第四章 帰郷
月明かりが庭を照らす中、胡蝶は最も深い記憶へと語りを進めていった。二十五年前の帰郷――それは彼女の人生を大きく変える出来事となった。
「天草に戻った時、すべてが変わっていた。見慣れた風景が、少しずつ形を変えていくのを目の当たりにして、私の心は深く揺れたものじゃ」
雪路は静かに頷く。
「駅が出来、電柱が立ち、石造りの建物が建ち始めていた。そして……」
胡蝶の声が詰まる。
「お種さまは、私の帰りを待たずに旅立たれていた」
庭の月影が、二人の間を静かに揺れる。
「最期まで私の名を呼んでおられたそうじゃ。近所の方が言うには、『胡蝶に伝えてほしい大切な話がある』と……」
胡蝶は古い数珠を強く握りしめた。
「そして、マリア先生の言葉にあった古い蔵も、既に取り壊されていた。手がかりはすべて失われたかに思えて、私の心は闇に沈んでいった」
「おばあ様……」
「そんな時に、あなたと出会ったのじゃよ」
胡蝶は優しく微笑んだ。
「確か、雨の降る日だった。市場の軒下で、一人佇んでいた幼い影。それがあなたじゃった」
雪路の目に、涙が光る。
「私はその時、お種さまに出会った日の自分を見るような気がした。天涯孤独の身で、しかし凛として生きようとする幼い魂」
「覚えています。おばあ様が差し出してくださった傘の柄が、月の形をしていて……」
「そうじゃったな。今思えば、あれも何かの導きだったのかもしれない」
胡蝶は立ち上がり、月を見上げた。
「雪路、あの日、あなたが私に尋ねた言葉を覚えているかい?」
「はい。『あなたも、本当のお母さんを探していますか?』と」
「その問いに、私の心は大きく揺れた。まるで、若き日の自分が問いかけてきたような……」
夜風が、二人の髪を優しく撫でていく。
「その後、あなたを引き取る決心をした時、周囲は反対した。『あなたはまだ若すぎる』『一人身の女が子供を育てるなど』と」
「でも、おばあ様は……」
「ええ。私には分かっていた。これは単なる偶然ではないと。あなたと私の出会いには、深い意味があると」
胡蝶は庭の隅に佇む古い井戸を見つめた。
「面白いものじゃ。私が真実を求めて彷徨っていた時、神様は別の形で答えを下さった。それが、あなたとの出会いじゃった」
井戸の水面に映る月が、かすかに揺れている。
「しかし、あなたもまた、本当の親を探し求めていた。その想いは、きっと私以上に切実なものだったろう」
雪路は黙って俯く。
「でも、おばあ様。私は今、心から感謝しています。おばあ様との出会いがなければ、私は……」
「いいや、私こそ感謝しているのじゃ。あなたがいなければ、私は真実から永遠に遠ざかっていたかもしれない」
月が天頂に昇り、庭全体が銀色の光に包まれる。
「人は誰しも、自分のルーツを求める。でも時として、その答えは思いがけない形でもたらされる。私とあなたの出会いは、まさにそうじゃった」
胡蝶は再び数珠を手に取った。
「そして今、この数珠の謎が、少しずつ解き明かされようとしている。それもまた、あなたとの出会いがあったからこそなのじゃ」
夜空に、一つの星が煌めいた。