第5章
(1)
「住所から見ると、このアパートやな」
「うん」
私は、1枚の葉書を見ながら頷いた。昨日見つけた黒いファイルに挟まれていたものだ。大阪府箕面市。岡村の実家からそう遠くはない場所。
「204号室ってなってるけど、階段、危なそうだね」
錆びて朽ちかけている鉄製の階段を見ながらつぶやく。
「ほんまやな。せやけど、行かな話も聞かれへんやろ? ほら、行くで」
中西が手すりを持ち、階段に足をかけながら言った。
このアパートに住んでいるはずの男性、竹下渉は、若草園の元園児だ。岡村の両親に、借金の保証人を頼んだ人物である。
ヒヤヒヤしながら、中西の後に続く。無事にのぼり切り、ほっと胸を撫で下ろしながら、204号室を探した。
「ここだわ。表札は出てないけど」
呼び鈴らしきものも付いていない。私は、所々板がはがれかけている木製のドアを叩いた。
「竹下さん」
声をかけてみるが反応がない。
「外出でもしてはんのかな」
「そうかもしれないわね」
私は頷きながら、手元の葉書に目を落とした。
岡村に宛てて出されたこの葉書。差出人の竹下が書いたメッセージは、短いものだった。
――お兄ちゃん、ごめん。もう耐えられない。
「この『耐えられない』って、どういう意味なんだろうねえ」
「ほんまになあ。消印は今年の1月8日なんやろ?」
「うん。たしか、岡村さんのご両親が亡くなったのが、1月6日だったわよね」
「ああ。そのすぐ後やな」
中西はそう言って、首をひねった。
「せやけど、岡村さんのご両親、この竹下ってやつの保証人になったせいで、全財産を失ったんやったよな」
「そうよ」
岡村の残した黒いファイルの中には、この葉書の他にも、両親の心中事件に関する資料が挟み込まれていた。その中身を思い出しながら頷く。
「この竹下さん、何回か追加融資を受けてるの。その度に、通知書が送られて来ていたみたいね。ファイルにその通知書が入ってたし、間違いないと思うけど」
「なるほどな。でも、保証人に支払いが回ってくるのって、大概、借りた本人が逃げてもうた時やんな?」
「うん。そうなんじゃないかな」
中西の言葉に頷く。
「それやったら、借金した張本人がこんなに近くにいるのに、何で岡村さんのご両親に支払いの催促が行ったんや?」
「よくわからないわね」
と、その時、階下から女性の声がした。
「ちょっと、そこで何やってはるの? 部屋、見に来はったん?」
廊下から見下ろすと、花柄のブラウスにスカートという出立ちの、五十代くらいの女性がこちらを見上げていた。
「いえ、あの……」
こちらが答えるのも待たず、彼女は一方的に続ける。
「ここの家賃は、1ヶ月3万5千円やで。その部屋やったら、2万円にしておくけど」
どうやらここの大家らしい。
「あの、僕ら、竹下さんを訪ねて来たんですけど、いてはらへんみたいなんで」
すると、大家と思しき女性は、驚いたような表情を見せた。
「竹下さんやったら、亡くなりはったわよ」
「えっ?」
思わず声を上げる。
「それ、いつですか? 何で?」
「自殺しはってん。遺体が見つかったんは1月11日やったけど、亡くなりはったんは8日頃やないかって」
葉書を裏返し、もう一度消印を確認する。投函されたのは1月8日。となると、これは遺書だったのだろうか。中西も、唇を噛んで黙り込んでいる。
私達の困惑をよそに、彼女は続けた。
「ほんまにもう、あの時は警察が来たりして、えらい大騒ぎになってしまって。お陰で借り手がつかへんで、いい迷惑やわ」
「ということは、竹下さん、このお部屋で自殺を?」
借り手が付かないのは、そのせいだけではないだろうと思いながら尋ねる。
「そうなんよ。友達っていう人が来はって、鍵が開かへんとか言うもんやから、私が開けてあげたんよ。そしたら、その部屋の奥に竹下さんがぶらさがってるやないの。もう、腰が抜けるか思ったわ」
彼女が、大げさに身ぶりを加えながら答える。
「友達?」
私達は顔を見合わせた。
「その、友達の名前、聞いてはりませんか?」
中西が尋ねる。彼女はおでこに手を当ててしばし考え込んでいたが、やがて顔を上げて答えた。
「たしか、岡村さんやったかしらねえ。がっちりした体格の男の人やってんけどねえ」
「やっぱり、岡村さん、ここに来はったんやな」
中西の言葉に頷きながら、彼女に声をかける。
「あの、竹下さんは、いつ頃からここに住んでらっしゃったんですか?」
「ええと、去年の6月やったわよ」
「去年の6月?」
私達は再び顔を見合わせた。
「その間に、借金の取り立てとか、そんなことはなかったですか?」
私の質問に、彼女は首を傾げた。
「その、岡村さんとかいう人にも聞かれてんけどねえ。気が付かへんかったわ。そんな大声でも聞こえて来たら、すぐにわかると思うねんけどねえ」
