第7章
(1)
「俺のせいや」
岡村は、私から顔を背けたまま、ぽつりとそう言った。
「自首してくれるのを待っとったんや。それやのに……俺のせいや」
「岡村さん」
私はたまらず、彼のそばへと歩み寄った。
「全てを話して下さい。どうして、こんなことになってしまったのか」
岡村は、ゆっくりこちらを向いた。その顔は、昨日よりも更にやつれており、目は真っ赤に充血していた。
「両親が竹下渉の保証人になったのは知っていた。俺は止めたんや。渉はいつも金にだらしなくて、まともに返済できるとは思われへんかったから」
彼は静かに話し始めた。
「結局、借金のカタに、あの土地も建物も持って行かれることになってもうて……。せやけど、親父もお袋も、恨み言ひとつ言わへんかったわ。子供の尻は、いくつなっても親がぬぐってやらなアカンとか言うてな」
岡村はそう言うと、目を閉じて続けた。
「そんな人間が、心中なんてすると思うか? それに、オーストラリアの希紗英の所にも、去年の12月の初め頃、親父から、施設を畳まなあかんようになったって手紙が届いとったらしいんや。そこには、またいずれ施設を再建させるんやって、ごっつい前向きなことが書かれとったそうやし」
「希紗英さん、宮本佳奈子さんの家庭教師だったらしいですね」
私が尋ねると、岡村は小さく頷いて目を開けた。
私の後ろに立っていた安永刑事と山田刑事が、部屋の隅に椅子を広げて腰を下ろす。私も、ベッドの脇にあった椅子をそっと引き寄せ、そこに腰かけた。
「佳奈子は、父親の虐待を受け、若草園にやってきた。たしか小学6年生の時やったと思う。反抗的で誰にも懐かへんし、目を離せば自傷行為に出る。ほんまに手のかかる奴やった」
「自傷行為?」
私が聞き返すと、岡村は頷いた。
「世間では、リストカッターとか言われとるけど、そんなかっこいいもんやない。周りはその度に振り回されて、ほんまに大変や。でも、両親も職員の人達も、一生懸命付き合ってるうちに、だんだん心を開いていってくれてな」
岡村は、懐かしそうに目を細めた。
「あいつが、将来、デザインに関する仕事をやりたい、言い出した時には、ほんまに嬉しかった。美術科がある高校に入って、本格的に勉強したいって……。それで、俺は当時美大に通っていた友人に、あいつの家庭教師を頼んだんや。それが、丸沢希紗英やった」
私が頷くのを見て、岡村は続けた。
「希紗英は、俺の中学の同級生や。親父のクラスでなあ。当時はグレてグレて大変やったんや。手の甲に煙草の火い当てて、根性ヤキとか言うてな」
彼女の右手の甲にあった火傷の痕が目に浮かぶ。
「親父もほんまに、よう面倒見とったと思うわ。イヤがる希紗英を、無理矢理ボランティア活動に参加させたりして、なんかもう、ちょっとしたバトルやったな。
中3の冬、時々ボランティアに行ってた近所の老人ホームで、希紗英を可愛がってくれとったお婆さんが亡くなりはったんや。その時、そのお婆さん、希紗英と2人で植えたスイートピーの鉢植えを、形見にって残してくれとってな。あいつ、何か感じるものがあったんやろうな。それ以来、生活態度がよくなって……」
施設の跡地で手を合わせる希紗英の、足元に置かれていたスイートピーの花束を思い出す。胸が締め付けられるような思いで、私は頷いた。
「そんな希紗英やったら、佳奈子の気持ちをわかってくれると思った。案の定、あの2人、息がぴったりでな。同じように手の甲に火傷はあるし、イニシャルも一緒やし、なんか合ったんやろうなあ、多分。
その佳奈子があんな風に亡くなって、犯人探しをしているうちに、希紗英も色々考えたみたいや。福祉の進んでいるオーストラリアに行って、児童福祉の勉強がしたいなんて言い出して。親父もお袋もよっぽど嬉しかったらしくて、しょっちゅう味噌やら米やら送っとったわ。希紗英の方も、あいつの両親が亡くなってからは、うちに帰省してくるようになって」
「岡村さんのご両親が、親代わりだったんですね。希紗英さんにとって」
「ああ」
岡村は寂しそうに頷いた。
「せやから、余計に親父とお袋の死に疑問を持ったんやろうな。俺も同じ気持ちやった。親父とお袋は、誰かに殺されたんやって」
「なんで、警察に知らせてくれへんかったんですか?」
気が付くと、山田刑事が私の後ろに立っていた。岡村は、その山田刑事の顔を見上げて答えた。
「知らせました。親父達の遺体が見つかった時からずっと、必死でそう訴えましたよ。せやけど、所轄の警察では、不審なところはないって、まったく相手にしてもらわれへんかって……。それなら、俺が自分で真相をつかんでやろうと、そう思ったんです」
「今まで、一緒にいろんな事件に関わって来たじゃないですか。どうして、私に連絡して下さらなかったんですか?」
思わず立ち上がる。岡村は、少しの間私の顔を見つめていたが、やがて、ふっと目を逸らした。
「真相をつかもうなんて、きれいなこと言うてるけどな。ほんまは、親父とお袋をあんな目に遭わせたやつを探し出して……ぶっ殺してやりたかったんや」
「岡村さん……」
胸が潰れるような気持ちで、彼を見つめる。岡村は続けた。
「親父とお袋の気管支や肺からは、大量の煤が検出されたって話やった。つまり、生きたままで焼かれたんや。
親父は、何年もかかって必死で準備をして、ようやくあの若草園を開園させることができたんや。不幸な思いをしている子供を一人でも多く救いたいって、その一念でな。
開園してからも、親父もお袋も、ほんまに一生懸命子供達の面倒を見とった。少しでも良い環境を作ろうと、死にもの狂いで頑張っとったんや。それやのに、なんで、あんな惨い殺され方をされなアカンねん。親父とお袋が、一体何をしたっちゅうねん」
岡村の声が震えている。私は息を詰めて、彼の横顔を見つめた。
「施設の子供達、親父とお袋をあんな目に遭わせたやつらに復讐してやるって、言い出してな。こいつらを殺人犯にするわけにはいかん。せやから、俺が代わって、犯人を殺したるんや。――俺は必死で、自分の感情を正当化しようとした」
岡村は、自嘲気味に笑って続けた。
