6.初めての居酒屋 ☆
それから数日。
美來は胸をモヤモヤさせたまま仕事を続けた。
モヤモヤの原因はわからなかった。
ただ漠然と、気分の悪さだけは感じられた。
「小山くん」
真宮に呼び止められると、そのモヤモヤが増した。
「ここの件なんだが……」
話しかけられるとさらに苦しくなった。
美來にはこのモヤモヤの原因はわからなかったが、なんとなく推測できた。
そう、これは嫉妬だ。
エリスという名前を聞いてから胸が苦しくなり始めた。となると、嫉妬以外考えられない。
(でも……私が専務に?)
美來は心の奥底から湧き上がる感情を否定した。
(ない。ないないない。私が嫉妬してるだなんて……)
「どうしたんだい? 小山くん」
ボーっとしている美來に真宮が心配そうに声をかける。
「え? あ、い、いえ。なんでもありません」
カッと熱く火照る頬を見られまいと美來は真宮の前で書類を手に俯いた。
(いけない、こんなことじゃ。仕事! 仕事! 集中しなきゃ)
美來は心の中でパシン! と自分の両頬を両手で叩き、自分に活を入れた。
真宮も気になる様子ではあったが、あえて聞きはせず、淡々と業務をこなしていった。
「小山くんの説明は実にわかりやすいな」
いきなり褒められたのはそんな矢先のことだった。
「え?」と美來は目を丸くする。
「ど、どうなさったんですか、急に」
「どうって、褒めただけだよ」
「いつもはそんなこと仰いませんのに……」
「褒めちゃ悪いかい?」
「い、いえ、びっくりしただけで……」
冷静さを装ってはいるものの、心臓がバクバクする。
真宮はそんな美來にニッコリと笑った。
「ところで、小山くん」
「は、はい。なんでしょう?」
「君、明日の金曜のアフター5、空いてるかね?」
「え、ええ。別に用事は……」
いつもありません。一緒に週末を過ごす恋人なんていないんで……とは美來は言わなかったが、真宮も薄々は察しているだろう。
「君をまた飲みに誘いたいんだが」
「え?!」
「実は、若い社員は皆、普段、『居酒屋』で飲んでいると言うんだが、僕はそういう場所に行ったことがなくてね。費用は気にしなくていいから、案内してくれないか?」
「専務が居酒屋ですか?」
「悪いかね?」
「い、いえ。ちょっと……想像がつかなくて……。専務がいつも飲んでいるような静かで高級な場所ではありませんよ。もっと猥雑で、ええ。何が起きるかわかりません。専務をそのような場所にお連れするのは……」
美來は眉を顰め、とんでもないという顔をした。
「小山くんは意外と心配性なんだな」
「次期社長候補に失礼はともかく、何かあれば私のクビが飛びます」
「まあ、固いことを言うな。君ならわかってくれると思ったんだが」
その時の真宮のどこか淋しそうな表情を見て一瞬、美來は自分の言ったことを後悔した。
真宮に『次期社長候補』という肩書きを束の間でいい。忘れさせ、独身貴族の自由を謳歌させてやりたい。そう思った。
「承知しました。明日の業務終了後、専務を適当なお店へお連れします」
「そうか! 楽しみにしているよ」
真宮は嬉しそうに笑った。
◇◆◇
「お二人ですかー?」
駅前のチェーン居酒屋『笑天』。二人はそこにいた。
入ってすぐに茶髪の青年が出迎える。
髪の色もさることながら、店員なのに耳にピアスもつけていて真宮はギョッとした。
しかし美來はなんの違和感もなく「二人です」と伝える。
「テーブルと座敷、どちらがいいですか?」
「専務、どちらになさいます?」
美來の質問に真宮は呆気にとられながら「き、君に任せる」と答えた。
「じゃあテーブルで」
「かしこまりましたー。テーブル席ご案内ー」
茶髪の青年に連れられて店内の奥へと誘導される。
その間、真宮は店内の喧騒に唖然としていた。
そこかしこで音頭が聞こえてきたり、酔った者たちの喚き声が聞こえてきたり、時には「ぎゃはははは」と下品な笑い声が聞こえてくる。
真宮にとっては初めての体験だった。
「こ、小山くん」
「どうしました? 専務」
「ここはいつもこうなのか?」
「こうと申しますと?」
