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  作者: 深月咲楽
3/9

第3章

(1)


 私と中西は、南山科署の応接室に並んで座っていた。

 洛北署に行ってみたところ、安永刑事はこちらにいるとの話だったのだ。峰山は私達をここまで車で送ってくれた後、バイトがあるということで、しぶしぶ帰って行った。

「安永さんに会うのん、久しぶりやなあ」

 中西が、少し緊張した面持ちでつぶやく。

「安永さん、全然変わってなかったよ」

「そうか」

 中西はそう言うと、目の前に置かれたプラスティックのカップを持ち上げた。

「それにしても、岡村さんが疑われてるなんてなあ」

 峰山の車の中で、私は、今朝、安永刑事から聞かされた話を説明していた。

「血痕の付いたハンカチを隠すなら、もっといくらでもいい場所があるやろう。っていうか、僕やったら焼き捨てるわ。それが一番確実な隠滅方法やろ?」

「たしかにそうよね。今日、岡村さんが転落した現場に行ってみたんだけど、好んで柵を越えようなんて、到底思えない場所だったし」

「どうしても納得でけへんな」

 中西は、手にしていたカップに口を付け、コーヒーをすすると、私の方を見た。

「あの『カナコ』って女も、気になるしなあ」

「ほんとね」

 岡村について何も知らないとは、一体どういう意味なのか。岡村が私の手の届かないところに行ってしまったような、何とも言えない感情に押しつぶされそうになる。

「おう」

 元気のいい声と共に、安永刑事ともう1人の男性が部屋に入って来た。慌てて立ち上がる。

「洛北署に行ったら、こちらだってお話だったので」

 私が言うと、安永刑事は微笑んだ。

「わざわざ悪かったね。――中西君、元気そうやな」

「ええ。その節はどうも……」

 中西が、こわばった顔で頭を下げる。

「いや、こちらこそ、お世話になったね」

 安永刑事は中西にそう言うと、後ろに立っていた男性を振り返った。

「こいつは、南山科署の内海や。近藤さんは、会ったことがあるんかな?」

「あ、ええ」

 驚いて顔を見る。以前、岡村の病院で会った時にはなかった無精ひげのせいで、内海刑事とは気付かなかった。

「ああ、ごめんなさい。このところ、署に泊まり込みやし……」

 私の視線に気付いたのか、内海刑事は顎をさすりながら軽く頭を下げた。

「泊まり込みって、ひげ剃る時間くらいあるやろ」

 安永刑事はそう言うと、私の方を見る。

「こいつ、こんな顔してめんどくさがりでね。全然、モテへんねん」

「お前にだけは言われたないわ」

 内海刑事が、安永刑事の腕を突いた。同期だという話は聞いていたが、かなり仲がいいらしい。

「あ、ごめん。座ってな」

 安永刑事が、椅子を差しながら言う。

「じゃあ、失礼します」

 私と中西は、言われるままに腰を下ろした。私の前に安永刑事が、そして、中西の前に内海刑事が腰掛ける。

「で、今日は岡村君のことやね」

 安永刑事が、早速本題に入った。

「ええ」

 私は頷いた。

「さっき、テレビで、南山科の事件と岡村さんが関わってるって言ってて……」

「ああ。もう流れてるんやね」

 安永刑事が、テーブルの上で手を組んだ。

「実は、凶器が見つかってもうてねえ」

「凶器、ですか? あの、タオルと別々に隠したっていう?」

 私は身を乗り出した。

「いや、隠してへんかったんや。南山科の方の現場で発見されたんやけどね」

 安永刑事が、ちらっと内海刑事を見る。

「これです。O型とAB型、2種類の血液が付着していましてね」

 内海刑事は、手にしていた巾着袋の中からビニール袋を取り出した。中には、木製の柄の付いた小さな刃物が入っている。

「今、被害者達のものと一致するかどうか、鑑定している最中なんです。血液型は合致しているし、まず間違いないと思うんですけどね」

「でも、タオルには一種類の血液しか付着してなかったんですよね?」

 私は尋ねた。

「ああ。おそらく、上賀茂橋で高岡さんを殺害した後、血液の付いた凶器をタオルにくるんで、南山科に行ったんやろう。そして、その凶器を使って、本村さんを殺害した。凶器は、被害者の身体に刺さったままになっていたんや。つまり、タオルしか見つからなかったことも、そのタオルに1種類の血液しか付着していなかったことも、説明できることになる」

 安永刑事が答える。

「本村さん?」

「ああ。南山科で殺害されていた被害者や。本村卓治。35歳、無職。去年の1月まで、道路交通法違反と窃盗で服役していた」

「道路交通法違反と窃盗?」

 私は更に尋ねた。

「1997年の8月、盗難車で人を跳ねたんやけどね。車を盗んだのがバレるのを恐れて、逃げてもうたみたいやな」

 安永刑事が言う。

「ひき逃げの方が、車を盗むより罪が重いでしょう? わけわからんな」

 中西が首を傾げる。

「よくある話や。飲酒がばれるのが怖くて、轢いた人間を放置するとかね」

「アホやなあ、ほんまに」

 安永刑事の話を聞き、中西は呆れたように苦笑した。

「でも、その本村さんと岡村さんとの間には、どういう関係が?」

 私は安永刑事に尋ねた。

「今、調べている最中やねんけどねえ。今のところ、まだよくわかれへん状態やね」

「それなら、なんで岡村さんとの関連なんて?」

「この凶器や」

 安永刑事が、ビニール袋に入った刃物を指差した。


(2)


