第2章
(1)
岡村の一件が思いがけない方向に動き出したのは、その翌朝のことだった。
「近藤さん?」
岡村を見舞うため、集中治療室の前で面会時間がくるのを待っていると、背後から声をかけられた。驚いて振り返る。と、そこには洛北署の山田刑事が立っていた。
「あっ、山田さんじゃないですか!」
思いもかけない出会いに、思わず大きな声を出してしまう。
「ご無沙汰してます」
慌てて声を小さくすると、私は軽く頭を下げた。
彼とは、1年前に起きた事件で面識があった。当時に比べると、少しは刑事らしくなったような気がする。
「ほんまにご無沙汰ですよね。まあ、あんまり関わりがあるっていうのも、困るでしょうけどね」
山田刑事は少し微笑むと、私の顔を見た。
「今日は、岡村さんに会いに来はったんですか?」
「ええ」
私は頷いた。
「そうなんですか。でも、まだ意識が戻ってはらへんみたいですね」
「さっき、看護婦さんから聞きました。でも、10時半から11時まで、中に入れるそうなので」
「まあ、声だけでもかけてあげたら、回復も早いかもしれませんよね」
山田刑事が辛そうな顔で言う。
「お、近藤さんか?」
その時、山田刑事の背後から、同じく洛北署の刑事である安永が顔を出した。
「あれ、安永さん?」
「おう、久しぶり。元気そうやな」
彼には、過去2件の事件で、大いにお世話になっている。
「ええ。お陰様で。――ところで、今日はどうしてここに?」
私の質問に、安永刑事は少し困ったように微笑んだ。
「実は、岡村君から話を聞きたくてね。せやけど、まだちょっと日にちがかかりそうやな」
「話を聞きたいって……。岡村さんが事故にあったのは南山科ですよね。なんで洛北署の安永さん達が?」
「うん。まあ、そうやねんけどね」
安永刑事が言葉を濁す。
「何ですか? 気になるじゃないですか」
私がなおも迫ると、彼は廊下に置かれたベンチを指差した。
「ちょっと、座って話しよか」
「ええ」
不思議に思いながらも、言われた通りにベンチに腰かける。安永刑事が隣に座り、山田刑事が前に立つ、という状態で、再び会話が始まった。
安永刑事は手帳を広げて話し始めた。
「昨日、上賀茂橋下の河原で男性の遺体が発見されたの、知ってるかい?」
「ええ。後輩が、たまたま通りかかったらしくて……。パトカーが何台も来てたって」
「今回、その件に関して、洛北署と南山科署で合同捜査をすることになったんや」
「どういうことですか?」
意味がわからず、尋ねる。
「つまり、岡村さんの件と上賀茂橋での件には関連があると、そういう結論に達したというわけです」
山田刑事が眉間にしわを寄せて言う。
「関連があるって?」
私が聞き返すと、今度は安永刑事が答えた。
「上賀茂橋下で発見された被害者は、刃先の短い刃物で刺殺されていた。それも、何回も何回もね。出血量は相当なものやった」
「そうなんですか。でも、それが岡村さんの件とどう関係するんですか?」
じれったくなって先を促す。
「それがねえ。岡村君が倒れていたすぐ脇に、血の付いたタオルが落ちていたんや。その血液型はO型。被害者の血液型もO型。今、被害者のものと一致するかどうか、DNA鑑定が行われているところや」
安永刑事が答えた。
「岡村さんもO型なんですよ。本人のものに決まってるじゃないですか。だって、落ちてからしばらく、岡村さんには意識があったんでしょ? きっと、自分の血を拭いたんですよ。間違いありません」
言い返す私から目を逸らさず、安永刑事は続ける。
「それにしては、タオルに付着した血痕がかなり乾いていたんや。それに、岡村君の負った傷自体は、それほどの出血量でもなかったしね」
「それなら、誰かが捨てたタオルが、たまたま近くにあっただけなんじゃないですか? 同じ日にあった事件の被害者と血液型が一致したからって、いちいち疑われてたらたまらないですよね」
