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  作者: 深月咲楽
6/9

第6章

(1)


「おはようございます」

 私の声に、ベッドの上の岡村は目を丸くした。頭には包帯が巻かれ、枕元には点滴の管が下がっている。私がベッドサイドに置かれた椅子に座ると、彼は何とか自由の効く右手でリモコンを持ち、ベッドを動かして上体を起こした。

 私の背後の壁際には、安永刑事と内海刑事が並んで腰かけている。

「久しぶりやな」

 岡村がぎこちない笑顔で話しかけてきた。私は頷いた。

「ほんとですね。お正月以来……あ、この間の中央博物館の講座にも行ったんですけど、あの時はしゃべれなかったですからね」

 その時よりは、心持ち顔色がよくなっている気はするが、相変わらずやつれた感は否めない。

「そうか、来てくれとったんか。愛想なしで悪かったな」

「いえ」

 私は首を横に振った。短い沈黙が流れる。

「災難でしたね」

 私は、岡村の頭を見ながら言った。面会時間は10分と決められていた。早く本題に入らなくては。

「おお、気が付いたらこんなことになっとってな。よう覚えてへんねんけど」

 岡村が微笑む。

「覚えてないんですか? 私に電話をくれたことも?」

「そうらしいな。巻き込んでもうて、ごめんな」

 彼は相変わらず、ポーカーフェイスを崩さない。

「そうですか」

 軽い焦りを感じながら、私はカバンからあの小刀を取り出した。後ろで、2人の刑事が立ち上がるのがわかる。

「これは、覚えていらっしゃいますよね?」

 岡村の眉が一瞬動いたが、すぐに涼しい顔に戻った。

「うちの親父が配っとったもんのひとつやな。誰から借りて来たんや?」

「岡村さんのスパイクの中にあったんです」

「へえ、そうなんか。なんでやろうなあ」

 岡村がうそぶく。このままでは何も聞き出せない。私は単刀直入に尋ねることにした。

「宮本さんの所で見つかった『K・M』の小刀は、一体誰のものなんですか?」

「さあ。親父が誰にこの小刀を渡してたかなんて、いちいち把握してへんしな」

「本村さんの身体の刺さっていた新しい小刀は、『カナコ』さん……宮本佳奈子さんのフリをした女の人のものですよね。あの小刀で、自分が高岡さんと本村さんを刺したって、本人が私に話してくれました」

 岡村が目を逸らす。私は、彼の横顔を見つめて続けた。

「警察で話すように言ったんです。そしたら彼女、『もうひとつだけ、やらなアカンことがある。和彦のためにも』って言い残して帰って行きました。そして、その後、宮本佳奈子さんのお父さんが殺された。しかも、現場で『カナコ』さんらしき人物が目撃されている。どういうことだと思いますか?」

 岡村は黙ったまま、何も答えようとしない。私は必死で彼に話しかけた。

「岡村さんは、あの偽物の『カナコ』さんをかばっているつもりかもしれない。でも、そうやって口を閉ざしているうちに、彼女は更に罪を重ねてしまったんですよ。彼女が岡村さんにとって、どういう存在なのかわかりません。だけど、大切に思うなら、本当のことを話して、彼女から宮本佳奈子さんの仮面を剥がしてあげて下さい。お願いします」

 私は頭を下げた。岡村は表情ひとつ変えず、じっと窓の外を見ている。

 ――岡村にはもう、私の声が届かないのだろうか。何とも言えない無力感が襲ってくる。

「そろそろ、面会時間が終わるけど」

 後ろから、ためらいがちな内海刑事の声がした。私は軽く頷くと、再び岡村の方を見た。

「岡村さん、ちゃんと答えて下さい。ねえ、何か言って」

 一生懸命声をかけるが、岡村は相変わらず窓の外を見つめたまま、こちらを見ようともしなかった。

「あの、もう時間やし」

 内海刑事から再度促され、私は岡村の横顔を見つめながら語りかけた。

「岡村さん、私と話をしたくないならそれでもいいです。でも、どうか『カナコ』さんだけは救ってあげて下さい」

 やはり、岡村からの返事はなかった。

 これが本当に、私を裏切らないと恥ずかしそうに微笑んでくれた、あの岡村なのだろうか。この2ヶ月の出来事が、岡村をこんなにも違う人間へと変えてしまったのだろうか。

「私が言いたかったことはそれだけです。――お大事に」

 涙だけは流すまいと、奥歯に力を入れて回れ右をする。ドアに向かって歩き出した時、岡村が声をかけてきた。

「近藤、チョコレート、ありがとう」

 チョコレート? それよりも、もっと言うべき言葉はあるだろう。――一気に身体の力が抜ける。私は2人の刑事に軽く頭を下げ、病室を後にした。


(2)


