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  作者: 深月咲楽
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第2章

(1)


 岡村の一件が思いがけない方向に動き出したのは、その翌朝のことだった。

「近藤さん?」

 岡村を見舞うため、集中治療室の前で面会時間がくるのを待っていると、背後から声をかけられた。驚いて振り返る。と、そこには洛北署の山田刑事が立っていた。

「あっ、山田さんじゃないですか!」

 思いもかけない出会いに、思わず大きな声を出してしまう。

「ご無沙汰してます」

 慌てて声を小さくすると、私は軽く頭を下げた。

 彼とは、1年前に起きた事件で面識があった。当時に比べると、少しは刑事らしくなったような気がする。

「ほんまにご無沙汰ですよね。まあ、あんまり関わりがあるっていうのも、困るでしょうけどね」

 山田刑事は少し微笑むと、私の顔を見た。

「今日は、岡村さんに会いに来はったんですか?」

「ええ」

 私は頷いた。

「そうなんですか。でも、まだ意識が戻ってはらへんみたいですね」

「さっき、看護婦さんから聞きました。でも、10時半から11時まで、中に入れるそうなので」

「まあ、声だけでもかけてあげたら、回復も早いかもしれませんよね」

 山田刑事が辛そうな顔で言う。

「お、近藤さんか?」

 その時、山田刑事の背後から、同じく洛北署の刑事である安永が顔を出した。

「あれ、安永さん?」

「おう、久しぶり。元気そうやな」

 彼には、過去2件の事件で、大いにお世話になっている。

「ええ。お陰様で。――ところで、今日はどうしてここに?」

 私の質問に、安永刑事は少し困ったように微笑んだ。

「実は、岡村君から話を聞きたくてね。せやけど、まだちょっと日にちがかかりそうやな」

「話を聞きたいって……。岡村さんが事故にあったのは南山科ですよね。なんで洛北署の安永さん達が?」

「うん。まあ、そうやねんけどね」

 安永刑事が言葉を濁す。

「何ですか? 気になるじゃないですか」

 私がなおも迫ると、彼は廊下に置かれたベンチを指差した。

「ちょっと、座って話しよか」

「ええ」

 不思議に思いながらも、言われた通りにベンチに腰かける。安永刑事が隣に座り、山田刑事が前に立つ、という状態で、再び会話が始まった。

 安永刑事は手帳を広げて話し始めた。

「昨日、上賀茂橋下の河原で男性の遺体が発見されたの、知ってるかい?」

「ええ。後輩が、たまたま通りかかったらしくて……。パトカーが何台も来てたって」

「今回、その件に関して、洛北署と南山科署で合同捜査をすることになったんや」

「どういうことですか?」

 意味がわからず、尋ねる。

「つまり、岡村さんの件と上賀茂橋での件には関連があると、そういう結論に達したというわけです」

 山田刑事が眉間にしわを寄せて言う。

「関連があるって?」

 私が聞き返すと、今度は安永刑事が答えた。

「上賀茂橋下で発見された被害者は、刃先の短い刃物で刺殺されていた。それも、何回も何回もね。出血量は相当なものやった」

「そうなんですか。でも、それが岡村さんの件とどう関係するんですか?」

 じれったくなって先を促す。

「それがねえ。岡村君が倒れていたすぐ脇に、血の付いたタオルが落ちていたんや。その血液型はO型。被害者の血液型もO型。今、被害者のものと一致するかどうか、DNA鑑定が行われているところや」

 安永刑事が答えた。

「岡村さんもO型なんですよ。本人のものに決まってるじゃないですか。だって、落ちてからしばらく、岡村さんには意識があったんでしょ? きっと、自分の血を拭いたんですよ。間違いありません」

 言い返す私から目を逸らさず、安永刑事は続ける。

「それにしては、タオルに付着した血痕がかなり乾いていたんや。それに、岡村君の負った傷自体は、それほどの出血量でもなかったしね」

「それなら、誰かが捨てたタオルが、たまたま近くにあっただけなんじゃないですか? 同じ日にあった事件の被害者と血液型が一致したからって、いちいち疑われてたらたまらないですよね」