「これって、切り出し小刀ですよね?」

 中西が尋ねる。

「ああ。そうや。鉛筆を削るのに使われるものらしいね」

 安永刑事が答えた。

「せやけど、こんなに小さい刃物で、人を殺せるものなんですか?」

 中西が不思議そうに尋ねる。

「刺す場所にも寄るやろうけど……。ひと刺しで致命傷を負わせられるかと言えば、確実にとは言いにくいかもしれへんね。ただ、被害者は2人ともメッタ刺しされとったんや。あれだけ滅茶苦茶に刺すとすれば、十分殺傷能力はあるやろうな」

「メッタ刺し……」

 私が刃物を見つめていると、安永刑事は続けた。

「傷口も、この小刀と一致している。これが凶器と見て間違いないやろうね」

「でも、この小刀、岡村さんとどういう関係が?」

 中西が身を乗り出す。

「柄の部分をよく見てほしいんですんけどね」

 内海刑事がビニール袋の上から、木製の柄を指差した。

「焼き印がありますね。『高山堂』って」

 気が付いて内海刑事を見ると、彼は頷いた。

「岡村さんの父親、豊さんの友人が経営している刃物屋なんですよ。その人の話によると、若草園では、入園して来た園児にこの小刀を渡して、手で鉛筆を削るよう練習させていたそうなんです」

 内海刑事が説明を続ける。

「この小刀は、豊さんが考案したものらしいんですよ。子供の手にも合うように、標準のサイズよりも少し小さめに作ったらどうやろうか、ってことで。他に、安全面での配慮もあったと思いますが」

「でも、考案したってだけなら、お店でも扱っていたんじゃないんですか? それだったら、何も若草園で配られたものとは限りませんよね? 購入者を調べたら、すぐに分かる話なんじゃないですか?」

 私は尋ねた。

「それが、小さいお店で、防犯ビデオも付いていなくて……。おまけに、その形の小刀、結構売れる商品らしいんですよ。そちらの方から特定するのは、かなり難しいですね」

「まあ、殺された高岡さんと岡村君、両方ともが若草園に関係しているわけやからね。偶然、その若草園で配られていた『高山堂』の小刀が使われたとは、ちょっと考えにくいと思うねんけど」

 内海刑事の後を安永刑事が引き継ぐ。私は反論する言葉が見つからず、口をつぐんだ。

「にしても、児童養護施設で小刀を配るって……こんなこと言うたらアレですけど、色々、問題のある子供もいてますよね? それやのに、刃物を?」

 中西が不思議そうに尋ねる。

「ああ。岡村豊さんの教育方針やったみたいやね。あえて刃物を持たせることで、傷つくことの痛みや、人に対する気遣いを教えようとしていたらしい」

 安永刑事は続けた。

「人に刃先を向けてはいけない、手渡す時には柄の方から……当たり前のことやけど、実は、相手に対する気遣いがあるからこそ、できる行動やろ?」

「たしかに、そう言われてみれば、そうですね」

 中西は頷いた。

「信じているからこそ、凶器としても使える刃物を渡すことができる。――施設には、様々な理由で、他人とコミュニケーションをとれない子供も多いらしいんや。こうやって小刀を渡すことで、人間関係で最も大切な『信頼』というものを、無言の内に教えてはったんちゃうかって、『高山堂』のご主人が言うてはったよ」

「なるほどなあ。『信頼』を教える、か」

 中西が、納得したように頷いた。

「せやけど、岡村さんは園児ではなかったんですよね? なのに、小刀を持ってはったんですか?」

「ええ、おそらく」

 内海刑事は、手帳を開いて中西の方を見た。

「若草園が開園してからこれまでの間、預かっていた園児は全部で63人。高山堂に岡村豊さんから注文された小刀の本数は64本。1本多いんですが、この1本が岡村さんの手に渡っていたのではないかと考えられます。若草園の方も隈無く調べて回ったんですけど、見つかりませんでしたしね」

「そんなバカな」

 私は身を乗り出した。

「他の63人の園児のうちの誰かってことは、考えられないんですか?」

「それが、この小刀には、使われた形跡がまったくなかったんですよ。園児達は、普段からこの小刀でエンピツを削っていたそうですから、この小刀の持ち主は、持っていながら使っていなかった人物、ということになります」

「児童養護施設って、18歳までの子供を預かるんですよね? もし、高校生を預かったとしたら、シャープペンを使うことがほとんどでしょうし、小刀を利用することはないんと違いますか?」