私は半ば呆れながら、安永刑事の目を見つめた。
「ああ、もちろん、それだけならね。しかし、今回刺殺された男性と岡村君には、接点があったことがわかったんや」
「接点?」
驚いて尋ね返す。
「ああ」
安永刑事は頷いた。
(2)
「『若草園』って施設、知ってるかい?」
「ええ。岡村さんの実家の住所に建っていたっていう施設ですよね? 昨日、刑事さんからお聞きしました」
「そうか。実はね、そこが、岡村君の実家なんや」
「岡村さんの実家? でも、岡村さんが施設で育ったという話は、聞いたことがありませんけど」
現に、3年前、私は彼の母親と直接会って話もしているのだ。私は安永刑事の顔を見た。
「若草園の園長の名前は『岡村豊』。つまり、岡村君の父親や。自宅は同じ敷地内にあって園舎に隣接していたそうやし、当然、住所は同じ所になるやろう」
「でも、岡村さん、高校は大阪市内だったと思うんですけど……」
私は安永刑事に尋ねた。
実は昨日の夜、私は過去の名簿を引っくり返して調べてみたのだった。学生名簿には、大学院生は出身大学が、そして学部生は出身高校が載せられている。岡村の出身高校は、大阪市内の公立高校になっていた。地図で見ると、実家の住所からはかなり遠く、通っていたとは思われない。しかも、大阪は学区制だ。学区外の公立高校を受けるとなると、いろいろと大変だという話を聞いたことがあった。
「この若草園が開園したのは、1995年の3月。岡村君が高校を卒業した年や」
「ああ、なるほど」
私は納得して頷いた。
「岡村さんが高校を卒業してから、親御さんが豊能町に施設を開かれたってことですね」
「ああ、そういうことやろうね。現在は閉園してしまっているが」
そう言えば、昨日の刑事も同じことを言っていた。
「園長夫婦……つまり、岡村さんのご両親は、2ヶ月前に亡くなられているんですよ」
山田刑事が私の顔を見て言う。
「え? ほんとですか?」
思いがけない言葉に、私は驚いて尋ねた。
「その様子やと、岡村君からは何も聞いてへんみたいやね」
安永刑事は、小さく溜息をつく。
「元旦に初詣に行ったきり、お会いしていませんから」
私が答えると、彼は頷いた。
「まあ、事情が事情やから、仕方がないかもしれへんなあ。お葬式も出さはれへんかったみたいやし」
「事情が事情って……?」
「心中しはったんですよ。なんでも、借金の保証人になってしまったらしくて。土地も財産もすべて押さえられてしまい、施設の運営を続けていくことができなくなってしまったそうです」
山田刑事が沈痛な面持ちで言う。
「心中事件があったのは、今年の1月6日。園児達や職員達の行く先をすべて決めて、後処理も全部済ませてはったそうですし、覚悟の上でってことでしょうね。自らの身体に灯油をかけて火を付けたようで。幸い、近所の人からの通報が早くて、建物は一部が焼けた程度で済んだらしいんですけどね」
「そんなことが……」
思わず絶句する。岡村は、なぜ何も話してくれなかったのだろう。あのやつれた横顔が胸によみがえる。
「今回、上賀茂橋で殺された男性、高岡一志さんは、『高岡興業』という会社の社長やったんですが、ウラでは金融業を営んでいたようですね。岡村さんのご両親を追い詰めたのは、その高岡さんやったんです」
山田刑事が続ける。
「岡村さんは、この高岡さんのことを調べて回っていたらしいんです。おそらく、ご両親の仇を討ったのではないかと」
「まさか、そんな……」
あまりの話に、継ぐべき言葉が浮かばない。
「上賀茂橋の下で高岡さんが殺害されたのは、昨日の午前1時から3時の間らしい。つまり、岡村君が崖下に落ちる数時間前や」
安永刑事が、話題を元に戻した。