 私は半ば呆れながら、安永刑事の目を見つめた。

「ああ、もちろん、それだけならね。しかし、今回刺殺された男性と岡村君には、接点があったことがわかったんや」

「接点?」

 驚いて尋ね返す。

「ああ」

 安永刑事は頷いた。


(2)


「『若草園』って施設、知ってるかい?」

「ええ。岡村さんの実家の住所に建っていたっていう施設ですよね? 昨日、刑事さんからお聞きしました」

「そうか。実はね、そこが、岡村君の実家なんや」

「岡村さんの実家? でも、岡村さんが施設で育ったという話は、聞いたことがありませんけど」

 現に、3年前、私は彼の母親と直接会って話もしているのだ。私は安永刑事の顔を見た。

「若草園の園長の名前は『岡村豊』。つまり、岡村君の父親や。自宅は同じ敷地内にあって園舎に隣接していたそうやし、当然、住所は同じ所になるやろう」

「でも、岡村さん、高校は大阪市内だったと思うんですけど……」

 私は安永刑事に尋ねた。

 実は昨日の夜、私は過去の名簿を引っくり返して調べてみたのだった。学生名簿には、大学院生は出身大学が、そして学部生は出身高校が載せられている。岡村の出身高校は、大阪市内の公立高校になっていた。地図で見ると、実家の住所からはかなり遠く、通っていたとは思われない。しかも、大阪は学区制だ。学区外の公立高校を受けるとなると、いろいろと大変だという話を聞いたことがあった。

「この若草園が開園したのは、1995年の3月。岡村君が高校を卒業した年や」

「ああ、なるほど」

 私は納得して頷いた。

「岡村さんが高校を卒業してから、親御さんが豊能町に施設を開かれたってことですね」

「ああ、そういうことやろうね。現在は閉園してしまっているが」

 そう言えば、昨日の刑事も同じことを言っていた。

「園長夫婦……つまり、岡村さんのご両親は、2ヶ月前に亡くなられているんですよ」

 山田刑事が私の顔を見て言う。

「え? ほんとですか?」

 思いがけない言葉に、私は驚いて尋ねた。

「その様子やと、岡村君からは何も聞いてへんみたいやね」

 安永刑事は、小さく溜息をつく。

「元旦に初詣に行ったきり、お会いしていませんから」

 私が答えると、彼は頷いた。

「まあ、事情が事情やから、仕方がないかもしれへんなあ。お葬式も出さはれへんかったみたいやし」

「事情が事情って……?」

「心中しはったんですよ。なんでも、借金の保証人になってしまったらしくて。土地も財産もすべて押さえられてしまい、施設の運営を続けていくことができなくなってしまったそうです」

 山田刑事が沈痛な面持ちで言う。

「心中事件があったのは、今年の1月6日。園児達や職員達の行く先をすべて決めて、後処理も全部済ませてはったそうですし、覚悟の上でってことでしょうね。自らの身体に灯油をかけて火を付けたようで。幸い、近所の人からの通報が早くて、建物は一部が焼けた程度で済んだらしいんですけどね」

「そんなことが……」

 思わず絶句する。岡村は、なぜ何も話してくれなかったのだろう。あのやつれた横顔が胸によみがえる。

「今回、上賀茂橋で殺された男性、高岡一志さんは、『高岡興業』という会社の社長やったんですが、ウラでは金融業を営んでいたようですね。岡村さんのご両親を追い詰めたのは、その高岡さんやったんです」

