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  作者: 深月咲楽
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第8章

(1)


 私は、南山科ハイキングコースの入口にある喫茶店で、カフェオレを飲んでいた。待ち合わせの相手は、まだ現れていない。

 学食での一件の後、私はすぐに岡村の元へ向かった。そして、彼と雑談をしながら、私の推理に必要な事柄を仕入れた。これから最後の情報を手に入れれば、この事件の真相は明らかになるはずだ。

「やあ、待たせてもうたね。急に来客があったんもんやから」

 ドアが開いて顔を出したのは、神尾だった。

「こちらこそ、申し訳ありません。突然、お呼び立てしてしまって」

 立ち上がって頭を下げると、彼はこちらの方に歩いてきた。私の前の席に腰を下ろし、ウエイトレスにコーヒーを注文する。

「で、聞きたいことって何かな?」

 彼は、微笑みながら私の方を見た。

「希紗英さんの――この間、神尾さんの所に来た、赤いコートの女性のことについて、お伺いしたくて」

「ああ、彼女のことか。自殺しはったんやって? 可哀想なことをしたねえ」

 彼は沈痛な面持ちでそう言うと、続けた。

「聞かれたところで、僕はあの時を含めて2回しか会っていないからねえ。何を答えたらいいものやら」

 そこで、ウエイトレスがコーヒーを運んできた。話が一時中断する。

「この間、彼女が神尾さんに、何を話したのか教えていただけませんか?」

 神尾がコーヒーをすするのを待って、私は口を開いた。

「岡村君の容態はどうか、って……。この間話したやろ?」

 彼は困惑気味に、カップをテーブルに戻しながら答えた。

「本当ですか?」

 私の質問に、彼は意外そうな顔をする。

「ああ。ほんまや。こんなことで嘘をついて、僕に何の得があると言うんや?」

「おかしいですね」

 私は首を傾げた。

「それまでに、彼女とは一度、あの事件の日に会っただけなんですよね? 3月1日に」

「ああ、そうや」

「しかも、その時、彼女と会話をしたのは、神尾さんじゃなくて前田さんだった」

「ああ。女の子やし、彼女の方が話し掛けやすかったんと違うかな」

 神尾は、不思議そうな表情を浮かべて頷く。

「でも、一昨々日と一昨日、資料館に来た時は、前田さんには何も話さなかったらしいですよね。だけど、昨日、神尾さんとは話をした」

「何が言いたいんや?」

「岡村さんの容態を聞きたかったなら、どうしてわざわざ神尾さんを選んで話すようなことをしたんでしょうか? 同じ職場なんですから、前田さんに聞いたって構いませんよね?」

「いやあ、そんなこと、僕に言われてもねえ」

 神尾が苦笑する。

「何か、神尾さんからしか得られない情報を、彼女は聞きに来たんじゃないですか?」

「僕からしか得られない情報?」

 神尾に聞き返され、私は頷いた。

「宮本さんの事件のこととか」

「宮本さんって……ああ、あの、パチンコ会社の社長の事件か? そう言えば、彼女が犯人やったらしいねえ。連続殺人とか何とか、テレビのニュースでやってたよ。追いつめられて自殺したんやろ?――でも、どうして、そんなことを僕に?」

「彼女は犯人ではありません。それに自殺でもありません。本当の犯人に、濡衣を着せられた上に、殺害されたんです」

「何やて?」

 神尾は驚いたように私の顔を見た。

「せやけど、遺書があったって、ニュースでは言うてたで」

「あれは遺書ではありません。自首することを、岡村さんに告げたかったんだと思います」

「ほう」

 神尾は背もたれに体を預けると、私の方を見た。

「それなら、警察に教えてあげたらどうや? 君の意図がよくわからへんねんけど」

「このペンキ、見ていただけますか?」

 私は先ほど付けられた、袖の汚れを彼に見せた。

「おお、ひどいことになってるねえ。それが何か?」

「これ、服の前面にペンキを付けた人とぶつかって、付いた汚れなんです。これと同じことが、あの夜、起こったんじゃないですか? 宮本さんを殺害した現場で」

「何のことか、さっぱりわからへんねえ」

 神尾が私の方を見る。

「あなたは、宮本さんを殺害して逃げようとした。その時、入ってきた希紗英さんにぶつかったんです。だから、血痕は、彼女のコートの左袖にしか付かなかった。

 彼女は、あなたの顔を覚えていた。それで、あの日、あなたを訪ねてきたんですよね。違いますか?」

「おいおい、ちょっと待ってくれよ。殺害やの血痕やの、わけがわからんなあ。第一、僕と宮本さんとの間に、どういう関係があったと言うんや?」

 神尾が体を乗り出して、私の顔を見た。

「佳奈子さんです。あの子の写真を見た時、私、どこかで見たことがあると思ったんです。でも、そうじゃなかった。私は、彼女によく似た人を知っていたんです」

 私の言葉に、神尾がふっと目をそらす。

「宮本さんと佳奈子さんは、実の親子ではありませんでした。だったら、誰が本当の父親なのか。そう思った時、神尾さんの顔が浮かんだんです。彼女、あなたによく似ていますよね。特に目元が」

