暇語りの二 死生観
かつて、二人が小学四年生の頃の担任をしていた教師が病で亡くなったという報せを聞いて、葬儀に参列した日の帰り道。
「……百九十八歳、かぁ」
「地球の時代に比べれば伸びたらしいけれど、それでも……短い、な。坂原先生の祖父もまだ健在だってのに」
この時代、人類の寿命は地球時代の三十年程度から七十年程度などではなく、三百年は生きるのが当たり前になっていた。コンピューターさえ数えることが困難なほどに地球の時代から時間が過ぎて、科学も発展して、当たり前の進化といえばそうなのかもしれない。だから、あの教師は地球時代の寿命で置き換えるなら四十歳程度の若さで亡くなった、ということになる。
「……先生は、空の上で私たちのこと見てくれてるかな?」
「まれにとはいえ、ある人物の死後数十年から数百年後になって血縁もない顔見知りでもないような人間の子としてそっくりな人間が生まれるから転生は有り得るんじゃないかって理論はある。そう考えると……やっぱり死後の世界はある、のかな」
科学の発展で寿命が延びても、ホモ・サピエンスの末裔、人間である限り寿命という呪縛から解き放たれることはきっとない。人類の歴史何百億年、未だ科学では死後の世界が存在するとも、しないとも証明されていない。あるとしたら、それはどんな世界だろうか。天国と地獄みたいに分かれているのか、そんな区別はない混沌とした世界なのか、死んだ後の人間は幽霊になるのか天使になるのか、それともそういったものを経由せずに転生するのか、あるいは一度きりの人生を終えのんびりと消滅の日を待っているのか。真実は分からない、誰も死後の世界など語らないのだから。
空を見上げる。空の雲の上には宇宙が広がっているのに、何故だかみんなずっと、死者や死後の世界に思いを馳せるとき大空を見上げる。空の上には天国が、と語る本は少なくないから、そういうものとして宇宙を知らなかった時代から語られてきたのかもしれない。
烏のような服を着て、二人はずっと空を見上げていた。
重かったり重くなかったり。