「そんな気持ちになってる時に、どうやってお前に連絡するねん。犯人見つけて殺したろうと思ってるから、一緒に探してくれとでも言うんか?」
返す言葉が見つからない。やり切れない気持ちで、そっと椅子に腰を下ろした。安永刑事が尋ねる。
「それで、一人で事件を調べ始めたんか?」
「ええ。葬式が終わると、俺はまず、親父の貸し金庫の中身を調べてみたんです。親父、大切なものはそこにしまっていましたから。そしたら、借金の通知書とか土地の売買契約書とか、重要な書類に混じって、佳奈子の事件に関するファイルが入っていて。――どうして、そんなファイルが一緒にって、ごっつい不思議に思ってました」
岡村は続けた。
「そんな時、渉からハガキが来たんです。お兄ちゃん、ごめんって……。書かれていた渉の住所を見て、ほんまに驚きました。こんな目と鼻の先に住んどったなんて。しかも、大家さんの話から、借金取りの高岡とつながっとったこともわかって……」
岡村は険しい顔で、小さく息を吐いた。
「渉は金にはだらしなかったけど、親父達を追い込むような真似ができるヤツやない。俺は、あいつが以前借金をしていたローン会社に行って、話を聞いてみたんです。そしたら去年の6月に完済されとって……。それも、複数のローン会社の借金、全てですよ。
高岡は、夜逃げ寸前やった渉の借金を肩代わりする条件で、あいつにあんなことをさせたんやと確信しました。親父達が死んだと知って、渉は良心の呵責に耐え切られへんかったんでしょうね。自殺してもうて……。ほんまに、可哀想やったと思います」
「高岡さんは……どうしてそんなことを?」
私は何とか口を開いた。
「色々調べて回ってんけどな。さっぱりわかれへんかった。でも、ある日、希紗英から連絡があったんや。昔の仲間から、佳奈子をひき逃げした本村が、高岡と同じ暴走族に所属していたってことを聞き出したってな。そして、その本村は去年の1月に出所していた。おそらく、ひき逃げが暴かれたことを逆恨みし、高岡と共に親父達に復讐をしたんやないかって」
「つまり、本村さんが黒幕やと考えたわけやね?」
安永刑事に尋ねられ、岡村は頷いた。
「ええ。そうです。それで、あの貸し金庫のファイルの謎が解けました。もしかしたら、親父は2人の関係に気付いていたのかもしれない。せやから、あの佳奈子の事故のファイルを、あんなところに入れておいたんやないか。そう思って、色々調べ直してみました。すると、本村の家の周りで、親父の姿が度々目撃されていたことがわかって……」
岡村は続けた。
「親父は、渉の借金のからくりに気付いたんやと思います。それで、本村を問い詰めた。しかし、逆にあんな風にして、殺されてしまったんでしょうね、多分」
「そのことやねんけどね」
安永刑事が口を挟む。私達は彼の方を見た。
「実は、高岡さんと宮本平吉さんの間にも、関係があったことがわかってるんや」
私と岡村は、安永刑事の顔を見た。
「宮本さんは、金融関係の会社も持っていてね。高岡さんは、以前、そこで勤めとったんや。ところが、高岡さんは何か問題を起こしたそうで、クビにされた。佳奈子さんのひき逃げ事件が起こる2ヶ月ほど前のことやった」
「じゃあ、佳奈子のひき逃げは……」
「逆恨みした高岡さんが、本村さんを使ってやらせた可能性が大きいと、我々は見ている」
安永刑事の言葉に、岡村が右手を顎に当ててつぶやく。
「そうか。親父が気付いたのも、そっちやったのかも……」
彼は顔を上げた。
「親父、佳奈子の祥月命日には、毎月、宮本さんの家にお参りに行っていたんです。何かの話の折りにでも、その真相に気付いたんかもしれませんね」
岡村は、小さく息を吐くと、続けた。
「佳奈子がひき逃げされた時、親父は、犯人を野放しにしておくことはできないって、必死で探し回ったんです。犯した罪は償わなくてはいけない。そのことを、施設の子供達にも伝えたかったんやと思います。
俺は、親父があの時に取った行動は、決して間違いではなかったと確信しています。でも、もしそのことが、親父とお袋の命を奪ったんやとしたら……。高岡や本村みたいなやつらに、どうして親父達が……」
岡村は声を詰まらせ、顔を背けた。肩が震えている。彼の無念を思うと、かける言葉など見つかるはずもない。私は黙って彼を見つめていた。
(2)
「なんで希紗英さんが高岡と本村を殺害することになったんか、聞かせてくれるね?」
重い沈黙を破ったのは、安永刑事だった。岡村が目元を拭いながら頷く。
「あいつらを殺そうと計画を立てたんは、俺です。親父が若草園で配っていた小刀を使って。そしてそこに、親父が作った佳奈子に関するファイルを残してきてやろうと思ったんです。そうすれば、イヤでも親父とお袋の事件を調べ直さなアカンようになるやろうし」
「その若草園で配っていた小刀って、君のスパイクから見つかったもんか?」
「ええ」
安永刑事の質問に、岡村が頷く。
「決行日は3月1日。若草園が開園した日に決めたんです」
「岡村さん……」
たまらず声をかける。すると、彼は私の目をじっと見つめて、口を開いた。
「せやけど、結局、復讐の計画は実行でけへんかった。ビビってもうて、殺しに行かれへんかってな。それで、希紗英が代わりに……」
岡村が、唇を噛んでうつむく。
「3月2日の明け方やった。希紗英からうちに電話がかかってきたんや。2人を刺してしまった。今、ハイキングコースの入口にいてるって。死に場所を求めて歩き回っているうちに、あそこに辿り着いたって話で……。前に希紗英と2人で行った時に、『柵が壊れて落ちたら、死んでまうやろなあ』なんて話をしてたから」
「それで、岡村君、あそこへ行ったんか?」
安永刑事が尋ねる。
「ええ。とりあえず、携帯だけ持って飛び出したんです。希紗英、オーストラリアに住んどったし、日本で使える携帯を持ってへんから……。もし、万が一のことがあったら、すぐに助けを呼ばなあかんと思って。思いとどまってくれってそればかり願って、必死で走ってました。
俺が着いた時、入口の所にはあいつの姿がなくて……。慌ててコース中を探しました。そしたら、第二展望所であいつの姿を見つけたんです。手に血まみれのタオルを持ってうずくまっとって……。生きててくれて、正直、ほっとしました」