「あのねえ」

 神尾は席を立った。

「アホらしくて、話にも何にもならへんな。顔が似ている人間なんて、この世にはゴマンといてるで。まったく、勘違いもええとこや」

「待って下さい」

 私に背を向けた神尾に、必死で話しかける。

「岡村さんから、佳奈子さんのお母さんの名前を教えていただきました。彼女の名前は『奈緒』。そして、あなたの名前は『佳孝』。『佳奈子』っていう名前、おふたりの名前の頭文字を、一文字ずつとったんじゃないですか?」

 私の言葉に、彼は振り返った。

「神尾さん、自首して下さい。お願いします」

 私は頭を下げた。

「DNAを調べれば、すぐにわかることなんですよ。佳奈子さんを手放した細かいいきさつはわかりません。でも、あの人達を殺したのは、彼女の仇を討つためだった。違いますか?」

 神尾はしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。

「外を歩きながら話をしよう」

 私は頷いて、立ち上がった。


(2)


「しかし、君には参ったよ。よく気が付いたなあ、僕と佳奈子の関係に」

「あまりにも、よく似ていたので。特に目元が……。それに、前に郷土資料館を訪ねた時、前田さんから神尾さんがA型だというお話も聞きましたし。佳奈子さんも同じA型でしたよね?」

「そうか」

 私達は、ハイキングコースを歩いていた。喫茶店を出るとすぐ、彼は自首することを約束してくれた。ただ、警察に行く前に、もう一度だけ、大好きなハイキングコースを散策したいという。

 すぐに警察に行ってほしいとは思ったが、真実を知りたい、希紗英にかけられた濡衣を私自身が晴らしたいと思う気持ちの方が強かった。私は彼に誘われるまま、散策に付き合うことにした。

「今から、もう二十数年前になるかなあ。僕がバイトをしていた発掘現場に奈緒が……佳奈子の母親が、やっぱりバイトで入ってきてねえ。大人しいけど、芯のしっかりした可愛い子やった。僕はもう、彼女に一目惚れしてもうてね。でも、同じ職場では何かと都合が悪い。それで、周りにばれないように、こっそり付き合っていたんや」

 神尾が、懐かしそうな目をしながら微笑む。

「奈緒の実家は、西陣で小さな織物工場をしていた。しかし、父親が病気になり、その時に重ねた借金のせいで、夜逃げ同然の状態になってしまってね。そこに、あの宮本が現れたんや。奈緒を嫁にくれれば、借金を肩代わりしてやると言った。やつは、前々から奈緒を追いかけていたから、いいチャンスやと思ったんやろうな。――いや、借金苦に陥らせたのも、もしかしたらヤツが何か手を回していたのかもしれへん。

 当時、貧乏学生やった僕に、助けてあげられることは何もなかった。結局、彼女は実家を助けるために嫁いでいってもうてねえ。しかし、その時には既に、お腹に僕の子供がいてたんや」

 坂道を上りながら、彼は続けた。

「僕はそのことを知らなかった。ある時、偶然、高槻の駅前で奈緒を見かけたんや。小さな子供の手をひいていた。そして、僕はその子供の顔を見てびっくりした。目元が、あまりにも僕に似ていたからね。少し調べたら、その子供の名前もわかったよ。

 『佳奈子』。君が考えた通り、僕と彼女の名前の頭文字を合わせたものやった。佳奈子は僕の子や。そう確信した」

 神尾は辛そうに目を閉じた。

「奈緒は、僕が付き合っていた頃には考えられないほど、立派な身なりをしていた。きっと幸せに暮らしているんやろう。そう信じて疑わへんかった」

「そうだったんですか」

「佳奈子がひき逃げされたことをニュースで知り、僕は宮本の家に駆け付けた。中に入れんことはわかっていた。でも、玄関先からでもいい、一言お別れを言いたくてね。そして、その帰り、佳奈子が命を落とした事故現場を訪れたんや。そこで、現場の写真を撮っていた岡村豊さんに出会った」

 神尾は、立ち止まって天を仰いだ。

「その時、僕は初めて、佳奈子が虐待を受けていたこと、そして、施設に預けられていたことを知ったんや。僕は愕然とした。その足で宮本の家に引き返すと、僕は思い切って奈緒を呼び出し、問いつめた。なぜ、佳奈子を救えなかった。なぜってね。

 あいつは黙ったまま、何も答えなかった。心の中では、罪悪感でいっぱいやったんやろうな。葬儀の終わった夜、あいつは自殺してしまった。僕が追いつめたのかもしれない」

「どうして、今頃になって宮本さん達を殺したんですか? 時が経ち過ぎてますよね」

 私が語りかけると、彼は再び歩き始めた。私も、彼の少し後ろに付いて歩き出す。

「佳奈子がひき逃げされてすぐ、僕はひき逃げ犯に、そして佳奈子を苦しめた宮本に、復讐してやろうと思った。でも、岡村園長は、そんな僕の気持ちに気付いてはったんやろうね。僕に佳奈子が使っていた小刀を見せて、こう言わはったんや。

 『若草園に来た当時、佳奈子はしょっちゅう手首を切っていた。でも、将来の夢を持った時、あの子は変わった。この小刀も、自分の身を切るものではなく、エンピツを削る道具として大切に使ってくれていた。これをあなたにお渡しします』とね」

