第五章 魂の継承
夕暮れ時、胡蝶は古い数珠を手に、庭の石段に腰を下ろしていた。五十年前、母もこんな風に数珠を繰りながら、祈りを捧げていたのだろうか。
「おばあ様、父上の手記の中に、不思議な記述を見つけました」
雪路が、一冊の手記を開く。
『<蒔かれし種は、春の訪れを待ちわびておる。東風に乗りて、新たなる命の芽吹きあり>』
「これは……」
胡蝶は母の日記を開いた。そこには、まるで父の言葉に呼応するかのような記述があった。
『<御身の真珠は、確かな光を放ちました。慈しみの御手の中で、安らかに眠っております>』
「私の誕生の時の記録じゃ」
胡蝶の声が震えた。自分の誕生が、父母にとってどれほどの祝福であり、同時に苦悩であったかを、今になって深く理解できる。
「そういえば、おばあ様はどのように育てられたのですか?」
雪路の素直な問いに、胡蝶は遠い目をした。
「天草の片隅で、ひっそりとな。母の知人たちが、密かに育ててくれたのじゃ」
胡蝶は古い数珠を掌で温めながら、記憶を辿る。幼い頃の断片的な思い出。優しい声で祈りを教えてくれた女性たち。そして、時折こっそりと会いに来ては涙を流していった母の姿。
『わが子よ。父は御身を、直接その腕に抱くことは叶わなかった』
父の手記の言葉が、胸に染みた。
「父上の想いは、確かに届いていたのですね」
雪路の言葉に、胡蝶は静かに頷いた。
「そうじゃな。父の祈りは、この五十年間、ずっと私を見守っていてくれたのじゃ」
空には、満月が昇りつつあった。母の日記を開くと、その最後の頁に記された言葉が、月明かりに照らされて浮かび上がる。
『此の記録は、我が子への伝言として。いつの日か、この記録を読む時が来よう。その時には、この国にも自由な祈りが許される世が来ているやも知れぬ』
「母の祈りは、叶ったのですね」
雪路の言葉に、胡蝶は深い感慨を覚えた。今、この国では自由に信仰を持つことができる。父母が命を賭して守り抜いた祈りは、確かに次の世代へと受け継がれている。
「雪路、お前にも分かるかい? この数珠の意味が」
胡蝶は大切に数珠を雪路に手渡した。
「はい。これは単なる形だけのものではありません。魂の記録、そして祈りの証なのですね」
雪路の瞳が、月明かりに輝いた。
『此の記録に記されし符牒の意味を理解する時、汝は我らの血を引く者としての自覚を持つであろう』
母の言葉の真意を、今、胡蝶は深く理解していた。それは単なる血縁の問題ではない。信仰と祈りの継承、そして魂の絆なのだ。
「おばあ様、私にも教えていただけますか? 祈りの言葉を」
雪路の真摯な願いに、胡蝶は優しく微笑んだ。
「もちろんじゃよ。それこそが、父母が望んでいたことなのじゃから」
胡蝶は古い数珠を手に、庭の中央に佇んでいた。雪路もまた、母から受け継いだという古びた数珠を握りしめている。月光が二人の姿を銀色に染め上げ、その影は石畳の上に長く伸びていた。
「主の御名によりて」
胡蝶の囁くような声が、夜の静寂を破る。雪路も静かに目を閉じ、祈りの姿勢をとった。
『天の御父の愛により、月の光の如く我らを照らしたまえ
<オラショ デウス ノステル>
慈悲深き御神よ、今宵も御身の御名を讃え奉る
我らが魂の内なる光を、永遠に守りたまえ
<サンタ マリア オラ プロ ノビス>
天草の波間を渡りし祈りの言葉よ
出島の石畳に刻まれし父の想いよ
丸山の灯に映えし母の祈りよ
今、この地にて一つとなり、永遠に響かん
<アーメン サルヴァ ノス>
月光の如く清き御心もて
我らが道を照らしたまえ
闇を抜けて歩みし父母の如く
信仰の灯火、永遠に守らん
<ドミヌス ヴォビスクム>
主の慈悲の光の下に
今この時を生かしめたまえ
過ぎし世の魂と共に
来たる世の魂のために
この祈りを捧げ奉る
<パックス ヴォビスクム>
天草の波に揺らぐ月の如く
我らが祈りを永遠に
御身の御手の中に
抱きとめたまえ
<イン ノミネ パトリス>
父より子へ
母より子へ
魂より魂へ
この祈りを永遠に
<アーメン>』
胡蝶と雪路は、この祈りを静かに、しかし確かな声で唱えていく。それは単なる暗唱ではなく、魂の深い部分から自然と湧き上がってくる言葉のようだった。ラテン語の断片は、意味を完全には理解していなくとも、そこに込められた想いは確かに二人の心に響いている。
時折、潮騒の音が祈りの言葉に重なり、まるで応答するかのように響く。月光の中で、二つの数珠が静かに光を放ち、魂の継承を静かに見守っているようだった。
木々の葉が風に揺れ、その音が波のように庭を渡っていく。古い灯籠の明かりが、ゆらゆらと揺らめいている。
「この祈りの言葉は、私の母が密かに唱えていたものじゃ。丸山遊郭の二階座敷で、客が去った後の深夜に」
胡蝶は一つ一つの珠を、大切に撫でるように指の間を通していく。月の光を受けて、数珠の表面が不思議な輝きを放つ。
「お母様は、どんな思いでこの祈りを?」
「きっと、まだ見ぬ私のためにも祈っていたのでしょうな。そして父も、出島の片隅で同じ祈りを」
雪路の手の中でも、数珠が静かな光を放っている。二つの数珠が描く影が、月明かりの中で重なり合う。
梅の古木の枝が、風に揺れて月光を散らす。その光の粒が、まるで天からの祝福のように二人の上に降り注ぐ。
「主よ、私たちの魂をお守りください」
二人の声が重なり、庭の空間に静かに響く。その声は、かつて父母が密かに交わした祈りの言葉と、どこか似ているような気がした。
遠くで、潮騒の音が聞こえる。五十年前、父母もまたこの同じ音を聞きながら、祈りを捧げていたのかもしれない。
数珠の影が石畳の上で踊る。月の光を受けて、その動きは不思議な模様を描いていく。まるで、時を超えた魂の軌跡のように。
「おばあ様、私にも分かります。この祈りの中に込められた想いが」
雪路の目に、涙が光る。胡蝶は優しく頷き、静かに微笑んだ。
庭の隅の井戸から、かすかな水音が聞こえる。地下の深い場所で湧き続ける水の音は、まるで永遠に途切れることのない祈りの声のようだった。
月は今、天頂にあって最も明るく輝いている。その光の中で、二人の姿は銀色の輪郭を帯びて浮かび上がっていた。まるで、この世のものとも思えないような神々しさを湛えて。
古い数珠の一つ一つの珠が、月の光を受けて静かに瞬いている。それは確かに、五十年の時を超えて受け継がれてきた、魂の記録。そして、これからも受け継がれていく、永遠の祈りの証なのだった。
波の音が遠くで響き、夜風が庭を通り過ぎていく。月下の祈りは、まだしばらく続いていた。
桜の花びらが、月明かりに照らされて銀色に輝いている。その光は、まるで父母の魂が微笑んでいるかのようだった。