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紫苑

 戻ってくる必要はない、そう言われた物の、行く先も見えていないので俺は唯真っ直ぐ進んでいる。こうなるのだったら、番人さんに待人達の場所を教えてもらえば良かっただろうか。……いや、聞いても意味はないか。なんせ此処には天井はあっても壁がないのだから。聞いたところで、長年番人をやっているだろう彼と俺は違う。

 あれ?何だか虚しくなってきた。

 此処に来てから何時間たっただろうか。不思議と腹は空かないが、生きている手前、タイムリミットが存在しているのではないだろうか。食べ物も飲み物も無い今、きっと俺はやばい状況に立たされているのだろう。


 他人事の様にしか思えない。

 下を見れば、太陽の無い空。上には風が吹いているのか、葉が揺れ動き、浚われていく草木がそこにあった。どうしようもない焦燥感。唯それが俺の中にあった。

「はぁ……。」

 歩き出してからは余り時間は経っていない。そうであっても、何も無い世界は……何も無い訳じゃないけれども、平坦に続く道は俺の精神をガリガリと削ってゆく。俺は深く息を吐いた。


「……あの、大丈夫ですか?」

「あ、はい……ぇ?」

 考え事を始めると、周りが見えなくなるのは悪い癖だ、なんて恵探(けいた)にいつか言われた言葉を思い出す。声が途端に俺に掛かった事に驚きを隠せず、慌てて下に向けていた視線を前に戻せば、少し離れた場所に一人女性がそこに立っていた。


「あ、えっと、その……。」

「声が届き難いので、近寄ってもらってもいいですか?」

 離れていても顔は見える。俺のいる方にしっかりと向き、そして声が聞こえるのに、のっぺらぼうの様に何も無い肌色の顔をしているのに、どのような反応をしたらいいか分からず戸惑っていれば、ちょいちょいと手招きをしていたが、途端にその手を止めた。

「……あ、やっぱり怖いですか?」

  俺の視線に気付いた彼女は、自分の顔に手を触れながら、困った様に呟いた。


「ご、ごめんなさい……。」

「あ、いえ、謝らないで下さい。私自身この顔になってまで、此処にいる事の醜さを分かっているわけですし……、仕方の無い事なんですよ。」

  これは罰なんです、身体を揺らし首を少し傾げた彼女はきっと、表情があるのなら酷く痛々しい笑顔を浮かべている事だろう。俺は慌てて首を横に振った。

「いえ、別にそう思った訳ではなくて……初めてだったんです。番人さんからは聞いてたんですけど……。」


  貴方が待人ですか?と続けて彼女に聞いた。彼女の言った様に、その気持ちがあったけれども、それでも俺は俺自身の気持ちを受け入れる事が出来なかった。醜い、そう思ったけど、それよりも悲しみの方が強かった気がしたから。

  俺は彼女に近づいた。

「えぇ、私が待人です。……貴方は此処に来たばっかりで?」

「そう、ですね。」

「貴方は……。」

「どうしました?」

「ごめんなさい。失礼ですけど、若くして亡くなったんですか?」

  私の時代はやっぱり学生服にブレザーなんて使ってなかったから、と不思議そうに聞いてくる彼女。


「いや、俺はまだ生きているらしいです。」

「え?じゃあ、どうしてこんなところに?」

「番人さん曰く、姫に呼ばれたんじゃないかと言われました。」

「あぁ、成る程、姫が……。」

「……何か、心当たりが?」

  彼女は静かに首を横に振った。彼女の薄い黄色を基調にした艶やかな着物も、合わせて緩やかに揺れる。

「この世界にいると、貴方の今生きている世界を姫が時々教えてくれるんです。学生達の生活や仕事風景とか、他にも色々と……。」

  だから、姫にも何か考えがあるんだと思いますよ、そう彼女は言った。姫の意図は分からなくても、きっとちゃんとした理由がある事は分かります、と。


「はぁ……。」

「姫と一度会話してみれば、私の言った意味も分かりますよ。あの人は優しいですから。……優しい姫に対して、現実は残酷過ぎるかもしれませんがね。」

  彼女の言葉の真意が掴めなくて、俺は首を傾げた。

「あぁ、すみません。今はまだ分からなくても良いと思います。」

  そんな俺に彼女はくすりと小さく笑いながら、そう言う。


「……それは、時が来れば分かる、という意味で良いんですか?」

「はい。」

  しっかりと頷いた姿に、俺は躊躇いがちにそうですか、と呟いた。そう言うしか出来なかった。

「あの、名前を聞いても良いですか?」

「俺の、ですか?」

「貴方しか此処に居ませんしね、私以外では。」

「あはは、そうでしたね。俺は黄坂まちとです。」

「まちとさんですか。私は真衣、と言います。」

  俺は真衣さんに、頷いた。


「……真衣さんは、どうして此処に?」

 不躾な質問だと思った。でも、聞かずにはいられなかった。もしかしたら、俺が呼ばれたその真意が分かるかもしれないと思ったから。

「……手を、握っても良いですか?」

「え、あ……はい。」

 お願いします、と切なげな声で言われれば、俺は断る事が出来なくて、俺は躊躇いがちに頷いて、そっと少女に手を伸ばす。

 それを肯定と受け取った少女は、ゆったりと両手で俺の手を触る。


 ……冷たい。氷の様に、俺の体温を急速に奪っていく。それでも、真衣さんの手つきは割れ物を扱うかの様に優しい。生きている様で、生きていない。生と死の間にある存在が、真衣さんである気がして、俺はぶるりと身体を震わせた。