 岡村の父親が小刀を渡した「佳奈子の父親」とは、宮本平吉ではなく、実の父親である神尾のことだったのだ。神尾はそっと目元を拭うと、続けた。

「『憎しみが襲ってきた時には、佳奈子が大切に使っていた小刀を見て、自分の気持ちを抑えてくれ。そして、この小刀をあの子自身やと思って、あの子が生前受けることのできなかった愛情を注いでやってくれ』――あの子の笑顔がいっぱい写った、数枚の写真も一緒に渡して下さった。佳奈子自らが小刀に書き込んだという、あのイニシャルを見た時、僕は涙が止まらなかったよ」

「それなら、どうしてこんなことを……」

「あの日、資料館の前で赤いコートの女性を見かけた時は、正直言ってびっくりした。てっきり、佳奈子が化けて出てきたのかと思ってね」

 私は、何も言わず、彼の隣を歩き続けた。

「気になった僕は、彼女が運転する車の後を付けたんや。彼女は上賀茂橋のそばで車を停めると、何時間も河原のベンチに腰かけてぼうっとしていた。僕はその場を去ることができず、木の陰から、彼女の様子をうかがっていた」

「声はかけなかったんですか?」

「どうやって声をかければいいんや? 僕は君の本当のお父さんやで、とでも言うのか?」

 神尾は苦笑した。

「午前1時頃やったやろうか。彼女はどこかに電話をかけた。それから20分くらいして、男が現れたんや。すると、2人は何やら言い争いを始めた。気になって、そっと近付いてみると、『若草園』とか『岡村先生』とか言う声が、断片的に聞こえてきてね。彼女はやはり、佳奈子自身なんやないかと、そんな気になってしまった」

 彼は髪の毛をかき上げて、続ける。

「そのうち、僕の耳には、あの忘れたくても忘れられない言葉が飛び込んできた。『本村卓治』――佳奈子をひき殺した男の名前やった。出て行って問いつめようかと思った時、2人はもみ合い始めた。その内、うめき声と共に、男の方が崩れ落ちたんや。女は、手に刃物を持って走り去って行った」

「それで、あなたは高岡さんの元へ行ったんですね」

 私の言葉に、神尾は頷いた。

「ああ。僕が近付くと、やつは『助けてくれ』と言いながらすがりついてきた。僕は、なぜ彼女に刺されたのか、やつを問いただした。しかし、なかなか口を割ろうとしない。

 どうしても、本村の名前が出てきた理由を聞き出したかった。それで、佳奈子の形見の小刀を取り出したんや。その時持っていた唯一の刃物やったから、仕方なくね。凶器として使う気は、ほんまになかった」

 神尾は大きく深呼吸をすると、続けた。

「やはり、園長夫婦の死は心中ではなかった。クロロホルムをかがせて失神させた後、身体にガソリンを撒いて火を付けたそうや」

「高岡さんがですか?」

 岡村の涙を思い出しながら、私はこぶしを握りしめた。彼が殺意を持った気持ちが、痛いほどよくわかる。

「ああ。本村と2人でね」

「やっぱり、ひき逃げ犯を探し出したことの、逆恨みですか?」

「いや、違う。あの岡村園長夫妻の事件の黒幕は、宮本平吉や」

 神尾の答えに、私は耳を疑った。

「宮本平吉って……あの、佳奈子さんのお父さんの?」

「ああ。そうや」

「どうしてですか? なぜそんなことが?」

「元はと言えば、佳奈子のひき逃げ事件に端を発しているんや」

 神尾は私の顔を見た。

「さらに脅すと、やつは白状した。本村に佳奈子のひき逃げを依頼したのは自分や、とね。それも、宮本に依頼されて」

「でも、警察では、宮本さんに解雇された高岡さんが逆恨みして、知り合いの本村さんに佳奈子さんを殺させたんじゃないかって……。それに、宮本さん、犯人探しにも協力していたそうですよ」

「高岡を解雇したのも、犯人探しも、カムフラージュやったんやろう。当時、宮本の会社は危ない状態やった。そこで、娘の佳奈子に保険金をかけ、殺すことにしたんや」

「なんで、そんなことを……」

「宮本は佳奈子のことを『あいつは金がかかり過ぎる』と言ったそうや」

 佳奈子にとって、クレジットカードだけが、親子をつなぐ糸だったはずだ。しかし、そこに隠された彼女の叫びは、宮本の耳には届かなかったらしい。言い様のない怒りが込み上げてくる。

「奈緒が佳奈子の後を追って自殺した。いや、実際に自殺やったんかどうかも、怪しいところやけどね。とにかく、そこでも保険金が入ってきたみたいやな。会社は、やつの目論見通り立ち直った」

 私は、前に峰山から聞いた話を思い出しつつ頷いた。たしか、一度潰れかけた会社を立て直したと言っていたはずだ。

「岡村園長が宮本の所へ佳奈子の祥月命日のお参りに来てくれた時、宮本の家から本村が出て来るところを見られてしまったそうや。去年の5月頃の話みたいやけどね。宮本は、わざわざ本村を玄関先まで送って、手みやげを持たせていた。

 自分の娘をひき殺した相手に対して、あまりに不自然な行動やろ? それで、園長は、あの佳奈子のひき逃げ事件に疑問を持ちはったようやな。本村の周りをいろいろと調べ回っているのを知って、宮本が先手を打った」