 中西が尋ねると、内海刑事は答えた。

「若草園では、小学生と中学生しか預かっていませんでした。もちろん、成長して高校生になる場合もありますがね。若草園の生徒達が通っていた小学校や中学校は、シャープペンは禁止になっていたようですし、園児は必ず、あの小刀を使っていたと思われます」

「あの、園児の方達は、全員その小刀を持っているんですか? 例えば、無くしてしまって代わりに1本もらったとか、そういうことは?」

 私はすがるように尋ねた。

「園児には一通り確認しましたよ。1人を除いて全員、手元にあることが確認できました。まあ、中には亡くなっている園児もいて、遺族が持っているというケースもあったんですけどね」

「1人を除いて?」

 中西が尋ねる。

「ええ。交通事故で亡くなっていましてね。でも、今、どこにあるかわからないというだけで、小刀を使用していたことは確実なようです」

「ちょっと、見せていただいていいですか?」

 中西が、凶器の入ったビニール袋を指差して尋ねた。

「ああ、ビニールの上からでよければ、どうぞ」

 安永刑事がビニール袋を中西に手渡した。

「すみません」

 彼は受け取ったビニール袋を手に、中の小刀をじっと見つめている。

「指紋は出て来たんですか?」

 私が顔を上げて尋ねると、安永刑事は首を横に振った。

「いや、拭き取られていたみたいでね。出て来なかった」

「そうですか」

 私が頷いた時、中西が驚いたように顔を上げた。

「このイニシャル、何ですか?」

 小刀の裏側をこちらに見せながら、柄の端の部分を指差している。覗き込むと、そこには黒いペンで「K・M」と書かれていた。

「これ、岡村さんのものと違うやないですか。岡村和彦やねんから、『K・O』や」

「そうですよ。なんでこんなにわかりやすい証拠があるのに、岡村さんのものだなんて?」

 私も安永刑事の方を見た。

「彼の旧姓は『水沢』やねん。その頃にこのイニシャルを書き込んだとしたら、『K・M』の説明がつく」

「旧姓?」

 中西と顔を見合わせる。

「岡村君は、岡村夫妻の養子なんですよ」

 内海刑事が話し始めた。

「中学3年の時、当時彼の担任教師だった岡村豊さんの所にもらわれはるんです」

「じゃあ、それまでは?」

 中西が険しい顔で尋ねる。内海刑事は、手にしていた手帳をめくった。


(3)


「岡村さんが5歳の時に、両親が離婚。最初は父親の所に引き取られていますが、小学校の5年生の時に交通事故で亡くなってしまったようですね。当時再婚していて、既に子供もいた母親は、彼を引き取ることを拒否したそうで……。

 結局、親戚中をたらい回しにされていたみたいです。そして、その様子を見兼ねた岡村豊さんが、彼を引き取ったというわけなんですよ」

「岡村君は、とっても真面目で優秀やったらしいんや。しかし、親戚に迷惑をかけるわけには行かず、高校進学を諦めようとしていた。そこで、子供がいなかった当時の担任、岡村豊さんが、彼を自分の養子にし、教育を受けさせたというわけや」

 安永刑事が、内海刑事の後を引き継ぐ。

「岡村夫妻と岡村君は、実の親子以上に仲がよかったらしくてね。園児でさえも、彼が養子やと知らない子も多かったようやね」

「そうやったんですか」

 中西がうつむく。

 私は、以前会ったことのある岡村の母親を思い出していた。お互いにからかい合ったりしていて、本当の親子だとばかり思い込んでいた。

 あの「カナコ」が言っていた通り、私は岡村のことを何も知らなかったのだ。

「でも、若草園が開園したのって、岡村さんが高校を卒業した年だってお話でしたよね? それだったら、やっぱりイニシャルは『K・O』じゃないんですか?」

 私はかろうじて口を開いた。

「大阪の高校は学区制や。中学の同級生も多いからね。岡村君が改姓したのは、大学に入学する時やったんや。せやから、受け取った当時、旧姓のイニシャルを書き込んだ可能性は捨て切られへんね」