「岡村君が被害者を殺害した後、凶器の血痕を拭ったタオルを隠そうとして柵を乗り越えた。しかし、その時、柵が壊れたために崖下に転落した。本部はそう見ているんや」
「そんな、バカなこと」
「まあ、まだはっきりしたわけではありませんから……」
山田刑事が慰めるように言う。
「でも、凶器は? 凶器は見つかったんですか? 凶器の血を拭ったタオルがあって、肝心の凶器がないなんて、おかしいじゃないですか」
私は、2人の刑事に食って掛かった。
「凶器については、今、全力を挙げて捜索中や。凶器とタオルを別々の場所に捨てた可能性もあるからね」
「そんなわけありません」
私は首を横に振った。
「岡村さんが人を殺すなんてこと、あるわけがありません。お2人だって、岡村さんのことは、よくご存じでしょう?」
「ああ」
私の必死な訴えに、安永刑事が辛そうに頷く。
「僕も、岡村君が犯人やなんて考えたくない。せやけど、人間いうのは弱いもんや。何のはずみで、どう間違ってしまうかなんて、誰にもわからへんねん。近藤さんには、ほんまに辛いことやと思うけど、何か情報を得たら、僕にすぐに教えてほしいんや。岡村君に不利なことも、もちろん、有利なこともね」
「岡村さんが、人を殺すなんて……」
私は、どうしても納得できず、足元を見つめた。その時、集中治療室から看護師が現れた。面会時間になったことを告げられ、立ち上がる。
2人の刑事に一礼すると、混乱する頭を整理しきれないまま、中に入って行った。
(3)
私は1人で南山科ハイキングコースを訪れていた。岡村が落ちたという第二展望所。柵の前には黄色いロープが張られており、そこが現場であることを伝えていた。
「岡村さん、ここから……」
ロープのギリギリ前まで進み、そっと下を覗き込む。一部、生い茂った雑草がなぎ倒されたようになっていたが、倒れていた場所そのものは、ここから見ることはできなかった。
「なるほどね」
柵の状態を見て、「岡村が自分の意志で柵を越えた」ということに関しては納得できた。
横に渡された木の棒は全部で3本。一番上のそれが一番太く、高さは私の胸の下ほどだ。一番下が私の膝くらい。そして、真ん中の1本がちょうど腰の辺りだろうか。
現場では、その真ん中の横木がぽっきりと折れていた。たしかに、もたれかかって折れたにしては不自然な気がする。
柵の向こうは、かなりの急斜面だ。この場所で柵を乗り越えたとすれば、よほどの理由があったに違いない。
「血まみれのタオルを隠すため、か」
そんなわけがない。何度も頭を横に振ってみる。しかし、それならばなぜ、彼はこの柵を乗り越えたのだろうか。
つい先ほど見て来たばかりの岡村の姿を思い出す。集中治療室のベッドで眠る岡村の顔は、ますます青白さを増しているように思えた。両親の心中。そんな大変なことがあったというのに、なぜ私に一言も告げてくれなかったのだろうか。もしこのまま彼の意識が戻らなかったら、私は一体……。
頭の中が混乱して、何がなんだか、自分でもよくわからない。
ぼうっと壊れた柵を眺めているうちに、ぽつぽつと雨が落ちてきた。灰色の空を見上げていると、雨粒がどんどん大きくなってくるのがわかる。
「何もかも流れてしまえばいいのに」
ふとつぶやいた時、不意に頭上に傘がさしかけられた。
「風邪ひくで」
聞き覚えのある声に振り返る。
「あ、神尾さん」
そこには、南山科郷土資料館の館長、神尾佳孝が立っていた。
私は以前、郷土資料館で、生涯学習の講師のバイトをさせてもらったことがある。その時、彼はまだ主任学芸員だったが、前館長の引退後、四十代半ばという若さで館長に就任していた。
「久しぶりやね」
人なつこい笑顔で私の方を見ると、彼は続けた。
「何となく落ち着かなくてね。ここに来てみたんやけど」
「そうだったんですか」
「岡村君が落ちたのは、ここやね」
「そうです」
私は頷いた。