「突然殺したのでは疑問を持たれる。それで、借金を苦に自殺したように見せかけようとした、そういうことですか?」

「いや、最初は殺すつもりはなかったようやな。真相の追求を諦め、施設を畳んで夜逃げでもしてくれたら、と思っていたらしい。

 竹下という元園児を使うことで、園長はまんまと罠にひっかかってしまった。しかし、岡村園長はひるまなかった。年末には、奥さんと2人で宮本の元を訪れ、自首をすすめて来たそうや」

「それで、殺すことに……」

「ああ。誰からも疑われずに2人一度に死んでもらうには、心中に見せかけるのが一番手っ取り早いからね」

 短い沈黙が流れる。

「宮本は、佳奈子が実の娘ではないことに、勘付いていたんやろうな。奈緒と付き合っていた頃、僕は何度か宮本に会っている。目元が似ていることで、父親が僕やとわかってしまったのかもしれへん」

 宮本が、佳奈子の目を嫌った理由がわかったような気がして、胸が詰まる。あの親子鑑定の結果が、保険金殺人の引き金を引かせることになったのかもしれない。

 私は小さく溜息をついた。

「僕は、命乞いをする高岡を、どうしてやろうかと迷った」

 神尾は髪の毛をかき上げながら続ける。

「佳奈子の死に関わっていた男や。殺してしまいたい気持ちでいっぱいやった。でも、佳奈子の小刀を血で汚してはいけないような気がした。こいつを警察に突き出して、宮本や本村を捕まえさせてやる。僕はそう考えたんや。

 しかし、僕が小刀をサヤにしまうのを見て、やつはほっとしたんやろうな。言ってはならない言葉を口にした」

 私は、彼の顔を見た。

「『あの女を見た時には、佳奈子が化けて出てきたかと思った。あんな小娘がひとり死んだくらいで、自分が殺されたんじゃたまらない』とね」

 神尾はこぶしを握りしめた。

「あんな小娘……?」

 思わず溜息が漏れる

「ああ、そうや。しかも、『死んだくらいで』なんてな。――僕は頭が真っ白になった。そして、気がついた時には、血まみれになった高岡が、目の前でぐったりしていたんや。

 佳奈子の小刀を血で汚してしまった。でも、佳奈子もきっとわかってくれるはずや。佳奈子の姿をした女性が現れ、隠されていた事実を知ることになったのは、きっと佳奈子の意思や。こうなったら、あとの2人も殺すしかない」

 神尾は顔を上げた。

「僕は、高岡の電子手帳を探し当てた。そして、本村の住所を突き止めたんや。宮本が先か、本村が先か、僕は迷った。高槻より南山科の方が近い。とりあえず、僕は、本村から先に始末を付けることにした」

 虚しい気持ちで、私は彼の横顔を見つめた。


(3)


「本村の家の鍵は開いていた。中に入って見ると、やつは腹に刃物を突き立てられ、うめいていたよ。そして、僕の姿を見つけて、助けを求めてきたんや。僕は、その刃物を見て驚いた。佳奈子の形見と、イニシャルまで一緒やったんやからね。――彼女は本物の佳奈子や。やっぱりこれが、あの子の意思なんや。あの時、僕は確信した。

 僕は、本村の腹に突き立てられていた小刀で、ヤツを何度も刺した。自分でも不思議なくらい、冷静やったよ。そして、柄についた指紋を拭き取ると、彼女がそうしていたように、本村の腹にその小刀を刺したまま、ヤツの家を後にした」

「そして、宮本さんも殺害したんですね」

「ほんまは、すぐにでも殺しに行きたかった。でも、本村を殺害し終わった時、時間は既に午前4時になっていた。これから高槻に行っていたら、始業時間までに帰ってくることができない。犯行がばれて、宮本を殺す前に捕まったのでは話にならないからね。それで、またの機会をうかがおうと思ったんや。しかし、宮本は、高岡が殺されたと知って、とっとと逃げ出してしまった」

「宮本さんが戻ってきたことを知って、彼の家を訪れたんですか?」

「ああ。仕事が終わるといつも、僕は高槻まで行き、やつの家の前で張っていたんや。あの日、やつは、日にちも変わろうかという時間になって、こっそり戻ってきた。

 家の電気が付いたのを確認すると、僕はやつの家の呼び鈴を押した。モニターで僕の姿を見て、宮本は驚いたようやな。『用はない』とだけ言って、インターホンを切ろうとした。僕はすかさず、『高岡から預かったものがある。このまま警察に行ってもいいんだが』と言ったんや。やつは渋々、門の所まで出てきた」

 神尾はそう言って自嘲気味に笑った。

「『こんな所ではちょっと……』と茶封筒をちらっと見せると、やつは中に入るよう促した。足跡を残してはいけない。僕は、慎重に踏み石を踏みながら、玄関に向かった。ドアが開き、やつが入る。僕も後に付いて中に入り、ドアを閉めた。そして、振り返った宮本に、小刀を突き立てたんや。

 この男が、佳奈子の命を奪い、奈緒の人生をめちゃめちゃにした。そう思ったら、もう止められへんかった」

 私は黙って、話を聞いていた。

「靴にも血痕が飛び散ってしまった。まあ、足の裏までは大丈夫やろうと思ったけどね。念のため、血痕を踏まないように注意しながら、市販のビニールのシャワーキャップを足に履いた。そして、血だらけになった上着を脱ごうとした。その時やった。突然、ドアが開いてね。佳奈子の姿をした女が顔を出した」