 安永刑事が私を見て答える。

「可能性が捨て切れないからなんて……」

 弱々しく反論する私に、今度は内海刑事が話しかけた。

「どちらの現場からも、男性が走り去る姿を目撃されていましてね」

「男性の姿? 顔が見えたんですか?」

「いや。でも、岡村君やないとは言い切れませんよね?」

「たしかにそうですけど……」

 反論するのも虚しくなり、私はうつむいた。

「あっ、なあ、あの女」

 それまで黙り込んでいた中西が、突然私の腕をつかんだ。私は驚いて顔を上げた。

「何?」

「ほら、あの『カナコ』って女や」

「ああ。言われた通りだったわね。何にも知らないって……」

「いや、そんなことはどうでもええねん。今、問題なんは、あの女の正体や」

「え?」

 よく意味が分からず聞き返す。2人の刑事は、怪訝そうな顔で私達の方を見ていた。

「あの、昨日、変な女がうちの大学に来たんですよ。真っ赤な髪してサングラスかけて、ごっつい高そうなバッグ持って……」

「その女がどうかしたのかい?」

 安永刑事が不思議そうに尋ねる。

「なんや、自分は岡村さんのフィアンセやとか言うて……。岡村さんのこともよう知ってるみたいでしたし、実際、事件の頃にも岡村さんと一緒にいてたみたいで」

「そう言えば、殺したのは岡村さんじゃないとか言ってたわよね」

 私は中西の方を見た。

「ああ。言うとったな」

 彼が頷くのを見て、内海刑事が口を挟む。

「ちょっと待って。岡村君には婚約者がいてたんですか?」

「本人が言うてるだけですけどね」

 中西が答える。

「あの……病院の方には?」

「面会の人は全員チェックしてるけど、女性で面会に来ているのは、近藤さんだけやで」

「私だけ?」

 安永刑事の言葉に、私と中西は顔を見合わせた。

「それで、その女性の名前、わかりますか?」

 内海刑事が尋ねる。

「『カナコ』とか言うてましたよ。なあ」

「うん」

 私が頷くと、安永刑事は困惑したようにこちらを見た。

「『カナコ』って……フルネームは?」

「いや、聞いたんですけど、言わへんかったし」

 中西が困った顔をする。

「でも、岡村さんの生い立ちとかも知ってそうやったし、多分、昔からの知り合いなんと違うかなあと」

「それやったら、中学校の同級生かなんかやろか」

 安永刑事が首を傾げる。

「いえ、7歳下だって言ってたから」

 私は中西に目で確認を取った。

「ああ、たしかそうやったな」

 中西が頷く。

「7歳下か。なんの知り合いでしょうねえ」

 内海刑事が腕を組んだ。

「あ、おい、あの小刀の行方がわかれへんかった子、名前なんやったかな? ほら、事故で亡くなったっていう」

 安永刑事が、思いついたように内海刑事の方を見た。

「名前? えっと」

 内海刑事が、手帳のページをめくり、手を止める。

「『宮本佳奈子』や」

「カナコ?」

 私は思わず聞き返した。

「『みやもとかなこ』……イニシャルも『K・M』や」

 中西は興奮気味に言うと、内海刑事の顔を見た。

「その子の小刀、行方がわからないんですよね?」

「おうちの方のお話では、佳奈子さんが亡くなった時、若草園に寄贈したと言わはるんですよ。でも、若草園を捜索しても見つからなくて。ただ、かなり使い込まれていたという話やったし、この小刀である可能性は低いですけどね」

 内海刑事が、手帳に書き込まれた内容を確認しながら答えた。

「彼女が亡くなったのが1997年。当時高校1年生やから……。岡村君の7歳下か。君達の大学に現れた女性と、年齢はぴったりやね。でも、亡くなっている人間が、現れるわけはないし」

 安永刑事が首を傾げる。

「もしかして……幽霊やったりして……」

 中西が青い顔でつぶやいた。


(4)


「えっ、それって、どういうことなんですか?」

 正面に座った峰山が素っ頓狂な声を上げる。

「ちょっと、大きな声出さないでよ」

 集まった視線を感じながら、私は唇に人さし指を当てて見せた。午後1時過ぎの学食。春休み中だというのに大学に来ている学生も多いらしく、結構な人数が集まっている。

「すんません。せやけど……」

 峰山が頭を小さく下げながら私の方を見る。

「近藤、そら、しゃあないわ。僕もあの時は、ぞっとしてんから」

 私の右隣に座っていた中西が、落ち着きなくカップをいじりながら言った。

「そうですよ。『カナコ』が幽霊やったなんて、驚くなって言う方が無理ですわ」

「誰も幽霊だったなんて言ってないでしょ。5年前に死んでいたってだけ」

 私はそう言うと、オレンジジュースの入ったペットボトルを持ち上げた。

「せやけど、ほんまにこの間現れた『カナコ』って女と、その5年前に死んだ女、同一人物なんですか?」

 峰山に顔を覗き込まれ、私は頷いた。

「うん。若草園の関係者で『カナコ』って名前の子は、1人しかいなかったそうよ。今朝、確認してきたし」

「で、写真は見られたんか? 昨日、安永さん、今日までに手に入れておくって言うてはったやろ?」

 中西に尋ねられ、私は頷いた。

「うん。見たには見たんだけど、素顔の写真だったから……。あの時は、サングラスかけてた上に、赤い髪と赤いコートに目が行っちゃって、鼻とか口とか、細かいパーツまではよく覚えてないのよね。写真の女の子、たしかにどこかで見たことがあるような気はしたんだけど、はっきりとはねえ」