「たしかに、声は筒抜けでしょうからねえ」
中西が、露骨に建物を眺め回しながら頷く。私は、肘で彼の腕を軽くつつくと、彼女の方を見た。
「あの、岡村さんから、他に何か聞かれませんでしたか?」
「そうやねえ。――誰がこのアパートを借りたのか、とか、聞かれたわねえ」
「で、誰が借りてはったんですか?」
中西が問いかける。
「誰がって……。警察にも同じこと聞かれたし、申込書で確認してんけどねえ。本人の名前になってたわ」
「他には何か?」
中西が畳み掛けると、彼女は少し首を傾げた。
「ここを訪ねて来た人はいてへんかったかって」
「それで?」
先を促す。
「何度か訪ねて来てた男の人がいてたし、そう答えたけど」
「どんな人でした?」
「私も声しか聞いたことないし、顔まではちょっとわかれへんねんけど……。なんや、車には『高岡興業』とか書かれとったわねえ」
「高岡興業?」
私は思わず、手すりに手をつき、少し身を乗り出した。ぎしっときしむ音がして、慌てて身体を起こす。
高岡興業と言えば、上賀茂橋下で殺害された高岡が営んでいた会社だ。取り立て人は、竹下の居場所を知っていた。にもかかわらず、どうして保証人に取り立てが及んだのか。
わけがわからず黙り込んでいると、中西が口を開いた。
「もう一度確認しますけど、その話、岡村さんにしはったんですね?」
「ええ、しましたけど」
女性がためらいがちに頷く。
「そうですか」
中西が腕を組んだ。
(2)
「竹下さん、亡くなってはったんですか?」
峰山が驚いたように言う。
大学のそばにあるフォルクスに場所を移し、私は中西と峰山と向かい合っていた。峰山は、今日は職場の研修だったということで、似合わないスーツを一生懸命着込んでいる。
「うん。自殺だって」
私の言葉に、彼は目を閉じた。
「岡村さんのご両親は心中。立て続けにそんなことがあるなんて、なんか不思議な話ですね」
「ほんまになあ」
中西が、サラダバーから盛ってきたポテトサラダを、乱暴に口の中に放り込んだ。
「にしても、あの高岡さんと竹下さんが仲間だったってことになると、岡村さんのご両親の死は、ただの心中事件とは考えにくくなるわよね」
「ほんまやな」
私の言葉に、中西が溜息をついて続ける。
「岡村さん、大家さんから高岡のことを聞いて、気付きはったってことやろな。2人がグルやったってこと」
「うん。あのメモを見る限りでは、間違いないだろうね」
岡村の青いノートに走り書きされたメモを思い出しながら頷く。
その時、ウエイトレスがワゴンに料理を載せて運んで来た。並べ終わるまで、会話はしばし中断される。
伝票を置いてウエイトレスが去った後、峰山が口を開いた。
「あのノートには、『高岡』『竹下』と一緒に『本村』って書かれてたんですよね?」
「ああ、そうやで」
中西が、ハンバーグにタレをかけながら答えた。鉄板で焼けるしょうゆの香ばしい香りが、鼻孔をくすぐる。
「『高岡』から『竹下』に向かう矢印が1本。それから、『本村』から『高岡』に向かって、矢印がもう1本。『本村』の横には『出所?』『佳奈子』って」
私は、牛フィレ丼にお箸を付けながら、補足した。
「高岡さんと竹下さんが2人でご両親を心中に追い込んだ。――としたら、そこに一緒に名前が書かれていた本村さんも、グルやったってことなんとちゃいますか?」
「どういうことや?」
中西が、フォークを片手に峰山の顔を見る。
「いや、そんな細かいことまではわかりませんけどね」
峰山はスプーンを振り回しながら、私達の顔を交互に見た。
「ご両親の心中事件に関する資料が入ってたのと同じ封筒の中に、宮本佳奈子のひき逃げの資料も入ってたわけやないですか。で、それぞれの事件に関わった人物が殺されてるわけでしょ?」
峰山は、残りのドリアを軽くまぜつつ、続けた。
「何か関連があったって考えても、不思議はないと思うんですけどねえ」
「まあなあ。せやけど、今の時点では何ともなあ」
中西が首を傾げる。しばらく会話がとぎれ、私達は黙々と食べ物を口に運んだ。
「ねえ、一度、宮本佳奈子さんのご両親から、お話を聞いてみたらどうですか? 佳奈子さんの事故のこととか、小刀のこととか」
一番先に食べ終わった峰山が、紙ナプキンで口元を拭いながら、私達の顔を見回した。
「でも、虐待して施設に放り込むような親やで。話なんてしてくれるかどうか」
中西が手にしていたフォークを置いた。
「でも、それが一番、手っ取り早いかもしれないわね。話を聞けたら儲け物くらいの気持ちで、行ってみたらどうかな?」
私は中西の顔を見た。
「せやけど、自宅の住所、わかるんか?」
「お父さんの会社だったら、調べればわかるかも。大きなところだし、テレビのCMでも流れてるらしいわよ」
「娯楽施設の関係やとか言うてたな?」