若草園の前でしゃがみこんでいた、希紗英の横顔を思い出す。彼女はどんな思いで、岡村を待っていたのだろうか。
「凶器は持っていませんでした。本村の身体に刺したままにして来たらしくて。親父とお袋の復讐やってことがわかるように」
「えっと、ちょっと待ってくれよ。君が用意した小刀は、君のスパイクの中に置かれていた。ということは、彼女が使った小刀は?」
「あ、あれは……。俺がビビって行かへんかったから、自分のもんを使ったんやと思います」
「自分のもんを……。やっぱり、彼女が自分で用意したものやったんやな」
安永刑事が小さくつぶやく。
「それで、どうされたんですか?」
私は先を促した。
「自首するように説得したんや。せやけど、あいつ、飛び下りて死んでやるって聞かへんかって……。もみ合ってるうちに、タオルが柵の向こうに落ちてもうてな」
岡村は目を閉じた。
「それが、かなり目立つところに落ちてもうたんや。あの辺りは、犬の散歩で通りがかる人もいてるしなあ。自首する前に通報でもされたら、えらいことや。それで、俺はそのタオルを取ろうとした。
その辺に落ちてた枝でひっかけようと思ってんけどな、なかなか上手くいかへん。それで、直接取りにいくことにしてん。柵が傷んでたんはわかってたから、できる限り体重をかけんようにそっと乗り越えて。でも、タオルにようやく手が届いたところで、足元が滑ってなあ。で、とっさにあの柵をつかんでもうて……。気が付いたら崖の下に落ちとったわ」
「それから、うちに電話を下さったんですね」
「ああ。そうみたいやな。でも、そのことは、ほんまによく覚えてへんねん」
「そうだったんですか」
意識が朦朧としていたのだろう。私は頷いた。
「多分、展望所から人が落ちたって連絡したのは、希紗英やろうな。わざわざ公衆電話のあるところまで行って……」
「希紗英さん、どうして佳奈子さんの格好を?」
私は尋ねた。岡村が私の方を見る。
「あれは、俺が持って行くことになってたファイルがなかったし、佳奈子の格好をして関連をにおわそうとしたんちゃうかな」
私は疑問に思う事があり、尋ねようとした。しかし、私より早く、山田刑事が口を開いた。
「本村さんの身体に刺さっていたのは、希紗英さんの小刀。岡村さんのスパイクから見つかったものは、岡村さんの小刀。ほんなら、宮本さんの所で見つかった小刀は?」
「あれは、佳奈子のもんです。佳奈子が若草園に来た頃は、リストカットの恐れがあったし、小刀を渡す事がでけへんかって。せやけど、そのうちに落ち着いてきたんで、親父もようやくあの小刀を渡す事ができたんです。
職員の人達も俺も、また手首を切るんちゃうかって心配したんですけど、取り越し苦労でした。持ち手に『K・M』ってイニシャルを書き込んで、大切に使ってましたし」
「その佳奈子さんが亡くなって、形見として父親の宮本さんに? でも、お宅の方では、若草園にあるっておっしゃっていたらしいですよ」
私の質問に、岡村はこちらを見た。
「佳奈子の遺品はすべて施設に寄贈するって、あいつの親から連絡があったんや。せやけど、小刀だけはって思ったみたいでな。親父、『佳奈子の父親に渡してきた』って言うとったし、宮本さんが持っていたことは間違いないと思うで」
「なるほど。宮本さんが自分の手元にあることを否定したのは、事件と関わるのがイヤだったからかもしれませんね」
山田刑事が頷く。
「それやったら、宮本さんの所にあったものは、佳奈子さんの小刀と見て間違いなさそうやね。指紋は綺麗に拭き取られていて、持ち主が断定できなかったんやけど、これではっきりしそうやな。サヤも現場で見つかってるし、何かの加減で、宮本さん自身が持っていた小刀が凶器にされたということなんやろうね」
安永刑事が頷く。私は顔を上げた。
「たしか、O型の血液が付着してたってお話でしたよね? 宮本さんとは違う血液型だし、持ち主が誤ってどこか傷つけたんじゃないかって」
「ああ」
安永刑事が頷く。
「その小刀が佳奈子さんのものだったってことは、その血液は彼女のものだったってことですね?」
私の言葉に、岡村が怪訝そうな顔をした。
「いや、佳奈子はA型やで。O型やったら、誰か他の人間のもんやろう」
「本当ですか?」
私が驚いて尋ねると、安永刑事が口を挟んだ。
「実はね、あの血液は、持ち主のものではなかったんや。DNA鑑定の結果が出てね。あのO型の血液、上賀茂橋で殺害された高岡さんのものである可能性が高いんや」
「え?」
私と岡村は顔を見合わせた。
「どういうことですか?」
「単純に考えれば、あの小刀は、高岡さんの殺害にも関わっていた、ということやろうね」
「佳奈子の小刀が……どういうことや……」
岡村が額に手を当てて黙り込む。私は彼に、さっき浮かんだ疑問をぶつけることにした。
(3)
「岡村さん、計画を立てたのは岡村さんだってお話でしたよね?」
私が尋ねると、彼は顔を上げた。
「ああ、そうや」
「それなら、どうして小刀とファイルを隠すようなことを?」
「せやから、ビビってもうたって言うたやろ?」
「計画を実行するのは3月1日の予定だったんですよね? でも、隠したのは2月の半ば。おかしくないですか?」
「ああ……ビビったんは、当日やな。あれは、後で取りに行こうと思ったんや。今、ちょっと混乱しとって……」
岡村の目が泳ぐ。
「たしか、若草園で注文された64本のうち、行方のわからないものは1本だけでしたよね?」
山田刑事を見ると、彼は頷いた。私は頷き返し、再び岡村を見つめた。
「それが、岡村さんのものなんですね?」
「ああ、そうや」
岡村が頷く。
「岡村さんが実行するのをやめたのは犯行当日。希紗英さんは、岡村さんが思いとどまった事を知って、岡村さんの代わりに犯行に及んだ」
「そういうことや。それがどうかしたか?」
岡村が尋ねてくる。
「凶器は当日、岡村さんが持って行くことになっていたんですよね? それなら、どうして彼女は、わざわざ自分で買った新品の小刀を持参していたんですか?」
