花柘榴の日記
●第一章 丸山遊郭にて
*文久二年 睦月元日*
○勘定帳
店代 三十両
茶代 二両二分
菓子代 一両一分
衣装代 五両
新年の雪が、丸山の坂道を白く染めている。今年も数多の旦那衆を取り持つことになろう。されど我が心は遠き山々の彼方にある。
<雪の下に、小百合は今も息づきおり>
※(符牒解説:「小百合」は信仰を意味する)
*同年 睦月三日*
○本日の客
一番座敷 紅屋の主人 銀十枚
二番座敷 唐物屋 銀五枚
奥座敷 商館医師 応対のみ
医師殿は、またしても薬種の話ばかり。されど、その眼差しには何か深いものを感じた。
「花柘榴殿、オランダ語をご存知とか」
<海の向こうより、風は確かに吹きてくる>
*同年 睦月五日*
○衣装注文
縮緬の小袖 一枚
帯 二本
足袋 三足
女将さまより、オランダ商館の接待を命じられる。出島との取り持ちには、相応の心得が必要とのこと。
「お前は天草のお里とか。そちらの言葉も使えるじゃろ?」
<故郷の浜辺で、幾度も歌いし歌。潮騒に紛れし祈りの言葉>
*同年 睦月七日*
○座持ち道具
三味線 糸替え
手毬 新調
双六盤 修復
今日、店の古い箪笥を整理していた時、母より預かりし守り刀を見つけた。柄には小さな十字の印が。
<刀の鞘に、昔の誓い隠れおり>
*同年 睦月九日*
○客衆評判記
島田屋の旦那 素性良し
西の町の商人 取り持ち注意
出島医師 応対丁寧
医師殿が、また来訪。今度は珍しい薬種を見せてくださる。その包みの中に、小さな木札が。
<波の音に紛れし言葉、今宵も響く>
*同年 睦月十一日*
○衣装整理
小袖 三枚補修
帯 一本染め直し
櫛 二本新調
女将さまより、出島での座敷の心得を教わる。
「お前には、いつもと違う心得が必要じゃ」
その言葉の意味を、私は悟った。
<月の光に、古りし文字が浮かび上がる>
*文久二年 睦月十五日*
○諸経費
香料 一分二朱
化粧料 二分
手燭代 一朱
湯銭 三朱
今宵、奥座敷にて商館医師デ・ハーン殿の接待。薬種の話の後、思いがけぬ言葉を耳にする。
「マリアの加護を」
<灯火の影に、古りし祈り浮かびて>
*同年 睦月十八日*
○客衆動向
紅屋様 来月早々
商館様 今週末
島田様 月末
デ・ハーン殿より、出島通詞についての話を伺う。中でも天草という通詞が、オランダ語に長けているとか。
<波の彼方より、新しき風が吹きて>
*同年 睦月二十日*
○座敷調度
屏風 一双
手燭 二本
茶碗 一揃
今日、初めて天草通詞にお目にかかる。思いの外の若さに驚く。されど、その眼差しの奥深さに、胸が高鳴る。
「花柘榴殿、オランダ語がお上手とうかがいました」
<春を待つ蕾のごとく、心ときめきぬ>
*同年 睦月二十三日*
○献立帳
吸物 鯛
造り 平目
煮物 筑前
酒肴 数種
天草殿、再び来訪。今度は商談の通訳という名目にて。座敷での立ち居振る舞い、まことに上品。
<月下の波のごとく、心澄みわたる>
*同年 睦月二十五日*
○仕入れ物
白粉 一箱
紅花 若干
櫛笄 一式
手拭 五反
今宵、天草殿と言葉を交わす機会があった。その時、彼の袂より落ちた扇子に、見覚えのある印が。
「これは……」
「花柘榴殿、御身もまた……」
<闇夜に咲きし花は、同じ色なりけり>
*同年 睦月二十八日*
○客衆評判記追記
天草通詞殿 素性良し、取り持ち要注意
商館医師殿 薬種話多し
島田様 変わらず上客
天草殿との語らい、いよいよ深まる。されど、周囲の目は厳しく、慎重にならざるを得ない。
<月影に寄り添う舟の、波間を漂うごとく>
*同年 睦月晦日*
○月間勘定
上がり高 六十両余
諸経費 二十両
差引残 記載略
この月を締めくくるに当たり、心に深く刻まれし出来事を記しておかねば。天草殿との出会いは、必然であったのやも知れぬ。
<雪解けの頃、新たなる芽吹きの時来たる>
●第二章 出島の通詞
*文久二年 如月朔日*
○諸事控え
衣装整え 完了
髪結い 済
化粧道具 新調
*文久二年 如月三日*
○座敷格付
一番座敷 商館役人衆
二番座敷 島田様
奥座敷 天草通詞殿(通訳用)
今宵、商談の通訳として天草殿来訪。客衆の目を盗みて、さりげなく本心を明かし合う。
