8.エリスの真相
九州の片田舎から語学を学ぶために大学入学で上京してきたこと。
学んだ語学を生かした仕事をしたかったが、ロスジェネ世代のあおりを受け就職できず、派遣を渡り歩いてきたこと。
非正規社員故に給料も安く、節約を余儀なくされてきたこと。
日々生きるのに精一杯で、恋人もろくにできないままこの歳まで生きてきたこと……。
真宮は美來の手作り弁当を食べながら、黙って美來の話を聞いていた。
「最近思うんです。私の人生って、こうやって終わっていくのかなーって」
「人生、か……」
美來の言葉に真宮がポツリとつぶやく。
「あ! すみません、せっかく来ていただいたのにつまらない話を延々と……」
「つまらなくはないさ。君の気持ちは痛いほどよくわかる」
「専務……」
真宮はゆっくりと目を閉じると、何やら物思いにふけった。
その表情は穏やかで、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「僕だって、エリスと出会わなければ……」
「専務?」
「あ、ああ。ごめん。なんでもない」
パッと目を開いた真宮は慌てて手を振った。
「ごちそうさま。とても美味しかったよ」
「い、いえ。お粗末様でした」
空になったお弁当箱を受け取りつつ、美來は真宮の言葉が気になった。
(今、エリスって……)
美來の脳裏になな美の言葉が浮かび上がる。
『彼女の名は『エリス』という女性だったそうよ』
噂になった恋人の存在。
美來は気になったものの、聞くのはためらった。
誰にだって触れられたくない過去はある。
そんな美來の気持ちを知ってか知らずか、真宮はベンチで大きく伸びをした。
「うーん、春の午後は気持ちがいいねえ。桜も満開で正に見頃だ」
真宮の言う通り桜は満開を誇り、時々吹く風にはらはらと優雅に花びらが舞う。
春麗ら。暑くも寒くもなく、実に気持ちの良い休日の午後の公園。
「こんなにゆっくりと外で過ごすのは久しぶりだよ」
満足そうに真宮が言った。
「専務は仕事のしすぎです。たまにはこんな風に寛いでお休みになって下さい」
「そうだな」
そう言うなり真宮は、うつらうつらと船をこぎ始めた。
「せ、専務……?」
真宮が美來の左肩に頭を預け、すうすう気持ちよさそうに寝息を立てている。
昨夜がああだったのだし、それでなくとも真宮はよほど疲れているのだろう。
すぐには目を覚ましそうになかった。
真宮の体の重さはでも、美來には何故か心地良い。
(専務……こんな顔をして眠るんだ……)
真宮が自分に無防備な寝顔を見せ、眠るのをずっと美來は見守っていた。
しかし。
「……エ、リス……」
真宮が小さく呟いた寝言を美來は聞き逃さなかった。
その顔は心なしか苦渋に歪んでいる。
ざわざわとまた美來の胸が騒ぎ始めた。
『エリス』……真宮のドイツに残してきた元恋人だったらしい女性。
真宮と彼女の間に何があったのか知る由もないが、どのみち自分には何の関係もないことだと美來は思う。
なのに何故、こんなに胸がざわつくんだろう。
美來は自分の心模様を複雑な思いで見つめていた。
◇◆◇
「ん……」
真宮は目を覚ますと、目の前の美來の寝顔にギョッとした。
ものすごい近さで自分を見下ろしている。
いや、正確には眠っている。
その状況に、今自分がベンチの上で美來の膝枕で眠っていたことに気が付いて、慌てて飛び起きた。
「こ、小山くん……!」
その弾みで、眠っていた美來が目を覚ます。
「……あ、専務。おはようございます」
時計を見ると夕方の4時近く。
全然おはようと言う時間ではなかったが、どうやら美來も寝ぼけているようだった。
「す、すまない。かなり寝てしまっていたようだ」
真宮の「すまない」には、美來の膝枕の件も含まれていたが、彼女には通じていなかった。
「いいんですよ。私もちょうど眠かったので」
「そ、そうか」
膝枕をしてもらうなど、十何年ぶりだろう。
思った以上に熟睡していたことに、狼狽を隠せなかった。
「よほどお疲れだったんですね。気分は如何ですか?」
ニコリとほほ笑む美來の姿に、真宮は一瞬目を奪われた。
美來の笑顔、それを見て思わず「エリス……」と口にしたのだった。
「エリス?」
「あ、いや。なんでもない」
慌てて口を閉ざす真宮。