「さあ。そんなこと、俺に聞いてもわからんけど……。俺が来えへんことがわかって、急いで用意したんちゃうか?」
「佳奈子さんと結び付けるはずのファイルもなかった。だから、彼女は佳奈子さんの格好をした。そうでしたよね?」
「ああ」
岡村が小さく頷く。
「だったら、それも、岡村さんが来ないと知って、急いで用意したって言うんですか?」
「ああ。まあ、そういうことやろうな」
「3月1日、希紗英さん、夜の7時頃に郷土資料館に来たらしいんです。前田さんの話では、その時点で既に希紗英さんは佳奈子さんの格好をしていたってお話でした。矛盾しませんか?」
「あらかじめ、車かどこかに用意しとったんかもしらんで。どちらにしても、その格好をすることにしとったんかもしれんし」
岡村が必死の形相で私を見る。
「でも、計画では、岡村さんが小刀とファイルを持って行くことになっていたんですよね? それなら、なんでわざわざ、そんなややこしいことを?」
岡村が答えに詰まる様子に、私は自分の考えが正しいことを確信した。じっと岡村の目を見つめる。
「岡村さんが隠したあの小刀、実は希紗英さんのものなんじゃないですか?」
私の言葉に、彼は大きく首を横に振った。
「いや、あれは俺のもんや。指紋かって、俺のもんしか付いてへんかったはずや」
私が安永刑事の方を見ると、彼は頷いた。
「たしかに、近藤さんと中西君、峰山君のもの以外には、岡村君のものしか検出されへんかったよ」
「でも、拭き取ってしまえばそれまでですよね」
「ああ」
安永刑事が頷くのを見て、私は視線を岡村に戻した。彼は唇をぎゅっと結んで、目を閉じている。
「2人を殺す計画を立てたのは、本当は希紗英さんだった。そうですよね?」
岡村は何も答えなかった。私は続けた。
「私、気になっていたんです。希紗英さんの『せっかく和彦が……』っていう言葉の意味が。岡村さんは、希紗英さんが立てた計画を実行する役を、一旦は引き受けた――いえ、引き受けるフリをしたんじゃないですか? そして、あの小刀とファイルを彼女の手元から引き離した。
でも、何らかの理由で、希紗英さんは、岡村さんに実行の意思がないことを知ってしまった。だから、彼女は自分で、凶器と変装用の衣装を用意した。違いますか?」
岡村は目を閉じた。静かな時間が流れる。
「希紗英さんをかばいたい気持ちはわかります。でも、彼女が2人を刺した後のことや、佳奈子さんの小刀に付着していた血液の謎を解くためにも、本当のことを話してほしいんです」
「近藤さんの言う通りや。岡村君、ほんまの話を聞かせてくれ」
安永刑事も岡村に話しかける。岡村はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと目を開けた。
(4)
「親父が佳奈子に小刀を渡した時、一緒に希紗英にも1本渡したんや。あいつが、ああして立派に更正したんが、よっぽど嬉しかったんやろうな。2人は、お揃いでイニシャルを書き込んどったわ」
「つまり、64本のうちの、行方のわからなかった1本は、岡村さんではなく希紗英さんの手元に渡っていたということですね」
私が確認すると、岡村は頷いた。
「たしかに、計画を立てたのは希紗英や。そして俺も、その計画に乗った。
まっとうに生きて来た親父達を殺しておいて、悪い事ばかりしてきたあいつらがヘラヘラと生き続けている。それが、理不尽な気がしてもうてな」
岡村は、少し間を開けて続けた。
「せやけど、高岡と本村を殺すにしても、希紗英に罪を犯させるわけにはいかん。それで、俺が引き受けることにして、あの小刀を預かったんや。ファイルはもともと、俺の手元にあったからな」
「ほんなら、どうしてその小刀とファイルを隠す事になったんや?」
安永刑事が問いかける。岡村はしばらく迷っている様子だったが、やがて枕元に置かれていたセカンドバッグを指差した。
「中からカードケースを出して、安永さんに渡してくれへんかな」
私は言われた通り、バッグからカードケースを探し当てると、安永刑事に手渡した。
「中に免許証が入ってると思うんですけど。その後ろにあるメモを見て下さい」
「これかな?」
安永刑事が折り畳まれた紙を取り出す。それは、見覚えのある一筆箋だった。
「それ……」
「ああ、バレンタインに、チョコレートと一緒にお前がくれたメッセージや」
岡村は、そう言うと安永刑事の方を見た。
「それが、俺を平常心に戻してくれたんです」
「どういうことや?」
安永刑事がその一筆箋を広げながら尋ねる。私も意味がわからず、岡村の顔を見た。彼は優しくそっと微笑むと話し始めた。
「『岡村さん、私も裏切りません。これからもよろしく。近藤京子』――その手紙を読んだ時、俺、頭を殴られたような気がしました。俺の心のどこかにあった後ろめたさが、一気に吹き出したって言うんかな。
あいつらを殺さなアカン、そのためには、これまでの俺を捨てなアカン。もう俺は人間やないんや。無理矢理そう思い込むようにして、しんどい毎日を送っていたのに……。こんな風に、いつもと変わらず、義理丸出しのチョコレートが送られてきて」
「すみません」
思わず謝った私の顔を、岡村は楽しそうに見つめながら続けた。
「いや、それがよかったんや。俺がこんな状態になってもうたって言うのに、全然変わってへんお前が、すぐそこにいてる。そう思ったら、なんだか俺、ふっと何かの呪縛から解かれたような気がしたんや。急に、自分がしようとしていることが、虚しくなってもうてな。あいつらを殺したって、親父やお袋が戻って来るわけやない。その上、お前の信頼まで裏切ってまうんやなって……」
「それで、犯行を思いとどまって下さったんですか?」
私が尋ねると、岡村は頷いた。
「復讐言うても、こちらまで罪に問われるようなことをする必要はない。証拠を見つけて、警察に突き付けてやったらええんちゃうかって。取り合ってもわられへんかっても、何度も話をすれば、わかってもらえる時もくるはずや。