中西が紙ナプキンを手に尋ねる。
「うん。『GARAKU』っていう会社。私はよく知らないんだけどね」
私は、最後に残しておいたフィレ肉を、お箸でつまみ上げた。
「『GARAKU』? 駅前のパチンコ屋、そこが経営してるんちゃうかったかな。僕、ちょいちょい行くねんけど」
中西が驚いたように言い、峰山の方を見た。
「僕も時々行きますよ。たしか、四条の方にあるカラオケ屋も、『GARAKU』の系列でしたよね?」
峰山が続ける。
「あそこやったら、たしか上場してますしね。四季報か何か見れば、本社の場所はすぐわかりますよ」
「いや、たしか長者番付の上位に入ってたはずやで。調べれば、自宅の住所もわかるかもしれへん」
「へえ。長者番付ですか。前に一度、つぶれるかもしれへんって噂が流れたりしてましたけど……。盛り返したんですね。すごいバイタリティやなあ」
中西の言葉に、峰山が感嘆の声を上げる。
「せやけど、今から調べに行くって言うても……」
中西が腕時計を見た。
「時間がちょっと遅いしなあ。明日の朝、資料館で調べてみようか」
「そうですね。それで、話を聞きに行きましょう」
峰山が微笑む。
「明日の朝8時に、共同研究室で集まることにせえへんか? 2人とも大丈夫やったら」
「うん。私は大丈夫」
「僕も明日は1日空いてますよ」
中西の提案に、私達2人は頷いた。
「よし、ほんなら、そういうことにしようや。――でも、問題は、どうやって話を切り出すかってことやな」
私達は頭を寄せて、作戦会議に入った。
(3)
翌日、無事、宮本佳奈子の自宅の住所を調べ上げた私達は、大阪府高槻市にあるその場所へと向かった。峰山が同じ高槻に住む後輩から聞き出した話に寄ると、その辺りはとにかく一方通行が多く、車では小回りが利かないという。結局、私達は、阪急高槻市駅近くの駐車場に峰山の車を停め、1kmほどの道を歩いていくことにした。
いつものような汚い格好では会ってもらえないかもしれないということで、私達は正装してきていた。中西はコジャレたスーツをある程度うまく着こなしているが、峰山は昨日と同じものをぎこちなく身に付けている。
かく言う私も、年に1、2回しか着ない一張羅のパンツスーツに身を包んでいた。慣れないパンプスを履いているせいで、足が痛くて仕方がない。
目的の宮本家に辿り着いたところで、私達は思いがけない光景を目の当たりにすることになった。
「参りましたね」
峰山がつぶやくように言う。
「ほんまやな。一体何があったんやろ」
中西も首を傾げた。
豪邸と呼ぶにふさわしい大きな家。そして、そこに面した道路を塞ぐように、黄色いテープが貼られている。その脇には制服を着た警察官が立ち、野次馬の整理に当たっていた。
「にしても、大きな家やなあ」
「この1ブロック全部で1軒ですからね。他は、同じ面積に4軒くらい建ってるのに」
峰山が、辺りの家と比較しながら溜息をつく。
「玄関入ってから家に辿り着くまでにも、結構ありそうなんちゃう?」
少しでも家の中の様子を窺おうと身体をのばすが、人の頭が邪魔になり、見ることができない。
「ちょっと待ってて。私、前の方に行って見てくるから」
「おいおい、大丈夫か?」
中西の心配そうな声に微笑んで見せると、私は少し身体をかがめ、人混みの中へと分け入った。
「ふう」
なんとか前の方に辿り着き、最前列に立っていた中年の女性に声をかける。
「あの……何かあったんですか?」
その女性は、口元を手で隠し、小さな声で答えた。
「宮本さんのご主人が殺されはったみたいよ。刃物でメッタ刺しやって。しかも玄関先で。ほんまに怖いわねえ」
「刃物でメッタ刺し? あの、ご主人って宮本平吉さんですか? 宮本佳奈子さんのお父さんの?」
今朝調べた資料で見た名前を口にすると、彼女は驚いたように目を見開いた。
「ええ、そうよ。宮本平吉さん。お嬢さんの方は、全寮制の学校に行ってはるって話やったし、事故で亡くなりはったことくらいしか知らんねんけど」
全寮制の学校――体裁を気にして、そういう話にしていたのだろう。思わず佳奈子が不憫になる。
「どうもありがとうございました」
私は軽く頭を下げると、再び野次馬の群れをかきわけ、最後列にいた中西と峰山の元へと戻った。
「宮本平吉さん――佳奈子さんのお父さんが殺されたみたいよ。それも、またメッタ刺しだって」
「メッタ刺し?」
中西と峰山が、同時に声を上げる。
「それ、どういうことですか?」
「さあ。私も、野次馬のおばちゃんから聞き出しただけだし、詳しいことまでは……」
私達は、しばし黙りこんだ。
「裏側に回れたらそっちからでもって思ってんけど、入られへんようになってるしな」
中西が手にしていた地図を見ながら、顔を上げる。
「よし、こっちから行ってみるか」