「ちょっと待って下さい。どこかで見たことがあるって……。やっぱり本人やったなんて、言わんといて下さいよ」

 私の言葉に、峰山が眉をひそめる。

「たしかに、右手の甲にはやけどの痕があったらしいんだけどね」

「ほら、やっぱり本人や」

 峰山が、寒そうに腕をさする。

「で、そいつ、ヤンキーやったんか?」

 中西に尋ねられ、私は首を横に振った。

「父親に、煙草の火を押し付けられたらしいわ。虐待がすごくて、小6の時に施設に預けられたって話よ。それが若草園だったんだって」

「そうか。父親が……」

 中西が沈痛な面持ちで溜息をつく。

「岡村さんといい、その子といい、大変な生い立ちやな」

「佳奈子さん、岡村さんにとってもなついていたらしくてね。将来は、岡村さんのお嫁さんになるんだって、公言してたみたいよ」

「それで、フィアンセなんて言うたんか。あの女」

 中西が目を閉じる。

「で、その佳奈子の実家は、お金持ちだったんですかね?」

 峰山が私の顔を見た。

「お金持ち? 何で?」

 質問の意味がわからず聞き返す。

「いやいや、だって、あんなにいいバッグ、持ってたやないですか。幽霊でも、お金持ちやったら、いいもん持って出てくるのかなって」

「ああ、なるほどね」

 着眼点がちょっと違うような気がしないでもなかったが、私はその質問に答えた。

「相当のお金持ちらしいわよ。何でも彼女の父親っていうのが、全国展開で娯楽施設を経営してる社長なんだって。で、お金だけは使い放題だったみたいね」

「金渡す前に、虐待をやめろっちゅうねん。訳がわからんな」

 中西が腹立たしそうに唇を噛んだ。

「佳奈子さんは、かなり問題を起こすタイプだったみたい。小学校高学年の頃から、喫煙、飲酒。おまけに持ち物も贅沢で、革製品はすべてエルメス。洋服はほとんどがシャネル。で、髪の毛を赤く染めていた。どこにいくにもサングラスをかけてね」

「せやけど、どこに行くにもって、学校ではどうしとったんや?」

 中西が不思議そうに尋ねる。

「どうしてもはずさなかったんだって。本人は、目の下に付けられた傷を見られたくないって言っていたらしいわ。父親に付けられた傷らしいんだけど。学校の方も、事情が事情だから、特別に認めていたみたい」

「父親に付けられた傷を隠すためにサングラス、か。なんかやり切れんなあ」

 中西は溜息をついた。

「でも、私が見せられた写真には、目立つ傷痕なんてなかったのよ。むしろ、ぱっちりした二重で、とっても綺麗だった。で、不思議に思って聞いてみたんだけど……。佳奈子さん、父親から『お前の目が嫌いだ』って言われ続けてたらしくて。それで、人に目を見られることが怖くなったんじゃないかって」