 山田刑事が続ける。

「岡村さんは、この高岡さんのことを調べて回っていたらしいんです。おそらく、ご両親の仇を討ったのではないかと」

「まさか、そんな……」

 あまりの話に、継ぐべき言葉が浮かばない。

「上賀茂橋の下で高岡さんが殺害されたのは、昨日の午前1時から3時の間らしい。つまり、岡村君が崖下に落ちる数時間前や」

 安永刑事が、話題を元に戻した。

「岡村君が被害者を殺害した後、凶器の血痕を拭ったタオルを隠そうとして柵を乗り越えた。しかし、その時、柵が壊れたために崖下に転落した。本部はそう見ているんや」

「そんな、バカなこと」

「まあ、まだはっきりしたわけではありませんから……」

 山田刑事が慰めるように言う。

「でも、凶器は? 凶器は見つかったんですか? 凶器の血を拭ったタオルがあって、肝心の凶器がないなんて、おかしいじゃないですか」

 私は、2人の刑事に食って掛かった。

「凶器については、今、全力を挙げて捜索中や。凶器とタオルを別々の場所に捨てた可能性もあるからね」

「そんなわけありません」

 私は首を横に振った。

「岡村さんが人を殺すなんてこと、あるわけがありません。お2人だって、岡村さんのことは、よくご存じでしょう?」

「ああ」

 私の必死な訴えに、安永刑事が辛そうに頷く。

「僕も、岡村君が犯人やなんて考えたくない。せやけど、人間いうのは弱いもんや。何のはずみで、どう間違ってしまうかなんて、誰にもわからへんねん。近藤さんには、ほんまに辛いことやと思うけど、何か情報を得たら、僕にすぐに教えてほしいんや。岡村君に不利なことも、もちろん、有利なこともね」

「岡村さんが、人を殺すなんて……」

 私は、どうしても納得できず、足元を見つめた。その時、集中治療室から看護師が現れた。面会時間になったことを告げられ、立ち上がる。

 2人の刑事に一礼すると、混乱する頭を整理しきれないまま、中に入って行った。


(3)


 私は1人で南山科ハイキングコースを訪れていた。岡村が落ちたという第二展望所。柵の前には黄色いロープが張られており、そこが現場であることを伝えていた。

「岡村さん、ここから……」

 ロープのギリギリ前まで進み、そっと下を覗き込む。一部、生い茂った雑草がなぎ倒されたようになっていたが、倒れていた場所そのものは、ここから見ることはできなかった。

「なるほどね」

 柵の状態を見て、「岡村が自分の意志で柵を越えた」ということに関しては納得できた。

 横に渡された木の棒は全部で3本。一番上のそれが一番太く、高さは私の胸の下ほどだ。一番下が私の膝くらい。そして、真ん中の1本がちょうど腰の辺りだろうか。

 現場では、その真ん中の横木がぽっきりと折れていた。たしかに、もたれかかって折れたにしては不自然な気がする。

 柵の向こうは、かなりの急斜面だ。この場所で柵を乗り越えたとすれば、よほどの理由があったに違いない。

「血まみれのタオルを隠すため、か」

 そんなわけがない。何度も頭を横に振ってみる。しかし、それならばなぜ、彼はこの柵を乗り越えたのだろうか。

 つい先ほど見て来たばかりの岡村の姿を思い出す。集中治療室のベッドで眠る岡村の顔は、ますます青白さを増しているように思えた。両親の心中。そんな大変なことがあったというのに、なぜ私に一言も告げてくれなかったのだろうか。もしこのまま彼の意識が戻らなかったら、私は一体……。

 頭の中が混乱して、何がなんだか、自分でもよくわからない。

 ぼうっと壊れた柵を眺めているうちに、ぽつぽつと雨が落ちてきた。灰色の空を見上げていると、雨粒がどんどん大きくなってくるのがわかる。

「何もかも流れてしまえばいいのに」

 ふとつぶやいた時、不意に頭上に傘がさしかけられた。

「風邪ひくで」

 聞き覚えのある声に振り返る。

「あ、神尾さん」

 そこには、南山科郷土資料館の館長、神尾佳孝が立っていた。

 私は以前、郷土資料館で、生涯学習の講師のバイトをさせてもらったことがある。その時、彼はまだ主任学芸員だったが、前館長の引退後、四十代半ばという若さで館長に就任していた。

