蝦夷菊
冷たい地面の感触を確かに感じ、俺の意識は浮上する。
「……ぅ、うぅ。」
身体が重い、何処かまだ意識を失う前に受けた頭の痛みが残っている様で、俺は何度か深呼吸をしてからゆっくりと目を開けた。途端に目を刺すのは、強い光。何度か目を瞬かせ、光に目を慣らす。
「……は?」
何処だよここ。
目の前に映ったのは、木。そう、木だ。俺は仰向けに寝ており、つまりは上を見ているのであるのに、だ。
いやいやいや。可笑しいだろう、色々と。簡潔に言えば、上下逆の世界。逆立ちしているような感覚に陥り、俺の頭はショートしたようにくらくらと眩暈を起こした。頭がまともに働かない。
俺が気を失っている間に、運ばれたのか?
俺は力の入らない身体を無理やりにゆっくりと起こして、うつ伏せの状態から胡座をかいて座った状態になる。自身の足元を見ると、そこには白く薄い雲と、蒼い空。
「……おいおい、一体どうなったってんだ。」
何度か辺りを見回してみたものの、出入り口の様なものは見えないし、まず壁が見えないので、探しようがない。
俺はそっと息を吐きながら、もう一度仰向けに倒れる。これが所謂途方に暮れるって奴なんだろうな、なんて冷や汗で冷たくなった手を目の上に置く。
ひんやり、彼方此方に視線をやっていた目は異様に熱を持っていて、どんどんと冷えていくその気持ちよさに、頭の痛みが少しずつ消えていくようだった。
落ち着け、落ち着けと心の中で何度も繰り返す。そうしておかないとどうしてもこの状況を受け入れられない様な気がしたから。
それ程までに切羽詰まっていた。
「あぁー……。」
長く長く息を吐き出す。
夢であって欲しいと思いながらに、目の上に乗せていた手で、自身の頬を抓り、痛みがあるかを試せば、 鈍い痛み。
現実味を帯びてきた事になんとも言えない気持ちになりながらも、俺はもう 一度身体を起こした。
「そう言えば、荷物って……。」
今更ながらに気付く。修学旅行中だったのだ、携帯やらちょっとした食べ物やらも鞄に入れていた。
できるだけ上を見ないように辺りを見回すが、自身の使っていた黒い鞄の姿は見えない。
「八方塞がり、だな。……これは、最後の手段としては歩くしかないよなぁ。」
少しずつ冷静になっていく思考に何処か安堵を覚えながら、どうしようもなく、俺は額に手を置き、正面に視線をやり目を凝らした。
「……なんだ?」
黒い物の様な何か、が遠くに見えた。
先程までは無かったはず、と俺は首を傾げる。
近づいてみるか、と心の中でぼそりと呟き、俺はゆっくりと立ち上がった。長い間、寝ていたり座ったりしていた状態だったからか、未だ続いている頭痛と相まって立ちくらみが酷い。足が覚束無く、俺は一度しゃがみ込み、上を見上げる。
その時漏れたのは戸惑いの声。そんな事あっても良いのだろうか、なんて知らない世界で上下逆さまになっているのだから、何でもありなんだろう、自問自答を頭の隅で行い、俺はそれを見つめた。いや、見つめるしか出来なかった、そういった方が良いかも知れない。
前に見える黒い物の正体はこれなのだろうか、まだ冷静に働く頭は俺でさえも気持ち悪くなるぐらいに、適切に答えを出す。可笑しな現状に気が動転し過ぎると冷静になるとはこの事か、と思った。
ぐにゃり、それは生きているかの様にして波打って動いた。木に登るでもなく、俺は雑草の生えた所々に湿った土が見える地面に、引っ付いている。
てらてらとこの世界にある白い光を反射している訳でもなく、黒い靄を纏ってうねっているそれは気持ち悪さを一段増しにさせた。
逃げなければ、頭にはこの言葉が浮かぶ。
急いで立ち上がり、ある程度黒いそれとは離れている物の、そいつのいる方向に背中を向けて、走るが、直ぐに足を縺れさせバランスが崩れる。
「っあ!」
顔から打つかるのを、腕で防いだ時、合わせた様にしてスライムを高い所から落とした様な、水っ気のある嫌に耳に響く音が聞こえた。うつ伏せの状態から後ろを見ると、元々いた場所よりも奥手にそれは落ちていた。
ぐにゃり、またそれは先程と同じ様に蠢き、俺の方に近付いてくる。
「っひ!」
初めて見た時には感じなかったが、それが近付けばひしひしと感じる恐怖感。俺は喉を引っ掻いた様な声を出して、匍匐前進の様にして逃げる。
一体何なんだ!