「近藤さん」

 廊下に出た途端、安永刑事に声をかけられた。

「さっきの小刀、渡してくれるね。それから、これを手に入れた経緯も」

「ええ」

 岡村に会われてくれたら、全部話すと約束したのだ。結果がこんなことになったにしても、安永刑事が約束を守ってくれたことには違いない。私は頷き、手に持っていた小刀を彼に渡した。

「岡村さんのスパイクの中に入っていました。2月16日頃、隠したんじゃないかと思います」

 私の説明に、安永刑事が頷いた。

「この小刀、君の他に誰が触った?」

「中西君と峰山君です」

 私が答えると、彼は頭を掻いた。

「指紋の採取の件もあるから、その2人からも指紋を確認させてもらわないといけないね」

「すみません」

 私は小さく頭を下げた。

「で、『カナコ』が君に2人を刺したって言ったっていうのは?」

「長くなりますけど」

「そうか。じゃあ、下の食堂にでも行こうか」

「そうですね」

 そう答えた時、エレベーターのドアが開いた。2人で乗り込む。

 数字を辿る赤いランプが涙でぼやけるのを感じながら、私はただ唇を噛み締めていた。


(3)


「ほんまに、何も食べんでええんか?」

 向かい側に座った安永刑事が、気遣うように尋ねる。

「ええ、飲み物だけで……」

 私は、テーブルの上に無造作に置かれた食券を見ながら答えた。「コーヒー」という角張った文字が目に入る。

「そうか」

 安永刑事が頷く。エプロンを付けた年配の女性が、無表情で食券をちぎり、奥へと消えて行った。

「驚いたやろ? 岡村君、ずっとあんな感じなんや」

「そうだったんですか」

 地下にあるこの食堂には窓がなく、右側に迫った壁のせいか、閉塞感すら感じられる。それは、もしかしたら私自身の気持ちの表れかもしれなかった。

「お待たせしました」

 先程の中年の女性が、無愛想にコーヒーを置いていく。安永刑事の前には、コーヒーとサンドウィッチが置かれた。

「まだ朝飯食ってへんから……。よかったら、近藤さんも」

 彼はそう言いながら、サンドウィッチの載ったお皿を、テーブルの真ん中にずらした。

「ありがとうございます」

 私は微笑んだが、手に取ることはしなかった。ソーサーに添えられたスプーンを裏側に置き、カップを持ち上げる。意外といい香りがするコーヒーをゆっくりすすると、気持ちが少し落ち着いた。

「で、さっきの話の続きやけど」

 おしぼりで口の周りを拭いながら、安永刑事が尋ねてきた。

「『カナコ』が2人を刺したってどういうこと?」

「前に、彼女がうちに来たことがあったんです。その時にそう言ってました」

「動機は?」

「それが……私のせいだって」

「近藤さんの?」

 安永刑事が驚いた顔をする。

「どういうことやろう。心当たりは?」

「ありません。私にもさっぱりわからなくて」

 あの時のやりとりを思い出し、再び自己嫌悪の波に襲われる。

「近藤さんのせい、ねえ」

 安永刑事は少し考えている様子だったが、やがて口を開いた。

「で、凶器については何か言ってへんかったか?」

「凶器は、宮本佳奈子さんのものだって、言い張ってましたけど」

「彼女自身がニセモノやってことを考えると、あの小刀も、新しいものに宮本佳奈子さんのイニシャルを書き込んだ、と考えた方が自然やと思うねんけど」

「ええ。私もそう思います」

 私は腕を組んだ。

「『K・M』と書かれた小刀が3本。そのうち1本が新しくて、あとの2本が古い。どういうことなんでしょうか」

「小刀の新旧から考えれば、もともと宮本佳奈子さんと岡村君がそれぞれ持っていたものがあり、もう1本は、その『カナコ』と名乗っている女性がそれらを真似て作った、ということになるやろうね」