「久しぶりやね」

 人なつこい笑顔で私の方を見ると、彼は続けた。

「何となく落ち着かなくてね。ここに来てみたんやけど」

「そうだったんですか」

「岡村君が落ちたのは、ここやね」

「そうです」

 私は頷いた。

「なるほど、2番目の横木が折れているのか」

 神尾がうめくような小さな声で言う。

「これでは、ただの事故とは考えられへんな。うっかりもたれかかっただけなんちゃうかと、思ってたんやけどね」

「ええ。警察が言うように、自分で乗り越えたと考えるべきでしょうね」

 額をつたって流れてきた雨粒を手で拭いながら、私は答えた。神尾は黙ったまま柵を眺めている。

「一体、何があったんや」

 やがて、神尾が口を開いた。

「こんな急斜面に降り立てば、例え柵が折れなかったとしても、かなり危険やってことくらい、わかったやろうに」

「何か、よっぽどの理由があったとしか、思えないですよね」

 命の危険を冒してまで、しなければならなかったこと。

 ――どれだけ考えても堂々回りになるだけだ。私は、神尾の顔を見上げた。

「ここにいても、何もわかることはなさそうですね」

 すると、神尾も同じことを思っていたのか、小さく頷いた。

「ハイキングコースの入口の所に喫茶店があるんや。とりあえず、そこで昼飯でも食べながら、ゆっくり話しようか」

「ええ」

 雨はだんだん激しくなってきている。私達は1本の傘に肩を寄せながら、元来た道を下り始めた。


(4)


「僕が、いろいろと仕事を頼み過ぎたせいや。館長になったばかりで、勝手がわかれへんし……。その分、岡村君に負担がかかってしまったんやろう」

 正面に座った神尾は、さっきからずっと、自分を責め続けていた。

 25分かかって喫茶店まで辿り着いた私達は、一番奥のテーブルに向かい合って座っていた。お互いの前には、温かいコーヒーとサンドウィッチが置かれている。

 幸い、ハーフコートを着ていたお陰で、足元が少し濡れたくらいで済んだ。神尾のコートもかなり濡れて色が変わっていたが、中までは滲みていなかったようだ。私達のコートは、お店の人から借りたハンガーに掛けられ、窓辺のカーテンレールに並べて干されている。

「自殺未遂なんて……」

 神尾は警察から何も聞いていないらしく、岡村が自ら命を断とうとしたと思い込んでいるらしい。

「神尾さん、岡村さんは自殺未遂ではないみたいですよ」

 見兼ねて声をかける。

「え?」

 彼は驚いたように私の方を見た。

「それやったら……やっぱり事故なんか?」

「いえ、そうでもないみたいで……」

 私はコーヒーを一口すすり、彼の顔を見返した。

「上賀茂橋の下で男性が殺されていた事件、ご存じですか?」

「ああ、ニュースで見たけど……。それがどうしたん?」

 神尾は不思議そうな表情を作る。

「岡村さん、その事件に関わっているらしいんです」

「何やて?」

 私の言葉に、神尾は身を乗り出した。

「倒れていた岡村さんの手元に、血の付いたタオルが落ちていたらしいんです。その血液型と、被害者の血液型が一致するそうで」

 私はそう言うと、再びコーヒーに口をつけた。

「血液型が一致した? そんなことくらいで、関わってるなんて……」

 神尾が私の顔を見る。

「他に、何か証拠でも出てきたんか?」

「ええ」

 私はカップをソーサーに戻すと、座り直した。

「知り合いだったらしいんです。その被害者の人と岡村さん」

「知り合い?」

「岡村さんのご両親が亡くなられたの、ご存じですか?」

「ああ」

 神尾が辛そうな表情で頷く。

「1月6日やったかな。警察から連絡があってね。――心中やって聞いて、もうびっくりしたんや。内々で済ませるからって話やったけど、知った以上は放っておくわけにもいかへんし、密葬だけ立ち会わせていただいてね。元園児の子達も来ていて、みんな泣きじゃくってて……。

