5.忘れられない恋人
いつものクールな態度とは裏腹に、二人の和やかな雰囲気に口元を綻ばせている。
「あ、高梨さん。おはようございます」
「おはよう、高梨くん」
「おはようございます。もしかしてお邪魔だったかしら?」
「い、いえ! いえいえ! 全く!」
思いっきり首を振る美來に、真宮は「そんなに全力で否定しなくても」と苦笑した。
「金曜の夜は楽しまれたようですね」
美來は酔いつぶれた自分の姿を思い出して顔を赤く染めた。
ふふ、と笑ったなな美は真宮に言った。
「それでは専務。今後のスケジュールの打ち合わせのために小山さんをお連れしたいのですが」
「ああ、頼む」
「ではのちほど」
美來はなな美に連れられて真宮の執務室を退出した。
◇◆◇
その日の昼休みはいつも通り、社食の窓際に座ってのランチだった。
ここ最近、なな美はサラダばかりを食べている。
「高梨さん、またサラダですか。ダイエットでもなさってるんですか?」
対する美來はから揚げにポテトフライ、イカリングなど揚げ物中心にたっぷりの生野菜サラダ。それに、コーンスープとこの社食でとりわけ人気の焼きたてパンを数種類トレーに盛っている。
「ええ。最近、体重が気になって……」
「きちんと食べないと体がもたないですよ?」
ただでさえ細やかな気配りにとりわけ神経を使う部署なのだ。
食事を抑えると脳の機能低下も招きかねない。
そう思ってか、美來はランチともなるとふんだんに食べる。特に自分の好きな揚げ物は。
「そうだぞ、高梨くん。お昼はきちんと摂りたまえ」
真宮の声がして、美來は思わず飲んでいたスープを吹き出しそうになった。
「せ、せ……専務⁉」
これにはなな美も驚いて声を上げる。
「どうしてここに!?」
「ん? 僕がいたらおかしいかい?」
真宮の手には、トレーが握られていた。
トレーには雑穀米や味噌汁、ポテトサラダにスクランブルエッグ、更にひじき煮の小鉢に豚肉の生姜焼きなど、栄養価の高そうな食事がのせられている。
「だって、いつもは向かいのレストランに……」
「自分の勤めてる会社だからね。社員食堂も利用しないと。ここ、いいかい?」
そう言って、有無を言わさず美來の隣に座った。
美來はこぼしたスープをナプキンで拭きながら「ど、どうぞ」と言った。
他の社員たちも、専務が現れたことに驚きを隠せない様子だったものの、見なかったふりをしてすぐにいつものように仲間内でランチを摂り始めた。
「ここの社員食堂を利用するのは何年ぶりかな。いやー、バイキングメニューがずいぶん豪勢になってるねえ。昔はご飯と味噌汁とコロッケと漬物くらいしかなかったのに」
「それ、何年前ですか」
クスリとなな美が笑う。
少なくとも十年以上も昔の話である。
「豪勢といったら小山くんのランチも豪勢だね」
美來のトレーを見て真宮が言う。
美來は顔を真っ赤に染めながら「いや、見ないでください」とトレーを手で隠した。
「ははは、いやいや。それくらい食べてもらわないとね」
「それより専務、どういう風の吹き回しですか?」
なな美がフォークをトレーに置きながら尋ねる。
真宮がなんの意味もなく社員食堂を利用するなど考えられない。
しかし真宮の答えは同じだった。
「だからたまには社員食堂を利用しようと思っただけだよ」
「社員に気を遣わせないと言って頑なに来ようとしなかったのにですか?」
「まあ、一番の理由は……小山くんに言われたからかな」
「やっぱり」
なな美は「ふう」とため息をついた。
当の美來は何がなんだかわかっていない。
「え? え?」と真宮となな美を交互に見ている。
それもそのはず、真宮に社員食堂を利用しろと言った時にはすでに泥酔していたのだから。
けれども、その一連のやりとりですべてを察したなな美は呆れたような口調で言った。
「再三、私が申し上げても聞き入れてくださらなかったのに、まさか入社三週間目の新人の進言を受け入れるなんて」
「ははは、そう不貞腐れるな」
「不貞腐れてなどおりません。呆れているだけです」
なな美は本当に呆れているようだった。