仰向けに転がり直し、それの様子を見ながらに逃げれる様に体制を変えた。
立ち上がって逃げようとも思うが、腰が砕けて立ち上がるにも力が入らない。黒い物との距離は少しずつ近付いて来ていた。それは覆い被さるかの様に水音を立てながらに、身長を高くする。きっと口を開けたのだろう。身体の中心部分には靄が掛かっておらず、光を反射して照かっていた。
気持ち悪い。唯その一言が頭の中に浮かんでは消える。どうしよう、なんて考えていられなかった。逃げる為だけに足を、手を動かす。
黒い物の影に俺の身体がすっぽりと入るぐらいの近さまで来た時、それは止めだとでも言いたいかの様にして、覆い被さってきた。
俺は動きを止めて、目を瞑った。
「……おいおい、助け呼ばないとはお前一体何してんだよ。」
途端に聞こえた怒っている訳でもなく、唯呆れのみを含んだ声色に、俺は張り詰めていた空気が解ける様に消えていくのを感じた。身体の強張りも次第に無くなっていく。
目を開ければ見えるのは黒では無く、間に割って入ったのか、白い背中。
助かった?
生きた心地がしない。でも、俺は血一つ垂らしてないし、痛いところも無い。
「おい、待人……!聞いてるのか……ぇ?」
先程と同じ声。暖かさを感じさせるような男性の声は、今度は戸惑った色を持っていた。
待人ってなんだ。突然に掛けられた言葉は、俺の事かは分からないが、何かを指す言葉。くらり、身体が傾いた。安心したからだと思う。俺の視界は徐々に暗くなり、最後に見えたのは男の人が慌てた様に俺の方に手を伸ばしてくる姿だった。
* * *
「おかあさん!たのしみだね!」
「えぇ、そうね。」
車の中、後部座席に座っている子供がそう声を掛ければ、助手席に座っている母親が、後ろに振り返りながら、子供の言葉に笑って頷いた。
……今度は車の中、か。
バスの中で見た夢と同じ人物達が、同じようにある一定の距離を置いてそこに存在していた。違うところと言えば、さっきの場面は家の中であったのに対し、今は車の中である事と、子供が起こしに行ったのだろう、父親がその車の運転をしている事だろう。
きっと、家の中で話していたお出かけをしているのだろう、と俺は簡単に検討をつけて、また見る事に徹した。きっとこの夢に|干渉することは出来ない《、、、、、、、、、、、》から。
子供は、きゃっきゃと笑って父親の方にも同じ問い掛けをした。
「あぁ、そうだな。……本当に、楽しみだ。」
「だよね!やっぱり、おかあさんのすきなばしょにして、よかった!」
「お前は良く分かってるもんな。」
うん!、暖かい空気が車の中には一杯に詰められていて、俺まで何処か嬉しいような懐かしいような感覚に襲われて、くすりと笑った。
……どうして?
そんな言葉を俺が呟いた時、何処からかタイヤの擦れるような音と、クラクションの音が同時に聞こえた。にゃあ、車の外から聞こえたのは猫の鳴き声。
先ほどまでの空気がガラリと変わり、その場所はどこかから切り離された様に、殺伐としたものとなる。誰かの焦ったような声にならない悲鳴。これはきっと父親のものだろう。
子供の名前を咄嗟に叫び、驚いて固まっている子供へ、必死に身体を近づけて抱き抱える母親。
子供は両親を不思議そうに呼びながら、母親にされるがままになっている。
──あぁ、なんという悲劇であろうか。
俺の心がずきりと傷む。頭がくらくらした。
──俺は何を間違えた?