「3本とも、イニシャルは、同じ位置に同じように書かれていたんでしたね。ということは、後からイニシャルを書き込んだ『カナコ』さんは、2人の小刀を見たことがあったってことになりますよね?」

「ああ」

 安永刑事が頷く。

「若草園の関係者でしょうか?」

「園児やったら、小刀をもらっているはずやからね。新たに買ったもんやと考えると、園児ではなかった可能性が高いな」

「そうですね」

 私は頷いた。

「にしても、動機がなあ」

 安永刑事は首をひねった。

「園児達に話を聞いてみたんやけどね。みんな口々に、『お父さんとお母さんを追いつめた借金取りを殺してやりたい』って言うんや。それに、2人を保証人にした竹下渉のことも、絶対に許さないって」

「でも、竹下さんって人、自殺されてますよね?」

 私が尋ねると、安永刑事は驚いたようにこちらを見た。

「なんでそのことを?」

「あ、いえ」

 首を横に振ったが、安永刑事は視線を外してくれない。仕方なく、私はカバンから、例の茶封筒を取り出した。

「森山先生の研究室にあったんです。多分、その小刀と同じ日に、岡村さんが隠されたんだと思います」

 安永刑事は、私から茶封筒を受け取ると、中を覗き込んだ。

「その黒いファイルの中に、岡村さんに宛てた葉書が入ってたんです。で、その住所のところに行ってみたんですけど」

「もっと早くに教えてほしかったな」

 安永刑事は、黒いファイルを取り出し、中をめくりながらつぶやいた。

「高岡さんが時々訪れていたみたいです。取り立てをしているわけでもなかったみたいなんですけど……。おかしいですよね?」

「ああ。その点は、本部の方でも指摘されているよ。おそらく、竹下さんと高岡さんが組んで、岡村豊さん夫婦を追い込んだんやろうってね。そのことを知った岡村君に殺意が芽生えただろうってことは、容易に想像がつく」

 昨日までの私なら、きっとムキになって否定していただろう。しかし、今日のあの岡村の態度を目の当たりにして、自分の中にあった自信が揺らぎつつあることを感じる。

「若草園の園児の1人が言っていたよ。『お父さん、お母さんとお兄ちゃんは、本当の親子だと思ってた』ってね。そんなに仲が良かったんや。恨みも大きかったんと違うかな」

「あの……」

 私はひっかかるところがあり、顔を上げた。

「さっきから『お父さん』『お母さん』っておっしゃってますけど、それは岡村さんのご両親のことですか?」

「ああ。子供達はみんな、2人のことをそう呼んでいたみたいやで」

 おかしい。あの時、「カナコ」はたしか2人のことを……。

「おい、近藤さん、どうしたんや?」

 安永刑事に声をかけられ、我に返る。

「私が会った『カナコ』さんは、岡村さんのご両親のことを『先生達』って言ってたんです。だから、てっきり、子供達は『先生』って呼んでいたものとばかり……」

「やっぱり、にせものの『カナコ』は、若草園の園児ではなさそうやな」

 安永刑事が身を乗り出す。

「そう言えば、学校の先生をされていたんですよね、岡村さんのお父さん」

「ああ」

 私の思いつきに、安永刑事が頷く。

「その時の教え子なら、岡村さんのことを『先生』と呼んでもおかしくないな。そっちの方からも調べ直してみるか」

「ええ。お願いします」

「で、この資料、預かってもいいんやね?」

 安永刑事は、手にしていたファイルをちょっと持ち上げて尋ねた。黙って頷く。

「わかった。ありがとう」

 彼はそう言うと、黒いファイルを茶封筒へと戻した。

「他に隠していることはないね」

「ええ」

 私が頷くのを見て、彼は微笑んだ。

「ほんなら、さっきの『チョコレート』っていうのは何?」

「え? 何のことですか?」

「ほら、さっき、岡村君の病室を出る時に、ありがとうって」

「ああ、バレンタインのチョコレートのお礼を言われただけです」

 私はカップを手に、ぬるくなったコーヒーをすすった。

「それだけ?」

「ええ。それだけですよ」

「ほんまか?」

 どうしてそんなに食い下がるのか。私は不思議に思いながらも、頷いた。

「そうか。岡村君が、あの状況でわざわざ言うくらいやから、何か意味があるんかと思ってんけどね。思い過ごしやったかな。ほんなら、署の方で指紋の採取に協力してもらえるか?」