佳奈子をひき逃げした犯人を、みんなで探し出した時もそうやった。親父はあの時、そうやって真正面から戦うことを、俺らに教えてくれていたんや。それやのに、そんな大事なことを、俺は忘れとったんちゃうかって。あの小刀かって、凶器として使うために、子供達に渡していたわけやない」
「せやから、あの時、『チョコレート、ありがとう』なんて言ったのか」
安永刑事が微笑む。
「ええ。そうです。あの時は、希紗英が自首するまで、ほんまのことを話したらアカンって、思っていましたから。あんなことでしか、俺の気持ちを伝えることができへんかって」
安永刑事の言ったとおり、あの岡村の言葉には、こんなに深い意味が込められていたのだ。なのに、私は全然気付かなかった。情けなさに、思わず唇を噛み締める。
岡村は続けた。
「俺は二度とあんな気を起こさへんように、あの小刀やファイルを、一旦俺の前から消すことにしたんです。もちろん、希紗英にも、俺の気持ちを必死で伝えました」
「せやけど、いつまで近藤さん達に連絡を取らんつもりやったんや? この事件が起こらへんかったら、今でもまだ黙っとったんとちゃうか?」
安永刑事の言葉に、岡村はうつむいた。
「なかなか気持ちの整理がつかへんかったんです。俺、一度は人を殺そうと考えたんです。どんな顔して会ったらええんか。ずっと一人で悩んでるうちに、どんどん連絡が取りづらくなってもうて」
岡村が修了式の写真をぼうっと眺めていたという、神尾の言葉が頭をよぎる。
「希紗英はカンカンに怒ってましたけどね。こんなチョコレートひとつで、計画を取りやめてしまうのかって。『ただのチョコレートやない、ここには見えへん絆があるんや』って言うたら、怒って出て行ってもうて……。まさか、新しい小刀を買ってまで、あの計画を実行するなんて、思ってもみませんでした」
私が「絆」と言った瞬間、口元を歪めた希紗英のことを思い出す。
「私のせい……」
「どうしたんや?」
岡村が声をかけてくる。私は顔を上げた。
「希紗英さんに、あんなことをさせてしまったのは、私です」
「なんで、お前やねん?」
岡村は、怪訝そうに私を見た。
「希紗英さんは、きっと嬉しかったんですよ。岡村さんが、希紗英さんの代わりに、あの2人を殺すって言ってくれた時。なのに、私のあのチョコレートが、岡村さんを彼女から引き離してしまった」
切ない想いが胸をよぎる。
「彼女があの2人を刺したのは、岡村さんを再び自分の元に呼び戻すためだったんじゃないでしょうか」
「そんなことのために、なんで……」
岡村が絶句する。
女心、恋心、嫉妬心――そんな言葉が胸をよぎる。首を横に振って目を閉じた岡村を見つめ、私は小さく溜息をついた。
「3月1日に郷土資料館を訪れたのも、きっと……」
岡村が私の方を見る。
「岡村さんが帰ったって話を聞いて、彼女、泣いてたって、前田さんから聞きました。岡村さんが本当に計画を実行してくれる気がなくなったのか、わかってはいながらも、たしかめずにはいられなかったのかもしれませんね」
岡村が天井を見上げて、つぶやくよう言った。
「俺は、あの計画を忘れたい一心で、講座が終わるとすぐに家に帰ったんや。あいつ、俺の気持ち、わかってくれたと思うとったし……。俺が、あいつをあんな風に……」
岡村の目から涙がこぼれる。私は目を閉じた。
「いえ、違います。彼女を犯行に走らせてしまったのは、私です。私が脳天気にチョコレートなんて……」
岡村を救えたことは嬉しい。でも、そのせいで、1人の女性の人生を狂わせ、死へと向かわせてしまったのだ。鼻の奥に突き上げるような痛みを感じ、私は顔を背けた。
「いや、違う。そうやない」
岡村は鼻をすすると、私の方を見た。
「あいつをこんな目に遭わせてもうたんは俺や。俺がアカンかったんや。俺があいつの計画に賛成さえせえへんかったら……。それに、意識が戻ってすぐに希紗英のことを話してさえいたら、こんなことにはならへんかったのに」
岡村が辛そうな表情で続ける。
「何にしても、俺が全部悪いんや。俺が……」
重苦しい雰囲気が辺りを包んだ。
(5)
「ほら、2人とも、自分達を責めていても仕方ないやろう。まだ、小刀の血痕の謎も残ってるんや。事件がすべて解決したわけやない。それに……」
安永刑事の言葉に、顔を上げる。岡村も、真っ赤な目をして安永刑事の方を見ていた。
「実は、希紗英さんのコートの血痕にも謎があるんや」
安永刑事は、私達の顔を交互に見ながら話し始めた。
「血痕、ですか?」
「ああ。彼女のコートには、宮本平吉さんのものと思われるA型の血液が、たしかに付着していた」
「ええ。それが何か?」
不思議に思い、尋ねる。岡村も少し身を乗り出すようにして、耳を傾けていた。
「ところが、その血痕が、左の袖からしか発見されなかったんや。それも、肘の辺りを中心にね」
「左の袖? 希紗英さん、左利きだったんですか?」
「いや」
岡村が口を挟む。
「あいつは右利きやで。間違いない」
「それなら、当然、血痕は右の袖に付着しているはずですよね?」
「ああ。メッタ刺しなんてことになれば、特に袖口の辺りにつくはずや。それに、コートの前面にもね。でも、右腕の方からも前面からも、1滴も検出されへんかってねえ」
「どういうことなんでしょうか?」
「靴跡や悲鳴から見て、彼女が関わっていることは動かへん」
安永刑事が、思案顔で続ける。
「本部の方では、彼女はコートを脱いで犯行に及んだと見ている。血痕の付いた手でコートを持った時に、付着したんやろうとね。でも、あんなロングコートを手にする時、左の袖だけを持つなんてことがあるやろうか? しかも、血痕が付着している面積は、手のひらより明らかに大きかったんや。どうも疑問が残ってもうてね」
「たしかに、不思議ですね」
私が頷くのを見て、今度は山田刑事が話し始めた。
「コートの血痕、という点に着目すると、実はもうひとつ不思議なことがあるんですよ」
「何ですか?」
岡村が尋ねる。
「彼女のコートの前面からは、O型の血液が検出されたんです。これは、高岡さんのものでしょう。しかしながら、少量で、メッタ刺しした際に付いたとは考えにくいんですよ。しかも、他の血痕は見つかってへんし」