「なるほど、2番目の横木が折れているのか」
神尾がうめくような小さな声で言う。
「これでは、ただの事故とは考えられへんな。うっかりもたれかかっただけなんちゃうかと、思ってたんやけどね」
「ええ。警察が言うように、自分で乗り越えたと考えるべきでしょうね」
額をつたって流れてきた雨粒を手で拭いながら、私は答えた。神尾は黙ったまま柵を眺めている。
「一体、何があったんや」
やがて、神尾が口を開いた。
「こんな急斜面に降り立てば、例え柵が折れなかったとしても、かなり危険やってことくらい、わかったやろうに」
「何か、よっぽどの理由があったとしか、思えないですよね」
命の危険を冒してまで、しなければならなかったこと。
――どれだけ考えても堂々回りになるだけだ。私は、神尾の顔を見上げた。
「ここにいても、何もわかることはなさそうですね」
すると、神尾も同じことを思っていたのか、小さく頷いた。
「ハイキングコースの入口の所に喫茶店があるんや。とりあえず、そこで昼飯でも食べながら、ゆっくり話しようか」
「ええ」
雨はだんだん激しくなってきている。私達は1本の傘に肩を寄せながら、元来た道を下り始めた。
(4)
「僕が、いろいろと仕事を頼み過ぎたせいや。館長になったばかりで、勝手がわかれへんし……。その分、岡村君に負担がかかってしまったんやろう」
正面に座った神尾は、さっきからずっと、自分を責め続けていた。
25分かかって喫茶店まで辿り着いた私達は、一番奥のテーブルに向かい合って座っていた。お互いの前には、温かいコーヒーとサンドウィッチが置かれている。
幸い、ハーフコートを着ていたお陰で、足元が少し濡れたくらいで済んだ。神尾のコートもかなり濡れて色が変わっていたが、中までは滲みていなかったようだ。私達のコートは、お店の人から借りたハンガーに掛けられ、窓辺のカーテンレールに並べて干されている。
「自殺未遂なんて……」
神尾は警察から何も聞いていないらしく、岡村が自ら命を断とうとしたと思い込んでいるらしい。
「神尾さん、岡村さんは自殺未遂ではないみたいですよ」
見兼ねて声をかける。
「え?」
彼は驚いたように私の方を見た。
「それやったら……やっぱり事故なんか?」
「いえ、そうでもないみたいで……」
私はコーヒーを一口すすり、彼の顔を見返した。
「上賀茂橋の下で男性が殺されていた事件、ご存じですか?」
「ああ、ニュースで見たけど……。それがどうしたん?」
神尾は不思議そうな表情を作る。
「岡村さん、その事件に関わっているらしいんです」
「何やて?」
私の言葉に、神尾は身を乗り出した。
「倒れていた岡村さんの手元に、血の付いたタオルが落ちていたらしいんです。その血液型と、被害者の血液型が一致するそうで」
私はそう言うと、再びコーヒーに口をつけた。
「血液型が一致した? そんなことくらいで、関わってるなんて……」
神尾が私の顔を見る。
「他に、何か証拠でも出てきたんか?」
「ええ」
私はカップをソーサーに戻すと、座り直した。
「知り合いだったらしいんです。その被害者の人と岡村さん」
「知り合い?」
「岡村さんのご両親が亡くなられたの、ご存じですか?」
「ああ」
神尾が辛そうな表情で頷く。
「1月6日やったかな。警察から連絡があってね。――心中やって聞いて、もうびっくりしたんや。内々で済ませるからって話やったけど、知った以上は放っておくわけにもいかへんし、密葬だけ立ち会わせていただいてね。元園児の子達も来ていて、みんな泣きじゃくってて……。
岡村君は、泣くのを堪えて、じっと遺影を見つめていた。真っ赤な目をしてね。見ているこちらの方が、辛いくらいやったよ」
泣くのを堪えて……。岡村のやつれた顔を思い出し、私は目を閉じた。
「それが、何か関係あるのかい?」
神尾に尋ねられ、目を開ける。