「わかりました」

 私が頷くのを確認すると、安永刑事は茶封筒を手に立ち上がった。


(4)


 翌朝、私は南山科郷土資料館を訪れた。昨日はあれからずっと岡村のことが頭を離れず、バイト先の本屋でもうっかりミスを連発した上、夜は一睡もできなかった。この2ヶ月の間、岡村は一体どのような生活を送っていたのか。そのことばかりが頭の中を駆け巡る。

 一人でゴチャゴチャ考えていても埒があかない。そう思った時、身体が自然に郷土資料館に向かっていた。彼の勤め先に行ってみたところで、何がわかるということもないだろうが、少しは何かが見えてくるかもしれない。

「今日は、見学の方がいらっしゃらないんですね」

 展示室を通り抜けながら、出迎えてくれた神尾に声をかける。これから行こうとしている事務室の入口は、展示室を通り抜けたところにあった。

「ああ。特別展か生涯学習講座でもない限り、閑古鳥が泣いてるよ。まあ、郷土資料館は、展示の他に資料の保全も大切な仕事やからね。そっちの方に力を入れてるっちゅうことで」

 彼はそう言うと、楽しそうに笑った。

「さあ、どうぞ」

 神尾に促され、事務室を覗くと、中には学芸員の前田良美がいた。

「あら、おはよう」

 彼女は私より5歳ほど上だったはずだ。大阪の大学を出てから、ここに勤めているという話を聞いたことがある。

「おはようございます。失礼します」

 私は会釈して、中に足を踏み入れた。

「岡村君のデスクは、それや」

 神尾に示された方を見て、思わず微笑む。

「相変わらず汚いですねえ」

 きちんと整頓された他のデスクとは対照的に、無造作に書類が積まれ、何がどこにあるか全くわからない状態になっていた。

「岡村君は大雑把なO型やから。神尾さんと私は几帳面なA型。デスクの上だけでも、その差がよく現れてるやろ?」

 前田が楽しそうに言う。

「これでも、少しは綺麗になったんやで。警察の捜査員の人達が、逆に片付けて行ってくれたからね」

 神尾が笑った。

「そうなんですか。捜査員の人達が……」

 職場のデスクやロッカーまで入念に調べたという、山田刑事の話を思い出す。

「ごちゃごちゃ探し回とってんけど、目的のものは見つからへんかったみたいでね。手帳か何かを持って行っただけやった」

 神尾の説明に頷きながら、私は彼のデスクに近付いた。

「あ、この写真」

 資料の向こう側にある写真立てが目に入った。資料の山を崩さないように注意しながら、写真立てを手に取る。そこには、去年の3月、岡村の修了式の際にみんなで撮った写真が飾られていた。

「これ、修了式の時の写真なんです」

「そうらしいね。1ヶ月くらい前から、そこに置かれていたよ」

「1ヶ月くらい前から?」

 私は振り返って、神尾の顔を見た。

「ああ。岡村君、時々ぼんやり眺めとったなあ。ご両親があんなことになってもうたし、寂しい想いを紛らわせてるんかなって、思った覚えがあるわ」

 岡村が、私達の写真を眺めていた……少しだけ救われたような気がする。

「――あの、すみません」

 その時、事務室の奥に置かれたつい立ての方から、女性の声がした。ここでは、そのつい立ての向こう側が受付になっており、見学者が入館料を払うことになっている。

「はい」

 立ち上がろうとした前田を、神尾が制した。

「僕が出よう。君は近藤さんにお茶を入れてあげて」

「わかりました」

 前田が頷く。

「ごめんなさい。おかまいなく」

 頭を下げる私に、前田は微笑んだ。

「ううん。いいのよ。私、見学者の相手するの、あんまり得意やないから。逆に助かったわ」

 前田が、微笑みながら給湯室へ向かう。

「すみません」

 私は彼女の後ろ姿に声をかけると、勧められるままソファに向かった。ゆっくり座り込み、窓の外に目を転じる。と、その時、そこを赤いコートを着た女性が通り過ぎた。

「『カナコ』さん?」

 私は立ち上がると、急いで事務室の出入口へと向かった。

「おお、どうしたんや?」

 戻って来た神尾が、驚いたように尋ねる。

「すみません、ちょっと」

 事務室から続く展示室を突っ切り、外へ飛び出す。彼女が歩いて行った方向を目指して走ったが、「カナコ」の姿は見あたらなかった。はあはあと息を切らせながら、駐車場の方まで足をのばす。じっくり見渡してみたが、やはり彼女は消えた後だった。