美來はためらいながらも尋ねた。
「エリスって……専務の恋人だった女性……ですか?」
「…………」
しばらく黙っていた真宮だったが、やがてポツリポツリと話し始めた。
「……エリスは。僕がリヒトのドイツ支社で働いていたとき、偶然出逢ったんだ」
「偶然?」
「ああ。彼女はよれよれの身なりで、虚ろな目をして路地を一人歩いていてね。それは今にも死んでしまいそうで、思わず声をかけたんだ。彼女は僕の呼びかけにも反応しなかったから、そのまま立ち去ろうとしたとき、一言呟いたんだ。「……エリス」と」
「エリス……」
真宮は暫しそのまま黙っていた。
回想に耽っているのだろう。
目を瞑り、その顔はやはりやや苦渋を滲ませていた。
「それで、専務とエリスさんは……」
おずおずと美來はその言葉を口にした。
問うて良いことなのかどうかわからない。
けれど、知りたかった。
真宮とエリスはその後どうなって、そして何故、別れたのか。
「エリスは実はドイツの大富豪の娘でね。政略結婚が決まっていたんだ。彼女はそれを嫌がって着の身着のまま家出して、僕はそれを知らずに彼女を家に保護した。それでエリスがいつまで経っても見つからないから、彼女の家が公開捜索に踏み切って結局、エリスは泣きながら家に帰ったよ。僕に迷惑がかからないようにと……」
真宮はそこで一旦、言葉を止めた。
美來は、真宮の次の言葉を待った。
「エリスと一緒に暮らしたのは僅かな期間だった。でも、それは何にも変えがたい時間だった。何より、彼女が下した決断が僕の目を覚ませてくれたんだ。このままではいけないとね。僕は当時、ずっと「自分は何をしているんだろう」という迷いがあって、リヒトの社長令息という立場から逃げていた。でも、運命からは逃れられない。だったら、父の会社……リヒト・コーポレーションに生涯を捧げようと決心したんだ。エリスとの出逢いと別れがあったからこそ、今の僕がいるんだよ」
美來は真宮の告白に静かに耳を傾けながら思った。
過ごした時間は短くとも真宮にとって、エリスという女性は『永遠の恋人』なのだと……。
また美來の心がざわざわと胸騒ぎ始める。
どうして、自分はこんなに真宮の言葉、一挙一動に揺れるのだろう。
『エリス』の真相を知ったからといって、自分に何の関係があるというのか。
まさか、自分は真宮のことを……。
その考えを美來は必死で遮った。
「だから……専務はご結婚なさらないんですね……」
ぽつりと呟いた美來の一言に、真宮は言った。
「結婚か……。今まで考えたことがなかったんだが、実は断るに断れない見合いの話がきていてね」
「お見合い、ですか」
「ああ。カクヨの令嬢との縁談がね。どうしたものか悩んでいるんだよ」
「カクヨって、あの文具メーカー最大手のカクヨ株式会社のことですか?」
「そうだよ。これはまだ社内重要機密なんだが。リヒトとカクヨの統合合併の方向で今、話が進行中で、同時に僕とあちらの令嬢との結婚話も持ち上がっていて。あちらの令嬢は僕とは一回り以上も年下なんだが、いわゆる閨閥結婚ってやつだよ」
「閨閥……」
美來は自分とはあまりに住む世界が違い過ぎて、目眩がしそうだった。
真宮の専属秘書とは言え自分は所詮ただのOLに過ぎない。
片や真宮は一部上場企業の社長令息で、次期社長筆頭候補。やはり立場が違いすぎる。
「どうも気持ちの整理が付かなくてね」
真宮は深い溜息をついた。
その痩せた端正な横顔は形容し難い憂いを帯びている。
「エリスさんのことが忘れられないんですか?」
美來はズバリと核心を突いた。
「わからない。ただ、彼女から先日久しぶりに手紙が来たんだ。もうほとんど諦めていた子供をようやく授かったと。彼女と同じ金髪碧眼のそれは可愛い女の子の写真が一葉……。そんな手紙を読んだから、夢にも彼女が出てきたんだと思う」
しみじみと真宮は呟いた。
「小山くん。君はどう思う? 僕は見合い話を受けるべきなんだろうか」
「それは専務が決めることです」
美來はぴしゃりと言い放った。
真宮とエリスの恋物語は「たこす様」が投稿されておられます。
「真一郎とエリス~純愛・サイドストーリー~」
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