「ええ。その、ご両親を死に追いやったのが、今回の被害者だったらしいんです。岡村さん、その人のことを調べて回っていたそうで……」
「死に追いやったのがって……。もしかして、岡村君、疑われてるんか?」
「そうなんです」
私は頷いた。
「岡村さんに限って、そんなことあるわけがないのに」
「ああ。当たり前や。岡村君に限って、そんなこと……」
神尾は髪をかきあげると、天井を見上げた。
「たしかに、ご両親が亡くなられてから、ちょこちょこと仕事を休むようになってはいたんや。真相を知りたいと思って、動いていたのかもしれへん。せやけど、殺すなんて……」
彼は、辛そうに小さく頭を振った。
「こんなことなら、無理矢理にでも事情を聞き出すべきやったね。そうしたら、何か相談にのってあげられたかもしれへんのに」
自殺未遂ではないと知っても、神尾はなお自分を責め続けている。
「私だって、岡村さんがこんなに大変なことになってるなんて、全然知らなくて」
いたたまれない気持ちで、私はカップを手に取った。
(5)
「どうしよっかなあ」
京都駅に着いた私は、しばし考え込んだ。地下鉄に乗り換えたら大学へ、バスに乗ったらアパートへ。
岡村のことが頭の中から離れない。こんな状態で大学に行っても、いつも通りに振舞える自信がなかった。
「今日は帰ろうっと」
JRの改札を抜けると、私はバス停に向かって歩き始めた。
「あら?」
観光案内所を右手に見ながら、ターミナルに入ろうとしたその時、肩にかけているカバンが振動したような気がした。大急ぎでカバンの内ポケットを探り、震えている携帯電話を取り出す。モニターには、峰山の名前が映し出されていた。
「もしもし」
柱のそばに寄って、電話を耳に当てる。
「あ、近藤さん、今、どこにいはるんですか?」
峰山が押し殺したような声で尋ねてくる。
「京都駅だけど……。どうしたの?」
私は、不思議に思って聞き返した。
「共同研究室に、お客さんが来てはるんですよ」
「お客さん?」
「ええ。『近藤京子はどこ?』とか言って、なんか感じの悪い女ですけど」
感じの悪い女。それだけでわかるわけがない。
「名前は?」
「それが、言わないんですよ。サングラスかけて、髪の毛は真っ赤に染めてて……」
「サングラスに真っ赤な髪?」
頭の中でリストをひっぱり出しながら確認する。
「ええ。エルメスのバーキン持ってますし。めっちゃお金持ちなんと違います?」
「エルメスのバーキン?」
よくわからず聞き返すと、呆れたような声で峰山が言った。
「100万もするような、ブランドもののバッグです」
「ひゃ、100万? バッグのくせに?」
思わず溜息がもれる。
「近藤さん、誰か、心当たりないんですか?」
「心当たりって言われても……」
超高級なバッグを持って、サングラスに赤い髪をした感じの悪い女性。思い当たる人物はまったくいない。
「――ちょっと、いつになったら来るんよ!」
私が考え込んでいると、電話の向こうからヒステリックな女性の声が聞こえた。
「ちょっと待って下さい。今、聞いてるとこですから」
峰山は大声で言い返すと、すぐにささやくような声になった。
「今の女ですわ。中西さんが相手してくれてはるんですけどね。――京都駅やったら、30分くらいですね。ほんなら、速攻で来て下さいよ。頼んますよ」
「あ、あの、峰山君」
慌てて呼び止めたが、電話からは、ツー、ツー、という音が聞こえてくるだけだ。
「しょうがない。大学に行くか」
私は携帯をカバンに戻すと、回れ右して地下鉄へと向かった。
(6)
「あんたが近藤京子?」
共同研究室に入った私に、サングラスをかけた女性が高飛車に話しかけてきた。真っ赤な薄手のロングコートを着て、片手にタバコを持っている。
「ええ。そうですけど」
