2.社長令息と優しい上司 ☆
「小山さん、制服は9号でいいかしら? これに着替えて」
「は、はい」
更衣室のロッカーのキーと共に美來に渡されたのは、ノーブルな黒いノーカラーの折返し式七分袖ジャケットと膝丈のフェミニンなマーメイドスカートだった。
それは美しい発色と緻密なデザインで、メッシュ素材は凛と涼しい。右肩についているループに通すと青いミニスカーフも綺麗に結べ、いかにも上品で華やいだ洒脱な印象だ。
「これから出社の際は、私服にも気をつけて下さいね。社外に専務に同行しての業務もありますから。華美でないTPOにあったファッションで。何よりだらしない格好はいけません。アイロンのかかったスーツにストッキング着用の上、ヒールがあまり高くなくワックスで磨いたパンプススタイルを心がけて下さい」
そのなな美の言葉に美來はギクリとした。
美來は一張羅の着古してくたびれたスーツ二着と履き潰したパンプス三足しか持っていない。
今日は退社後、安くても新しいスーツとパンプスを幾つか早速買いに行こうと思った。
幸い、派遣社員時代とは比べものにならない給料が保証されている。
なんと言ってもダメ元で受けた一部上場企業『リヒト・コーポレーション』の中途正社員採用なのだ。……クビにさえならなければ。
替えの制服一式も受け取ると社内クリーニングの出し方を教わり、美來はまた別室に連れて行かれた。
「小山さん。資格は何かお持ちかしら?」
「はい。大学時代に英検準一級、秘書検定二級は取得しました」
「あら。だったら、一通りの知識はあるのね。メール・郵便物のチェック、社外のアポイントの調整、会食の手配、役員同士の会議や打ち合わせに必要な資料や書類作成、出張手配、経費精算、電話・来客対応、スケジュール対応などが秘書としての大まかな業務内容です。これから、当社の組織体系や人事内容を教えますから、主要な役員の方々の役職・名前を覚えて下さい。それから、当社製品についてよく学んで下さい。これは基本です」
まず、役員一同の肩書き・名前と顔写真が一致するよう覚えさせられ、社内体制も一通り説明された。
会社概要に関しては、商号名が『株式会社リヒト・コーポーレーション』。
創立は昭和56年、資本金約20億円、従業員数約千名であるということ。本社・子会社・関連会社30社から成り、筆記用具及びステイショナリー用品の製造・仕入れ・販売を主力事業にしていることを学んだ。
主力製品は最高峰品質のペン先とボディをカスタマイズできるシリーズの高級万年筆である『リヒト万年筆』。これに関しては、ブランドイメージなども含めて詳しくレクチャーされた。
なな美から説明を受けながら、美來は細かくメモを取った。
そして、専務付秘書としての一日の基本的な流れ、ルーティンワーク、所作などをみっちりたたき込まれた。
幸い、美來は昔取った杵柄とはいえ秘書検定の資格を有していたので、業務内容に関しては比較的スムーズに理解することが出来た。
元々、美來は頭が良く、飲み込みは早い。頭の中で数回反復すれば覚えられた。
派遣切りにあったのも運悪く相性の合わない上司についた為、ろくな仕事を与えてもらえなかったからである。
この会社では、最初から全力投球だった。
なな美は美來に、『役員秘書』として大事な心構え、そして明日からすぐにでも仕事が遂行できるよう全てを叩きこもうとし、美來も必死にくらいついた。
「あら。もうこんな時間ね」
なな美がふとそんな言葉を漏らした。
気が付けば、昼の12時を少し回ったところだった。
「小山さん、お疲れ様。お昼にしましょう。今日はあなたの初出勤日だから私がおごるわ。社員食堂だけど」
お昼とわかった瞬間、美來のお腹が大合唱を奏で始めた。
現金なお腹である。
そんな美來の姿に、なな美はクスクスと笑った。
◇◆◇
リヒト・コーポレーションの社員食堂はビルの一階にある。
多くの社員が帰ってきてすぐに食べられるように、また、食べてすぐに外に出られるように設計されている。
入り口は広く、バイキング形式で食券を買えばどんな料理をいくらでも食べられるという仕組みだ。
