3.綺羅の空間
それから、なな美に言われた通り、美來は真宮の執務室に赴いた。
ドアをトントンとノックすると、「どうぞ」と中から声が返ってきた。
「失礼します」
そう言って美來が入室すると、真宮がデスクで書類に目を通していた。
その何気ない執務姿はいかにも上流エリートらしく様になっていて、美來はドキリとする。
(バランスボールに乗ってばかりなんてことは流石にないのね)
「バランスボールに乗ってばかりということはないだろう?」
「え?」
真宮が書類から目を上げると、美來の瞳を見つめて言った。
(な、なんで私の思ったことがわかるの?!)
ぎょっと美來は顔色を変え狼狽する。
「ははは。小山くんはわかりやすいなあ」
真宮は面白そうに笑っている。
美來はどうしていいかわからず、その場に暫し突っ立っていたが、ハッと我に返り
「高梨副秘書室長から退社しても良いと言われましたので、今日はこれにて失礼します。頑張って勤めますので、明日からよろしくお願いします」
と、その場で深々と一礼した。
◇◆◇
次の日から、美來の激務が始まった。
秘書の仕事はやることが多い。
もちろん忙しくない仕事などないのだが、その業務量は今まで働いていた会社とは雲泥の差だった。
なな美のサポートがあるとはいえ、次々に降ってくる仕事をテキパキと捌かなければならない。
その『テキパキ』というのがまた大変だった。
自分が手間取ると、真宮の仕事が滞るからだ。
一瞬でも気が抜けなかった。
とはいえ、やりがいも感じられた。
美來やなな美がいなければ、真宮は身動きが取れないのだ。
間違いなく、会社にとって美來は必要な人材だった。
「飲みに行かないか?」
真宮からそう誘われたのは、美來が入社して3週間がすぎた頃だった。
相変わらず毎朝バランスボールをしているわ、ランチを一人で食べてるわ、つかみどころのない男ではあったが、初めて美來を飲みに誘った。
その日の業務が終了して、さあ帰るかというタイミングだった。
「ダメかな? 今日は金曜日だし、小山くんの歓迎会もしてなかったしね」
「いえでも……」
チラリとなな美を見ると、なな美はニコッと笑った。
「お言葉に甘えなさいな。高級なバーに連れて行って下さいますよ。もちろん、専務のおごりでね」
「高梨さんは行かないんですか?」
「ええ。子どもが家で待ってるから早く帰りたいの」
この時初めて美來はなな美が子持ちだということを知った。
「高梨くんは子供を産んでからすっかり変わってね。復職祝いに飲みに誘ったら、翌日には『子供がぐずって大変だったから、もう二度と誘わないでください』と言ってきたからな」
真宮が苦笑いを浮かべながら言う。
(あ、高梨さんも誘われたんだ)
美來は、真宮の飲みの誘いに深い意味はないらしいとわかって少しホッとした。
「ええと……じゃあ……」
こくりと頷く美來。
真宮は「よかった」と言いながら速攻で帰り支度を始めていた。
◇◆◇
そこは『綺羅』の空間だった──。
真宮は専用車に美來を一緒に乗せ、都内の一流ホテルのバーに美來を伴った。
「真宮さま、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
入り口の黒服のウエイターは真宮の顔を認めると同時にそう挨拶した。
「例の部屋、空いてるかい?」
「もちろんお取りしております」
真宮は顔パスで奥の個室に案内された。
室内は明るすぎず暗すぎず、そう広くはない。L字型のソファにテーブルがあり、ソファにはふかふかの無地のクッションが置かれている。
本来、落ち着けるはずの空間だが、美來はこんな高級バーに来たことなどもちろんないし、おどおどとソファに座った。
そんな雰囲気を察して、真宮が言った。
「小山くん。アレルギー食品はある?」
「いえ、特に」
「それはよかった。アルコールはどのくらい飲めるの?」
「普通に飲めますが……こういうの詳しくなくて……」