「それで、あなたは逃げ出したんですね」

「最後の最後でドジッてもうたな。あの子が悲鳴を上げたんで、僕は急いで逃げ出した。彼女の脇をすり抜けた時に、身体が彼女のコートの袖に触れてもうたんや」

「希紗英さんを殺したのは、口封じのためですか?」

 私は尋ねた。

「ああ。君の推理通り、資料館に来た彼女は、僕に宮本との関係を問いただしてきたんや。それで、第二展望所で落ち合って詳しい話を聞かせることにした。資料館で彼女の顔立ちを見て、佳奈子ではないことがはっきりとわかったよ。冷静に考えれれば当たり前のことなんやけどね。あの時は、ああいう状況やったし、僕もどうかしていたんやろう」

 神尾は、自嘲気味に笑うと続けた。

「彼女は『丸沢希紗英』と名乗った。佳奈子の家庭教師をしていたことがあると言ってね。

 希紗英は、高岡と本村にとどめを刺したのは、宮本やと思っていたようや。さすがに、宮本がすべての黒幕やとは、気が付かへんかったんやろうね。

 彼女は、宮本に自首を勧めようと、ヤツが帰宅するのを待っていたという。呼び鈴を鳴らそうとしたが、門が開いているのに気付き、中に入ってきたそうや。そこで、僕の姿を目撃した」

 私は足元を見つめながら、希紗英の顔を思い出していた。彼女の言った「やらなアカンこと」とは、宮本を問いつめることでも、殺すことでもなく、自首を勧めることだったのだ。「和彦のためにも」という言葉の意味が、ようやくわかったような気がして小さく溜息をつく。

 自分に自首を勧めた岡村の気持ちを、彼女はしっかり理解していたのだろう。それなのに……。

「なぜ、僕が佳奈子の小刀で、宮本を殺したのか。彼女は追求してきた。それで、僕は彼女にすべてを教えてあげたんや。そうしたら、彼女は僕に自首するよう言ってきてね。自分も一緒に出頭するから、なんてね。

 あの女が佳奈子のフリさえしていなければ、僕はこんな事件を起こすことはなかったはずや。それやのに、自首しろなんて……」

 第二展望所が見えてきた。


(4)


「なぜ、希紗英が自殺ではないことに気付いた?」

 神尾に尋ねられ、私は答えた。

「あなたと待ち合わせをする前に、ここに来たんです。警察の方から、岡村さんが落ちた場所と同じところから、彼女が転落したと聞いていたので」

 コースから展望所へと足を踏み入れる。つい先ほど手向けたばかりのスイートピーの花束が、風に揺れてカサカサと小さな音を立てていた。希紗英を更生させ、彼女自身が恩人に捧げていたスイートピーの花。

 黄色いロープが何重にも張り巡らされ、「キケン」のカードがぶら下げられているその場所を、私は指差した。

「岡村さんは2番目の横木を折ってしまった。でも、今はああやって、一番上の横木まで折れてしまっています。

 彼女の転落が起こる前は、柵の前に黄色いテープが張られていただけでしたよね。『立入禁止』と書かれたプラカードは下がっていましたが、向こう側に行こうと思えば、いくらでもくぐることができた。でも、あのように一番上の横木が折れているってことは、彼女はあの一番上の横木を乗り越えたってことになります」

 私は神尾の方を向いて、続けた。

「どうしてわざわざ、そんなことをする必要があったんでしょうか。そう思ったら、彼女が自ら飛び下りたとは、どうしても考えられなくて」

「なるほどね。それで、彼女は突き落とされたと考えたのか」

「ええ。その通りです。あの一番上の横木に、身体を押し付けられでもしたんでしょう。そして、その重みに耐えきれずに横木が折れてしまった」

 私は、柵に張り巡らされたロープを見つめながら、答えた。

「素晴らしい推理やね。――ほんなら、君のその推理が正しいかどうか、実験してみるか?」

「え?」

 驚いて彼の顔を見つめ返す。

「ほら、隣の横木もかなり古くなっているようやしね。あそこから僕が君を突き落としたら、ほんまに横木が折れるかどうかわかるやろ?」

 全身から殺意が感じられた。ゆっくり後ずさりする。

「自首するっておっしゃったのは、嘘だったんですか?」

 彼は、じりじりと私の方に近付いてきた。

「ああ。もちろん」

 神尾は鼻で笑うと、続けた。

「高岡、本村、宮本――殺されて当然のやつらを殺しただけやのに、僕の人生が狂ってしまうなんて、そんな理不尽なことが許されるはずないやろう。佳奈子かって、わかってくれるはずや」

「希紗英さんはどうなんですか? 彼女は、あなたの大切な佳奈子さんのこと、本当に可愛がっていたんですよ。それなのに……」

「佳奈子の格好なんて、するからアカンのや。あの女も、あいつらと同罪や」

 目に狂気が宿っていた。背筋に戦慄が走る。

「神尾さん、間違ってます。そんなんじゃ、佳奈子さんだって、救われません」

「うるさい、黙れ!」

 飛びかかってくる神尾を、かろうじてかわす。

 柵を背にしてしまったら最後だ。私はくるりと後ろを向くと、柵と反対側の方向に走った。しかし、神尾の方がかなり足が早かった。私はすぐに捕まり、ずるずると引きずられた。抵抗するが、男性の力にはかなわない。顔に平手を食らわされ、口の中に血の味が広がる。

