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第二章 二つの物語

 翌朝、東の空が白み始めた頃、胡蝶は既に目を覚ましていた。夜明け前の静けさの中で、父の手記を開く。


『文久三年七月朔日、今日より、この手記を始めることとする。天気、曇天なれど、西風やや強し。潮の香り、例になく濃し』


 父の几帳面な性格を表すような、端正な文字が並んでいる。胡蝶は目を細めた。


「おばあ様、お茶をお持ちしました」


 雪路が、朝もやの立ち込める縁側に腰を下ろす。その横顔が、不思議と母・花柘榴に似ているような気がした。


「ありがとう。あなたにも読んでほしいものがあるの」


 胡蝶は母の日記を開いた。


『文久二年 睦月元日――新年の雪が、丸山の坂道を白く染めている。今年も数多の旦那衆を取り持つことになろう。されど我が心は遠き山々の彼方にある』


「なんて美しい文章……」


 雪路の目が輝いた。


「そうじゃな。母は遊女でありながら、当時としてはめずらしく字の読み書きも出来、素晴らしい教養を身につけていたそうじゃ」


 胡蝶は、手記と日記を交互に読み進めた。そこには、互いを思いながらも直接には会えない二人の、切ない想いが綴られていた。


『今日、新たな仲間を得た。成瀬萌時という若い通詞である』


 父の手記の一節に、胡蝶は目を留めた。萌時――後に父の最期を見届けた人物である。


「あの頃の出島は、まだ鎖国の名残が色濃かったのですね」


 雪路の言葉に、胡蝶は深く頷いた。


「そうじゃ。外国との窓口である出島で、父は通詞として働いていた。そして……」


 胡蝶は母の日記を開いた。


『デ・ハーン医師が、また来訪。今度は珍しい薬種を見せてくださる。その包みの中に、小さな木札が』


「暗号文ですね」


 雪路が指摘する。その通りだった。表向きは医薬品の取引を装いながら、実は密かな信仰の証を交わしていたのだ。


 朝日が昇るにつれ、二つの物語は徐々にその姿を現していく。父の手記には、出島での緊張に満ちた日々が、母の日記には、丸山遊郭での苦悩の日々が描かれていた。


『今日、花柘榴と密かに逢瀬を重ねていることが、同僚の耳に入った』


 父の手記のその一節に、胡蝶の心が痛んだ。


「危険を承知で、二人は会い続けたのですね」


 雪路の声に、深い共感が滲んでいる。


「そうじゃ。そして、その結果として、この私がいる……」


 胡蝶の言葉が途切れた。母の日記を開くと、そこには衝撃的な記述があった。


『身体の変調を感じ始めて、幾日か経つ。デ・ハーン医師に診ていただく』


「私の誕生の予兆じゃな……」


 胡蝶の声が震えた。


『これは主の授けし祝福』


 母の日記のその一文に、深い決意が込められていた。遊女として生きながら、密かに子を宿す――それは、どれほどの覚悟を要したことだろうか。


「おばあ様、お昼です」


 雪路の声に、胡蝶は我に返った。空には既に白い雲が浮かんでいる。


「もう昼なのじゃな。時が経つのを忘れるほど、心を奪われてしまった」


 胡蝶は静かに本を閉じた。これは、急いで読み終えるべき物語ではない。一つ一つの言葉に、父母の想いが込められているのだから。


「明日は、私がおばあさまのの日記を読ませていただいてもよろしいですか?」


 雪路の申し出に、胡蝶は優しく微笑んだ。


「もちろんじゃ。あなたにも、この物語を知ってほしい」


 縁側には、春の陽だまりが広がっている。五十年の時を超えて、父母の物語は今、新たな読み手を得たのだ。


 胡蝶は空を見上げた。朝とは違う雲が、静かに流れている。時は流れ、世は変わる。しかし、この手記と日記に記された想いだけは、今も変わることなく、確かな光を放っているように思えた。


「明日も、また一緒に読みましょう」


 雪路の明るい声が、胡蝶の深い思索を優しく包み込んだ。


 父母の物語は、まだ始まったばかり。これから先、どんな真実が明かされ、どんな想いに出会うことになるのか。胡蝶の心は、静かな期待に満ちていた。


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