「花柘榴殿、天草という土地をご存じですか?」
「私も、その浦の育ち。月の光を浴びて育ちました」
<波の音に紛れ、心の奥底に眠りし御言葉、再び目覚めん>
*同年 如月五日*
○仕入れ帳
香 一箱
手紙料 一束
筆墨 一式
デ・ハーン医師より薬種を譲り受く。その包みの中に、ひそかな文があった。
『潮風に乗りて、主の御声届きぬ』
<小暗き路地の向こう、灯火の影ゆらめく>
*同年 如月七日*
○客衆動向記録
商館役人 今週末予定
紅屋様 来週
天草殿 通訳用務にて随時
※女将様より:接待の作法に気をつけよ
「花柘榴、そなたに出島での大切な客の接待を任せる」
女将様の言葉の裏に、別の意味を感じる。
<闇夜を照らす月は、すべてを見通すなり>
*同年 如月九日*
○座敷道具
三味線 調弦済
茶碗 新調
床掛 取り替え
※裏庭の萩の様子、気にかかる
天草殿との逢瀬、短しとはいえ、心は満ちたりぬ。
「この扇子の柄の模様、天草の浦に咲く花によく似ております」
<萩の露は、祈りの涙のごとく光りぬ>
*同年 如月十一日*
○勘定書
茶代 二分
菓子代 一分
手燭代 三朱
※医師殿よりの薬種代、要確認
今日、天草殿より密かな文を受け取る。
「この歌は、浦の漁師たちが歌うものでございます」
<浦風に乗りて、古よりの歌は今も>
*同年 如月十三日*
○客衆評判追記
天草殿 礼儀正しく、上品
医師殿 薬種の知識豊富
※共に取り持ち要注意
今宵、天草殿との語らいの中で、思いがけぬ告白があった。
「花柘榴殿、私めの心は、もはや御身を離れること能わず」
<月影揺らぐ夜に、魂の契り交わしぬ>
*同年 如月十五日*
○用度控
手燭 二本
線香 一箱
経師紙 一束
※裏庭の萩の根元に埋めし品、無事
デ・ハーン医師より新たな知らせ。天草殿の真意を確かめるためという。
「彼もまた、同じ道を歩む者です」
<闇夜に咲く花は、同じ露を帯びたり>
*同年 如月十八日*
○座敷格付変更
一番座敷 商館役人衆
奥座敷 天草殿(通訳用)
※他は通常通り
今宵、ついに心の内を全て明かし合う。天草殿もまた、私と同じ信仰を持つ者と知り、胸が熱くなる。
「花柘榴殿、この想いは、主が結び給いしもの」
<月の光の下、二つの魂は一つとなりぬ>
●第三章 秘められた祈り
*文久二年 如月二十日*
○諸経費
手代 一朱
湯銭 二朱
薬種代 三分
※医師殿への礼物要検討
身体の変調を感じ始めて、幾日か経つ。デ・ハーン医師に診ていただく。
「これは……」
医師の目が、深い意味を湛えて私を見つめる。
<新しき命の芽生え、心の内に宿りぬ>
*同年 如月二十三日*
○客衆評判記
島田様 上客
紅屋様 変わらず
天草殿 通訳用務のみ
※体調により、接客制限あり
天草殿に、そのことを伝えねばならぬ。されど、その機会すら得難き日々。
「花柘榴殿、お心に何か?」
<月は満ちゆき、我が身も又、満ちゆくなり>
*同年 二月二十五日*
○仕入れ物控
白粉 一箱
紅花 少々
薬種 適量
※医師殿指定の品
デ・ハーン医師より、ある提案を受ける。
「北の寺町に、信頼できる産婆がおります」
<闇夜の道、灯火の導きあり>
*同年 二月二十七日*
○座敷調度
屏風 一双
手燭 三本
茶器 一式
※奥座敷用
ついに天草殿に真実を告げる機会を得る。
「これは主の授けし祝福」
彼の目に、喜びと不安の色が交錯する。
<春風に乗りて、新たなる命の声すでに響く>
*同年 弥生朔日*
○月間決算
上がり高 記載略
諸経費 同上
差引残 要確認
※体調不良により、計算後日
女将様に、ある相談を持ちかける。
「しばしの暇を、願い奉りたく」
「そなたの様子、かねてより気にかかっておった」
<慈悲深き御心に、感謝を>
*同年 弥生三日*
○用度控
手紙料 一束
筆 三本
墨 一挺
※隠し用度別記
天草殿より密書届く。
『北の寺町に、ひとつの庵を用意致しました』
<闇夜に浮かぶ月は、道を照らす光なり>
*同年 弥生五日*
○諸事控
髪結 延期
化粧道具 整理
衣装 たたみ置き
※当分の間、休業の心得
女将様より、ありがたき言葉を賜る。
「療養と称し、しばし身を隠すがよい」
