第六章 新たな暁
明治四十五年三月十五日の朝、胡蝶は一通の手紙を書き始めた。宛先は、五十年前に世を去った父と母。読むことのない相手への手紙――しかし、彼女の心は不思議な晴れやかさに満ちていた。
「おばあ様、新しい筆と紙をお持ちしました」
雪路が差し出した文具は、まるで父の手記に使われていたものと同じような質のものだった。
「ありがとう。さて、どう書き始めようかのう」
胡蝶はしばらく筆を止め、庭の桜を見つめた。満開の花が、朝日に輝いている。
『敬愛なる父上、母上へ』
筆が、すうっと和紙の上を滑っていく。
『この度、偶然にも父上の手記と母上の日記を見つけ、その全てを読み終えました。五十年の時を超えて、お二人の深い想いに触れることができ、この上ない喜びを感じております』
雪路が、そっと胡蝶の肩に手を置いた。
「続きをお書きください」
『父上の凛とした生き様、母上の強く美しい魂。そのどちらをも、この私は受け継いでいるのだと、今になって深く感じております。父上が出島で見つめた海も、母上が丸山で眺めた月も、今この瞬間、私の目に映るそれらと同じもの。時は流れても、変わらないものが確かにあるのだと知りました』
筆を置いて、胡蝶は古い数珠を手に取った。
「おばあ様、これを」
雪路が、一枚の写真を差し出す。それは、この家の前で撮った、胡蝶と雪路の写真だった。
『同封の写真は、私と養女の雪路です。母上がよくおっしゃっていた「新しき世の夜明け」は、このような形でやって参りました。今、私たちは自由に信仰を持つことができ、心のままに祈りを捧げることができます』
窓の外で、一羽の白い鳥が舞い降りた。
『父上の手記に記された「魂の記録」と、母上の日記に記された「祈りの証」は、確かに受け継がれております。雪路もまた、その意味を深く理解し、新しい時代の中で、古きよき魂を守り続けていく決意を持っております』
胡蝶は、机の上に置かれた父の手記と母の日記を見つめた。
『お二人の祈りは、決して無駄ではありませんでした。それどころか、時を超えて、より深く、より確かな形で実を結んでおります。私たちは、自由な祈りができる世の中で、なおかつお二人から受け継いだ魂の尊さを忘れることなく、日々を過ごしております』
「おばあ様」
雪路の声が、優しく響いた。
『最後に、これだけは必ずお伝えしたく。「父上、母上、私は幸せです」と』
桜の花びらが、一陣の風に舞い上がった。
『心からの感謝を込めて』
胡蝶は静かに筆を置いた。雪路が、そっと手紙を受け取る。
「この手紙を、どうなさるおつもりですか?」
「蔵の中に、父母の記録と共に納めるのじゃ。いつか、また誰かがこれを見つける時が来るかもしれない」
胡蝶は立ち上がり、庭に出た。桜の木の下で、静かに目を閉じる。
『<月は満ち、新たなる夜明けを待ちて>』
母の最後の暗号文が、心の中で響いた。
「おばあ様、お茶の用意ができました」
雪路の明るい声に、胡蝶は目を開けた。新しい朝の光が、庭いっぱいに溢れている。
「さあ、行きましょうか」
二人は縁側に腰を下ろし、桜を見上げた。花びらが光に透けて、まるで天からの手紙のように見える。
「父上と母上は、きっと喜んでおられますよ」
雪路の言葉に、胡蝶は静かに頷いた。五十年の時を超えて、魂の継承は確かに成し遂げられた。それは新たな暁の始まり。父母が命を賭して守り抜いた祈りは、今、清々しい光となって降り注いでいた。