金魚は夜に踊る
「もう母さんなんか知るもんか」
聡はか細い声で呟いた。その声はどこか意地を張っている様にも聞こえる。
手には小さな袋が一つ。ビニール製の袋の中には一匹の金魚が泳いでいる。
聡は母親と夏祭りに来ていた。近くの神社で行われている夏祭りで、聡は毎年楽しみにしていた。神社は山の麓にあり、神社までの参道には沢山の的屋が並んでいる。母親に着付けてもらった甚平に身を包んで、少年はキョロキョロと辺りを見回した。
威勢の良い呼び掛けの声が参道いっぱいに広がる。甘い香りが立ち込める綿菓子、焼きとうもろこしの醤油が焼ける音。そしてどこかで聞こえるお囃子に聡は浮足立っていた。
「聡も十歳なんだから、一人で何か買っておいで」
そう言って母親は聡に五百円を手渡した。これだけあればお腹は膨れるぐらいの金額だ。無駄遣いは駄目よ、と念を押される。
「うん、ありがと」
着付けてくれた甚平のポケットにそのお金を入れて、聡は的屋へと走っていった。
「どれにしよう……全部美味しそうだな」
聡が的屋を練り歩いていると、一件の寂れた的屋が目に入った。大きな看板は無く、小さな札が掛かっている。近寄ってみると金魚すくいやってます、とだけあった。
しかし中を覗き込んでみても、普通の金魚すくいの様に大きなタライは無くどこにも金魚の姿は無い。
「なんだ小僧。金魚すくい、やりに来たのか」
突然の声に聡は驚きながら顔を上げる。そこにはいつの間にかフードを被った男が立っていた。
「あ、えっと、その……」
男は無言で奥へ下がると、金だらいを持って来た。中は水で満たされており、そこには大小様々な金魚が泳いでいた。
聡はその中で一匹の金魚に目を留めた。長い尾鰭に傷一つ無い鱗。そして何より金魚達の中で最も美しい紅色を持った金魚だった。
「やります」
咄嗟に、そう告げていた。一回五十円で良いよ、と男は言った。聡は金を男に手渡すとポイを受け取った。ポイは薄い和紙でできていて、水に浸しただけで破れそうだ。
目を留めた金魚に向かってポイを向ける。しかしすぐにポイは破れてしまった。
「残念だったな」
「も、もう一度だけ」
聡は持っていたお金を出した。男は無言でポイを渡した。しかし、何度やっても金魚を掬うことはできない。最後のポイを破いた時、男が口を開いた。
「ここまで下手な奴も早々いないな……仕方ねぇ。これは特別だぞ」
そう言って男はビニール製の袋を取り出し、中に水を入れる。そしてずっと狙っていた金魚をその中に入れると少年に差し出した。
「あ、ありがとう!」
聡はそれを自分の目線より上に上げて下から覗き込んでみる。白熱電球に反射して、袋の中の金魚と水はキラキラと輝いた。
また沢山の的屋が並ぶ通りに出た時、聡の母親がやってきた。彼女は聡の手に持たれた金魚を見ると、困った様に言った。
「なんで金魚すくいなんかやっちゃったの?家で飼うの?」
聡は困った様に俯いた。
「そうだけど……」
「第一お金どうしたの?何か食べた?」
聡が首を振る。
「何?全部使っちゃったの?どうして途中でやめなかったの!」
「だって……だって」
「だってじゃありません!」
「本当にもう…なんでこんな金魚なんかに五百円も……!」
「うるさい!もう、母さんなんか知らない!」
聡は母親に向かってそう叫ぶとそのまま走り出した。
「ちょっと聡!?」
聡はその声を振り切る様に足に力を込めて走っていった。
聡が気がついた時、そこは山の中だった。明るい祭りの雰囲気とは違い、静かな山の中に聡は少し恐怖を感じる。
聡は思い出したように金魚を確認する。無我夢中で走ったが特に金魚に異常はなさそうだ。
「良かった……」
でもどうやって戻ろう、と聡はキョロキョロも周りを見渡す。全く見覚えの無い風景。どうやって来たのかも分からない中で少年は林の中、少しだけなぎ倒れたようになっている場所を見つけた。獣道のようだか、ここしか道はなさそうだ。
