9.あなたの一番の幸せを
「エリスさんのこと忘れられないお気持ちはわかります。でも、わたくし如きが恐縮ですが、強いて言わせて頂けるなら。会社の為というより、専務ご自身の為に。お見合いをしてお相手の方と直接会って、その人となりを確かめればいいじゃありませんか。案外、専務の好みに合う方かもしれませんよ? でも、その方がエリスさんと同じように政略結婚を望んでいなかったり、或いは専務が少しでも違和感を抱いたりしたなら、そのお話は断ればいいんです」
美來は真宮の目を真摯に見つめて、はっきりと言った。
「専務にとって一番の幸せを見つけて下さい」
真宮は目を見張った。
『あなたの一番の幸せを見つけて』
昨夜、夢の中で正にエリスが言った言葉と同じではないか。
そんな偶然があるのか。
偶然?
いや、これはきっと……。
「小山くん。君は……」
西の空が赤いオレンジから藍色へと徐々に色を変えていく夕暮れ時。
昼間の穏やかな陽気が嘘のように、やや肌に冷たい風が吹いている。
真宮と美來はそれ以上は何も語らず、互いの瞳をいつまでもただ見つめ合っていた。
◇◆◇
「聞きました? 専務がお見合いをするらしいですよ!」
真宮と休日を共にした日から暫く経ってから。
秘書室に出勤してきた美來になな美が開口一番、心なしか興奮気味にそう言ってきた。
美來は手にしたバッグをデスクに置くと
「え、ええ。知ってます」
と冷静さを装いながら言った。
夕日に照らされた彼の表情を思い浮かべる。
真宮の見合いは会社にとってアドバンテージだと、美來は自分に言い聞かせる。
真宮自身が決断したとしたのなら尚更のこと。
しょせん、真宮と自分とは住む世界が違う。これでいいんだ……。
美來の揺れる胸の内など露知らず、なな美の興奮は冷めやらない。
「しかも相手はあのカクヨの令嬢ですって! もう今日は朝から社内中その噂で持ち切りだわ!」
道理でいつもより社内がざわめき、社員の動きも慌ただしいわけだ。
次期社長候補の見合い、しかも相手は大企業カクヨの令嬢とのスクープとあれば、話題にならないほうがおかしい。
「もしかして、合併でもするのかしら」
「さあ……」
「そうなったらすごいわね。リヒトとカクヨの共同開発なんて新商品も生まれるかも」
想像の域を出ない話を続けていると、噂の張本人真宮が顔を出した。
「やあ、二人とも。おはよう」
「あ、おはようございます専務」
「おはようございます」
「何やら朝から饒舌だね」
「伺いましたよ、専務。お見合いなさるんですって?」
なな美の言葉に、真宮は「やれやれ」と肩をすくめた。
「父さんにも困ったもんだ。僕が了承した途端に、もう部外に漏れるなんて。機密も何もあったもんじゃない」
苦笑いを浮かべる真宮に、美來は歩み寄った。
「お決めになられたのですね?」
「ああ。君の言う通り、とりあえずは会ってみようと思ってね」
「それはよかったです」
二人の会話を聞きながらなな美は「?」と首を傾げた。
「どういうことですか?」
「ああ、なんでもないんだ」
笑ってはぐらかす真宮に、なな美は眉を寄せる。
その時。
「小山くん? 顔色が優れないようだが」
真宮が俯いている美來の顔を訝しげに覗き込んだ。
「すみません。ちょっと体調が……」
「それは大変だ。休憩室で休みたまえ」
「いえ、それでは業務に差し障ります」
「今日の僕のスケジュールは午前中は会議だろう。午後のアポイントに間に合えばいいから、それまで暫く休んできなさい」
「申し訳ありません……。そうさせて頂きます」
美來は一礼すると、その場を辞した。
リヒトの休憩室は、都内を一望できるビルの15階にある。
見晴らしの良い窓際はもちろん気持ちがいいが、白を基調とした室内は円卓だけでなく、座り心地のよい大きなソファにクッションも置かれていて、誰もが寛げる落ち着いた空間だ。
美來は、設置されているマシンで普段は飲まないエスプレッソを淹れると、窓際の隅の席に座った。
(専務……決心されたのね)
熱いエスプレッソを飲みながら、ぼんやりと美來は思う。
見合いをするよう進言したのは自分自身。それで真宮の迷いが吹っ切れたのなら、真宮にとっても、会社にとっても喜ばしいこと。
