第一章 古の箱の中に
明治四十五年三月、天草の海は春の光を湛えていた。波間に揺れる陽の光が、まるで祈りの数珠のように連なって見える。五十歳になる天草胡蝶は、古びた蔵の中で一通の手紙を手に取っていた。
「おばあ様、この箱、開けてもよろしいでしょうか?」
養女の雪路が、黒漆の箱を抱えて立っている。その横顔は、春の陽を受けて柔らかく輝いていた。
「ああ、開けてみなさい。もう半世紀も前のものじゃ」
胡蝶は静かに頷いた。蔵の奥から出てきたその箱には、「天草家記録」と記されている。長年、誰にも開かれることなく眠っていた箱だった。
雪路が恭しく箱を開けると、古びた和紙の束が現れた。その一番上に置かれていたのは、「ある殉教者の手記」と題された一綴りの紙束である。
「これは……」
胡蝶の手が、わずかに震えた。
「天草朔夜 認」という署名に、胡蝶は目を奪われた。天草朔夜――それは彼女の実父の名である。五十年の時を経て、初めて目にする父の筆跡だった。
雪路は、そっと胡蝶の肩に手を置いた。
「読んでみましょう」
胡蝶は深く息を吸い、最初の一行を読み始めた。
『この手記を読む者よ。私は今、最期の時を前にしてこれを書き記している。夜が明ければ、私の魂は主の御許へと召されることだろう。しかし、この世に残していかねばならぬことがある。それゆえに、これまでの日々を、この手記に託すのである』
文字の一つ一つが、まるで父の声のように響いてくる。五十年前、処刑される直前まで、父は何を思い、何を記そうとしたのか。
「おばあ様……」
雪路の声に、胡蝶は我に返った。箱の中には、もう一つの古い冊子が収められていた。「花柘榴の日記」と記されたそれを手に取ると、胡蝶の目に涙が浮かんだ。
花柘榴――それは彼女の実母の名である。遊女として生きながら、密かに信仰を守り、そして胡蝶を産み落とした女性。その人生の記録が、今、娘の手の中にある。
『天草朔夜殿、これからよろしくお願い申し上げます』
手記の中の成瀬萌時の言葉に、胡蝶は深いため息をついた。出島での父の日々が、まるで絵巻物のように広がっていく。
「二つの物語が、ここにあるのですね」
雪路の言葉に、胡蝶は静かに頷いた。父の手記と母の日記――それは単なる古い記録ではない。彼女の存在の原点であり、半世紀の時を超えて届けられた、魂の記録なのだ。
「月が出てきましたね」
雪路が窓の外を指さした。薄明かりの中、三日月が静かに昇っている。まるで、これから始まる物語を見守るように。
胡蝶は、父の手記と母の日記を交互に開いた。そこには、彼女の知らなかった父母の姿が、生々しく描かれていた。出島の通詞としての父、丸山遊郭の遊女であった母。そして、二人を結びつけた固い信仰の絆。
『此の記録に記されし符牒の意味を理解する時、汝は我らの血を引く者としての自覚を持つであろう』
母の日記の最後の一文に、胡蝶の心は大きく揺れた。
「おばあ様、これから毎日、少しずつ読んでいきましょう」
雪路の提案に、胡蝶は深く頷いた。これは急いで読み終えるべき物語ではない。じっくりと、父母の心に寄り添いながら、読み進めていかねばならない。
蔵の窓から差し込む月明かりが、古い文字を静かに照らしている。その光は、五十年の時を超えて、今なお変わらぬ想いを伝えているかのようだった。
『<月は満ち、新たなる夜明けを待ちて>』
母の日記の暗号文に、胡蝶は静かにため息をついた。これから始まる物語は、彼女自身の人生を見つめ直す旅となるに違いない。
「明日からは、お天気も良くなるそうですよ」
雪路の明るい声が、物思いに沈む胡蝶の心を優しく包んだ。
春の潮風が、蔵の小窓から静かに忍び込んでくる。それは五十年前、父母が生きた長崎の風と、同じものなのかもしれない。胡蝶は、手記と日記を大切に箱に納めると、静かに蔵の扉を閉めた。
明日から、新たな物語が始まる。それは、記憶の中の父母との再会の物語。そして、自らの存在の意味を問い直す旅の始まりでもあった。
「さあ、家に戻りましょう」
胡蝶は雪路に微笑みかけ、蔵を後にした。三日月は、その後ろ姿を静かに見守っていた。