 頭がくらっとした瞬間、私は彼に抱き起こされ、柵に身体を押し付けられていた。背中の下にある横木が、ミシッとイヤな音を立てる。

「こんなことしたら、佳奈子さんが悲しみますよ! 奈緒さんだって……」

 声の限りに、叫び続ける。

「黙れ! あいつらのことを言うな!」

 神尾が叫び返す。その時、ちらっとではあるが、彼の目に涙が光ったような気がした。

「神尾さん?」

 再び話しかけようと口を開くと、のど元を押さえつけている手に力が入った。息ができない。苦しくて意識が朦朧とする。

 私は必死でもがいた。しかし、身体の下の横木が不吉な音を立てるばかりで、神尾の力は一向に緩まない。それどころか、ますます強い力で、横木の方へと押し付けられていく。

 もう駄目かもしれない。――そう思った時、突然、目の前で神尾が体勢を崩した。手の力が緩んだ隙に、最後の力を振り絞り、神尾を押し退ける。彼がその場に崩れ落ちると同時に、私の身体を押さえていた手が離れた。

 私は、夢中で逃げようとした。しかし、足がもつれて、思うように走れない。背後からは、神尾のうめくような声が聞こえて来る。

 もたもたしていると、彼が体勢を立て直してしまうかもしれない。恐怖心ばかりが先立つ。私は、這うようにしてコースに向かった。

 その時だった。

「近藤!」

 遠くから岡村の声が聞こえたような気がした。

 病院のベッドで寝ているはずの彼が、こんなところに現れるはずがない。きっと幻聴だ。私は頭を振って、少しでも前へ進もうとした。

「近藤!」

 しかし、その声は本物だった。後ろに安永刑事と内海刑事を従えて、彼は坂道の下の方から、猛然と駆け上がってきたのだ。

「岡村さん……」

 身体中の力が一気に抜けて行く。私はへなへなとその場にへたり込んだ。

 ――それから後のことは、よく覚えていない。

 ただ、「何をやってるんや!」とか「お前まで死んだらどうするつもりやったんや!」とか怒鳴り散らす岡村の大声と、彼の腕の中で泣きじゃくったことだけ、なんとなく頭のどこかにひっかかっているだけだ。


(5)


 目が醒めた時、最初に視界に飛び込んできたのは岡村の顔だった。びっくりして悲鳴を上げる。

「お前は、相変わらず失礼なやっちゃなあ」

 岡村が怒ったような口調で言うと、その後ろで小さい笑い声が起こった。

「気分はどうや?」

 顔を出したのは、安永刑事だった。その後ろには山田刑事の姿もある。

「あれ? 私……」

 身体中が痛い。口の中が切れているようで、口を動かすと痛みが走った。心なしか、いつもより視界も狭まっているような気がする。

 ゆっくり辺りを見回す。天井や周りの様子から、自分が病院のベッドに寝かされていることがわかった。

「安定剤を入れたから、少し眠っていたんや。顔色は大分よくなったようやね」

 安永刑事が微笑む。

「ほんまに、ムチャしよるで、お前は」

 岡村が椅子に腰かけながら、私の方を見た。

「何言うてはるんですか。岡村さんかって、大変なことしてくれたやないですか」

 山田刑事がそう言うと、私の顔を見た。

「勝手に点滴ひきちぎって、パジャマにスリッパつっかけたまま、南山科署に駆け込んできたんですよ。いくら建物が向かい側やからって言うても、ムチャクチャですわ」

「『近藤が、近藤が』ってなあ」

 安永刑事が岡村の方を見て笑う。

「せやかて、こいつが聞いてきたことをつなぎ合わせてみたら、何をしようとしてるか気が付いて……。資料館に電話したら、神尾さんはどこかから電話があって、さっき出かけたところやって言うし、間に合わへんかったらどうしようかと思って……」