真宮には、カクヨのような大企業の若い令嬢こそ相応しい。
自分などミリほども出る幕はない。
わかっている。
充分すぎるほど、痛いほどわかっている。
住む世界の違う人。
絶対、手が届きはしない人。
なのに……。
なんて大それた想いを抱いてしまったんだろう。
一筋の冷たい涙が美來の頬を伝い、流れ落ちた。
(専務……好きです……)
美來は初めてはっきりと自分の素直な気持ちを認めていた。
飲み慣れないエスプレッソは、不惑にして味わう失恋の苦い味がした。
◇◆◇
見合いの日程はすべてカクヨ株式会社の都合のいいタイミングで行われた。
話を持ち掛けたのはカクヨのほうであったが、リヒト側は良好な関係を築きたいがために、すべてカクヨの言う通りに話を進めた。
もちろん、それで仲が悪化するほどの関係ではない。
カクヨの社長も、真宮の父であるリヒトの社長も互いに気心の知れた相手だったため、ほぼ順調といっていいほどすんなりと見合いの日時と場所が決まった。
その見合い当日。
真宮は父とともに最高級の白いスーツに身を包み、都内一等地の料亭へと向かった。
料亭の女将から案内され、見合い会場へと足を運ぶ。
通された広い日本間に真宮と真宮の父が顔を出すと、仲人は勿論、先方は既に到着していた。
そこにはカクヨの社長。それに『清廉』という言葉がぴったりなほど気品漂う女性が正座していた。
「遅くなりまして」
「いや、まずはお座り下さい」
仲人に勧められ着席すると、開口一番カクヨの社長が挨拶した。
「わざわざお越しくださってありがとうございます」
「いえ、こちらこそお待たせてしまい、申し訳ありません」
「いえいえ、我々もつい先ほど来たばかりですから」
仲人の必要が要らないほど、真宮の父とカクヨの社長は和やかに言葉を交わす。
その二人の社長を尻目に、真宮はそっと見合い相手を覗き見た。
女性は清楚で上品な淡い桜色の訪問着を着て、髪は結い上げ、繊細な美しいデザインの白真珠のかんざしをさしている。
着物は本手加工の京友禅で、金駒刺繍が仄かに艶めき、絹の光沢が美しく、趣に溢れている。
ふうわりと表された松竹梅を背景に繊細な金彩を施した文箱が描かれていて、正に華やいだ慶びの席に相応しい。
真宮がニコッとほほ笑むと、女性もまた微笑み返した。それは控えめな美しい微笑だった。
こうして、見合いが始まった。
事前に目を通していた身上書と家族書で、カクヨ社長令嬢のことは一通りは真宮の頭に入っている。
本名・角川紗麻里。二十五歳。
家族構成は、父・母に、結婚して独立している兄二人の五人家族三人兄妹の末娘。
東響女子学院大学卒業後は、ピアノに英語・フランス語を個人レッスンで学び、料理教室に通っていること。
運ばれてくる新鮮な季節の味覚に溢れた懐石料理に舌鼓を打ちながら、仲人が間に入り、真宮の仕事や紗麻里の趣味の話などを上げて、お互い話しやすい雰囲気を作った。
「では紗麻里さんは、我が社のドイツ支社のあるハイデルベルグにもにいらしたことがあるんですね」
「ええ。ネッカー川にかかるアルテ・ブリュッケから見上げるハイデルベルグ城の眺めが美しい街でした。懐かしいわ」
紗麻里は趣味の旅行で訪れた世界各国の都市のことをぽつぽつと話し、真宮は相づちを打ちながら上手く話をリードしていた。
「それでは、真一郎さん、紗麻里さん。私達は退席しますので、後はお二人でごゆっくり」
見合いの定石通り、仲人のその言葉で、真宮と紗麻里は部屋に二人きりになった。
「やれやれ。ようやく肩の力が抜けますね」
ふうっとひと息吐くと、真宮は首元のネクタイを心持ちやや緩めた。
「貴女も楽になさって下さい。遠慮は無用ですよ」
「ふふ。私も堅苦しいのは苦手で……」
言いながらも、姿勢を変えない紗麻里に真宮は舌を巻いた。
これが美來なら、遠慮なく姿勢を崩すだろう。
「お言葉に甘えて」
と言いながら、足を投げ出すかもしれない。
もちろん、それがいけないと言っているわけではない。
現に真宮も「遠慮は無用」と言っているのだから。
しかし目の前の令嬢は、顔色ひとつ変えずに当初の姿勢を維持していた。
まさに生まれながらのお嬢様だなと真宮は思った。