一体どういうことなのだろうか。私は、あの時の希紗英の様子を思い出していた。
「岡村さん、希紗英さんから、詳しい話は聞かれたんですか? 彼女が、高岡さんと本村さんを刺した時のこと」
私は、岡村の顔を見た。
「いや、詳しい話は……」
「そうですか」
私は、隣に立っていた安永刑事を見上げた。
「前に、うちに希紗英さんが来た時のことなんですけど……。希紗英さん、傷口から、刃物の種類が特定できるのかって聞いてきたんです。それで、私、できる場合もあるんじゃないかって答えました。事実、高岡さんの傷口は、本村さんに刺さっていた小刀と一致してるって。
そしたら、希紗英さん、なんか考え込んでて……」
自分の考えをまとめながら、話を続ける。
「本当に自分が刺したんだったら、傷口が一致するかどうかなんて、聞いてきませんよね?」
私の言葉に、岡村が顔を上げる。
「せやけど、俺が第二展望所に着いた時、希紗英はたしかに、血の付いたタオルを手に持っとった。それに、あいつが俺に話した通り、小刀は本村の身体に刺さったままになっとってんで。あいつが刺したことは、残念やけど、間違いないはずや」
「ええ。たしかに希紗英さんは、高岡さんと本村さんを刺したんでしょう。でも、メッタ刺しにしたわけではなかった。そう考えれば、コートの血痕の説明がつきませんか?」
私は続けた。
「高岡さんを刺したのが一度だけだったとしたら、そんなに大量の血液が飛び散ることはないですよね? しかも、刃先の短い小刀です。付着した高岡さんの血液が少量だった可能性は高いんじゃないですか? それに、希紗英さん、小刀を本村さんの身体に刺したままにして来たって、そう言ったんですよね?」
「ああ」
「多分、希紗英さんは、本村さんを一度だけ刺したんです。そして、その小刀を抜かずにそのままにした。刺した刃物を抜かなかったとしたら、血液ってほとんど飛び散りませんよね? だから、コートには本村さんの血液が付かなかった」
「ということは、つまり、希紗英の後に、メッタ刺しにした真犯人がおるっちゅうことか?」
岡村が身を乗り出す。
「ええ。それも、同じ刃型を持つ刃物で」
私は岡村の顔を見た。
「彼女は、あの時、私の話から、傷痕と小刀の刃型が一致していることを知った。そして、『やらなアカンことがある。和彦のためにも』と言い残して去って行った。宮本さんが殺されたのは、その3日後です」
「たしかに、希紗英は、佳奈子の小刀が彼女の父親に渡されたことを知っていた。親父がその話をした時、一緒に聞いとったからな」
「犯行現場では、走り去る男性の姿が目撃されていましたよね? 同じ小刀を持っていて、あの人達に関わりがある男性……」
「それで、希紗英は宮本さんに目を付けた……そういうことやな?」
岡村の言葉に、私は頷いた。
「『やらなアカンこと』っていうのは、きっと宮本さんから真相を聞き出すことだったんですよ」
「ところが、何かの加減で宮本さんを刺してもうたってことか? あいつ、自分に罪をなすりつけられたことが、気に入らんかったんやろうか。――にしても、俺のためにって、どういうことやろうなあ」
岡村が、厳しい表情を浮かべて首を傾げる。
「でも、もし、その2人をメッタ刺しにした犯人が、宮本さんだったとしたら……。宮本さんの殺害現場で見つかった佳奈子さんの小刀に、本村さんの血液が付着していなかった理由は説明できますよね」
「どういうことや?」
それまで黙って聞いていた安永刑事が、私の顔を見た。
「高岡さんが殺された上賀茂橋の現場には、小刀はなかった。それは、希紗英さんがタオルに小刀をくるんでいたんですから、たしかですよね?」
「ああ、そうか」
私の質問に、安永刑事は納得したように頷いた。
「せやから、宮本さんは、手元にあった佳奈子さんの小刀を使ったんやな。でも、本村さんの現場には、希紗英さんの小刀があった。それで、宮本さんはその小刀を使って、メッタ刺しにしたんや。――これなら、宮本さんの持っている小刀には、本村さんの血液は付着しない」
「宮本さん、佳奈子の仇を討ったっちゅうことやろか。やりきれんな」
岡村がうなだれる。
「宮本さんが佳奈子さんの小刀を若草園に返したって言ったのは、自分の犯行を隠すためだったんじゃないですか?」
「なるほど。辻褄は合うな」
私の言葉に、安永刑事が頷く。
「宮本さんが真犯人やとしたら、彼の行動も説明できますね」
山田刑事は、安永刑事にそう言うと、岡村の方を見た。
「高岡さんの遺体が発見された3月2日から、宮本さんは姿をくらましていたんです。もしかしたら、逃げるつもりやったんかも……」
「でも、7日には、こちらに帰って来ていたんですよね? ご自宅で殺害されたんですから」
私は、彼に尋ねた。
「ええ。翌8日の午前中に裁判があって、どうしても出なアカンかったみたいですね。まだ捜査の手も及んでいなかったし、とりあえず戻ってこられたんと違いますかねえ」
「裁判?」
「アミューズメント施設ですからね。何件か、建設撤回を求める裁判を起こされていたみたいですよ」
「にしても、親父達の復讐をしようとした希紗英が、佳奈子の復讐をした宮本さんを殺してまうなんて。皮肉な話やな」
岡村が悲しそうにつぶやく。
「でも、宮本さんは、佳奈子さんにひどい虐待を加えていたんでしょ? そんな人が、復讐なんかするでしょうか。真犯人が宮本さんだったとしても、動機は本当に復讐なのかどうか……」
私は岡村の方を見た。
「たしかに、宮本さんは佳奈子にひどい暴力を振るっていた」
岡村は少し間を開けると、続けた。
「せやけどな、佳奈子が若草園に預けられることになった時、うちの親父に諭されたんや。佳奈子に誠意を見せてやってくれって。宮本さんも、彼なりに反省しはったんやと思うで。佳奈子にクレジットカードを渡し、好きなもんが買えるようにさせてやったりしてな」
「クレジットカードを渡したって……。お金で何でも解決するってわけじゃないでしょう?」
「愛情の表現の仕方が、わからへん人もいてるんや。俺も、間違ってるんやないかと思ったで。せやけど、親父もお袋も、これが親子の絆を復活させるための一歩やって。