「隠したかったのは、実際の傷やなくて心の傷やったってことか。可哀想な話やな」

「本当よね」

 中西の言葉に、私は頷いた。

「で、その佳奈子は何で死んだんや?」

 中西がメモを目で追いながら尋ねる。ただでさえ字が汚い私がなぐり書きした単語を読むのは、至難の業らしい。

「交通事故よ。ひき逃げだったって」

「ひき逃げか。犯人は?」

「捕まってるわ」

 私は目を閉じた。今朝、安永刑事から聞いた時の驚きを改めて思い出しながら、どうにか続ける。

「この間殺された、本村卓治って被害者。彼がひき逃げ犯だったの」

「あの、南山科で殺された人ですか?」

 峰山が驚いたように尋ねる。

「そう言えば、ひき逃げで服役しとったって話やったな」

 中西が天井を見上げた。

「また岡村さんとつながってもうたか」

「うん。警察では、岡村さんが犯人って方向で固まりつつあるみたい」

 私は、ジュースを一口流し込んだ。

「なんや、上賀茂橋では両親を心中に追い込まれた恨み、南山科ではかわいい園児を殺された恨み、か」

 中西が吐き捨てるように言う。

「ご両親、義理のお父さんとお母さんやったって話でしたよね?」

 峰山が私達の顔を交互に見る。

「そのお2人が岡村さんを養子にしはらへんかったら、岡村さんには今の人生はなかった。そう考えたら、実の両親を殺されるよりも、ずっと恨みは大きいんと違いますかねえ」

「たしかになあ。動機としては、成り立ってまうやんなあ」

 中西が溜息をつく。

「でも、岡村さんが人を殺すなんて、あり得ないわ」

 私は自分に言い聞かせるようにつぶいた。峰山が慌てたように言う。

「もちろん、僕かって岡村さんが犯人やなんて思ってませんよ。ただ、警察が疑うのもわかるような気がするって、それだけのことですし」

「僕も峰山の言う通りやと思うわ。岡村さんを知らん人が聞いたら、たしかに疑いたくなるかもしれへん」

 私は何も答えず、ペットボトルを持ち上げた。手が震えているのがわかる。

「で、岡村さん、意識の方は? 今朝も病院に行って来たんやろ?」

 私の気持ちを察したのか、中西が話題を変える。私は深呼吸をして気持ちを落ち着けると、ペットボトルをテーブルに戻して中西の方を見た。

「昨日の夜遅くに戻ったらしいわ。今朝、病院に行った時には、面会させてもらえなかったけど」

「何でですか? せっかく意識が戻ったって言うのに」

 峰山が眉間にしわを寄せる。

「やっぱり、完全に容疑者扱いってことやな」

 中西が腕を組んだ。

「容疑者扱いするにしたって、近藤さん、毎日病院に通ってはったやないですか。ちょっとくらい会わせてくれてもよさそうなもんやのに」

 峰山はまだ不服そうだ。

「せやけど、意識が戻ったんやったら、岡村さん自身が否定しはるやろ」

 中西が微笑む。

「それがね。岡村さん、何も言わないらしいのよ」

「何も言わないって、黙秘してはるってことですか?」

 峰山が驚いたように言う。

「何でや?」

 中西も険しい顔になる。

「わからないけど……。崖から落ちる前のことは、何も覚えてないの一点張りらしくて」

「頭打ったショックとか?」

 峰山に尋ねられ、私は首を横に振った。

「わからないわ」

 3人の間に沈黙が流れる。私はたまらなくなり、メモを畳みながら口を開いた。

「でも、岡村さんが犯人なわけないわ。私、調べてみる」

 私はペットボトルを手に立ち上がった。


(5)


 2時間後、私と中西、峰山の3人は、岡村の実家を探していた。

「この辺りのはずやねんけどなあ」

 中西が岡村の住所のメモを手に、電信柱に取り付けられた地名札を見て回っている。

 私は、立ち止まって辺りを見回した。一軒家と2偕建のアパートが混在するスペースが広がっている。建物が比較的新しい所を見ると、新興の住宅街なのかもしれない。

「あっ、あそこじゃないかな」

 左手の奥にある一軒家の向こう側に、黄色っぽい柵が見えた。柵の間からは、黄色く枯れた草が頭を無造作に覗かせている。

「えっと、ほんまやな。2丁目になってるし、そうちゃうか」

 中西の言葉に、私達3人はその柵の方向に走り出した。そこは角地だったが、どうやら正面は道を左に曲がった所になるようだ。柵に沿って走りながら中を覗く。一部に青いビニールをかけられた建物が、空き地の向こうに見えた。

「あれ?」

 先に角を曲がりかけた峰山が足を止め、私の方を振り返る。

「なんか、女の子がいてますよ」

「女の子?」

 中西が峰山の隣に駆け寄る。

「ほんまやな」

 私も急いで2人のそばに走り寄った。

 建物の正面と思われる場所に、女の子がしゃがみ込んで両手を合わせていた。足元には花束が置かれている。

 私達がそっと近付いていくと、彼女は驚いたようにこちらを見た。ショートヘアにノーメイクの清純そうな顔。セーターにジーンズのスカートという、どこにでもいそうな学生風の女性だ。

「こんにちは」

 峰山がニコニコしながら声をかけると、彼女は立ち上がり、少し後ずさりした。そして、くるっと背中を向けると、走り始めた。

「あっ、君、ちょっと待って」

 中西が慌てて後を追う。峰山も彼に付いて走り始めた。


(6)


 彼女が手向けていたお花は、淡いピンクのスイートピーだった。一緒に束ねられたカスミ草が、花束をより可憐なものにしている。

 しゃがみ込んで見つめていると、中西が戻ってきた。

「どうだった?」

 私は立ち上がって尋ねた。

「あかんな。見失ってもうた」

 中西は、そうとう走ったらしく、肩で息をしている。

「ああ、中西さん、見つかりましたか?」

 少しして、峰山も戻って来た。

「いや、駄目や。峰山は?」

「僕も駄目でした。それにしても、あの子、ほんまに足が早いなあ」

「この辺、細い道も多いし入り組んでるし。地元の人間やったら、撒くのなんてわけないやろうけどな」

 中西が、まだ荒い息で言う。

「地元の人間、かあ。若草園の関係者かなあ」

「わざわざここで手を合わせてるくらいやねんから、そらそうやろうなあ」

 中西が腕を組む。

「でも、何で逃げたりしたんですかねえ」

 峰山が首を傾げた。

「お前にニコニコ声かけられて、気味が悪かったんとちゃうか?」

 中西が峰山を突く。

「ええ? 僕のせいですか?」

 峰山が大げさに言いながら、自分の顔を指さす。

「まあ、いなくなっちゃったんだからしょうがないわね」

 私は、柵の間から改めて中を覗き込んだ。

「あの木製のジャングルジム、手作りみたいですね。その後ろのブランコも」

 峰山が、建物の横にある小さな広場を指差して言う。

「そうみたいね。きっと、岡村さんのお父さん達が、子供達のために作ったんでしょうね」

「賑やかやったやろな。子供達がおった頃は」

 中西がぽつりとつぶやく。

 それ以上口にする言葉も見つからず、私達はひっそり静まり返ったその施設の跡地を、ただぼんやりと眺めていた。


(7)