 仕方なく、資料館へと戻る。

「どうしたの?」

 事務室に入ると、デスクの椅子に座った前田が、心配そうに話しかけてきた。テーブルには、お茶が入ったお湯のみと、紅葉饅頭が置かれている。

「あ、すみません」

 彼女に頭を下げると、ソファに座り込んだ。

「今、知っている人が通ったものですから」

「知っている人って、もしかして赤いコートにサングラスをかけた女の子かい? さっき受付で応対した子やと思うけど」

 神尾が、私の正面に座りながら尋ねてくる。

「ええ、そうです。彼女、一体何の用事だったんですか? 見学に来たわけではなさそうですね」

 私は、お茶を一口すすると、彼の方を見た。

「ああ。なんか、岡村君のことを聞きたかったみたいやね」

「岡村さんのこと?」

「そうや」

 神尾が眉間に皺を寄せて頷く。

「今の容態はどうなのか、とか……。病院に行っても会われへんし、こちらが聞きたいくらいやって答えたら、そのまま帰って行ったけどね」

「赤いコートにサングラスの女性って、そう言えば、昨日も……一昨日も来てたわよ。その人、髪の毛も真っ赤じゃない?」

 前田が、椅子を回転させて私達の方を見た。

「ええ、そうです」

 私が頷くと、前田は話し始めた。

「なんか、窓から事務室の中を覗き込んでてね。気持ち悪いし、一昨日は声をかけずに様子を見てたんやけど、二日も連続で来られたら、無視するわけにもいかへんでしょ? 昨日はちょっと声をかけてみてん。そしたら、何も答えずに帰って行ってしまって。ちょうど他の博物館からお客さんが来てはった時でね。何やろうって話しとってんわ。ねえ、神尾さん」

 前田に話を振られ、神尾が首を傾げる。

「さあ。僕には、ちょっとわからへんねえ。昨日と一昨日、出張でおれへんかったから」

「あ、そうでしたね。その紅葉饅頭、神尾さんのおみやげやったわ。忘れてた」

 前田がぺろっと舌を出して見せる。

「ほんまにもう、今朝手渡したばかりやのに。ボケるにはまだ早いんちゃうか?」

 神尾が楽しそうに笑った。

「紅葉饅頭ってことは、広島に行かれてたんですか?――いただきます」

 私は、お饅頭の封を開けながら、神尾の顔を見た。

「ああ。そうやねん。岡村君のピンチヒッターでね。特別展の公開講座で話をしてきたんや」

 神尾が答える。

「そうなんですか。岡村さん、色々なところでご活躍されてるんですね」

「ああ。彼はうちの期待の大型新人やからね。早く復帰してくれるといいんやけど」

 神尾が溜息をついた時、前田が思い出したように話し始めた。

「そう言えば、あの赤いコートの女の子、前の土曜日……3月1日にも来てたんと違いましたっけ? たしか、岡村君が中央博物館で公開講座をやった日やったわ。あの時は、神尾さんも一緒でしたよね?」

 前田が言いながら、神尾の方を見る。

「ああ、そうやったねえ。たしか、資料館を閉めて出た時やし……午後7時頃やったかな。その駐車場の門の所に立っててねえ」

「車に乗り込もうと思って、キーを差し込んだ時にね、彼女、私の方に駆け寄って来て。岡村君がまだ中にいるかどうかって、聞いてきたんやわ。岡村君からは、講座が終わったら直帰するって聞いてたし、そう伝えたのよ。そしたら彼女、泣き出しちゃって。頭下げて、とぼとぼ出て行ったんやわ」

 前田はそう言って私の方に顔を向けた。神尾が後を続ける。

「僕も、ちょうど車に乗り込もうとしたとこやったんや。声は聞こえたけど、泣いていたかどうかまではわからへんかったねえ。岡村君の彼女にしては、ちょっと雰囲気が違い過ぎるし。どんな関係の人なんかなあって、不思議やったんや。一体、あの女性はどういう?」