今考えると、あのクレジットカードだけが、佳奈子と父親をつなぐ糸やったような気がするねん。佳奈子が買い物をした明細が、父親の所へ届く。それが、あいつが生きていることを父親に知らせる唯一の方法やった、そんな気がするねん」
「そんなの悲し過ぎませんか?」
私は岡村の顔を見た。
「第一、佳奈子さんのお母さんは、どうしてたんですか? 助けもせずに、虐待される佳奈子さんを、ぼうっと見ていたんですか?」
「虐待のある家族には、よくあることなんや。病院に連れて行ったり、警察に通報したりすれば、家族から犯罪者が出てしまう。それで、できる限り家の中だけで、穏便に済ませようとするんやな」
「父親に暴力を振るわれ、守ってくれるはずの母親にも助けてもらえない。そんな残酷なことってありますか?」
憤慨してみたところで、今さらどうなるものでもない。しかし、私は憤りを押さえることができなかった。
「せやけど、佳奈子の死に直面して、ご両親の考え方も変わったんと違うかな。お袋さんの方は、佳奈子の後を追って自殺してもうて……。残されとった遺書にも『佳奈子には、謝っても謝り足りない』って書かれとったし。
親父さんの方も、ひき逃げ犯を捜すのに、積極的に協力してくれはってな」
「亡くなってから気付いたって、遅いですよね」
「気が付かへんよりは、大分マシやろ。天国の佳奈子にも、きっと2人の気持ちは通じてくれてる、俺はそう思いたいな」
岡村は、力なく微笑んだ。
「岡村君、宮本さんと佳奈子さんのことなんやけどね」
安永刑事に言われ、岡村が彼の方に顔を向ける。
「実の娘ではないとか、そんな話は聞いていないか?」
「実の娘やないって? どういうことですか?」
岡村が、驚いて尋ねた。
「家宅捜索の結果、宮本さんの書斎からある資料が出て来てね。宮本さんが興信所に、親子鑑定を依頼していたものやねんけど」
「それで?」
先を促すと、安永刑事は続けた。
「どうやら、佳奈子さんの父親は宮本さんではなかったらしい。母親は間違いないみたいやねんけどな」
「ほんまですか?」
岡村が、信じられないと言った風に聞き返す。
「やっぱり、君も知らんかったんやね。血液型だけ見れば、問題はないし」
「その鑑定っていつ頃?」
私は尋ねた。
「ああ。5年ほど前やね」
「5年前? 佳奈子さんの交通事故の頃ですね」
「そうやね。結果が出たのは、あの事故が起こる何ヶ月か前やったみたいやけど」
安永刑事が頷く。
「そうやったんですか」
岡村が小さく溜息をついて、顔を上げた。
「で、本物の父親は?」
「母親の周りも当たってみたんやけどねえ。知っている人は誰もいてへんかった。子供の父親っていうのは、母親にしかわからへんもんやからね」
安永刑事は腕を組んで続けた。
「とにかく、宮本さんが事件に関連しているという方面で、もう一度洗い直してみた方がよさそうやな」
「よろしくお願いします」
岡村が頭を下げた。
(6)
「で、岡村さん、これからどうなるんや?」
翌日、私は中西と2人で昼食を食べていた。春休みも半ばに入り、各クラブが新入生獲得のための活動を開始したせいか、学食は平日に近いにぎわいを見せている。
「まあ、少しは取り調べられるだろうけど、おそらく起訴はされないだろうって。計画を立てたのは希紗英さんだから、殺人教唆にも当てはまらないし……。問題になるとすれば、犯人隠匿って点らしいけど、自首するって約束を待っていたわけでしょ? 多分、大丈夫なんじゃないかって話だったわ」
「そうか。それやったら、よかったな」
中西は、サンドウィッチの最後の一口を口に放り込むと、パッケージのビニールを丸めた。すぐ近くにあるゴミ箱に投げ入れ、私の方を見る。
「殺す気にはなったけど実行できなかった、か。岡村さん、思いとどまってくれて、ほんまによかったなあ。お前の義理チョコも、たまには役に立つことがあるねんな」
「たまには?」
カレールウとライスを混ぜる手を止め、顔を上げる。
「冗談やがな」
中西は楽しそうに微笑むと、続けた。
「にしても、宮本さんが真犯人やったとはなあ。虐待してはいても、娘は娘、か」
「そうだね。でも、佳奈子さんがひき逃げされたのは、もう5年も前のことでしょ? なんで今さら、復讐なんて……」
「本村が出所してくるのを、ずっと待っとったんちゃうか?」
「にしても、1年も前よ」
「まあ、そうやけどなあ」
「それに、岡村さんのご両親の仇を討とうと思った希紗英さんと、佳奈子さんの復讐をしようとした宮本さんが、どうして同じ日に犯行を行うことになったのか」
昨日一晩考えているうちに、様々な疑問が浮かんできてしまった。どこかで何かが違っているような気がしてならない。
「しかも、希紗英さんのコートに付いていた宮本さんの血痕も、気になるのよねえ。どうして、左の袖だけだったのか」
「日にちがかち合ってもうたのは、偶然かもしらんで。若草園が開園した日やったんやろ? 宮本さんも、何らかの理由で、その日に合わせたんかもしらんし」
中西が、紙コップに入ったコーヒーを飲んで、続ける。
「それに、コートは本部の方で考えた通りなんちゃうか?」
「ロングコートの袖だけを持ったっていうの? 袖以外を触らずにコートを着るのって、かなり難しくない?」
私は、スプーンを手にしたまま、中西の顔を見た。
「着んと、持って逃げたんかもしらんで」
「ロングコートの袖だけを? 下の方、地面を擦っちゃって大変よ」
「そら、人を殺して逃げる時やねんから、コートが汚れるとか汚れへんとか、そんなこと気にならへんかったんちゃうか?」
「それに……」
「何や、まだあるんか?」
中西が呆れたように言う。
「宮本さんの家に行く前に、希紗英さんが私に言った『和彦のためにも』っていうのが、どうにもねえ」
「岡村さんのためにも、真相をつかみたかったとか、そんなことちゃうんか? もうええやんけ。真犯人は宮本平吉ってことで、無事に解決しそうなんやろ?」
「まあね」
何となくすっきりしない。私は、カレーを一口、口に入れた。
「ところで、岡村さん、具合はどうなんや?」
中西が話題を変える。私は顔を上げて答えた。
