おばあ様、あの写真のことを聞かせていただけませんか?」
雪路が指さした先には、色褪せた写真が掛けられている。幼い女の子と、優しく微笑む女性の姿。
「あれは私が七つの時の写真じゃ。隣におるのが、私を育ててくれたお種さまじゃよ」
胡蝶は遠い目をした。古い記憶が、潮騒のように押し寄せてくる。
「本当の両親のことは、覚えておられないのですか?」
雪路の問いに、胡蝶は静かに首を振った。
「覚えておらぬ。ただ、お種さまから聞いた話では、二人とも信仰のために命を落としたそうじゃ。それはお前と一緒に読んだあの記録からもわかるじゃろう」
縁側に置かれた古い数珠が、春の日差しを受けて静かに光っている。お種から受け継いだその数珠には、どこか西洋的な趣があった。
「七つの時、お種さまはこう言われた。『あなたの本当の両親は、大切なものを守るために命を落とされた。でも、その大切なものは、今もあなたの中に生きているのよ』とな」
雪路の瞳が、深い共感に満ちて輝いた。彼女もまた、胡蝶が引き取るまでは、孤児として生きてきたのだ。
「その後、お種さまは詳しいことを何も語ってくれなんだ。ただ、この数珠だけは『あなたの母さまの形見』と言って、私に託してくれたのじゃ」
春風が庭の木々を揺らし、若葉のそよぎが心地よい音を立てる。
「天草での暮らしは、とても静かで穏やかじゃった。お種さまは厳しい中にも慈愛に満ちた方で、多くのことを教えてくれた。読み書きはもちろん、生きることの意味について」
胡蝶は立ち上がり、庭に降りた。梅の木の下には、まだ幼い頃の彼女が遊んだ形見の石が残っている。
「でも、十五になる頃には、どうしても知りたくなってきた。本当の両親のこと、そして『大切なもの』とは何だったのかを」
遠くで潮騒が響いている。それは五十年前も、同じように響いていたのだろうか。
「雪路、長い話になるが、聞いてくれるかい?」
養女の優しい微笑みに、胡蝶は心を決めた。自分の半生を、そして両親の物語を語り継ぐ時が来たのだ。
「はい。どうかお聞かせください」
胡蝶は古い数珠を手に取り、静かに語り始めた。
半世紀前の記憶が、まるで春の潮のように胡蝶の心に寄せては返していった。
胡蝶の記憶は、天草の片隅で過ごした日々へと遡っていく。
「私たちの住んでいた家は、この屋敷よりもずっと小さなものじゃった。でも、お種さまは日々の暮らしの中に、美しさを見出す方じゃった」
雪路は息を呑むように、その言葉に聴き入っている。
「毎朝、お種さまは仏壇に水と花を供えられた。そして、こっそりとその横に、この数珠を置かれたのじゃ」
胡蝶は古い数珠を、ゆっくりと指の間で転がした。
「ある日、私が『どうして仏様とお数珠を一緒に置くの?』と尋ねた時のことじゃ。お種さまは不思議そうに微笑んで、こうおっしゃった。『大切なものは、形を変えても、心の中で一つになるのよ』とな」
潮風が、梅の木の若葉を揺らしていく。
「当時は、その言葉の意味が分からなかった。でも、七つの時に聞かされた本当の両親のことと、何か関係があるような気がしてな」
胡蝶は立ち上がり、屋敷の奥へと歩いていった。古い箪笥から、一枚の掛け軸を取り出す。
「これは、お種さまが大切にしていた掛け軸じゃ。表からは普通の山水画に見えるが……」
胡蝶が裏地を少し剥がすと、かすかに十字の印が見える。
「この印を見つけたのは、十歳の時じゃった。慌てて隠そうとするお種さまに、初めて気づいたのじゃ。この家には、何か秘密が隠されているということに」
雪路の瞳が、深い理解の色を湛えていく。
「その後、私は周囲をよく観察するようになった。日曜日になると、お種さまが必ず裏山の古い祠に参るのも、不思議に思えてな」
胡蝶は窓辺に立ち、遠くの山並みを見つめた。