「思ってたよりも……なんというか……フリーダムな感じがするのだが」
上手い表現が見つからずに困惑しているものの、要は慣れない雰囲気で緊張しているのが目に見えて美來は笑った。
「全部が全部こうではありませんけど、どこの居酒屋もこんな感じですよ?」
「そ、そうか。では身を引き締めねばな」
そう言ってなぜか真宮はネクタイをギュッと締めた。
「お席はこちらでいいですか?」
奥のテーブルに案内された二人は、席につくや「先にお飲み物を伺います」と言われた。
これまた催促されているようで真宮はドキッとする。
「専務、生でいいですか?」
美來は慣れた感じで尋ねた。
「あ、ああ」
「生ふたつで」
「かしこまりましたー」
すたすたと去って行く茶髪の青年を見送りながら、真宮は「ふー」と息をついた。
「すごいな。会社の若い子たちはみんなこういう所で飲んでいるんだな」
店の雰囲気もさることながら、店員の格好にも感嘆する。
自分が行く飲み屋やレストランにはいないタイプの店員だ。
美來はそんな真宮の動揺に気付くことなく「お腹すきましたねー」と言ってメニュー表をひらいた。
「専務、何食べます?」
「何があるんだ?」
「いろいろありますけど、定番はシーザーサラダにホッケ、軟骨のから揚げ、枝豆、焼き鳥、刺身の盛り合わせですかねー。あ! この焼き飯も美味しそう!」
「ま、任せる」
メニューに関しては美來に一任した。
やがて生ビールが運ばれてくると、美來は店員に次々と料理を注文していった。
店員が去ると、美來はジョッキを持ちながら真宮に言った。
「それでは専務」
「ん?」
「乾杯」
「あ、ああ。乾杯」
つられてジョッキを持ち上げた真宮に、美來は自分のジョッキを重ねたのだった。
「んー、やっぱり花金の仕事帰りのビールは最高!」
プハーッと美味しそうに息を吐く美來を眺めながら、真宮も口まわりに泡をつけて「プハーッ」と息を吐く。
「うん、まさに!」
そう言ってはゴクゴクと生ビールを喉に流し、プハーッと息を吐く。
そんな真宮の豪快な飲みっぷりに美來は苦言を呈した。
「専務、別に飲み方まで真似しなくてもいいんですよ?」
「何を言う。こういう場所ではこうやって飲むのが礼儀なんだろう? でもこういう飲み方も美味しいな」
どこかズレた発言をする真宮。
高級な飲み屋でしか飲んだことのない真宮は、普段このような飲み方はしない。
きっと、いつも行くバーのマスターや料亭のおかみが見たら卒倒するだろう。
けれども、美來の目には真宮が心から楽しんでいる雰囲気が伝わってきたのでそのままにしておいた。
やがて、料理が次から次へと運ばれてきた。
シーザーサラダに焼き鳥、枝豆、ホッケ、刺身の盛り合わせ。
美來が定番と言った料理がテーブルを埋め尽くす。
更にはたこわさ、軟骨のから揚げ、焼き飯まで加わり、とどめに鍋料理がやってきた。
「ず、ずいぶん頼んだね……」
「す、すみません……。宴会のノリで頼んでしまいました……」
せっかくの初居酒屋なのだからと調子に乗ってしまった。
料理はテーブルの端から端まで並んでいて、もはや取り皿すら置けるスペースがない。
しかし、ずらりと並ぶ居酒屋メニューに、真宮は目を輝かせていた。
「どれも美味しそうだなあ」
その言葉に、美來は少し心配になる。
ここ『笑天』は安くて美味しい居酒屋として有名だが、料理に関してはB級グルメばかりが並んでいる。当然、舌の肥えた真宮が満足するはずがない。
それを心配した美來だったが、すぐに杞憂に終わった。
真宮はまず初めに焼き鳥にかぶりつくと
「美味い!」
と驚きの声を上げた。
「塩っ気が利いていて、鳥の旨味が凝縮された味だ。多少味が濃いが、それがまたビールに驚くほど合う!」
そう言って、焼き鳥を食べながらビールを口に運ぶ。
「プハーッ! 最高の組み合わせ!」
次いで、ホッケに手を伸ばすとその身を切り崩し、口に入れる。
「うん、これも美味い! いや、美味いなんてもんじゃない。美味すぎる! 正直、魚は苦手なんだが、これはイケる。ああ、この軟骨のから揚げも最高!」
作中挿絵は汐の音さまに描いて頂きました。