 私は部屋のベッドに寝転がっていた。

「あーあ」

 手にしている写真をもう一度見つめる。それは、去年の修了式の日に、みんなで撮ったものだった。

「まさかこんなことになるなんてねえ」

 写真の中の岡村は、力強く微笑んでいた。

 初めて知った岡村の生い立ち、義父母の死、フィアンセと称する「カナコ」という女。そして、今日見て来たあの若草園。

 この2ヶ月の間に、岡村に何があったのか。

「岡村さんが犯人なんて、絶対ないわ」

 私は、あの賀茂川での岡村の言葉を思い出していた。

『誰が何と言おうと、お前を裏切ったりせえへんからな』

 その彼が、人を殺し、隠ぺいをはかったりするわけがない。しかし、心のどこかに峰山の言葉がひっかかっていることも事実だ。

「実の両親を殺されるよりも、ずっと恨みは大きい、か」

 そして、首を横に振り、写真を枕元に置いた。

「岡村さんを信じなくちゃ」

 私は溜息をついて天井を見つめた。岡村のやつれた横顔が頭から離れない。

 と、その時、来客のチャイムが鳴った。反射的に時計を見ると、アラームの文字は9時ちょうどを示していた。

 急いで起き上がり、手で髪の毛をざっと整えながら、ドアの前に立つ。住人が入れ替わるこの時期は、新聞の勧誘がやたら多い。知らない相手なら居留守を使おう。

 そっと覗き穴を覗き、思わず息を飲んだ。そこには、サングラスをした赤い髪の毛の「カナコ」が立っていた。

「はい」

 大きく深呼吸をしてドアのチェーンを外す。鍵を回してドアを開けると、「カナコ」がニコリともせず中に入って来た。

「ちょっといい?」

「どう……ぞ」

 私が返事をし終わらない内に、彼女はずかずかと上がって来た。無造作に脱ぎ捨てられたパンプスを並べ直す。

 振り返ると、彼女はベッドの枕元に置いておいた写真を手にしていた。

「あ、それ、去年の修了式の時の写真なんですよ」

 ぎこちなく微笑みながら、私は話しかけた。

「ふうん」

 彼女はそれだけ言うと、ベッドの縁に腰を掛けた。今日も、真っ赤なロングコートを着込んでいる。

「コート、かけましょうか?」

 私はクローゼットに手を掛けながら尋ねた。

「ええわ。どうせすぐに帰るから」

 彼女はぶっきらぼうに言い、手にしていた写真を元あった場所に戻すと、やかんにお水を入れている私に向かって話しかけた。

「和彦のことやねんけど」

「何ですか?」

 私はやかんをガスコンロに載せて、振り返った。

「まだ意識は戻ってへんの?」

 ためらいがちに尋ねる彼女に、私は微笑みながら首を横に振った。

「いえ。昨日の夜遅くに意識が戻ったらしいですよ」

「そう。助かったんや」

 彼女は小さく息を吐くと、続けた。

「彼、取り調べを受けてるんやろうね」

「みたいですね。でも、何も話さないらしいんです。覚えてないって」

「覚えてない……そう」

 彼女はそうつぶやくと、黙り込んだ。

「あの……お見舞いには行かれないんですか?」

 沈黙に耐えきれず、私は口を開いた。

「まあ、そのうちにね」

 彼女は軽く流すと、私の方を見た。

「ねえ、和彦から何か預かってへん?」

「何かって?」

「ファイルとか」

「ファイル? いいえ、何も。だって、初詣以来、会ってませんし」

「そう。それならええわ」

 「カナコ」は立ち上がった。

「待って下さい。コーヒーだけでも飲んでいかれませんか? すぐお湯も沸きますし」

「いらない。どうせインスタントやろ?」

 そう言って玄関に向かって歩き出す。私は意を決して、彼女の後ろ姿にに話しかけた。

「宮本佳奈子さん。5年前に亡くなってるんですよね」

 私の言葉に、彼女は弾かれたように振り返った。しばらく黙ったままこちらを見ていたが、やがて口を開いた。

「昨日の今日やのに、しっかり調べ上げてるんやね。探偵でもやったら?」

「調べ上げたんじゃありません。今朝、警察の人から聞いただけです。南山科で殺された人が、佳奈子さんをひき逃げした犯人だってことも」

 後ろでやかんが盛大にお湯を噴き出し始めた。急いで火を止め、もう一度「カナコ」の方を見る。

「あなた、岡村さんは犯人じゃないって言ってましたよね? あれ、どういうことですか?」

「どういうことも何も、そのままの意味や。和彦が犯人ちゃうことは、私が一番よく知ってるし」

 彼女は少し間を開けて、続けた。

「あの2人を刺したん、私やから」


(8)