「こっちからって?」
私は中西の顔を見た。
「この先に児童公園があるやろ?」
中西に指差された方向を見ると、葉が落ちた木が、整然と並んでいる一角が目に入った。
「あの公園、この家の裏手まで広がってんねん。壁も一部共有してるみたいやし。そっからやったら、中の様子が見られるんちゃうかな」
「ほんまですね。こっからやったら見えるかもしれへん」
峰山が頷く。
「ほんなら、行ってみようや」
私達は、公園を目指して歩き始めた。
(4)
「この辺りですね、家と公園の境目は」
峰山が、顔にかかる木の枝をはらいのけながら、振り返る。
「そうみたいね。でも、中は見えないか」
手入れされていない木々の枝と格闘しつつ、ようやく目的の場所にたどりついた。
「やっぱり、高い壁が囲んでますね。上には鉄条網も絡み付けられてるし。監獄みたいや」
峰山が苦笑する。
「そら、そうでもせな、ドロボウが入るやろ」
中西が、手にしていた地図をカバンに戻しながら笑う。
「せやけど、中を覗くくらいのことはでけへんやろか。鉄条網に触らんようにして」
「そうですね。誰かが肩車でもすれば覗けそうですね」
峰山が頷いて、私の方を見た。
「僕が持ち上げますから、近藤さん、乗って下さいよ」
「え? 私が?」
驚いて峰山の顔を見る。
「おお、そうやな。僕よりは確実に軽そうやし、後ろから落ちんように支えといたるわ」
「本気で言ってるの?」
再度確認してみたが、2人はいたって真剣なようだ。
「さあ、どうぞ」
峰山が壁に向かってしゃがみ込む。中西に促され、躊躇しつつも、私はパンプスを脱いだ。そっと峰山の肩にまたがる。
「ほんなら、行きますよ。よいしょ」
峰山が、かけ声と共に立ち上がった。中西が私の背後で2人を支える。
「どうや? なんか見えるか?」
「うん。警察の人達がウロウロしてる」
「他に何か見えへんか? 事件の真相に行き当たりそうなことは」
中西に言われ、少し身を乗り出す。私の足をつかむ峰山の手に、少し力が入ったのがわかった。
「そうねえ、池の横の灯籠っていうの? あれが邪魔で、部屋の中まではちょっと……」
その時、不意に背後から大きな声がかかった。
「君達、そこで何をやってるんや?」
「うわっ!」
悲鳴と共に、峰山がバランスを崩す。
「ちょっと、あっ」
私もバランスを失い、そのまま後ろへひっくり返った。後ろで支えてくれていた中西が、私を抱きかかえるようにして地面に倒れる。事態がつかめるまで、私達はしばらく動けずにいた。
「すんません、大丈夫ですか?」
峰山の申し訳なさそうな声に、ふと我に返る。大急ぎで起き上がって振り返り、下敷きになっていた中西の顔を見た。
「大丈夫?」
私の問いかけに、中西は寝転がったまま微笑んだ。
「おう。下に枯れ草がいっぱいあって、助かったわ」
「ごめん、ありがと」
私は中西にお礼を言うと、立ち上がろうとした。しかし、腰に痛みが走り、立ち上がることができない。
「ほら」
カバみたいに鼻の穴の広い、顔中ひげだらけの大きなおじさんが、私の手をつかみ、立ち上がらせてくれた。どうやら、私達に声をかけてきた人らしい。
「どうも」
何とか立ち上がると、腰をさすりながら、軽く頭を下げた。
「ほんまにすんません」
私の後ろでは、峰山が中西の手をひっぱり、起き上がらせたところだった。
「ふう」
中西は、その場に座ったまま、手についた枯れ草をはらっている。
「大丈夫か?」
ひげだらけのカバに支えられ、中西もどうにか立ち上がった。
「頭は打ってないんで、大丈夫やと思います」
背広の背中に枯れ葉をいっぱいつけたまま、中西が彼に頭を下げる。と、カバが私の方を見た。
「お姉ちゃん、ようお礼言うとかなあかんで。このお兄ちゃんがおらんかったら、君、しこたま後頭部ぶつけて、えらいことになっとったで」
あんたがいきなり声をかけてきたからこういうことになったんだろうと思いつつも、私は中西に頭を下げた。
「ほんと、ありがとう」
「ええって。気にせんとってくれや」
中西が顔の前で右手を振る。
「ところで、君達、ここで何をやってたんや?」
「何って……。あなたこそ、なんでこんな所に?」
私はひげだらけのカバに尋ね返した。
「何でって、仕事やね。ほら」
彼の手に握られていたのは、黒く輝く警察手帳だった。
「高槻中央署の樋口や。――ただの野次馬がここまでするとは思えへんし、マスコミにしてはカメラも何も持ってへんし……。一体、何をしてたんや?」
「いえ、ただの野次馬がここまでしただけです」
私が微笑みながらそう答えると、中西と峰山が何度も頷いた。
「でも、君達、地図を見て何やら話し込んでたやろ? 気になって、後をつけてきたんや。そんないい訳が通用するとでも思ってるんか?」