「じゃあ、カクテルとフードメニューは僕が適当に決めるから、小山くんはデザートでも好きなの選んで」
そう言われて美來は心底ホッとした。
それでも、横文字のアルファベットに打ってある片仮名のルビを必死で目で追う。
「あ……、カタラーナ。専務、私、これがいいです」
それは数年前から流行っているスペインのスイーツで、以前、一度だけ女子会で食べたときすごく美味しかったことを美來は覚えていたのだ。
そうして、真宮はウェイターにオーダーを告げ、程なく美來の前にグラスが運ばれてきた。
「わあ、綺麗! 美味しそう」
目の前に置かれたグラスを見て思わず美來は声を上げた。
それは、オレンジに近い赤い液体にスライスしたオレンジが添えられていて、見た目もお洒落だ。
「これは、『スプリッツ』といって本場イタリアでは最も人気があると言っていい食前酒だよ」
真宮が優しく言う。
「小山くん。勤務ご苦労様」
「専務もお疲れ様です」
そうやって、二人は乾杯した。初めて飲んだスプリッツは炭酸の軽い飲み心地で、とても美味しかった。
それから、骨付き鴨もも肉のコンフィー、エスカルゴブルゴーニュ風バケット付き、牛ほほ肉の赤ワイン煮込みフライドポテト添えなど肉料理の皿が並んだ。
まずは腹ごしらえというわけだ。
美來が食べやすいようにと言う配慮から、シーザーサラダ、ベーコンと野菜のミックスピザの皿などもある。
プレートの盛り付けも見目麗しく、美來はテーブルマナーが不安になるが、とりあえずピザをつまんでカクテルを口にした。
「専務。このカクテルも美味しいです」
「ああ、『ミモザ』と言ってね。シャンパンベースのカクテルで、この世で最も美味しく、贅沢なオレンジジュースだよ」
その真宮の例えに美來はロマンを感じる。
「専務が飲まれているカクテルは何なんですか?」
「白ワインをソーダで割ってある『スプリッツアー』だよ。故ダイアナ妃が好んでいたらしいね」
真宮が語る蘊蓄はさりげなく、わかりやすい。知識をひけらかすような嫌みさも皆無だ。
(本当に育ちが良くて人の好い上流エリートなんだわ)
と、美來は思った。
「だーかーらー専務はダメらんれすぅ!」
真宮との一対一飲みが始まって1時間足らず。
美來は完全に酔っぱらっていた。
普段お酒というものをそれほど口にしないのに、高級なカクテルのあまりの美味しさに、美來は何度もグラスを重ねてしまったのだ。
しかし真宮は態度が豹変した美來を嫌がるでもなく面白おかしく眺めていた。
「ダメってなにがだい?」
楽しそうに笑いながら尋ねる。
そもそもはランチに真宮が高級レストランを利用していることを美來がたしなめたところからこの会話が始まった。
「そんなこともわからないんでふか⁉ 専務のくせに!」
「うん、教えてほしいなあ」
「いいでふか⁉ ランチに自社の社員食堂を使わず、高級レストランを利用している時点で社員失格でふ! 野良犬以下でふ!」
「でも僕がいると、ほら、社員食堂の空気が変わるじゃない」
「そこがダメだと言ってるんでふ!」
タン! とグラスを叩きつけるようにテーブルに置く美來。
その目は完全に座っている。
「空気が変わる? だったら空気を変えないようにするのが上に立つ者の役割ではないのでふか⁉」
「ふむふむ」
真宮は目をキラキラと輝かせながら食い入るように美來の言葉を聞いていた。
「専務が社員食堂を利用して社員たちの空気が変わるようなら、誰もあなたを信頼してないってことなんでふからね!」
「それで、私はどうすればいいと?」
「だーかーらー! ランチは社員のみなさんと食べてくださいと言ってるんでふ!」
「わかった、明日からそうするよ」
「ほんとでふか⁉」
「ああ、ほんとに」
「誓いまふ?」
「神に誓って。いや、小山大明神に誓って」
「にゅふふ。よろしい」
腕を組んでコクリと頷く美來。
そして彼女はそのまま眠りに落ちた。
「くぅ……」と寝息を立てる美來に、真宮はクスリと笑ってウェイターを呼んだのだった。