「え?」

 驚いて彼女を見る。

「小刀が残ってたやろ? あれ、私のもんやし」

「宮本佳奈子――たしかにイニシャルは『K・M』ですよね」

「ああ、柄に書かれていたイニシャルのこと? それが動かぬ証拠ってことになるんかな」

 「カナコ」が、うつむきながらつぶやく。

「でも、現場から走り去ったのは、男性……」

「ねえ」

 突然、彼女が私の言葉を遮った。

「どんな刃物で刺されたかって、解剖したらわかるもんなん?」

「傷口の状態にもよるでしょうけど……。この事件はちゃんとわかったみたいですよ。本村さんの身体に刺さっていた小刀の刃型と、高岡さんの傷口が一致したって話でしたし」

 戸惑いながら答える。

「一致した……」

 彼女は、顎に手を当てて黙り込んだ。たまらず話しかける。

「どうして、宮本佳奈子さんのフリなんてするんですか?」

「フリ?」

 聞き返され、私は彼女の顔を見返した。

「そうなんでしょ? それとも、幽霊だとでも?」

「その通り。私は幽霊やで」

 彼女は、ふっと鼻で笑って続ける。

「この火傷の痕が、何よりの証拠やわ。ほら、つくりものでも何でもあらへんでしょ?」

 彼女は右手の甲を私の前に差し出し、乱暴にその傷痕をこすって見せた。ケロイドの色が皮膚の動きに合わせて変わる。どうやら本物の傷ようだ。

「だけど、あのパンプス」

 私は玄関の方を手で指し示した。

「本物の佳奈子さんは、革製品はすべてエルメスだったそうですよね。でも、あなたが履いているのは、そうじゃない」

「そんなこと……。他のブランドのもんかって履くわ」

 「カナコ」はぶっきらぼうに答えた。

「ブランド? あの『靴の安売り王』オリジナルのパンプスが?」

 私は微笑んだ。

「私も同じメーカーのパンプスを持っているんです。だからわかったんですけど。あそこの靴、安くて本当に助かりますよね」

「安いからと違うわ。履きやすいから履いてるだけや。あんたなんかと一緒にせんといて」

 彼女は目を逸らした。

「あなたは一体、誰なんですか? 岡村さんとは、本当はどういう関係? あの『K・M』って書かれた小刀は、『高山堂』で買ったものにあなたがイニシャルを書き込んだ、それだけの話ですよね?」

 疑問に思っていたことを一気に吐き出すと、彼女は眉間に皺を寄せてこちらを見た。

「しつこい人やねえ。私自身が宮本佳奈子やねん。せやから、あの小刀を持ってたんよ。それから、和彦とは婚約してるって、この間言うたでしょ?」

「でも、本物の佳奈子さんが持っていた小刀は、かなり使い込まれていたそうですよ」

 彼女は何も答えず、顔を背けた。どうやら、自分の正体を明かすつもりはないらしい。私は小さく溜息をついた。

「あなたがどうしても本当のことを言いたくないなら、それでもいいです。だけど、最後にひとつだけ聞かせて下さい。どうして、あの人達を刺したりしたのか」

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「あんたのせいや」

「え?」

 思いがけない答えに、聞き返す。

「あんたのせいって言うたんよ。あんたが余計なことするから、アカンねん」

「余計なこと?」

「そうや。せっかく和彦が……」

「岡村さんが、何ですか?」

 思わず「カナコ」の腕をつかむ。彼女はふっと鼻で笑うと、私の腕を振りほどいた。

「あんたには関係ない話や。どうせあんたは、和彦には何の興味もないねんからね」

 サングラスを挟んで、見つめ合う。私はたまらず口を開いた。

「たしかに、あなたの方が、昔の岡村さんのことはよく知っているかもしれません。そのことは認めます」

 自分でも驚くくらい、挑戦的な口調になっている。しかし、私は込み上げてくる激しい感情を抑えることができなかった。

「でも、私にとって大切なのは、今、私の前にいる岡村さんなんです。だから、彼の過去にはこだわらなかった。別に興味がないからじゃありません」

「ムキになっちゃって……。あんた、義理チョコとか言いながら、ほんまは和彦のこと好きなんと違うの?」

 「カナコ」が挑発するように言い返してくる。私は一瞬言葉に詰まったが、動揺を悟られないように平然と答えた。

「好き……か。そうですね。一人の人間として、大好きだし尊敬してます」

「一人の人間として?」

「ええ」

 私は頷いた。

「なんて言ったらいいのか、自分でもよくわからないんですけど……。でも、男と女とか、そんな薄っぺらいものじゃなく、もっと深いところで――絆とでも言うのかな……そういうもので繋がってるような気がしてるんです」

「絆……?」

 「カナコ」の口元が歪む。

「そうです。絆です」

 私が畳み掛けるように言うと、彼女はぎゅっと口を結んで顔をそらした。

「どうかしましたか?」

 不思議に思い、声をかける。

「別に」

 「カナコ」は吐き捨てるようにそう言うと、玄関に向かって歩き出した。

「ちょっと待って下さい」

 その肩に手をかけた私を、彼女は強い力で突き飛ばした。よろけて床に倒れ、腰をしこたま打ち付ける。

 「カナコ」は一瞬、私の方を見たが、すぐに玄関に向かって歩き始めた。私は何とか上体を起こすと、彼女の背中に向かって、大声で話しかけた。

「あなたが本当に岡村さんのフィアンセだって言うなら、今すぐ警察に行って、本当のことを話して下さい。岡村さんを助けてあげて」

「そんなこと、あんたに言われんでもわかってるわ。その前に、もうひとつだけ、やらなアカンことがあるんよ。和彦のためにも……」

 彼女はパンプスを履きながらそう言うと、走るようにして部屋を出て行った。ドアが勢いよく閉まる。

「カナコさん!」

 私の叫び声だけが、虚しく響いた。

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