樋口という名のカバ……もとい、刑事に凄まれ、思わず尻込みする。
「とにかく、話を聞かせてもらおうか。来なさい」
その威圧的な雰囲気に、私達はしぶしぶ、彼の後を付いていくことにした。
(5)
「昨夜の12時頃? 家にいましたけど」
私は高槻中央署の一室で、1人で取り調べらしきものを受けていた。他の2人も別室で事情を聞かれていたようだが、もう既に帰されたらしい。
「それを証明できる人は?」
樋口刑事に尋ねられ、私は首を横に振った。
「いるわけないじゃないですか。一人暮らしなんですから」
中西と峰山と共に夕食を食べ終えた後、私はすぐに家に帰った。帰宅したのは、たしか午後9時頃。それからは当然、1人で過ごすしかない。
「他の2人と別れたのが午後8時半。それから高槻に向かえば、死亡推定時刻には間に合うはずやね」
「だから、ちゃんと家に帰りましたって。市バスを使いましたから、その時の運転手さんに確認してみて下さいよ。それに、バス停からの帰り道にあるコンビニににも立ち寄ったんです。そこの防犯ビデオでも確認できるでしょ?」
私はうんざりして答えた。
「仮に、家に着いたのが午後9時やったとしても、それからすぐに出かければ、午後11時には現場に到着できるやろう」
ひげ面の刑事は、なかなかしつこい性格のようだ。
「何でわざわざ、そんなややこしいことをしなくちゃいけないんですか? 夕食を取ったフォルクスは、北川駅のそばにあるんですよ。高槻に行きたいなら、そこから地下鉄を使ってます」
「それなら、どうして今日、あんなところでウロウロしていたんや?」
「ウロウロって……。たまたま用事があって通りかかったら、何かの事件があったみたいだから、覗いていただけです」
「ほんまか? 君らが、事件に関わってるからやないんか? はっきり言うといた方が、君自身のためやで」
「関わってませんって」
何としても岡村のことは話したくない。私はとにかく、野次馬で通すことにしていた。
「ほんなら、その『用事』っていうのは何や?」
「そんなこと、言う必要はないでしょ? たしかに、あんな所から家の中を覗き込んだことは謝ります。でも、事件のことは、あの人だかりを見て初めて知ったんですから」
私がそう答えると、樋口刑事はハアッと大げさに――この人は、何をやるにも仰々しくなるようだ――溜息をついた。
「夜中の12時頃、あの家から女の悲鳴が聞こえてきたらしい」
「女の悲鳴、ですか?」
私が聞き返すと、樋口刑事は大きな声を出した。
「何をとぼけた顔をしてるんや。お前なんと違うんか!」
「何で私なんですか。関係ないって、さんざん言ってるじゃないですか」
負けじと大声で言い返す。と、彼はぐっと、そのひげ面を私に近付けて言った。
「現場から見つかった靴跡の形と模様が、お前の履いているパンプスと一致しているんや。残されていた靴跡には血痕が付着していた。お前の靴から血液反応が出れば、しらばっくれることもできなくなる。強がっていられるのも今のうちだけや」
私は、足元のスリッパを眺めた。それでさっき、このカバさんは、勢い込んで私のパンプスを奪い去って行ったのか。
話す気力も無くなり、椅子の背もたれに身体を預ける。すると、樋口刑事は、私の正面に置かれた椅子にどっかり腰かけた。
「どうや。観念して話す気になったか?」
その勝ち誇ったような顔に腹が立ち、私は口を開いた。
「なりませんよ。話すことなんて元から何もないんですから」
「まあ、時間はたっぷりある。中西と峰山の事情聴取はもう済んだし、あとはお前だけやからな」
樋口刑事のその言葉を聞き、ふと不安がよぎる。
中西は取り調べを受けた経験があるので、つるっと口を滑らすようなことはないだろうが、峰山は初めてのはずだ。ここに連れてこられる時にもかなり青い顔をしていたし、もしかしたら、うっかり岡村のことを話してしまっているかもしれない。
「あの……2人はもう帰ったんですよね?」
「おお。2人とも昨夜のアリバイはしっかりしていたし、すぐにウラも取れたからな」
樋口刑事は、もさっとした顎髭を触りながら続けた。
「ただし、あの公園にいた理由についてはなあ。中西はお前と同じく、用事があったついでに立ち寄っただけやと、そう言い張っとった。どれだけ追求しても、その内容を答えなくてな」
さすが中西。心の中で微笑む。
「しかし、峰山は……」
「峰山君は?」
どきどきしながら、先を促す。
「最初はゴチャゴチャ言うとったけどな。厳しく追求したら、ついにほんまのことを話しよったわ」
やっぱり。絶望的な気持ちになり、私は小さく溜息をついた。
「自分と中西は、お前の用事に付き合わされただけやから、内容まではわからない、とな。つまり、お前がすべての黒幕というわけや」
樋口刑事は満足気に微笑むと、私の方を見た。