本来ならばあり得ない破格の設定だが、社員たちに少しでも頑張ってもらいたいという社長の心意気がここに表れている。
美來はなな美に連れられて、社員食堂の一番端の窓辺のテーブルに座らされた。
まだ初日ということで、慣れてない彼女のためを思っての位置取りだった。
右を向けば、外の広い道路が見える。
道路の向こう側にあるのは、高級そうなレストランだ。
もともと都内一等地に建てられた建物だけあって、通りを歩くのは金持ちそうな人たちばかりである。
高級そうなレストランにも、これまた黒塗りの車で乗り付けた客がウェイターに出迎えられていた。
「な、なんか、すごいところですね」
美來はサラダをつつきながら息をついた。
「何がです?」
なな美はコンソメスープをスプーンですくいながら尋ねた。
「このビルもそうですけど、向かいに高級レストランがあって、お金持ちそうな人たちが歩いてて。まるで別世界にいるみたいです」
「これでも全国からしたら中規模の会社よ? イメージが大事な企業ですから、こういう所に立派なビルを建てるのが当たり前なんです」
「それにしても……」
社員食堂には多くの社員が詰めかけて、談笑し合い、和気あいあいと食事を楽しんでいる。
確かに大企業と呼ぶには雑多な感じはするが、それでも今まで美來がいた会社とは雲泥の差だ。
「あれ?」
そんな美來が再び外の景色に目を向けると、専務の真宮が一人で向かいの高級レストランに向かっているところだった。
「真宮専務?」
美來のつぶやきになな美が反応する。
「ああ、専務は社員食堂は利用しません。いつもあのレストランでランチをとるんです」
「え? どうしてですか?」
「あの方は社長のご子息ですので」
「え⁉」
美來は思わず持っていたフォークを落としそうになった。
「え!? 子息……し、社長の息子さんってことですか⁉」
「そうです。いわゆる跡継ぎ息子という方です。この会社は世襲制ではないので後を継がれるかどうかわかりませんが、一応、次期社長の有力候補と目されています。人脈も広いですし、仕事ができますからね」
知らなかった。
面接官をしているような人が、朝からバランスボールに乗っているような人が、まさかこの会社の社長の息子だったなんて。
「驚かれたでしょう?」
「ええ、まあ」
だとしたら、逆になんで向かいのレストランで食事をとるのだろう。
自分の父親の会社の食堂なのに。
そんな疑問を見透かしてか、なな美は言った。
「専務は聡い方ですからね。自分が社員食堂を利用すると、他の社員が気を遣うだろうと遠慮してるんです」
「遠慮……ですか?」
「そうです。自分と対立したりすり寄ってきたり、派閥間同士の争いもありますし。自分が近くにいると社員たちも愚痴や本音を言えなくて、気が休まらないだろうと考えてるんですよ。昼休みくらい、社員にはゆっくりさせてあげたいというのがあの方の想いなんです」
「………」
美來はもう一度窓に目を向けた。
真宮はウェイターに連れられて一人、レストランの奥へと消えて行った。
自分の父親の会社なのに、社員食堂を利用できないなんて。
(なんだか可哀想)
美來は初めてそう思った。
食事が終わった後は、フリードリンクの珈琲にカフェラテをお代わりしながら、なな美と談笑した。
なな美は秘書室の秘書全員に目を配り、秘書の業務や人事関係など全般を統括しているとのことだった。
なな美自身の趣味やプライベートなどもなな美はフランクに話し、美來は午前中の緊張も解け、すっかりなな美に打ち解けた。
昼休みが終わると午後も午前中同様、なな美の講義が続き、そうしてあっという間に就業終了時刻間際になった。
「ご苦労様でした。これで会社のこと、秘書業務の一通りは理解できたと思います。就業終了時刻の17時15分が過ぎたら、タイムカードを押して今日は退社して結構です。その前に、専務に退社のご挨拶は忘れないで下さい。明日から頑張って下さいね」
なな美がにこりと笑って言った。
その華やかで優しい笑顔に今日一日の緊張も改めて解ける。
なな美のような女性が秘書室の上司で良かったと美來は思った。
挿絵は汐の音さまに描いて頂きました。