けれどもそれは幻滅したというよりも、冗談めかした感じに美來には見えた。
それもこれも、真宮の人柄と仕事ぶりを信頼しているからであろう。
「あ、あの……私、何か言いました?」
オドオドと尋ねる美來に、真宮はスクランブルエッグを口に運びながら言った。
「そうだよ。金曜の夜、君がランチは社員食堂で食べるように進言したんじゃないか」
「そ、そんなこと言いましたっけ?」
「うわ、ひどいなー。社員のくせに社員食堂で食べない僕は野良犬以下だーとまで言ったのに」
「こ、小山さん……。せ、専務にそんなこと……」
なな美は口を両手で押さえて、目を丸くした。
心なしか血の気が引いている。
「い、言ってません! そんなこと……たぶん……」
と言いつつ、記憶がないため断言できない。
美來はこめかみを押さえながら、(うー、そんなこと言ったかしら……)と考え込んだ。
「ははは。あそこまではっきり言われたら、従うしかないでしょ」
「す、すみません、専務……」
「いやいや、僕も目が覚める思いだったよ。これからも僕の行動がおかしかったらどんどん言ってくれたまえ」
真宮は上機嫌でランチを口に運んで行った。
なな美はそんな真宮と、隣で縮こまっている美來を見て(ふーん……)と何かを察したのだった。
◇◆◇
それからというもの、真宮は毎日昼食は社員食堂で美來たちとランチを摂ることになり、最初の頃はざわついていた社員たちも次第に真宮の存在に慣れていき、時には挨拶をしてくるようになった。
「専務、今日も同じおかずですね」
「君もじゃないか。ダメだぞ、サラダも一緒に食べなきゃ」
「サラダは苦手で……」
「ほら、よそってあげるから皿貸したまえ」
「いいですよぉ、自分で取りますから」
「ほらほら、遠慮せずに。山盛りにしてあげるから」
「余計遠慮しますって!」
そんなやりとりが連日行われていた。
美來の目から見ても、真宮と若手社員たちとの距離がグッと縮まった気がする。
「やっぱり社員食堂に無理やり連れてきたのは正解だったわね」
真宮と若手社員たちとの会話を遠目に眺めながら、なな美が嬉しそうにつぶやいた。
「仕事はできる人なのに、若い子たちとのコミュニケーションがあまりなくていつも浮いてたから」
その言葉に、美來は毎日向かいの高級レストランで一人でランチを食べる真宮の姿を思い出した。
あれはあれで正しかったのかもしれないが、それでもやはり食事はみんなと一緒のほうがいい。
「それもこれもあなたの功績ね」
「い、いえ、私なんか……」
「謙遜しなくてもいいのよ。よその部署の子に聞いたんだけど、真宮専務、今では憧れの上司ナンバー1なんですって」
「へえ。まあ、もともとユニークな方でしたし、ジェントルマンっていう雰囲気を醸し出してますからね」
「これで浮いた話のひとつもあればいいんだけど……」
そう言ってなな美はチラリと美來を見た。
「そう言えば……。専務って私と同じ40歳ですよね?」
「そうだけど?」
「どうして独身なんでしょう。確かに朝からバランスボールに乗ってたりヘンなところはある方だけど、見た目も性格も悪くないのに。第一、次期社長候補なら縁談がいくらでも……」
その美來の言葉になな美は、ランチの手を止めて言った。
「あの方には……忘れられない恋人がいらっしゃるという噂よ」
「忘れられない恋人?」
「ええ。約十年前、ドイツ支社のハイデルベルクに赴任したとき、現地の女性と恋に落ちたとか」
「その女性とはどうなったんですか?」
「さあ……。真宮本家に反対されただとか帰国された頃、まことしやかな噂が流れたけど、真実はわからないわ」
なな美が再び、サラダをフォークでつつきながら言った。
「ただわかっているのは、彼女の名は『エリス』という女性だったそうよ」
「エリス?! 鷗外の『舞姫』じゃないですか?! じゃあ、専務は彼女を捨てて日本に戻ってきたんですか?」
「だから、わからないの。真実は専務のみ知っているわ」
「エリス……」
『忘れられない恋人』と聞いて、美來は胸がざわつくのを感じたのだった。