「は? 私の用事? 黒幕?」
思いがけない言葉に聞き返す。
「そうや。まあ、そういうことで、こうやってお前からゆっくり話を聞いとるというわけや」
岡村のことを口にしなかった点は、大いに褒めてあげよう。しかし、私を黒幕に仕立て上げるとは……。峰山め、覚えておけ。
「何か言いたいことはないか?」
こぶしを握りしめる私に向かい、樋口刑事が得意気な表情で尋ねてくる。一刻も早く疑惑を取り除きたいところだったが、この勘違い振りではかなり時間がかかりそうだ。私はとりあえず、先程から気になっていた点を質問することにした。
「悲鳴も靴跡も女性、ってことは、犯人は女性と見て間違いなさそうですね?」
「そら、その可能性が高いな。……ちょっと待て。質問してるんはこっちや。なんでお前が……」
樋口刑事にすごまれたが、私は無視して続けた。
「被害者の奥さんはどうされてたんですか? 事件が起こった時」
「奥さんは、5年ほど前に亡くなってる。自殺や」
「自殺? 原因は何ですか?」
私は身を乗り出して尋ねた。
「娘さんが亡くなられたショックでって話やったな。遺書にもそう書かれてたそうやし。って、おい、お前はほんまに……」
「5年前……」
怒りに顔を赤くするカバを横目に、私は腕を組んで考え込んだ。娘を施設に預けていた母親が、その娘の後追いなどするだろうか。
「おい、聞いてるのか」
目の前の机が音を立てた時、背後でまたドアがノックされた。
「何や、まったく」
大声で悪態をつきながら、彼はドアの方へと歩いて行った。ドアを開ける音がして、男性の声が聞こえてくる。
「あの、結果が出ました」
彼の手には、私のパンプスがぶら下げられていた。
「おっ、どうやった?」
樋口刑事が、待ってましたとばかりに尋ねる。
「この靴から、血液反応は出ませんでした」
「ほんまか? よく調べたんか?」
樋口刑事が、落胆の色を隠そうともせず尋ね返す。ドアの向こうの男性は、パンプスを彼に手渡しながら頷いた。
「ええ。間違いありません。それに、残された足跡に比べて、サイズも1cmほど大きいようです」
「そうか。サイズも……」
だから、違うと言っただろうが。
ドアが閉まると、彼は、私の足元にパンプスを置いた。
「この靴は違うみたいやけど、履き替えたってことも考えられるからな」
「履き替えたって……。サイズが1cmも違うんでしょ? それに、私、パンプスなんて、この1足しか持ってないんですよ。なんなら、家宅捜索でもされますか?」
まったく、しつこいおっさんだ。私がパンプスに足を入れながらそう言うと、彼は鼻を鳴らしながら言い返してくる。
「そんなもん、疑いを逸らすために、わざとサイズの違う靴を履いたんかもしれへん。それに、パンプスなんて捨ててもうたらそれまでや。そんなもん、なんとでも考えられるやろうが」
口答えするのもバカバカしくなり、私は黙ったまま、脱いだスリッパを彼に返した。
「まあ、いずれにしても犯人は女や。お前も容疑者の1人ということだけは、忘れるなや」
ひげ面のカバは、鼻の穴をさらに膨らませてそう言い放った。
(6)
「ほんとにもう、犯人扱いするなんて、失礼しちゃう」
その後もさんざん絞られ、ようやく解放されたのは、太陽が西に傾きかけた頃だった。怒りを全身にみなぎらせながら門に向かって進んで行くと、所在なげに立っている中西が目に入った。
「あ、中西君」
私は小走りに彼の方に向かった。声に気付いた中西が、こちらを見て片手を上げる。
「無事に釈放されたか」
「うん。待っててくれたの?」
私が微笑むと、彼も微笑み返してきた。
「あれ? 峰山君は?」
峰山の姿が無いことに気付き、中西の顔を見る。
「車の中で待ってるわ」
振り返った中西の視線を追うと、さんざん見慣れた白いデミオの中から、小さく頭を下げる峰山が見えた。
「かなり反省してるみたいやで」
中西は小声で耳打ちすると、車に向かって歩き出した。私もその後を追う。
「すんませんでした。ほんまに」
車の近くまで来た時、峰山がドアを開けて降りてきた。顔の前で両手を合わせている。
「拝んだってダメ!……って言いたいとこだけど、待っててくれたから許してあげる」
私が微笑むと、彼はほっとしたように両手を下ろした。
「まあ、何にしても、無事に釈放されたんやからよかったわ。なあ」
中西に促され、後部座席に乗り込む。峰山は私の横のドアを閉めると、運転席に腰を落ち着けた。
「で、何か情報は得られたんか?」
助手席に座ってシートベルトを付けながら、中西が尋ねてくる。
「夜中の12時頃に女性の悲鳴が聞こえたことと、現場にパンプスの跡が残ってたってことかな。犯人が女性だってことは確実みたいね」
「え? そうなんか?」
中西が振り返る。