<慈悲の雨は、すべてを潤すなり>
*同年 弥生七日*
○最終記録
店代 精算済
諸経費 清算済
※以下、記載略
今宵、月の光を道連れに、この丸山を後にする。新たな命を守るため、そして信仰を守るため。
<月は満ちて、新たなる道を照らす>
●第四章 迫り来る影
*文久二年 弥生十日*
○隠し日記
※以下、寺町の庵にて記す
薬種 服用
安胎祈祷 済
※産婆殿の指示守るべし
寺町の静けさは、丸山とは異なる趣。されど、天草殿からの知らせが途絶え、心が落ち着かぬ。
「お産までは、このままお籠もりあそばせ」
産婆のお柚殿の言葉に従うほかない。
<闇夜にも、主の御手は確かにあり>
*同年 弥生十三日*
○密記
天草殿 出島にて執務
医師殿 往診予定
※外出厳禁の旨、承知
デ・ハーン医師より報せ。出島での取り締まりが厳しくなっているという。
「天草殿は、まだ気付かれてはおりませぬ」
<嵐の前の、不穏なる静けさ>
*同年 弥生十五日*
○心覚
胎動 確か
薬湯 朝夕
祈り 七度
※産着の用意、後日
今宵、月が綺麗。丸山で過ごした日々が、遠い夢のよう。
「お腹の子も、お健やかの様子」
お柚殿の言葉に、安堵の涙。
<御身の真珠は、確かに息づき>
*同年 弥生十八日*
○密報
奉行所 動き有り
出島 厳戒
※以下、暗号にて
デ・ハーン医師が青い顔をして来訪。
「井坂殿が捕らえられました」
天草殿の身を案じる気持ちで、胸が潰れそう。
<主よ、御身の僕を守りたまえ>
*同年 弥生二十日*
○記録
体調 平常
胎動 活発
※他、記すべからず
ついに、その報せが届く。天草殿が捕らえられたという。
「お命が惜しければ、改宗なさるよう」
医師の伝える言葉に、涙が溢れる。
<月は欠け、闇は深まるばかり>
*同年 弥生二十三日*
○祈祷記録
朝 三度
昼 五度
夜 七度
※産婆殿の目を盗み
天草殿の最期の文が、医師により届けられる。
『わが子には、自由な世を』
<血潮のごとき夕陽に、祈りを捧ぐ>
*同年 弥生二十五日*
○密記
処刑 明日と決定
場所 記載略
※涙にて文字滲む
最期の別れすら叶わぬと知り、ただ祈るのみ。
「お腹の子が、お慰めですよ」
お柚殿の言葉も、遠く響く。
<月は闇に沈み、星影のみ頼り>
●第五章 新たな命
*文久二年 弥生二十六日*
○密記
夜明け前
鐘の音、遠く
※以下、涙にて記す
夜が明ければ、天草殿は主の御許へ。
「産気づきましたよ」
お柚殿の声に、われに返る。天草殿の最期の時と、新しき命の誕生が重なろうとしている。
<血潮のごとき夜明けの空に、産声は響く>
*同日 午刻*
○誕生記録
未の刻
女児
天草殿の眼差し
※以下、涙にてにじみ判読不能
天草殿の最期の時、この子は産声を上げた。
「何とお美しいお子様」
お柚殿の声が遠く響く。わが子の顔に、天草殿の面影を見る。
<主の御手により、新たなる命授かりぬ>
*同年 弥生二十八日*
○育児記録
乳付き 良好
夜泣き 少なし
※医師殿の診立て、良し
デ・ハーン医師が来訪。天草殿の最期を告げられる。
「最期まで、信仰を守り通されました」
わが子を抱きながら、涙する。
<御身の血潮は、確かにこの子に流れおり>
*同年 弥生晦日*
○決意の記
此の記録
密かに預く
※以下、暗号にて
この子と共に、天草を目指す決意を固める。そこには、まだ信仰を守る人々がいると聞く。
「お子様と共に、お気をつけて」
お柚殿との別れの言葉。
<月は再び満ち、新たなる旅路を照らさん>
*文久二年 卯月朔日*
○最終記録
此の記録は、我が子への伝言として
天草にて再び開くべし
※以下、暗号にて
わが子よ。
汝の父は、信仰を守り通した誇り高き人であった。
いつの日か、この記録を読む時が来よう。
その時には、この国にも自由な祈りが許される世が来ているやも知れぬ。
わが名は、洗礼名をマリア・ローザという。
汝の父、天草朔夜殿は、最期まで信仰を守り、そして汝の誕生を心待ちにしておった。
此の記録に記されし符牒の意味を理解する時、汝は我らの血を引く者としての自覚を持つであろう。
主の御加護を、わが愛しき子よ。
<月は満ち、新たなる夜明けを待ちて>