「それが、知り合いって言っても、本名も知らないんです。岡村さんをよく知っていることだけは、たしかなんですけど」

「ふうん」

 神尾が腕を組んでこちらを見る。

「岡村君の事件に関係してるんやろか? 倒れている岡村君が発見された前日に、ここに現れたっていうのが、なんか気になってまうなあ」

「多分、岡村さんの、中学くらいの頃の知り合いなんじゃないかと思うんですけど、はっきりしなくて」

「なんか、ややこしい話やねえ」

 前田が眉間にしわを寄せる。

「ええ。もう訳がわからない状態になっていて。今日、ここに来たのも、この2ヶ月間の岡村さんの様子を教えていただきたかったからなんです」

「この2ヶ月間……つまり、ご両親が亡くなられてからってことやね?」

 神尾に聞かれ、私は頷いた。

「前にも話した通り、たしかに休みを取る回数は増えていた。せやけど、仕事はきちんとこなしていたし、少し無口になったくらいで、おかしいことはなかったんや。散々一緒に過ごしていたのに、気がつけへんかったなんて、ほんまに情けない話やけど」

 神尾が険しい顔で溜息をつく。

「私もですよ。少し元気がなかったのは気になったけど、まさかこんな事件に巻き込まれているなんて」

 前田も悲しそうにそう言うと、小さく息を吐いた。

「そうだったんですか。――どうもありがとうございました」

 このまま質問を続けても、特に手がかりは得られそうにない。がっかりする気持ちを表に出さないよう、私は微笑みながら立ち上がった。


(5)


 郷土資料館を出た後、私はまっすぐ大学に向かった。共同研究室には、例のごとく中西と峰山の姿があった。2人は私の姿を見ると、待ってましたとばかりに立ち上がった。

『昨日、いきなり警察から連絡があって、びっくりしましたよ』

『ほんまやで、近藤。お前、小刀もファイルも渡してもうてんて? 相談くらい、してくれてもよかったんちゃうか?』

『ほんまですよ。昨日は電話しても留守電やし、携帯の電源は切ってるし……。指紋の採取なんてされて、凶悪犯になったような気分でしたよ』

 口々に文句を言う2人に、安永刑事が我が家を訪れたことや岡村の様子を説明し、ようやく納得させるまで実に2時間以上。その上、昼食までおごらされ――なぜそういうことになるのか、理解できない面もあるのだが――家に帰れたのは午後3時を過ぎた頃だった。

 バス停を降り、ぼんやりとアパートに向かう。

 岡村との間に、強い絆があると考えていたのは、私の思い上がりだったのだろうか。彼は本当に、私の手の届かないところへ行ってしまったのだろうか。

 昨日の岡村のあのよそよそしい態度に、自分でも驚くほどの大きなショックを受けていた。

 角を曲がると、アパートに面した通りにパトカーが停まっているのが見えた。私の姿を見つけたのだろう、ドアが開き、中から安永刑事と山田刑事が現れる。

「どうされたんですか?」

 聞きながら近付くと、安永刑事が答えた。

「昨日はありがとう。実は、あれから、また事件があってね」

「事件?」

 私は聞き返した。

「君が言っていた『カナコ』が、遺体で発見されたんや」

「遺体って……どういうことですか?」

「南山科のハイキングコースで、転落死しているのが発見されました。岡村さんが落ちたのと同じところから、飛び下りたものと思われます。死亡推定時刻は、今日の午後1時頃のようですが」

 山田刑事の説明を受け、私は顔を上げた。

「飛び下りたって……」

「自殺のようですね。遺書もありますし」

「遺書?」

 私は山田刑事の顔を見た。

「ええ。今日の午前中、病院の岡村さん宛てに届いたんですよ。病院の郵便受けに直接入れられていたみたいですけどね。『迷惑かけてごめんなさい。私が間違っていました。自分の後始末は自分で付けます。今までありがとう』って」

