4.不惑女の酔い潰れた翌朝
「……うぅん」
目が覚めた美來の目には、見知らぬ天井が映っていた。
「……?」
身体には軽くて肌触りのいい薄い毛布がかけられている。
「え⁉ え⁉ え⁉」
ガバっと起き上がる美來。
気付けば目も眩むような高級な一室の高級なキングサイズのベッドに横にされているではないか。
ズキズキと疼くこめかみに手を当てながらよく考えると、昨夜のことを思いだした。
眠りに落ちた自分を誰かが運んでくれた気がする。
そして、ハッと気づいた。
自分がスーツを着ていないことに……!
ランジェリー姿の自分に赤面する。
(これはまさか専務にお持ち帰りされたのでは……)
タラリと冷や汗が流れた。
その部屋は昨夜、真宮と飲んだホテルのスイートルームだった。
真宮の姿はない。
ベッドから降り、ホテルの部屋にしてはとんでもなく広いその部屋の中をキョロキョロと見回すと、ベッドサイドテーブルにホテルの便箋が一枚置いてあることに気がついた。
『 小山くんへ
起きたらすぐ冷蔵庫のミネラルウオーターを充分に飲むこと。
君は二日酔いになっているはずだから。
この便箋の側に酔い止めのドリンクと薬も置いておくから、それも飲むように。
ルームサービスで朝食も頼みなさい。
食べられないようなら、飲み物だけでも摂るように。
宿泊料金は気にせずに、遠慮なく。
お疲れ様。
真宮 』
(やってしまった……)
黒いインクで静謐に認められている真宮直筆の文字を見ながら、美來は思わず溜息を吐いた。
自分がそれ程は飲めないクチであるという自覚に欠けていた。
(で、私はまさか専務と一夜を共に……?!)
という考えが再び頭を掠めた矢先に、『追伸』として書いてある文章が目に入った。
『君をこの部屋に運んだのはこのホテルのボーイで、服を脱がせたのは女性従業員だから安心するように』
その一文に、美來は思いきり脱力した。
(そうよね。まさか『リヒト・コーポレーション』の『跡取り息子』の専務が私なんかに手を出すはずがないわよね)
そう思いながら一瞬、なんとなく虚しい想いが美來の胸をよぎった。
(しょせん不惑の私は『女』としては見てもらえないんだ……)
いやいや! 真宮から手を出されなくて正解だと美來はしみじみ思う。
もし、そんな関係になっていたら、どんな顔をして出社すればいいと言うのだ。
居たたまれなくて退社に追い込まれる自分が目に見える。
美來は、真宮の真摯な理性と思い遣りに感謝した。
それにつけても、頭が鈍く痛くて、体が重怠い。ムカムカとこみ上げてくる吐き気もする。
(とりあえず水を飲もう)
よろよろと冷蔵庫に歩み寄り、中を覗くと色々な飲み物が揃っていた。
ペットボトルのお茶以外は全て外国製だったが、どれがミネラルウォーターかはわかったので、それを一本飲み干した。
便箋の脇には確かに、酔い止めドリンクと頭痛薬か胃腸薬と思われる薬が二錠置いてあったので、それも飲んだ。
(それにしても、すごい部屋……)
キングサイズのダブルベットが二つ並んでいるその部屋の隣にはまた広い部屋がある。
(スィートルームってフランス語で『続き部屋』っていう意味通りだわ)
そんなことに感心しながら、美來は壁にかけてある立派な絵画や、整然と格式高く置かれている英国調アンティークのソファやテーブル、照明などをしみじみと眺めた。
こんな所で朝食をなんて言われても落ち着かない。
第一、朝食のオーダー方法も美來は知らなかった。
もう一本ミネラルウオーターだけをガブガブ飲んだ後、これまた豪華なバスルームで借りてきた猫のように恐る恐るシャワーを浴びた。
しかし、温いお湯をためて広い湯船にゆっくりと浸かっているうちに段々と飲んだ薬が効いてきたのか、アルコール分も徐々に抜けてきて美來はようやくひと息ついた。
(専務は……いつもこういう所に女性と……)
そこまで考え浮かんだあらぬ妄想を美來は慌てて振り払う。
真宮は独身貴族。
何をしようと自由だし、第一自分には関係ない。
パシャンとお湯で顔を叩いた。
素肌の自分は張りも艶も失いかけている不惑のオバサン。
そんな自分は一夜の夢も見る権利などない……。