「俺は、犯行時刻が昨夜の12時頃やって話しか聞かされてへんかったからな。――そうか。女ってこともあって、今まで絞られとったんやな」
「なんか、そのパンプスの底の模様が、私のと同じだったらしくてね。血液反応が出ないか検査されてたの。それで、なかなか帰してくれなかったみたい」
「で、血液反応は出たんですか?」
峰山が、バックミラー越しに、とぼけた質問をしてくる。
「出たら帰してもらえないでしょ」
私は続けた。
「しかも、サイズも私より1cm小さかったみたい」
「お前の足、デカくてよかったなあ」
中西が茶化すように言う。
「そう言えば、近藤さんの足、迫力ありますもんね」
峰山が同調した。
「たったの25cmです」
私は、少しふてくされて答えた。女モノでこのサイズを探すのがどれだけ大変なことか、この男性陣2人にはわかるまい。
「ということは、犯人の足は24cmか」
中西は、顎に手をあてて頷くと、思い出したように言った。
「あ、そうや。さっき、安永さんが入って行ったんや。俺は、ちょうどこの車の中にいてたし、向こうは気が付きはらへんかったけどな」
「そう。いつ頃?」
私は身を乗り出して尋ねた。
「お前が出てくるほんの少し前やで。すれ違わへんかったんか?」
「うん。気が付かなかったわ」
「そうか。えらい早足で建物の中に入っていきはったしな。話を聞こうと思って大急ぎで車から出てんけど、つかまえきられへんかった」
「そっか。前の2つの事件と、なんか関係があるってことなのかな?」
「事故死した宮本佳奈子の父親ですしね。念のためって感じと違いますか?」
峰山が明るく答える。
「そう……よね」
私は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
(7)
どうしたものだろうか。私は、テーブルの上に置かれた小刀と茶封筒を前に、あれこれと考えを巡らせていた。安永刑事が高槻中央署に現れたということが、どうしても気にかかる。
ファイルの内容を見直そうと茶封筒を手に取った時、インターホンが鳴った。時計の針は午後9時を差している。この間、「カナコ」が現れた時間だ。私は立ち上がった。
覗き穴から外を見ると、そこには安永刑事が立っていた。カギを開けようとして、はたと手を止める。――あの資料を隠さなくては!
私は返事をせずにそっと部屋に戻り、小刀を茶封筒の中に放り込んだ。この殺風景な部屋のどこに隠せばいいものか。パニックになりそうな気持ちを抑えながら、部屋を眺めまわす。と、その時、またインターホンのベルが鳴った。
「はい」
今度は大きな声で答えると、私は茶封筒をベッドの敷き布団の下に押し込んだ。不自然に見えないよう、掛け布団を整える。大きく深呼吸をして、再び玄関に向かった。
「こんばんは。夜分に申し訳ないね」
ドアを開けると、安永刑事が笑顔で立っている。
「あ、いえ、部屋の中が散らかっていたもんですから」
私がドアを大きく開けると、彼は中に入ってきた。
「ちょっと話があるねんけど……いいかな?」
「ええ、どうぞ」
私は、彼を部屋の中へと招き入れた。
(8)
「近藤さん達に初めて会ったのは、3年前やったね。殺人現場に居合わせた近藤さんと岡村君から、僕が話を聞いて」
「そうでしたね。高橋さんはお元気ですか?」
当時お世話になった愛知県警の高橋刑事の顔を思い浮かべて、私は尋ねた。彼は安永刑事の従兄弟でもある。
「ああ。あいつなら、この秋に結婚してね。お相手は、前にうちの署にいてた富田さんや」
「え? あの富田さんですか? ほんとに?」
3年前の事件でお世話になった富田刑事の顔を思い出しながら、安永刑事の顔を見た。
「おお。実は、あの2人、3年前の事件がきっかけで仲良うなったみたいやで」
「それなら、私がキューピット役を果たしたようなもんじゃないですか。――にしては、お礼がないなあ」
「今度、会うた時に言うとくわ。近藤さんのところに、ご挨拶に伺うようにってね」
「菓子折もお忘れなく、とお伝え下さいね」
私の言葉に安永刑事はひとしきり笑うと、テーブルの上に置いてあったマグカップを手に取った。私も、同じようにカップを持ち上げ、コーヒーをすする。
「さて、本題に入ろうか」
安永刑事がカップを置いた。
「ええ。なんでしょうか」
「今日、高槻で宮本佳奈子の父親が殺されたのは知ってるね?」
私は頷いた。
「そうやろうな。君は現場にいたそうやからね」
私が何も言わずにカップをテーブルに戻すと、彼は続けた。
「宮本氏が殺害された現場には、『高山堂』の切り出し小刀が落ちていた。『K・M』というイニシャルが入っていて、使い込まれたものやった。そのことについて、近藤さんはどう思う?」
――岡村さんが隠していたものの他に、使い古された「K・M」の小刀があったの?