 岡村君は、泣くのを堪えて、じっと遺影を見つめていた。真っ赤な目をしてね。見ているこちらの方が、辛いくらいやったよ」

 泣くのを堪えて……。岡村のやつれた顔を思い出し、私は目を閉じた。

「それが、何か関係あるのかい?」

 神尾に尋ねられ、目を開ける。

「ええ。その、ご両親を死に追いやったのが、今回の被害者だったらしいんです。岡村さん、その人のことを調べて回っていたそうで……」

「死に追いやったのがって……。もしかして、岡村君、疑われてるんか?」

「そうなんです」

 私は頷いた。

「岡村さんに限って、そんなことあるわけがないのに」

「ああ。当たり前や。岡村君に限って、そんなこと……」

 神尾は髪をかきあげると、天井を見上げた。

「たしかに、ご両親が亡くなられてから、ちょこちょこと仕事を休むようになってはいたんや。真相を知りたいと思って、動いていたのかもしれへん。せやけど、殺すなんて……」

 彼は、辛そうに小さく頭を振った。

「こんなことなら、無理矢理にでも事情を聞き出すべきやったね。そうしたら、何か相談にのってあげられたかもしれへんのに」

 自殺未遂ではないと知っても、神尾はなお自分を責め続けている。

「私だって、岡村さんがこんなに大変なことになってるなんて、全然知らなくて」

 いたたまれない気持ちで、私はカップを手に取った。


(5)


「どうしよっかなあ」

 京都駅に着いた私は、しばし考え込んだ。地下鉄に乗り換えたら大学へ、バスに乗ったらアパートへ。

 岡村のことが頭の中から離れない。こんな状態で大学に行っても、いつも通りに振舞える自信がなかった。

「今日は帰ろうっと」

 JRの改札を抜けると、私はバス停に向かって歩き始めた。

「あら?」

 観光案内所を右手に見ながら、ターミナルに入ろうとしたその時、肩にかけているカバンが振動したような気がした。大急ぎでカバンの内ポケットを探り、震えている携帯電話を取り出す。モニターには、峰山の名前が映し出されていた。

「もしもし」

 柱のそばに寄って、電話を耳に当てる。

「あ、近藤さん、今、どこにいはるんですか?」

 峰山が押し殺したような声で尋ねてくる。

「京都駅だけど……。どうしたの?」

 私は、不思議に思って聞き返した。

「共同研究室に、お客さんが来てはるんですよ」

「お客さん?」

「ええ。『近藤京子はどこ?』とか言って、なんか感じの悪い女ですけど」

 感じの悪い女。それだけでわかるわけがない。

「名前は?」

「それが、言わないんですよ。サングラスかけて、髪の毛は真っ赤に染めてて……」

「サングラスに真っ赤な髪?」

 頭の中でリストをひっぱり出しながら確認する。

「ええ。エルメスのバーキン持ってますし。めっちゃお金持ちなんと違います?」

「エルメスのバーキン?」

 よくわからず聞き返すと、呆れたような声で峰山が言った。

「100万もするような、ブランドもののバッグです」

「ひゃ、100万? バッグのくせに?」

 思わず溜息がもれる。

「近藤さん、誰か、心当たりないんですか?」

「心当たりって言われても……」

 超高級なバッグを持って、サングラスに赤い髪をした感じの悪い女性。思い当たる人物はまったくいない。

「――ちょっと、いつになったら来るんよ!」

 私が考え込んでいると、電話の向こうからヒステリックな女性の声が聞こえた。

「ちょっと待って下さい。今、聞いてるとこですから」

 峰山は大声で言い返すと、すぐにささやくような声になった。

「今の女ですわ。中西さんが相手してくれてはるんですけどね。――京都駅やったら、30分くらいですね。ほんなら、速攻で来て下さいよ。頼んますよ」

「あ、あの、峰山君」

 慌てて呼び止めたが、電話からは、ツー、ツー、という音が聞こえてくるだけだ。

「しょうがない。大学に行くか」

 私は携帯をカバンに戻すと、回れ右して地下鉄へと向かった。


(6)


「あんたが近藤京子?」

 共同研究室に入った私に、サングラスをかけた女性が高飛車に話しかけてきた。真っ赤な薄手のロングコートを着て、片手にタバコを持っている。

「ええ。そうですけど」

 私は、頷きながら、入ってすぐの所にある椅子を引いた。そこにカバンを置くと、改めてその女性の方を見る。サングラスをしているので目の辺りが見えないが、まったく覚えのない顔だった。