聡は袋を木に引っ掛け無いようにしながら獣道を潜り抜けた。突然目の前が明るくなり、軽やかな音楽も聞こえてくる。
「なぁんだ、結構近かったんだなぁ」
聡はほっとしながら大きな通りへ歩こうとしたその時。
「オイ!そこの坊ちゃん!寄ってってよ!」
元気な声に呼ばれ、聡が顔を上げた先には頭に捻りハチマキを巻いた針鼠が立っていた。
「ウチは型抜きやってんだ!楽しいよ!」
聡は無言で首を振るとそのまま走り出していた。立ち並ぶ的屋に人は一人も居なかった。右を見ると狐が狐のお面をつけて客寄せをしていた。急いで目を逸らすと、そこには法被を着た羊がいる。その奥にはどうなっているのか、トビウオがヒレを動かしながら叫んでいる。
「羊の綿菓子だよー。ふわふわで美味しいよー」
「トビウオの輪投げだぜ!高得点者にはプレゼントもあるぜ!」
そんな声を聞きながら、聡は人気の無い道に逃げ込んだ。
「ここはあの神社じゃ無いの!?なんで動物が普通に的屋をやってるんだろ……。分かんない、どうしよう……!」
ふと力が抜け、そのまましゃがみ込むと袋の中に金魚がいない事に気がついた。水が溢れたような跡は無いが金魚の姿だけが消えていた。
「そ、そんな……」
「どうかしたのか」
声の先には梟がいた。丸く大きな目がじっとこちらを見ている。聡はおどおどしながら答えた。
「道に迷っちゃって……どう帰ればいいか分かんないんだ」
ふむ、と梟は唸った。そして少年の手に握られているビニール製の袋を見た。
「それはなんだ」
「これは来る前に金魚すくいをやって……でもいなくなっちゃったんだ」
「なるほど、俺も少し退屈してたんだ。協力してやろうか?」
「ほ、本当に?」
ありがとう、そう言いかけた時聡のお腹が大きな音を立てた。
「……どうやら先に腹ごしらえがいるみたいだな」
付いて来いと言わんばかりに梟はそのまま大通りの方へと歩いていった。聡はおずおずとそれについて行った。
梟は一つの的屋の前で立ち止まった。
「一つ貰おうか」
「はい!毎度!」
そこにいたのはマンボウだった。どうなっているのか、地面に鰭で立っている。香ばしい匂いはするがなんだか分からない。
目の前にはタコ焼きの様なものが置いてある。
「あ、あのこれは一体……?」
「こいつはマンボウ焼きだ!自信作なんだよ」
へ、へぇ……と、聡は頷きながら思い切って一つを口に放り込んだ。その瞬間、聡は顔を輝かせた。
「お、美味しい!」
ふわっとした甘みと甘辛いタレがよく合っている。サクサクとした歯触りはタコ焼きよりもずっと美味しかった。
夢中で全てを食べきった後、梟は頃合いを見計らって言った。
「じゃあ、行こうか」
先を行こうとした梟は前を向いた瞬間、体を強張らせてその場に止まった。
「どうしたの?」
聡の言葉と同時に屋台の動物達はそそくさと店じまいの準備を始めている。まるで何かに怯えているようで聡がこちらを見ても何の反応も示さない。
「お前、早く隠れろ」
「え、なん……」
「いいから!」
その言葉に聡はびくりとしてそのまま屋台の裏へと消えていった。屋台の灯りが消え、提灯の火だけが道を照らしている。そんな中で大きな影が向こう側から現れた。
提灯の下に晒されたその影は恐ろしく大きな虎だった。道の真ん中を悠々と歩くその姿に皆は目を逸らしている。
「よお、やってるかい?」
「ぼ、ぼちぼちです」
そう尋ねられたマンボウはおどおどしながら答える。ほう、そうかい、とだけ虎は答えると、そのまま梟の方へと向き直った。
「お前、久々だな。元気だったか」
梟はふん、と鼻を鳴らした。
「お前こそ珍しく祭りに顔を出したと思えば……。何があったんだ?」
「いやねぇ…今回は祭りに人間がいるって子分から聞いてよぉ…いてもたってもいられねぇよなぁ!」
「……やっぱりか」
「それ以外に俺がここに顔出すとでも?」
虎はワクワクした様に続ける。
「人間が来るなんて何年ぶりだ?あぁ楽しみだ。どうやって食べようか」
「俺は別に見てないぞ」