私の混乱を察したのか、安永刑事は畳み掛けるように続ける。
「今回の凶器には、2種類の血液が付着していた。ひとつは被害者と同じA型。そして、もうひとつはO型や」
「O型?」
私は聞き返した。
「刃と柄の間の部分にね。――岡村君もO型やろ? 彼の小刀は発見されていないし、今回見つかった凶器は、岡村君のものと考えるのが自然やと思わへんか? 以前、使っていた時に誤って指か何かをけがした。その血液が付着していた。ね、辻褄は合うやろう?」
「そんなはずありません」
私は安永刑事の顔を見た。
「だって……」
彼の小刀は今、ここに……そう言いかけて、言葉を飲み込む。安永刑事が、鋭い一瞥をくれた。
「だって、何や?」
「だって……あの、今回の事件の犯人は女性なんですよね? だったら、岡村さんのものじゃないに決まってるでしょ? それに、その……岡村さんは病院にいたわけだし、犯人なわけがないし」
しどろもどろで答える。と、彼は私の顔を見た。
「岡村君が、自分の小刀を使って、共犯者に殺させたという筋かって考えられる」
「共犯者? もう、いい加減にして下さい」
思わずテーブルを叩くと、安永刑事は穏やかな声で言った。
「今日、念のため、山田にラグビー部の部室を探らせたんや。そしたら、そこに住み着いてる学生から、思わぬ話を聞かされてね。近藤さん達、岡村君のロッカーから何かを持ち出していったそうやね」
私は一瞬、言葉を詰まらせた。
「一体、何を持ち出したんや?」
「本です。岡村さんにお貸ししていた本が必要になったので、取りに行ったんです」
平静を装い、どうにか答えを返す。
「ほんまか?」
「ええ。もちろんです」
私は頷いた。
「でも、彼には『岡村君から頼まれたものがある』と言ったそうやないか」
しまった。顔に血が上るのを感じたが、誤魔化そうと必死で答える。
「勝手に持ち出したと思われたら困るから、そう説明しただけです」
「そうか。なら、そういうことにしておこうか」
見透かされている目だ。私は思わず顔を背けた。安永刑事は少しの間黙っていたが、やがて口を開いた。
「近藤さん達の前に現れた『カナコ』が、今回の殺しの実行犯やとは思わへんか? 岡村君が『カナコ』に命じて、宮本さんを殺させた」
「バカバカしい」
私は、吐き捨てるように言った。
「しかし、高槻の現場では数日前から、赤いコートに赤い髪の毛の、サングラスをした女がうろついていたという情報もある」
「は?」
私は彼の顔を見た。
「そんな格好、誰だってできるじゃないですか。それが私達の前に現れた『カナコ』さんだなんて、どうして言えるんですか?」
「それや。そんな格好をしたら、誰でも宮本佳奈子に見えるんや。まあ、幽霊なんてもんがいてるわけはないし、誰かが騙っているには違いない。事実、宮本佳奈子はエルメスの靴しか履かなかったのに、今回の現場で見つかったのは『靴の安売り王』オリジナルのパンプスの跡やった。そこまで真似することはできなかったっちゅうことやろうね」
「靴の安売り王」のパンプス。――そうだ、「カナコ」は私と同じ「靴の安売り王」のパンプスを履いていた。これは偶然なのだろうか。
「やらなアカンこと……」
私は、あの時「カナコ」が言った言葉を思い出していた。あれは、宮本平吉を……彼女自身が騙っている宮本佳奈子の父親を殺害することだったのか。しかし、そのことが岡村のためになるとは、一体どういうことなのだろうか。
私は顔を上げた。
「岡村さんの記憶は戻ったんですか?」
「いや、戻っていない……というより、戻っていないフリをしている、と言った方が正確やろうね」
「で、今回の事件のことは?」
「伝えたよ」
安永刑事は、小さく溜息をついて続けた。
「でも、何も言わへんね」
「『カナコ』さんについては、何て?」
「5年前に亡くなった宮本佳奈子以外に、『カナコ』なんて人物は知らん、と、こうや」
私は目を閉じた。岡村は、なぜ頑なに口を閉ざすのか。やはり、事件のことを何か知っているのだろうか。これ以上黙秘を続けることが、岡村にとっていいことだと言えるのだろうか。
「――全部お話しします」
私は目を開けて、安永刑事をまっすぐに見つめた。
「でも、その前にお願いがあるんです」
「何や?」
安永刑事も、私の目を見つめ返す。
「明日、岡村さんに会わせていただけませんか? 直接話を聞きたいんです。そしたら、全てをお話しします」
「できへんと言ったら?」
「お話しないだけのことです」
私がきっぱり答えると、安永刑事は険しい顔で腕を組んだ。