「ふうん」

 その女性は、タバコをコーヒーの空き缶の中に落とすと、私の方をジロジロ眺め始めた。

「あの、ご用件は?」

 たまらず尋ねる。彼女は何も答えず、窓のそばに歩いて行った。そして、外を覗きながら、ようやく口を開いた。

「いつも、うちの和彦がお世話になってるそうやね」

「うちの……和彦?」

 岡村のことだろうか。よくわからず聞き返すと、彼女は振り返って私の顔を見た。

「岡村和彦。知ってるやろ?」

「あ、なんや、岡村さんのご親戚の方ですか?」

 中西が、私の隣で、ほっとしたように微笑む。

「もしかして、お姉さんとか」

 部屋の隅の椅子に腰掛けていた峰山がそう言うと、彼女はキッと彼を見返した。

「なんで、私がお姉さんなん? 私の方が7歳も年下やのに」

 岡村は私の2つ上だから、28歳のはずだ。となると、彼女は21歳ということになる。

「それじゃあ……」

 妹さんですか、と聞きかけて言葉を飲む。たしか、岡村は一人っ子だったはずだ。彼女は、困惑する私の方にちらっと目を遣ると、微笑んだ。

「私は和彦のフィアンセ。結婚の約束をしてるの」


(7)


「結婚の約束?!」

 中西と峰山が同時に叫ぶ。私は驚きのあまり声も出ず、じっと彼女の顔を見た。

「そう。それで、近藤京子って女に話をしに来たんよ。バレンタインデーに、和彦にチョコレート送って来たん、あんたやろ?」

「ええ」

 私はなんとか頷いた。

「そう。やっぱりね」

 彼女は、鼻で笑うと腕を組んだ。

「中身見てびっくりしたわ。切手代の方が高いようなチョコレートやったし」

「お前、まさか僕らにくれたんと同じチョコレート、送ったんとちゃうやろな」

 中西が小さな声で尋ねてくる。

「うん。同じやつだけど」

 私が答えると、峰山が驚いたように私の顔を見た。

「あの、ペコチャンがペロッと舌出したチョコですか? 義理チョコってまるわかりの?」

「そうよ。でも、岡村さんには、大サービスで2つ送ったのよ」

「大サービスでって……。普通、郵送する時って、もうちょっといいもの送りませんか?」

 峰山が呆れ声を出す。

「しょうがないでしょ。直接会って渡そうと思ったけど、連絡が取れなかったんだから」

「そうやろうね」

 私の言葉に、その女が頷いた。

「和彦、あの頃いろいろ大変やったから」

「あの、大変だったって……ご両親が亡くなられたからですか?」

 私は彼女に尋ねた。

「え? ご両親が亡くなられたって?」

 中西が私の顔を覗き込む。

「心中されたらしいのよ。年が明けてすぐに」

「心中……」

 中西がうつむくのを見て、彼女は再び口を開いた。

「あんた、密葬には来てへんかったわね」

「ええ。今日、初めて知ったんです。刑事さんから聞いて」

「刑事?」

 峰山が尋ねる。

「うん。岡村さんの病院でね。偶然、安永さんに会って」

「安永さん? 岡村さんの自殺未遂、たしか南山科と違うかったか? なんで洛北署の刑事さんが?」

 中西が、そばにあった椅子に座りながら、私の方を見る。

「それが……。昨日のあの上賀茂橋の事件に、岡村さんが関連してるみたいで」

「自殺未遂でもないし、事件にも関連してへんわ」

 窓辺にいた女性は、吐き捨てるようにそう言うと、つかつかと近付いて来た。

「先生達かって、心中なんかやない。せやから、一生懸命探って……」

「先生って?」

 中西が尋ねる。彼女ははっとしたように口をつぐんだ。

「もしかして、岡村さんのご両親のこと? 施設を経営されていたそうだし、先生って呼ばれていたんですか?」

 私は彼女に話しかけたが、彼女は何も答えずうつむいている。