「あ、寒かったですか?」

「いえ、大丈夫です。」

  慌てて手を離そうとする真衣さんの手を、逆に俺は掴んだ。


「でも──」

「大丈夫です。」

 何故かそう言わなければならない気がした。彼女から、逃げてはいけない気がした。

 真衣さんは俺の様子に、くすくすと笑ってまた掴んだ手をやんわりと外し、手を握ってくる。次は、体温が奪われる感覚はなく、俺と真衣さんの間で熱が生まれてくる様な不思議な感覚がした。


「……暖かいです。」

「そうですね。」

「知っていると思いますが、私は死んでるんです。」

「はい。」

 俺は頷いた。きゅっと、握られる手が強くなった。


「彼に悪い事をしてしまった。私がこんなところに来てしまったから。いや、姫は悪くない。……私が此処に来たいと願ってしまったから。」

「……。」

「待人は、探人に対して罪を負うと私、思うんです。罪の責を負いながら、私達は探人が迎えに来てくれるのを待つんです。それしか出来ないから。自身で終わらせる事が、出来ないから。」

「はい。」

「辛いです。待つ事しか出来ないのが……。迎えに行けたら、どれだけ報われる事か。それでも、私達は探人に恋焦がれ、待ち続ける。」


 俺は彼女の手から自身の両手を抜いて、彼女の両手をそっと温める様に包んであげる。それしか俺の出来る行動なんて存在していなかったから。

「辛いんです。彼が、もしかしたら私を恨んでいるかもしれない、そう思うと、会いたくない、なんて思えてきて……。」

 会いたい気持ちと会いたくない気持ちに挟まれて、身動きが取れない心は酷く痛々しい。きりきりと板に押し潰され、今にも消えてしまうのではないかと、そう思えてしまう程に。


「俺が、その彼を探しちゃ駄目なんですか?俺なら、それが出来る。」

「駄目です。貴方には、まちとさんにはまちとさんでする事が、しなければいけない事がある筈です。」

「でも……!」

「貴方は、この世界にいる全ての待人にその慈悲を捧げる事が出来るんですか?生きているのに?その様子じゃ、食べ物も飲み物も無い。タイムリミットが、貴方には存在している筈です。」

 この世界は広い。計り知れない程に。私と同じ気持ちをしている待人はごまんといます。それでも、それが出来るのか、そうはっきりと言った。

  俺は言葉を出す事も出来ず、口をはくはくと動かす。


「……あぁ、すみません。酷い事を言いましたよね。気持ちはありがたいんです。本当に。でも、私達はそうしなければならないんです。これもまた私達の我儘なんですけれどね……。」

「我儘……?」

「はい。此処にいる私達にとって大切な物の為の我儘。此処に存在出来る理由。」

「そう、ですか。」

 そうとしか言えなかった。真衣さんは、俺の様な思い付きの覚悟なんて要らないのだと思った。彼女がそう思っていないにしても、此処に来るとき、相当の何かがあった事など容易に想像出来たから。それ故に彼女の覚悟は重い。


「でも貴方は、まちとさんは、姫を助ける事が出来ます。」

「ぇ?さっきは出来ないって。」

「誰よりも姫に近付いているのは、あの人以外に、貴方だけですよ。」

「あの人?」

「あら、気付きませんでしたか?……きっと、分かりますよ。全て。」

「真衣、さん?」

 真衣さんは突然に俺の手を離した。

 すっぽりと俺の手の中に納まっていた手が無くなった感覚は、とても物寂しいもので……。


「さぁ、私との会話はこれで終わりです。」

「え、ちょっ!」

「終わりなんです。これ以上貴方と話していると、全てを話したくなってしまうから。大丈夫、まちとさんは辿り着けますよ。」

 このまま真っ直ぐ進めば、多分もう一人待人がいると番人さんが言っていましたよ、と俺に有無を言わせず俺の腕を握り左に方向転換させながらそう言った。それは早く行ってくれと言う懇願の様に思えた。


「真衣さん。」

「なんですか?」

「気を付けて下さいね?」

「……ふふ。その言葉。そっくりそのまま、まちとさんにお返ししますよ。」

 彼女は楽し気に笑った。此処に何年いると思っているんですか、と。これが普通であるかの様に彼女は言う。

 死んでもなを、待人達は危険に晒されているのに、どうしてこうも笑っていられるのだろうか?ふとそう思った。変える事は出来ない事実であるのに、変えたいと思ってしまう自分が浅ましい。


「まちとさん……行ってらっしゃい。」

「っ!……行ってきます。」

 どうしてかその言葉が懐かしく感じた。

 まちと、と呼ばれた時に感じた異物感を懐かしさで蓋をして、俺は笑って歩き出した。


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