 岡村が頭を掻く。

「にしても、足の捻挫はどうなったんや? リハビリもほとんどしてへんのに、ようあれだけの坂道を上り切ったなあって、お医者さん、びっくりしてはったで」

「おかげさまで、悪化してもうたみたいですけどね」

 言われて岡村の足元を見ると、包帯がぐるぐる巻きに巻かれている。

「せやけど、一旦、喫茶店で待ち合わせてくれてて、ほんまによかったで。お店の人が、ハイキングコースの方に歩いて行きました、言うて教えてくれはったからな」

「そうだったんですか」

 私は頷いた。

「あの、それで、神尾さんは?」

「警察病院の方で手当をした後、取り調べを受けているよ」

「手当?」

 安永刑事の答えに、思わず聞き返す。

「ひどい捻挫をしとったんですよ。それで、手当をね」

 山田刑事が答えた。

「どうして、そんなことに?」

「本人にもわからへんかったみたいやな。君を崖に突き落とそうとした時、突然何かに足を取られて転んでしまったそうやから」

 安永刑事に言われ、おぼろげに思い出した。

「そう言えば、神尾さん、急にバランスを崩したんです。その隙に、何とか逃げ出すことができて」

 あの時、背後で鳴った、木のきしむ音が思い出され、私は思わず身震いした。もし、神尾が転倒しなければ、私は今頃、崖下に遺体となって横たわっていたに違いない。

「でも、どうして突然、神尾さん……」

「これ、見覚えないか?」

 安永刑事が、1枚の写真を私に見せた。手に取り眺める。そこには、無残にも踏みしだかれた花束らしきものが写っていた。

「神尾が逮捕された時、そのすぐ脇に落ちていたんや。周りに散らばった花びらから見て、スイートピーとカスミ草みたいやけどね」

「スイートピーとカスミ草? それ、私が希紗英さんの転落した場所に、手向けたお花です」

 私は顔を上げた。

「おそらく、神尾はその花束を踏んづけたんやろう。そして足を滑らせ転倒した」

「じゃあ、この花束が、私を救ってくれたってことですか?」

「ああ。そういうことになるね」

 安永刑事が頷く。私は再び、写真の中の花束の残骸を見つめた。希紗英に手向けたこの花束。私の命の恩人。

「にしても、神尾さんが佳奈子の本物の父親やったなんて、疑ったこともなかったわ」

 岡村が溜息をつく。

「たしかに、目元が似てるなあとは思ってんけど、佳奈子は宮本さんの実子やと思っとったからなあ。まさか、こんなことがあるなんて」

「神尾さん、よっぽど奈緒さんと佳奈子さんのことを思っていらっしゃったんでしょうね。私が2人の名前を出した時、涙が見えたような気がするんです」

 あの時、絞められたのど元をさすりながら、私は安永刑事の顔を見た。

「そうか。涙を……」

「神尾さん、独身を貫いてはったからなあ。奈緒さんへの想いが強かったんかもしらんな」

 岡村の言葉に、しんみりとした空気が流れる。

「ところで、神尾さんは、岡村さんのご実家が若草園だってこと、知っていたんですか?」

 私は岡村の顔を見上げて尋ねた。

「親父達の密葬の時、初めて知ったみたいやな」

 岡村は、椅子に背にもたれると続けた。

「自分の生い立ちを人に話すことなんて、滅多にあらへんやろ? 特に、神尾さんとは、仕事上の付き合いくらいしかなかったし」

「そうですよね。岡村さんと知り合って、もう8年になるのに、私だって何にも知りませんでしたし」

「近藤、別に俺、隠しとったわけちゃうねんで。ただ、話す機会がなくて……」

 岡村が、慌てたように私の方を見る。

「わかってます。私も3年前のあの事件がなかったら、誰にも自分の生い立ちなんて話してないと思いますよ、多分」

 私の言葉に、岡村はほっとしたように微笑んだ。

「そうだ、岡村さん。どうしても、岡村さんに伝えたいことがあったんです」

「何や?」

 岡村が私の方を見る。

「希紗英さんのことです。彼女、岡村さんの気持ち、きちんと理解してくれていたんですよ」

「え?」

「彼女が宮本さんの家に行った理由、疑問を問いただすとか、そんなことじゃなかったんです。希紗英さん、宮本さんに自首を勧めに行ったらしいんです。神尾さんに会った時も、自分と一緒に自首してくれって言ったそうで……。岡村さんの真意、ちゃんと伝わってたんですよ」

「あいつ、それで、最後の手紙に『ありがとう』なんて……」

 岡村が涙ぐむ。

「もしかしたら、神尾さんに殺されるかもしれないって、わかっていたのかもしれませんんね。だって、希紗英さんは、神尾さんが宮本さんを殺した現場を目撃しているわけだし」

「命がけで、犯人を説得しに行ったっちゅうんか? あいつは、ほんまに……」

 うなだれる岡村を見ていると、胸に再び、何とも言えない罪悪感が込み上げて来る。希紗英を追いつめてしまったのは私なのだ、私が……。うつむいて、唇を噛み締める。

 すると、安永刑事があたたかい声で言った。

「2人とも、そんな風に悲しんでいたら、希紗英さんも浮かばれへんよ。近藤さんは、命をかけて希紗英さんの濡衣を晴らしたんや。

 何より、彼女に手向けた花が、近藤さんを救ってくれた。それは、彼女が君らのことを許してくれた証なんと違うかな」

「安永さん」

 思わず胸が詰まる。安永刑事は、微笑みながら言った。

「さてと、神尾は、素直に話をしてくれているんやけどね。君が彼から聞かされた話も、教えてもらおうと思って……。ゆっくりでいいから、聞かせてもらわれへんやろうか」

「わかりました」

 込み上げて来る涙を必死で押さえ込みながら、私は頷いた。


(6)


「寒くないですか?」

 賀茂川の河原に置かれたベンチに、私と岡村は並んで腰かけていた。西の空では日が傾きかけ、辺りを赤く染め始めている。

 神尾の逮捕から10日が経ち、岡村もようやく退院の運びとなった。迎えに行った私に、岡村は、賀茂川の河原に行きたいと言い出したのだ。捻挫は完治したものの、左腕は三角布で吊られているし、胸にはコルセットをしている。無理だと言ったのだが、どうしてもとゴリ押しされ、ここにやってきていた。