バスから上がると、アメニティグッズの中に基礎化粧品まで用意されていることに気づき、つくづくここは超一流ホテルの特別な一室であるということを実感する。
(専務に連絡を入れた方がいいのかしら)
簡単に身繕いを整えると美來は、自分が無事起きて帰れる状態になったことを真宮に連絡するべきかどうか真剣に悩んだ。
こんな大失態をしでかしたのだ。きっと内心怒っているに違いない。
でも……と美來は思った。
(でもやっぱり、連絡だけは入れておいたほうがいいわよね)
それは最低限、社会人としてのマナーだ。
いくら自分が情けなくとも、お礼くらい言っておくべきだろう。
美來はそう決意すると、すぐにスマホを取り出した。
軽快な発信音とともに、通話口からすぐに真宮の声が流れた。
『はい、真宮です』
いつもと変わらない穏やかな声に、美來は少しホッとした。
「あ、あの、専務……おはようございます」
『おはよう、小山くん。気分はどう?』
「おかげさまで……。あの、昨日はどうもありがとうございました」
『こちらこそ。すごく有意義な時間を過ごせたよ』
「それとご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
『ああ、気にしないで。僕はホテルのコンシェルジュにお願いしただけだし』
どこまでも優しい口調の真宮に、美來はなんだか泣きそうになった。
『ホテルの宿泊代は済んでるから、いつでもチェックアウトしてくれて構わないよ。ああ、でも11時までにね』
時計を見るとまだ9時前だった。
ゆっくり支度しても十分間に合う時間だ。
「わかりました」
『それじゃあ、僕はこれから予定があるから。また月曜に』
「はい」
通話が切れると、美來は深くため息をついた。
「気にしないで」と言ってはくれたものの、迷惑をかけたことに変わりはない。
月曜日、改めて謝罪しよう。
美來はそう決意し、急いで身なりを整えてそそくさとホテルから退散したのだった。
◇◆◇
それから二日後。
真宮はいつも通りバランスボールに乗って美來を出迎えた。
「やあ、おはよう」
ピタッと姿勢を維持したまま挨拶をする真宮。
やはりバランス感覚は相当なものだ。
美來は開口一番、真宮に謝った。
「専務、おとといの夜はすみませんでした」
まさに先手必勝。
「いや、何も謝る必要は無用だよ。あの晩は非常に楽しかった」
バランスボールから降りて、デスクに座ると真宮は上機嫌でそう言った。
「……私、何か失礼なこと言いませんでしたか?」
「失礼なこと?」
「正直、あまり覚えてなくて……」
申し訳なさそうな顔を見せる美來。
真宮は「ふむ」と顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「失礼なことか。あったと言えばあったかな」
「え……? やっぱり私、専務に失礼なことを?!」
「ああ。とんでもない大失態だ」
サアッと美來の血の気が引く。
あわあわしていると、真宮の口から思いがけないフレーズが飛び出した。
「小山くん、デザート食べなかったろ」
「で、でざーと?」
血の気が引いていた美來の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
「あそこのデザートは絶品なんだよ。本場イタリアから取り寄せた最高級のマスカルポーネチーズをふんだんに使ったティラミスなんだ。ぜひとも食べてもらいたかったんだが、まさかその味を堪能する前に酔いつぶれてしまうなんてね。第一、君もカタラーナをオーダーしていたじゃないか」
「………」
美來はきょとんと首を傾げながら真宮を見て、「そ、それだけですか?」と絞り出すように言葉を発した。
「他に何があるというんだい?」
意地悪く笑う真宮に、美來はムッとして「もういいです」とそっぽを向いた。
「ははは、ごめんごめん。ちょっとからかっただけ」
「専務は専務でいらっしゃるんですから、もっと『専務』らしくなさってください!」
美來がキャンキャン真宮に噛みついていると
「あらあら。お二人とも、ずいぶん仲良くなられたみたいですね」
そこへなな美が姿を現した。