梟は呆れたような声で言った。その声が少し震えているのを虎は見逃さなかった。
「おや、梟くん。どうしたのかい?」
だから何も、と梟が言い返そうとした瞬間。
「しらばっくれんじゃねぇぞ!お前が人間の子供と歩いてるのを見たって言ってる奴がいるんだよ!」
「それはお前の子分の目が後ろにでも付いてるんじゃないのか?」
心底馬鹿にした様な声で梟は虎を見据えた。
「じゃあお前を食べてからゆっくりと子供を探そうかねぇ!」
そう虎が叫び、梟に飛びかかろうとしたその時。虎の眉間に小石が飛んできた。虎がその小石の飛んできた方向へと目線を向けると、そこには狐の面をした聡が立っていた。
「何だお前、こんなところにいたのか」
そう言って虎は聡の方へと向かっていく。その時、梟は虎の背中に飛びつくと背中に鋭い爪を突き立てた。
「いってぇ!何すんだ!」
お前!と梟は聡に呼びかける。
「このまま本殿まで走れ!その裏に池がある!そこに行けばなんとか…」
梟は虎の攻撃をかわしながらそれを聡に伝えた。虎は梟を仕留めるのに手一杯で、聡の方には目もくれない。
聡は大きく頷くと、そのまま虎が来た方へと走っていった。所々にある赤提灯の光だけが道を照らしている。聡はその中を必死に走った。
しばらくすると、本殿らしい立派な建物が目の前に現れた。真っ赤な朱色が目立つ、しかし落ち着いた雰囲気のする建物だった。
聡は建物に見惚れながら裏へと歩みを進める。そこには眼を見張るほどの大きな池があった。池に近づいて覗き込んでみる。水はどこまでも透き通っていて、中には沢山の金魚が泳いでいる。可愛らしい赤色、引き込まれるような黒色、そして眩しい程の金色。様々な色をした金魚が悠々自適に泳いでいた。
「梟さんがここに来ればどうにかなるって言ってたけど…」
そっと後ろを振り返ってみると、そこには浴衣を身に纏った、長身の男性が立っていた。髪が長いせいかちゃんと顔を見ることは出来ないが、その顔は整っているように見える。緩やかな流線型の赤い模様が描かれた浴衣は不思議とその男性にしか似合わないような気がした。
気配もなく立っていたその男性に思わず聡は驚いて声をあげそうになる。男性はそっと自分の口元に人差し指を当てて、聡を宥めた。長い黒髪がさらりと流れる。聡はこくりと頷くと静かに聞いた。
「あの、梟さんがここに来いって……」
男性はゆっくりと頷く。そして向こうを指差した。その方向には暗い森が広がっている。
「向こうに行けばいいの?」
再び頷く男性。
「ありがとうございました!」
男性はそう言って駆け出そうとする聡の腕を取ると自身の方へと引き寄せた。そして聡の耳に澄んだ声が響く。
「助けてくれてありがとう、これからよろしく」
「えっ……?」
聡が聞き返そうと男性の顔を見ようとすると、そこに男の姿は無かった。呆然とする聡だったが、本殿の方から聞こえてきた虎の咆哮に我に返った。
「早く行かなきゃ」
暗い森の中で聡は走った。だんだんと音と光の音が近づいてくる。もう少し、もう少し、と自分に言い聞かせ、聡が目を瞑り、目を開けるとそこは迷い込む前の祭りの参道だった。
「帰って来れたんだ……」
聡が周りをキョロキョロと見ていると
「聡!探したんだからね!どこに行ってたの!?」
母親が、こちらに走り寄って来る。聡は一言ごめんない、と言った。ふと、手に重みを感じる。そこにはあの場所でいなくなっていたはずの金魚がいた。聡は愛おしそうに金魚を持ち上げると、ふふふ、と笑った。
母親はその場にしゃがみ、聡と目線を合わせる。
「もう、しょうがない子ね。……ちゃんと世話、できる?」
聡は何度も首を縦にふった。
「分かりました。約束だからね?」
「うん!」
「じゃあ、帰りましょうか。もう遅いし」
母親はそう言って帰る方向へと歩いていった。
聡はそっと金魚を眺める。金魚は美しい尾鰭をたなびかせながら、悠々と泳いでいた。
「こちらこそ、よろしくね」
金魚の尾鰭は浴衣の模様のようだった。