「えっ、それじゃあ、岡村さん、施設で?」

 中西が、小声で私に尋ねる。

「ううん。岡村さんのご両親が経営されていたってだけで、岡村さん自体は、施設で育ったわけじゃないらしいわ」

「そうなんか」

 中西が頷いた時、彼女がふっとつぶやいた。

「あんた、何にも知らんねんね」

「え?」

 驚いて聞き返す。と、彼女は私の顔を見て、厳しい口調で言った。

「和彦のこと、何にも知らんって言うたんよ」

 そして、テーブルの上に置かれていたバッグを手に取り、ドアに向かって歩いて行った。

「ちょっと待って下さい」

 私は、彼女の肩に手をかけた。中西も立ち上がる。

「何にも知らないって、どういうことですか?」

 私の質問に、彼女は私の手を払いのけた。

「言葉通りや。あんた、和彦に何の興味もないねんね。あのチョコレートもただの義理チョコ。――アホくさ」

 そう言い捨てると、ドアノブに手をかける。

「ちょっと待てや。言いたいことばっかり言うてからに。名前も名乗らんと出て行くつもりか」

 今度は中西が、私を押し退けて彼女に迫る。彼女は動きを止めると、再び振り返った。

「――カナコ。私の名前は、カナコよ」

 そして、ドアを開けると廊下に出て行った。カツカツとパンプスの音を響かせながら階段へ向かう後ろ姿を、私達は声もかけられぬまま見送るしかなかった。


(8)


「なんや、ほんまに感じ悪い女やったなあ」

 中西が椅子に座りながら吐き捨てるように言った。

「ほんまですね。結局、最後までサングラスも取りませんでしたしね」

 峰山も、今まで座っていた椅子を、テーブルのそばまで持って来て座り直す。

「ねえ、私が岡村さんのこと何にも知らないって、どういうことかな」

 私は立ったまま、2人の顔を交互に見た。

「さあ。岡村さんとこにチョコが届いたし、ヤキモチでも妬いたんとちゃうか?」

 中西が私の方を見る。

「フィアンセって言うのも、どうせ口から出任せですよ。岡村さんが、あんなイヤな感じの女を好きになるなんて、到底思えませんし」

 峰山が腕を組んで言う。

「でも、ご両親の密葬に行ったみたいな話をしてたでしょ? 私の所には何の連絡もなかったのに……」

 私は言いながら、手元の椅子を引いた。載せてあったカバンをテーブルの上に置き直して、腰を下ろす。

「そら、連絡なんてせえへんのが普通なんちゃうか? 親が亡くなったら、仕事の調整やなんかで職場には連絡するやろうけど、友達にまでわざわざ知らせることなんてないやろ? たまたまどこかで顔を合わせたり、電話する機会があったりした時に、『実はこの間、親が亡くなって……』くらいの話はしたとしても」

 中西の言葉に、峰山が頷いた。

「そら、そうですわ。友達の身内が亡くなったことなんて、喪中のハガキもらって、初めて知るっちゅうのがほとんどちゃいます?」

「それはわかるけど……。岡村さんにはチョコレートも送ってるし、公開講座もあったし、連絡をくれようと思えば、いくらでも機会はあったはずでしょ?」

 私はうつむいて続けた。

「それに、友達に連絡しないって言うなら、どうしてあの『カナコ』さんは、密葬に出たの? 岡村さん、彼女には連絡したってことになるでしょ?」

「たしかにそうやなあ。――ああ、親戚の子かなんかなんちゃうか? きっとそうやで」

 中西に微笑まれ、思わず反論する。

「でも、それなら、なんでわざわざフィアンセなんて名乗るの? それに、チョコレート、岡村さんの家に送ったのよ。それを開けるところを見てたってことは、その時、岡村さんの部屋に一緒にいたってことでしょ? 岡村さんが、何の連絡もくれなかったのは、彼女に遠慮したからかも」