私は、頷きながら、入ってすぐの所にある椅子を引いた。そこにカバンを置くと、改めてその女性の方を見る。サングラスをしているので目の辺りが見えないが、まったく覚えのない顔だった。
「ふうん」
その女性は、タバコをコーヒーの空き缶の中に落とすと、私の方をジロジロ眺め始めた。
「あの、ご用件は?」
たまらず尋ねる。彼女は何も答えず、窓のそばに歩いて行った。そして、外を覗きながら、ようやく口を開いた。
「いつも、うちの和彦がお世話になってるそうやね」
「うちの……和彦?」
岡村のことだろうか。よくわからず聞き返すと、彼女は振り返って私の顔を見た。
「岡村和彦。知ってるやろ?」
「あ、なんや、岡村さんのご親戚の方ですか?」
中西が、私の隣で、ほっとしたように微笑む。
「もしかして、お姉さんとか」
部屋の隅の椅子に腰掛けていた峰山がそう言うと、彼女はキッと彼を見返した。
「なんで、私がお姉さんなん? 私の方が7歳も年下やのに」
岡村は私の2つ上だから、28歳のはずだ。となると、彼女は21歳ということになる。
「それじゃあ……」
妹さんですか、と聞きかけて言葉を飲む。たしか、岡村は一人っ子だったはずだ。彼女は、困惑する私の方にちらっと目を遣ると、微笑んだ。
「私は和彦のフィアンセ。結婚の約束をしてるの」
(7)
「結婚の約束?!」
中西と峰山が同時に叫ぶ。私は驚きのあまり声も出ず、じっと彼女の顔を見た。
「そう。それで、近藤京子って女に話をしに来たんよ。バレンタインデーに、和彦にチョコレート送って来たん、あんたやろ?」
「ええ」
私はなんとか頷いた。
「そう。やっぱりね」
彼女は、鼻で笑うと腕を組んだ。
「中身見てびっくりしたわ。切手代の方が高いようなチョコレートやったし」
「お前、まさか僕らにくれたんと同じチョコレート、送ったんとちゃうやろな」
中西が小さな声で尋ねてくる。
「うん。同じやつだけど」
私が答えると、峰山が驚いたように私の顔を見た。
「あの、ペコチャンがペロッと舌出したチョコですか? 義理チョコってまるわかりの?」
「そうよ。でも、岡村さんには、大サービスで2つ送ったのよ」
「大サービスでって……。普通、郵送する時って、もうちょっといいもの送りませんか?」
峰山が呆れ声を出す。
「しょうがないでしょ。直接会って渡そうと思ったけど、連絡が取れなかったんだから」
「そうやろうね」
私の言葉に、その女が頷いた。
「和彦、あの頃いろいろ大変やったから」
「あの、大変だったって……ご両親が亡くなられたからですか?」
私は彼女に尋ねた。
「え? ご両親が亡くなられたって?」
中西が私の顔を覗き込む。
「心中されたらしいのよ。年が明けてすぐに」
「心中……」
中西がうつむくのを見て、彼女は再び口を開いた。
「あんた、密葬には来てへんかったわね」
「ええ。今日、初めて知ったんです。刑事さんから聞いて」
「刑事?」
峰山が尋ねる。
「うん。岡村さんの病院でね。偶然、安永さんに会って」
「安永さん? 岡村さんの自殺未遂、たしか南山科と違うかったか? なんで洛北署の刑事さんが?」
中西が、そばにあった椅子に座りながら、私の方を見る。
「それが……。昨日のあの上賀茂橋の事件に、岡村さんが関連してるみたいで」
「自殺未遂でもないし、事件にも関連してへんわ」
窓辺にいた女性は、吐き捨てるようにそう言うと、つかつかと近付いて来た。
「先生達かって、心中なんかやない。せやから、一生懸命探って……」
「先生って?」
中西が尋ねる。彼女ははっとしたように口をつぐんだ。
「もしかして、岡村さんのご両親のこと? 施設を経営されていたそうだし、先生って呼ばれていたんですか?」
私は彼女に話しかけたが、彼女は何も答えずうつむいている。
「えっ、それじゃあ、岡村さん、施設で?」
中西が、小声で私に尋ねる。