「本当に本人が書いたものだったんですか?」

「ええ。筆跡が完全に一致している上、指紋も検出されました」

 どうやら間違いないようだ。彼女を救えなかったという無力感が、体中を駆け巡る。

「今朝見かけた時は、そんな感じじゃなかったのに……」

「え?」

 私の独り言に、2人の刑事がさっと視線を合わせた。

「今朝って……どこで見かけたんや?」

 安永刑事が尋ねる。

「南山科の郷土資料館です。私は後ろ姿を見ただけなので、直接話したわけではありませんけど」

「何の用事やったんか、わかるか?」

「ええ。岡村さんの容態を聞いて来たみたいですよ。――応対されたのは館長の神尾さんですし、そちらでお話を聞かれた方がいいと思いますけど」

「そうか。ありがとう」

 安永刑事が頷く。

「彼女が自殺したことを伝えたら、岡村さん、ようやく『カナコ』の正体を話してくれはったんですよ」

 山田刑事が私の方を見た。

「丸沢希紗英という女性です。岡村さんとは、中学の同級生やったらしくて」

「まるさわ……きさえ」

 耳に入って来た名前を復唱した。イニシャルは「K・M」。この一致は偶然だろうか。

 と、安永刑事が、上着の内ポケットから1枚の写真を取り出した。

「この子やねんけどね、君が見た『カナコ』に間違いないかな?」

「そう言われても、サングラスをかけてましたし、お化粧もしてましたし……」

 困惑しながら写真を受け取る。しかし、そこに写されているショートヘアの女性を見て、私は思わず息を飲んだ。

「どう?」

 安永刑事が私の顔を見る。

「この人が、丸沢希紗英さんなんですか?」

「ああ。発見時、彼女はやはり、赤いコートを着ていたよ。ウィッグとサングラスは、落ちた弾みで外れてしまっていたけどね。履いていたパンプスの靴底からは、血液反応も確認されている」

「最期まで、宮本佳奈子を演じ続けたってことでしょうかねえ」

 山田刑事が溜息をつく。

「コートの下は、トレーナーとジーンズのスカートを履いていた。どこにでもあるものやったし、ばれへんようにロングコートで隠していたんやろうね。宮本佳奈子は、シャネルの服を好んで着ていたそうやから」

 安永刑事が続ける。

「バッグは本物やった。岡村君の話によると、丸沢希紗英は宮本佳奈子の家庭教師をしていたそうや。それで、佳奈子が高校に受かったお礼として、希紗英にあのバッグをプレゼントしたらしい。岡村君、希紗英から相談を受けたらしくてね。こんな高いものを受け取ってしまっていいのかどうかって」

「結局、もらうことにしたみたいですけどね。気持ちやからってことで」

 山田刑事が後を続けた。

「そうだったんですか。家庭教師……」

「思い切り変装していたし、君が見た『カナコ』とは全く違うと思うけど……。少しでも一致する点はあるかな?」

 安永刑事が写真を指差して尋ねる。私は写真の中の彼女をじっと見つめた。

「私、この女性に会っています。『カナコ』さんとしてじゃなく、素顔の彼女に」

「え?」

 2人の刑事の顔に驚きの色が走った。

「前に、若草園の跡地を見に行ったことがあるんです。その時、彼女が手を合わせてしゃがみ込んでいて……。峰山君が声をかけたら、逃げ出してしまったので、何も話はしてないんですけど」

 私は唇を噛んだ。顔も雰囲気も全く違っている。同一人物だなんて、夢にも思わなかった。

「希紗英さんが借りていたレンタカーのサイドボードから、真新しい小刀のサヤが見つかったんです。指紋は彼女のものと高山堂の主人のものしか付着していませんでしたし、本村さんの身体に刺さっていた小刀は、彼女自身が購入したものと見て間違いないでしょうね」

 山田刑事が説明する。

「え? レンタカー?」

「ええ。彼女はもともと、オーストラリアに住んでいたんですよ。それが、岡村夫妻が亡くなって、日本に一時帰国していたようですね。住まいも、ウィークリーマンションでしたし」

「でも、ご実家が大阪にあるんじゃないんですか? 中学、岡村さんと同じなんでしょ?」

 私が尋ねると、安永刑事は悲しそうに首を横に振った。

「ご両親は3年ほど前に亡くなられているようやね。それ以来、日本に帰国した時はいつも、若草園に泊まっていたらしいから……。実家のように思っていたんやろうね」

「そうだったんですか」

 私は小さく溜息をついた。

「で、岡村さんは……」

「彼女のことを一通り話した後は、ずっと黙り込んでいる」

 自分を犠牲にしてでも、かばっていた人が自殺してしまったのだ。岡村のことが心配になる。

「あの、今から岡村さんに会わせていただけませんか?」

「今から?」

 山田刑事が困惑顔で安永刑事の方を見る。彼も少し考えていたようだったが、やがて口を開いた。

「わかった。車に乗ってくれ」

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