「ああ。大丈夫や。近藤は?」

「大丈夫です」

 私は微笑んだ。

「それにしても、お前、顔に傷が残らんでよかったなあ」

「ありがとうございます。でも、岡村さん、ご自分のことを心配して下さい」

「おう、そうやったな」

 彼は右手で左手のギブスを触ると、楽しそうに微笑んだ。

「にしても、今回は中西と峰山にまで、迷惑をかけてもうたな」

「ええ。彼らも大活躍でしたからね」

 あの日、私が神尾に襲われたと聞いて、中西と峰山は病院にすっ飛んできてくれた。

 私の腫れ上がった顔を見た途端、中西は烈火のごとく怒り出した。無鉄砲だの、アホだの、バカだの、思いつく限りの悪態を付かれ、私はただ、身を小さくして謝り続けるしかなかった。一方、峰山は、その後ろで一生懸命笑いを堪えていた。重ね重ね失礼な後輩だ。

 ともあれ、現在では顔の傷はほとんど目立たなくなり、通常通りの生活を送れるようになっている。

 流れる水面をぼうっと見つめていると、岡村が話し始めた。

「俺なあ、ほんまに幸せな人間やと思うねん。まあ、心からそう思えるようになったんは、若草園ができてからやねんけどな」

「幸せ?」

 実の父親の死後、母親から拒否され、親戚中をたらい回しにされたという、岡村の過去を思いながら私は尋ねた。

「施設に預けられてくる子供達を見とってなあ、俺、初めてわかったんや。この子らが知らんもんを、俺は知ってるんやなって。何やと思う?」

「さあ」

 どう答えていいかわからず、首を傾げる。

「親の愛情や」

「親の……愛情?」

「ああ」

 岡村は微笑んだ。

「俺の親父――実の親父がくれた愛情や。水沢和哉っていうねんけどな。お袋と別れてから、男手ひとつで、ほんまに一生懸命、俺のこと育ててくれた」

「そうだったんですか」

「運送屋をやっとってな。一日中、あちこち走り回っとったわ。でな、夕食の時間になると、仕事抜けて戻ってくるねん。飯作って、俺に食わせて、それからまた仕事に戻るんや。いつ寝てるんやろって、俺の方が心配になるくらいやった」

 岡村は、足元の小石を軽く蹴ると、続けた。

「運動会やら遠足やらの時には、弁当持たせてくれてなあ。他の友達みたいに、きれいな弁当ではなかったけどな、俺はめっちゃ嬉しかったんや。せやけど、頑張り過ぎたんやろなあ。仕事中に居眠りしてもうて、事故ってな。

 トラックのローンも、まだかなり残っとったらしいわ。借金付きの子供を預かれるほど、うちの親戚連中も余裕のある生活はしてへんかったし。頭ではわかっとってんけど、あの頃はほんまに辛かった」

 岡村はそう言って、微笑んだ。

「せやけど、絶対にグレたらあかんと思ったわ。俺がここでグレたら、親父が頑張ってくれたこと、全部無駄になってまうってな。せやから、一生懸命、真面目に生きよう思って頑張っとったんや。

 そんな俺を拾ってくれた岡村の親父には、言葉では言い表せんくらい感謝してる。でもな、そうやって拾ってくれる人に出会えたんも、実の親父の愛情があったからこそやと思うねん。グレんと頑張っとったからなんちゃうかなって」

「岡村さん……」

「3年前、お前からお前の親父さんの話を聞いた時、俺と一緒やなって思ったんや。お前も俺も、端から見たら『大変な過去を背負った人間』かもしれへん。せやけどな、俺らは、心の支えにできるほどの大きな愛情を、親から与えられたんや。これって、ほんまは、何よりも幸せなことやと思わへんか?」

 岡村の言葉に、大好きだった父親の笑顔を思い出す。私は大きく頷いた。

「その通りですよね」

 どれくらいの時間が経ったのだろう。夕焼けの色は、さらに濃く赤くなっていた。ふと振り返ると、比叡山が、夕日に照らされて赤く染まっている。

「わあ、きれい。ねえ、岡村さん、すっごいきれいですよ」

 私は立ち上がり、しばしその景色に見とれていた。

「ほんまやな」

 岡村も立ち上がり、私の隣に並ぶ。

「なあ、近藤」

 しばらくして、岡村が話しかけてきた。

「何ですか?」

 私が尋ねると、彼はしばらく迷っている様子だったが、やがて口を開いた。

「俺、まだ、お前に白状してへん嘘があるねん」

「嘘?」

 私は岡村の顔を見た。

「崖下に落ちてから、お前の所に電話した時のことや」

「ああ。でも、岡村さん覚えていないって……」

「いや、ほんまはちゃんと覚えてんねん。でも、恥ずかしくて言われへんかって……」

「恥ずかしいって?」

 驚いて聞き返す。岡村は、私の方をちらっと見て続けた。

「崖下に落ちて、死ぬかもしれへんって思った時にな、俺、ただただ、お前の声を聞きたかったんや。お前の声を聞いて、最期の挨拶をしたいって。でも、声にならんまま……」

「そんな……最期の挨拶なんて……やめて下さいよ」

 私は岡村の顔を見つめた。

「そんな悲しい挨拶を聞かされたら、その後、私はどうやって生きていったらいいんですか? あの時、私がどんな思いで……」

 意識不明で横たわる岡村の姿を見た時の、押さえきれない感情が胸を突き上げる。

「すまん」

 岡村はそうつぶやくと、私の左手をそのあたたかい右手で優しく包み込んだ。頷くかわりに、彼の手をそっと握り返す。

 ――ずっとずっと失いたくない、本当に大切な絆。

 比叡の山々の燃えるような赤が、涙でにじんでいた。


<了>

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