「ううん。岡村さんのご両親が経営されていたってだけで、岡村さん自体は、施設で育ったわけじゃないらしいわ」
「そうなんか」
中西が頷いた時、彼女がふっとつぶやいた。
「あんた、何にも知らんねんね」
「え?」
驚いて聞き返す。と、彼女は私の顔を見て、厳しい口調で言った。
「和彦のこと、何にも知らんって言うたんよ」
そして、テーブルの上に置かれていたバッグを手に取り、ドアに向かって歩いて行った。
「ちょっと待って下さい」
私は、彼女の肩に手をかけた。中西も立ち上がる。
「何にも知らないって、どういうことですか?」
私の質問に、彼女は私の手を払いのけた。
「言葉通りや。あんた、和彦に何の興味もないねんね。あのチョコレートもただの義理チョコ。――アホくさ」
そう言い捨てると、ドアノブに手をかける。
「ちょっと待てや。言いたいことばっかり言うてからに。名前も名乗らんと出て行くつもりか」
今度は中西が、私を押し退けて彼女に迫る。彼女は動きを止めると、再び振り返った。
「――カナコ。私の名前は、カナコよ」
そして、ドアを開けると廊下に出て行った。カツカツとパンプスの音を響かせながら階段へ向かう後ろ姿を、私達は声もかけられぬまま見送るしかなかった。
(8)
「なんや、ほんまに感じ悪い女やったなあ」
中西が椅子に座りながら吐き捨てるように言った。
「ほんまですね。結局、最後までサングラスも取りませんでしたしね」
峰山も、今まで座っていた椅子を、テーブルのそばまで持って来て座り直す。
「ねえ、私が岡村さんのこと何にも知らないって、どういうことかな」
私は立ったまま、2人の顔を交互に見た。
「さあ。岡村さんとこにチョコが届いたし、ヤキモチでも妬いたんとちゃうか?」
中西が私の方を見る。
「フィアンセって言うのも、どうせ口から出任せですよ。岡村さんが、あんなイヤな感じの女を好きになるなんて、到底思えませんし」
峰山が腕を組んで言う。
「でも、ご両親の密葬に行ったみたいな話をしてたでしょ? 私の所には何の連絡もなかったのに……」
私は言いながら、手元の椅子を引いた。載せてあったカバンをテーブルの上に置き直して、腰を下ろす。
「そら、連絡なんてせえへんのが普通なんちゃうか? 親が亡くなったら、仕事の調整やなんかで職場には連絡するやろうけど、友達にまでわざわざ知らせることなんてないやろ? たまたまどこかで顔を合わせたり、電話する機会があったりした時に、『実はこの間、親が亡くなって……』くらいの話はしたとしても」
中西の言葉に、峰山が頷いた。
「そら、そうですわ。友達の身内が亡くなったことなんて、喪中のハガキもらって、初めて知るっちゅうのがほとんどちゃいます?」
「それはわかるけど……。岡村さんにはチョコレートも送ってるし、公開講座もあったし、連絡をくれようと思えば、いくらでも機会はあったはずでしょ?」
私はうつむいて続けた。
「それに、友達に連絡しないって言うなら、どうしてあの『カナコ』さんは、密葬に出たの? 岡村さん、彼女には連絡したってことになるでしょ?」
「たしかにそうやなあ。――ああ、親戚の子かなんかなんちゃうか? きっとそうやで」
中西に微笑まれ、思わず反論する。
「でも、それなら、なんでわざわざフィアンセなんて名乗るの? それに、チョコレート、岡村さんの家に送ったのよ。それを開けるところを見てたってことは、その時、岡村さんの部屋に一緒にいたってことでしょ? 岡村さんが、何の連絡もくれなかったのは、彼女に遠慮したからかも」
言いながら、胸にきりっと、説明できない痛みが走った。
「せやけど、どこで知り合うんや? 岡村さん、小さな資料館の学芸員やで。あんな派手な女と、どんな接点があるねん」
中西が腕を組んで首を傾げた。