「うん。足首の捻挫は、もうほとんど治ってるみたい。でも、しばらく歩いてなかったから、少しリハビリする必要があるらしいけど」
「骨折の方も、もう大丈夫なんか?」
「みたいね。あと10日もすれば、退院できるんじゃないかって。その後、しばらく自宅でゆっくりしないといけないらしいけどね」
私の話に、中西は微笑んだ。
「相変わらず、不死身やな」
「ほんと、よかったわよ。岡村さんが崖下で見つかったって聞いた時には、正直、どうしようかと思ったもん」
「ほんまや。僕も、突然、電話口の声が刑事さんに変わって、びっくりしたわ」
私達は、顔を見合わせて笑った。
「でも、ほんま、お前も元気になってくれてよかった」
「え? 私?」
尋ね返すと、中西は微笑んだ。
「おお。岡村さんがあんなことになってから、お前、なんか暗かったもんなあ。しかも、安永さんに資料を渡したって話をしてた時のお前、もう死んでまうんちゃうかっていうくらい、しんどそうやったで」
「そんなしんどそうな人に、お昼をおごらせたのは、どこのどなたでしたっけ?」
「峰山やろ? 僕は一応、遠慮してんから」
「いないと思って、峰山君になすりつけちゃって」
「ははは、ばれたか」
中西は、楽しそうに笑った。
「せやけど、岡村さんからほんまのことを聞かせてもらって、正直、ほっとしたやろ?」
「うん。まあね」
私は照れ隠しに、カレーをめいっぱい口に放り込んだ。
(7)
「お、ここにいてはったんですか」
その時、スーツを着込んだ峰山が、手を振りながら現れた。何度も見て、見慣れてきたはずなのだが、相変わらず似合っていない。
「共同研究室かと思ったら、いてはらへんし……。よかった。昼飯、まだ終わってなかったんですね」
彼は、手にしていたカバンを椅子の上に置いて、微笑んだ。
「ところで、どうやった? 今日、レポート提出やったんやろ?」
中西が峰山を見上げて尋ねる。
「ええ。何とかまとまりました。そこそこ、いい感じになったんとちゃうかな。中西さんに見ていただいて、助かりましたよ」
「レポート?」
話がよくわからず聞き返すと、中西が微笑んだ。
「こいつ、大学院で研究していた内容をレポートにまとめろって言われたらしくてな。どんな感じにしたらええやろかって、相談受けててん」
「そうなの?」
私が峰山の方を見ると、彼は微笑みながら頷いた。
「同じ古代史なんだから、私に聞いてくれてもよかったのに」
私の言葉に、峰山が頭を掻く。
「まあ、それでもよかったんですけどね」
「ちなみに、お前やったら、どうアドバイスする?」
中西に尋ねられ、私は答えた。
「修論の序章と最終章を適当につなげればいいんじゃないの?」
「そんなもん、小学生の書く感想文とちゃうねんぞ。職場に出すレポートやのに、『はじめに』と『あとがき』をつなげるようなことしてどないすんねん。な、峰山、こいつに聞かんでよかったやろ?」
中西が笑う。
「ほんまですね」
峰山も楽しそうに笑った。
「はいはい、どうせ私は大雑把ですよ。相談相手にもなれませんよー、だ」
少しすねて見せると、中西は真面目な顔になった。
「大丈夫や。安くて量の多い食堂を探さなアカン時には、間違いなくお前に相談するから」
「それから、警察から疑われた時も、近藤さんに相談しますよ。近藤さん、相手が刑事やろうが何やろうが、対等に戦ってくれはりますからね」
「まったくもう、失礼しちゃう。――まあ、いいか。頼ってもらえる面があるってことだけでも」
私の言葉に、2人は顔を見合わせると、楽しそうに笑い出した。
「いやいや、近藤さんの情報収集力も大したもんやと思ってるんですよ。今回かって、岡村さんの情報、刑事さんからガンガン聞き出して来はりましたもんね」
「おお。ほんまに、大したもんやで。まあ、人それぞれ、持ってる情報に独自性があるっちゅうこっちゃな」
「情報の独自性はよかったですね」
2人の笑顔を横目に、カレーライスの最後の一口を口に放り込む。紙ナプキンで口の周りを拭くと、私は立ち上がった。
「おい、冗談やで」
中西が慌てたように言う。
「そうですよ。怒りはりました?」
峰山も、心配そうに私の顔を見上げていた。私は2人の顔を交互に見ると、答えた。
「怒ってるわよって言いたいところだけど、トレーを返してこようと思っただけ」
「何やほんまに。ビビらすなや」
大げさに胸を撫で下ろしてみせる中西に微笑みながら、私はトレーを手に持った。窓際に座っていたため、食器の返却口まで少しキョリがある。
「情報の独自性、か」
歩きながらつぶやく。もう8年も古代史の研究をしてきたというのに、大食い用の食堂情報と安永刑事からもたらされる捜査情報だけとは、何とも情けない話だ。
「情報の独自性……」
ふと頭をよぎるものがあり、足を止めた。と、その時、前から小走りに向かってきた男子学生が、私の右腕にぶつかってきた。危うくトレーを引っくり返しかけ、必死で体勢を整える。
「すみません」
新入生勧誘のための看板でも描いていたのだろうか。トレーナーのあちこちに青いペンキを付けて、申し訳なさそうに頭を下げている。
「いいわよ。食器は落とさずに済んだし」
「いえ、あの、セーターに汚れが……」
彼が指差した先を見ると、私のセーターの右袖に、青いペンキがペッタリと付いていた。さっきぶつかった時に付いてしまったのだろう。
洗ってもとれないかもしれないが、この学生にクリーニング代を払えというのも酷な気がする。もう10年近くも着ているセーターだ。毛玉もあちこちに出来ている。いい加減、新しいものを買えという、神様のお告げかもしれない。
「あ、ほんとだ。まあいいや。どうせ古いセーターだし。気にしないで」
「ほんまに、すんませんでした」
学生は、何度も何度も頭を下げて、再び小走りに走り出した。私も気を取り直して食器返却口へと向かう。
「ごちそうさまでした」
奥で食事を作っているおばさん達に声をかけ、棚にトレーを置いた。袖に付いたペンキが目に入る。
「そうか、そういうことだったんだ」
目を閉じて、これまでの出来事を思い起こす。すべてがぴったりと繋がった。