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【歴史信仰小説】隠されし潮騒の祈り ―見果てぬ父母への最初で最後の手紙――  作者: 霧崎薫
月の鏡

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第三章 父母の祈り

 その日の夕暮れ時、胡蝶は母の日記を膝に載せ、庭に咲く桜を見つめていた。満開の花が、夕陽に照らされて淡い紅色に染まっている。


「おばあ様、書き写しておきたい箇所がございます」


 雪路が父の手記を手にして現れた。


『バタヴィア発、東印度会社便にて到着。<主の御名により。聖なる集いは、月の輪が欠けはじむ時、潮の引く浜辺にて。松明は揺らぐとも、我らが心は揺らぐまじ>』


「暗号文じゃな」


 胡蝶は目を細めた。父は通詞としての記録の中に、信仰の証を巧みに織り込んでいたのだ。


「母の日記にも、似たような暗号があります」


 雪路は熱心に日記を指さした。


『<雪の下に、小百合は今も息づきおり>』


「小百合は信仰を表す符牒じゃ。この国では、まだキリスト教が禁じられていた時代……」


 胡蝶の声が沈んだ。母の日記を開くと、切実な祈りの言葉が並んでいた。


『医師殿が、また来訪。今度は珍しい薬種を見せてくださる。その包みの中に、小さな木札が。<波の音に紛れし言葉、今宵も響く>』


「デ・ハーン医師は、二人の大切な協力者だったのですね」


 雪路の言葉に、胡蝶は深く頷いた。


 蔵の中から、古い数珠が見つかった。それは母が使っていたものかもしれない。胡蝶はその数珠を手に取り、一つ一つの珠を撫でた。


『今宵、天草殿との語らいの中で、思いがけぬ告白があった。「花柘榴殿、私めの心は、もはや御身を離れること能わず」』


 母の日記のその一節に、胡蝶の目が潤んだ。


「おばあ様、これは……」


 雪路が父の手記の一部を指さす。


『花柘榴との再会は、思いがけない展開となった。彼女は客の目を盗んで、こう囁いた。「朔夜様、御主の思し召しにより、新たな試練が参りました」』


「私を宿したときの記録じゃな」


 胡蝶は静かに目を閉じた。遊女として生きる母が、密かに子を宿すことは、どれほどの決意を要したことだろう。


 庭の桜が、夕風に揺れている。その様子が、まるで五十年前の丸山遊郭の夜桜のように思えた。


『デ・ハーン医師からは、こんな提案があった。「彼女を一時、私の診療所に匿いましょう。病人として」』


 父の手記に記された、緊迫した日々。母の日記にも、同じ時期の記録がある。


『御身の真珠は、まもなく光を放たん。その時まで、慈しみの手の中に』


「真珠というのは、おばあ様のことなのですね」


 雪路の声に、深い感動が滲んでいた。


「そうじゃ。父と母は、まだ見ぬ私のことを、そう呼んでいたのじゃ」


 胡蝶は、古い数珠を大切そうに胸に抱いた。


 日が沈み、庭に薄闇が広がってきた。桜の花は、もう白い影にしか見えない。しかし、その姿はかえって幻想的で美しく見えた。


「おばあ様、灯りをつけましょうか?」


「いいえ、このままで」


 胡蝶は、闇の中で父母の言葉に耳を傾けていた。手記と日記に記された祈りの言葉が、今も静かに響いているような気がした。


『主の御加護を、わが愛しき子よ』


 母の日記の一節が、胸に深く沁みる。


「明日は、いよいよ逃避行の記録が始まるのですね」


 雪路の言葉に、胡蝶は黙って頷いた。月が出てきた。五十年前、父母もこんな月を見上げていたのだろうか。


 桜の花びらが、一枚、静かに舞い落ちた。その様子は、まるで父母の祈りが今も天から降り注いでいるかのようだった。


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