 言いながら、胸にきりっと、説明できない痛みが走った。

「せやけど、どこで知り合うんや? 岡村さん、小さな資料館の学芸員やで。あんな派手な女と、どんな接点があるねん」

 中西が腕を組んで首を傾げた。

「岡村さん、将来有望って思われてるんでしょ? どこかのエライさんが、自分の娘を……なんて、押し付けられたんかもしれませんよ」

 峰山が苦笑する。

「いやあ、エライさんの娘はないやろ」

 中西が、椅子の背にもたれて断言した。

「さっき、ちらっと見えてんけど、右手の甲に根性ヤキの痕が残っててん。そんなことするお嬢さんなんて、いてるわけないやんけ」

「根性ヤキ?」

 私が尋ねると、中西は頷いた。

「ほら、ヤキ入れるとか言うて、手の甲にタバコの火い押し付けるの、ドラマとかでやってるやろ。あの痕や」

「なんや、元ヤンですか」

 峰山が、納得したように頷きながら言う。

「たしかに、真っ赤な髪して、タバコぷわーですもんね。あのバッグかって、どこかのおっさんでも脅して、買わせたんかもしれませんね」

 その時、ドアが開いて、峰山と同級生の渡辺芳美が顔を出した。彼女は、大阪府内の教育委員会に就職が決まっている。博士課程に進学を希望する女子は、来年度はゼロらしい。

「もう、やだなあ、中西さん。共同研究室でタバコ吸うのやめて下さいって、いつも言うてるやないですか」

 彼女は、つかつかと部屋に入ると、窓を開けた。

「いや、僕ちゃうって、客が来とったんや。客が」

「真っ赤なコート着て、髪も真っ赤っか。で、サングラスかけた、いやーな感じの女や」

 峰山が補足する。

「真っ赤なコートに真っ赤な髪……。ああ、さっきすれ違いました。あんな派手な感じの人が、何の用だったんですか?」

「なんや、岡村さんのフィアンセらしいで」

 峰山の言葉に、渡辺は笑い出した。

「峰山君、何言うてんの? ほんまにもう、冗談にもほどがあるわ」

「でも、本人がそう言ってたのよ」

 私はつとめて冷静にそう言うと、カバンの中から読みかけの文庫本を取り出した。

「え? ほんまですか? まあ、たしかに、人のシュミなんてわからないですけどね。にしても、信じられへんわ」

 渡辺が首を傾げる。

「『自称』フィアンセかもしらんで」

 中西は吐き捨てるように言うと、テレビのリモコンを手にした。スイッチを入れ、チャンネルを変えているが、どこもCMをやっているようだ。

「2時ちょっと前……。ちょうど番組の変わり目ですね」

 渡辺はそう言うと、私の方を見た。

「あ、そうや。近藤さん、今日、また殺人事件があったの、知ってます?」

「今日? どこで?」

 私は顔を上げて尋ねた

「南山科みたいですよ。学食のテレビのニュースでやってたんですけど。遺体が発見されたのは今日やけど、実際に殺されたのは一昨日らしいって」

「へえ」

 私は読みかけのページに栞を挟み、文庫本をカバンに戻した。どっちにしても、字面を目で追っていただけの状態だったのだ。

「なんか、この間から嫌な感じですよね。それに、一昨日って言えば、あの上賀茂橋の事件と同じ日やないですか」

 峰山が頭の後ろに手を置いて言う。

「ほんまやな。――そう言えば、さっき、岡村さんとその上賀茂橋の事件がどうとか、言うてへんかったか?」

 中西が私の方を見た。

「うん。実はね……」

 その時、ワイドショーが始まった。南山科の駅が映し出されている。

「あ、これ、渡辺が言うてた事件ちゃいますか?」

 峰山の声に、話を中断して画面を見つめる。

「え? どういうことや?」

 リポーターの口から出た言葉に、中西が立ち上がる。

「一昨日、ハイキングコースの崖下で倒れていた男性が、事情を知っていると思われるって……。これ、岡村さんのことやんな?」

「回復を待って事情を聞く? どういうことなんですかね?」

 峰山が、テレビの画面を見つめたままつぶやく。私は目を閉じた。

 上賀茂橋の事件、そしてこの南山科の事件。同じ日に起こったこのふたつの出来事と、岡村の関係。今朝、安永刑事から聞かされた話が、頭の中を巡る。

「ごめん。私、安永さんに会ってくるわ」

 私は、立ち上がってカバンを肩にかけた。

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