きっと俺のたどり着く事は出来ないであろう、問い。どうしてか分からないが、自然と俺の中で生まれた物であった。
「──、きっと大丈夫。あなたは、生きられる。」
子供の母親の言葉がひどく響いて聞こえた。
* * *
「……っ!」
「起きたか。」
がばり、その音が当たっているであろう程に、俺は思いっきり上半身を起こし、飛び起きた。
そんな俺を見ながら、先ほど俺を助けてくれたのであろう男が冷静に、
それでいて心配を込めた声でそう言った。
「……。」
「……どうした?何故泣いている?」
「ぇ?」
男の指摘に俺は頬をそっと触る。
指先に濡れた感触。本当に泣いていたのだと思い、俺はぐしぐしと制服の袖の部分で雑に拭いた。布地が肌を擦り、少し痛んだが気にしていられなかった。
「どうして、泣いてたんだろう?」
「……。」
夢の内容を思い出してみながらも、俺が泣く要素は何処にもなくて、不思議で堪らなかった。俺は一体何を思った?自身への疑問が幾つか思い浮かんだ。
「ぁ、そうだ。」
それでも……。俺はそう呟きながら、正座をして男の方を向いた。男は胡座をかいて、鈍色の何かを丁寧に拭いていた。何時の時代か、とでも言いたいかの様な深緑色の学生帽に白いカッターシャツ、黒い長ズボンに裸足と言った姿が男の井出立ちだった。カッターシャツは暑いのか、折って袖捲くりをしていた。
「なんだ?」
「あの、さっきは助けていただいて、ありがとうございました。」
「……当然だ。それが俺の仕事だからな。」
帽子の下から、じっと俺を見つめてくる視線。何処か探られているような心地の悪い感触に、俺は身じろぎした。
「それで、だ。……お前は、何者だ?」
「ぇ、えと……?」
「名前は、と聞いてるんだ。……あぁ、俺が先に名乗るべきか。俺は……そうだな、番人と呼んでくれ。」
「俺は、黄坂まちとです。」
「はぁ……、番人?」
そうだ、と番人さんは頷いた。
「俺の通称……ここにいる奴等を守る役目から来てるんだ。」
「奴等?それって俺が気を失う前に言っていた、待人って人達ですか?」
「まぁ、それも合っているが、待人だけじゃない。他にも探人って奴等もいるんだ。」
理解が届かない。途端に知らない言葉が立て続けに出てきて、俺は首を傾げた。そんな俺の様子に気付かなかったのか、番人さんはそのまま続けた。
「そいつ等を守るつったって、俺は待人しか守る必要はないんだがな。」
「……?どうしてですか?」
「思喰は待人しか襲わないからな。」
「思、喰……?」
あかん、理解出来ん。俺は、助けを求めるようにして、手をおずおずと上げた。
「……ん?どうしたんだ。」
「あの……、待人とか探人とか一体なんですか?」
「あぁー、すまんな。お前来たばっかりなのか。」
「来たばっかり……ですが、ここは一体何なんですか?」
ここに来た時から思っていた事。理解できない事が多いものの、理解していかないと始まらない。根本的な部分からで申し訳ないが、俺は苦笑しながら番人さんの目を見た。
「ここ……ここか、そうだな何と言ったらいいか。……簡単に言えば、死者の来る世界、か。」
「はぁ!?」
思いもよらない答えに、俺は素っ頓狂な声を出す。ある程度覚悟はしていたが、そこまでの物とは思ってなかった。
「俺、まだ生きてる筈なんですけど……。」
「おいおいおい……。」
番人さんは目を見開き、拭いていた物を地面に置いた後、左手を額にやった。番人さんの方も、困っている様だった。
「お前、生きていると証明できる物はあるか?」
「証明っていったって、俺何も持ってないですよ?」
「……ふむ。なら、どうして此処に来たのか、きっかけは分かるか?」
「きっかけ、ですか……。そうですね。あるにはある、と思います。」
俺は朱い着物を着た少女の事を番人さんに話す。
「……そうか、そう言う事だったか。」
番人さんは、どこか悲しげな光を目に宿した後、何度も頷いた。
「お前、姫に呼ばれたんだな。」
「姫……?」
また新しい言葉が出てきた。どうしようもなく虚しい気持ちになってくるのを感じながら、俺はため息をついた。
「……少し、休憩するか?今のところは、思喰も大人しくしている様だし、長く時間は取れそうだからな。」
「いえ、休息はさっき十分取りましたから、大丈夫です。」
「そうか……。じゃあ、続けるぞ。」
「はい。」
俺は頷いた。
「姫は、此処の世界を作った張本人だ。」
「……ぇ?あんなに小さな子でしたよ?」
「小さいとかは、この世界では関係無い。そもそも死んだ年が違うんだから、年齢と見た目は噛み合わないし、先ずこの世界では年老いて死んだとしても此処に来た時に、ある年の年齢の姿に変わるからな。」
「はぁ、そうなんですか……。」
聞きたい事は沢山ある、そうであっても聞きたい事ばかり聞いていたのでは、理解出来るものも出来ない、と自分を律し、話を続けて下さいと目で番人さんに伝えた。
「姫は唯一、生きている世界との繋がりを持つ事が出来る。」
「でも──」
「あぁ、分かっているさ。何故呼ばれたのか、だろ?」
「……はい。」