胡蝶の目が、遠い記憶を見つめるように細められた。その表情には、幼い日の鮮明な記憶が浮かび上がっている。
「あれは、小雨の降る日曜の夕暮れ時じゃった。お種さまが、いつものように裏山へ向かわれるのを、こっそりと後を追った」
胡蝶は、その時の情景を一つ一つ、大切な宝物を取り出すように語っていく。
「山道は湿って滑りやすく、足音を立てないように必死じゃった。お種さまの背中が、霧の中にぼんやりと浮かんでいてな」
雪路は、まるでその場面を目の当たりにしているかのように、身を乗り出して聞いている。
「古い祠は、杉木立の中にひっそりと佇んでいた。屋根は苔むし、柱には蔦が絡みついている。一見すると、誰も寄り付かないような場所じゃ」
胡蝶は、当時の緊張を思い出すように、一瞬言葉を詰まらせた。
「祠の中から、かすかな明かりが漏れていた。覗き込むと、十人ほどの村人たちが、ろうそくの灯りを囲んで輪になって座っていた。お医者の山本先生も、魚屋の喜助さんも、いつもとは違う厳かな表情をしておられた」
その時の光景は、五十年の時を経ても、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
「<パーテル ノステル、クィ エス イン チェリス>――そんな不思議な言葉が、低く静かに響いていた。誰かが数珠を繰る音も聞こえた。でも、それは寺院で聞く読経とは、まったく違う響きじゃった」
庭の月明かりが、胡蝶の横顔を優しく照らしている。
「木の枝を踏んでしまって、その音で私の気配に気付かれた。お種さまが振り返られた時の表情は、今でも忘れられない。驚きと、悲しみと、そして深い慈しみに満ちた眼差しじゃった」
雪路の目に、涙が光る。
「その夜、お種さまは私を膝の上に座らせ、長い沈黙の後で話し始められた。『胡蝶、あなたには本当のことを知る時が来たようです』って」
胡蝶は、古い数珠を握りしめる手に力を込めた。
「お種さまの静かな声が、今でも耳に残っている。『この里には、表の顔と裏の顔を持って生きる人たちがいます。月が満ちては欠けるように、表と裏の境界を行き来しながら、大切な信仰を守り続けてきた人たち。そして、あなたのお父様とお母様も、その一人だったのです』」
夜風が吹き、庭の木々が静かにざわめいた。まるで、五十年前の祠の中の祈りが、今もなお響いているかのように。
「その時初めて、私は自分のルーツの一端を知った。でも、それは同時に新たな謎の始まりでもあった。父母は何を守るために命を落としたのか。そして、私は何を受け継いでいるのか」
胡蝶は月を見上げた。その横顔は、幼い日の記憶と現在の思いが重なり合い、不思議な輝きを放っていた。
春の陽が傾きはじめ、庭に長い影を落としていく。
「それからというもの、私の心には大きな疑問が芽生えた。両親は何を守るために命を落としたのか。そして、私は何を受け継いでいるのか」
胡蝶は再び縁側に腰を下ろした。
「十五になるまでの日々は、そんな想いを胸に秘めながら過ごしたのじゃ。表向きは普通の暮らしをしながら、心の中では常に、本当の自分とは何かを探し求めていた」
潮騒が、遠くから優しく響いてくる。
「私が天草を出ることを決意したのは、十五の春じゃった。長崎の女学校に進学することになったのじゃが……」
そこで胡蝶は言葉を区切り、深い物想いに耽った。
「私が長崎行きを決意した時、お種さまは深い理解を示してくれた。『あなたの心の中に芽生えた想いは、きっと両親から受け継いだもの。その道を進みなさい』とな」
胡蝶は古い数珠を、大切そうに胸に抱いた。
「雪路、人は時として、自分でも理解できない力に導かれるものじゃ。私の長崎での日々は、そんな不思議な導きから始まったのじゃよ」
夕暮れの光が、二人の姿を優しく包んでいた。