「岡村さん、将来有望って思われてるんでしょ? どこかのエライさんが、自分の娘を……なんて、押し付けられたんかもしれませんよ」
峰山が苦笑する。
「いやあ、エライさんの娘はないやろ」
中西が、椅子の背にもたれて断言した。
「さっき、ちらっと見えてんけど、右手の甲に根性ヤキの痕が残っててん。そんなことするお嬢さんなんて、いてるわけないやんけ」
「根性ヤキ?」
私が尋ねると、中西は頷いた。
「ほら、ヤキ入れるとか言うて、手の甲にタバコの火い押し付けるの、ドラマとかでやってるやろ。あの痕や」
「なんや、元ヤンですか」
峰山が、納得したように頷きながら言う。
「たしかに、真っ赤な髪して、タバコぷわーですもんね。あのバッグかって、どこかのおっさんでも脅して、買わせたんかもしれませんね」
その時、ドアが開いて、峰山と同級生の渡辺芳美が顔を出した。彼女は、大阪府内の教育委員会に就職が決まっている。博士課程に進学を希望する女子は、来年度はゼロらしい。
「もう、やだなあ、中西さん。共同研究室でタバコ吸うのやめて下さいって、いつも言うてるやないですか」
彼女は、つかつかと部屋に入ると、窓を開けた。
「いや、僕ちゃうって、客が来とったんや。客が」
「真っ赤なコート着て、髪も真っ赤っか。で、サングラスかけた、いやーな感じの女や」
峰山が補足する。
「真っ赤なコートに真っ赤な髪……。ああ、さっきすれ違いました。あんな派手な感じの人が、何の用だったんですか?」
「なんや、岡村さんのフィアンセらしいで」
峰山の言葉に、渡辺は笑い出した。
「峰山君、何言うてんの? ほんまにもう、冗談にもほどがあるわ」
「でも、本人がそう言ってたのよ」
私はつとめて冷静にそう言うと、カバンの中から読みかけの文庫本を取り出した。
「え? ほんまですか? まあ、たしかに、人のシュミなんてわからないですけどね。にしても、信じられへんわ」
渡辺が首を傾げる。
「『自称』フィアンセかもしらんで」
中西は吐き捨てるように言うと、テレビのリモコンを手にした。スイッチを入れ、チャンネルを変えているが、どこもCMをやっているようだ。
「2時ちょっと前……。ちょうど番組の変わり目ですね」
渡辺はそう言うと、私の方を見た。
「あ、そうや。近藤さん、今日、また殺人事件があったの、知ってます?」
「今日? どこで?」
私は顔を上げて尋ねた
「南山科みたいですよ。学食のテレビのニュースでやってたんですけど。遺体が発見されたのは今日やけど、実際に殺されたのは一昨日らしいって」
「へえ」
私は読みかけのページに栞を挟み、文庫本をカバンに戻した。どっちにしても、字面を目で追っていただけの状態だったのだ。
「なんか、この間から嫌な感じですよね。それに、一昨日って言えば、あの上賀茂橋の事件と同じ日やないですか」
峰山が頭の後ろに手を置いて言う。
「ほんまやな。――そう言えば、さっき、岡村さんとその上賀茂橋の事件がどうとか、言うてへんかったか?」
中西が私の方を見た。
「うん。実はね……」
その時、ワイドショーが始まった。南山科の駅が映し出されている。
「あ、これ、渡辺が言うてた事件ちゃいますか?」
峰山の声に、話を中断して画面を見つめる。
「え? どういうことや?」
リポーターの口から出た言葉に、中西が立ち上がる。
「一昨日、ハイキングコースの崖下で倒れていた男性が、事情を知っていると思われるって……。これ、岡村さんのことやんな?」
「回復を待って事情を聞く? どういうことなんですかね?」
峰山が、テレビの画面を見つめたままつぶやく。私は目を閉じた。
上賀茂橋の事件、そしてこの南山科の事件。同じ日に起こったこのふたつの出来事と、岡村の関係。今朝、安永刑事から聞かされた話が、頭の中を巡る。
「ごめん。私、安永さんに会ってくるわ」
私は、立ち上がってカバンを肩にかけた。