「俺の予測としては、一つ……ほぼ当たっている想定と思っていてくれれば良い。お前に待人がいる、それしか無い。」
断定の形でそう言っているのだから、合っていると見て良いのかもしれない。まぁ、当たっていない可能性も含んでいると言っている訳だし、鵜呑みには出来ないのだろう。俺は曖昧に笑うしか出来なかった。
「さて、此処で補足説明だ。待人、探人について何だが、先程も言った様に待人のみが思喰と言う、お前が襲ったあの黒い生物に喰われてしまう。如何してだと思う?」
「ぇ?いきなり聞かれても……、そうですね、例えば動かない状態にある、とかですか?」
「それが、やはり妥当だよな。正解だ。」
そして、彼等にはもう一つ特徴があるのだと続けて番人さんは告げた。
「……顔が、無いんだ。」
「は?」
「物やら何やら見えたり、話せたりは出来るんだがな、如何してか顔が無いんだよ。可笑しいだろう?」
「まぁ、死んだ後の世界なんですから、何でもありなのでは?」
「お前、妙に冷静だよな。面白味が無い。」
「無くて悪ぅござんした!」
別に無くたって困る訳でも無いが、何とも嫌味に聞こえる言い方をしてきたので、俺はついそう言ってしまった。それから俺は、如何して顔が無いのかと問い掛けた。
「如何して顔が無いのか、か。難しい問いだなぁ……、それは俺にも分かってないんだからな。まぁ、知っていたとしても、それはお前自身で見つけろ、しか言い様が無いがな。」
「なんで……。」
「そりゃあ、お前は探人、何だからな。」
「探人……?いや、俺自身動けて尚且つ貴方から見て俺に顔があるのなら、その答えしか無いのは分かります。でも、俺は思喰、でしたっけ?……に襲われましたよ?」
「そうだったな。……これも憶測ではあるが、お前自身が、死んでいる人間では無く、生きているからなんだと思う。」
全てが予想の答えで申し訳ないが、俺には此処までしか教える事が出来ないんだ。出来るだけ力を貸したいと思ってはいるが、情報に関しては此処までかもな、そう苦笑しながらに言う姿は何処か痛々しくて、俺は眉間に皺を寄せた。
「おいおい、如何したんだよ。」
「いや、此処まで良くしてもらったのに、良くしてくれた側の番人さんが、そんな事言うのは俺としては納得出来ない。」
別にそこまで言う必要は無いだろう?と俺の眉間を押しながらに、番人さんはそう言った。
「……それから、一つ。」
「ん?なんだ?」
「思喰って、一体何なんですか?」
如何してか、この話題を避ける様に話していたが、これは聞かずにはいられなかった。こればっかりは、襲われてしまった今としては、仕方のない事だと思いたい所ではあるけれど……。
「突然現れては、待人を喰らうんだ。まぁ、実際にその人を食べるんじゃ無く、その人達の思いを喰らう。思いを取られた人間は、如何やったってこの世界では存在できないからな。その言葉通り、待人と探人の関係性自体が崩れてきてしまう。」
「待人と探人には一つの繋がりがある、そう考えて良いって事ですかね?」
「……あぁ。」
番人さんは、何かを愛おしむかのように、目を細めた。番人さんはきっと全てを知っている。何を考えずとも、確信できた。彼もまた此処に来た人間なのだから……。
「……俺は、どうすればいいんでしょうか?」
「呼ばれたのには、何か理由があるはずだ。そう言ったって、理由、か……まぁ考えたって埒が明かんならな。待人や探人に会ってみたらどうだ?」
「姫には会えないんですか?」
「会えない。彼女は、唯一人違う場所にいるからな。向こうの方から会いに来てくれるのを待つしか方法はないだろう。」
どうしてか、悲しげに光る瞳にある輝きを見ていられず、俺は番人さんから視線を外した。
「この場所に戻ってくる必要はない。此処には壁が無い。自身の立っている場所がお前の場所だ。」
その言葉は俺の背中を力強く押してくる。俺は、もう一度番人さんの目を見た。何かを思い詰めた俺の顔がそこには写っている気がした。俺は反動をつけて思いっきり立ち上がった。今度は立ち眩みはしなかった。
「行ってきます。」
「おう、行ってらっしゃい……あぁ、ちょっと待ってくれ。」
「……?どうしました?」
俺は見下ろし、座ったままの彼は俺を見上げていた。彼は、背中を押してきた癖に俺を呼び止めた。
傍らに置いた鈍色に目線を遣ってから、彼は胸ポケットやズボンのポケットを慌てたように弄った後立ち上がり、俺に折り畳み式の小さなナイフを二つ渡して来た。
「思喰に襲われた時、俺を呼べ。助けられるのは、俺一人だけと言っても過言じゃないからな。……だが、そうであってもお前は歩ける身。完全に助けられるかどうかは、俺にも分からん。本当にやばいと思ったらこれで何処でもいいから思喰を刺せ。いいな?」
俺はその真剣な言葉に思わず何も言えずに頷いた。
「よし!分かったなら大丈夫だ。呼び止めて悪かったな。……行ってらしゃい。」
「はい。」
多分、また番人さんとはまた会うのだろう。それでも、俺は今精一杯笑って歩き出す。
まちとの背中を見ながら、彼は何かをぽつりと呟いた……。
誤字、脱字、感想などあれば、コメントよろしくお願いします。




