第1章
(1)
「土曜講座第2回、南山科郷土資料館学芸員・岡村和彦、か。かっこええなあ」
同級生の中西統が、パンフレットをめくりながらこちらを見る。
「ほんとだね。こんなにたくさん人も集まってるし」
広い講義室を見渡しながら、私、近藤京子は頷いた。
京都で一番の大きさを誇る京都中央博物館の第一講義室に、私は中西と並んで座っていた。
この博物館では、現在『近代京都の市民の暮らし』なる特別展が催されており、関連講座が隔週の土曜日に開かれている。その第2回目の講師として、我が大学院の博士課程を昨年度修了した愛すべき先輩、岡村和彦が講義を行うのである。
「パンフレットの協力者一覧にも、名前が載ってるで。学芸員1年目やっていうのに、ほんまにスゴイ人やわ」
中西は、興奮冷めやらぬ様子で、賛辞を繰り返していた。
現在、博士課程2回生の私達も、あと1年とちょっとで社会へと出て行くことになる。こうして卒業生が活躍する姿に、自分自身の未来を重ね合わせているのかもしれない。
「それにしても、もったいないやんなあ。あの話、受けてさえいれば、今頃は都古大学助手っていう肩書きが付いてるはずやねんで」
「ああ、例の話ね」
昨年、岡村は、事件に巻き込まれながらもきっちり論文を提出し、博士号を取得していた。その論文が、またかなりの出来で、一流名門大学である都古大学から、助手に迎えたいとの打診があったのだ。
超エリートへの道。普通の人間であれば、一も二もなく飛びついたことだろう。しかし、岡村は少々勝手が違った。彼は、その話を鼻で笑って蹴飛ばすと、内定をもらっていた南山科郷土資料館に就職してしまったのである。
「南山科の郷土資料館なんて、いつ閉鎖されてもおかしくないような、小さい小さい村立の資料館やんか。なんでこれだけの才能がありながら、みすみす目の前のエリートコースを捨てるのか、俺にはさっぱりわかれへん」
中西のように首をひねる後輩は多かった。しかし、私はむしろ、それでこそ岡村だと、なんだか誇らしく思っていた。
『たしかに、地位とか名声とかって、あったらあったに越したことはないわ。せやけど、俺、もっと大切なもんがあると思うねん。南山科の皆さんには、学生時代からほんまにお世話になってるし、館長が病気で引退しはって存続が危うい、なんて話を聞かされて、見捨てるわけにはいかんやろ?』
修了式の後、お酒を飲みながら、彼はそう言って笑った。岡村らしいと、私はその考えを支持した。それから約1年。彼は、南山科郷土資料館に勤めながら、ますます前向きに研究を続けている。
「お、そろそろ始まるで」
中西の声に顔を上げると、前方のドアから岡村が入ってきたところだった。
「岡村さん、ちょっとやせはったんと違うか?」
中西に言われ、じっと彼の姿を見つめる。
「本当ね。身体もひとまわり小さくなったような感じ」
スーツが心なしか大きめに見える。
「僕は、ここ何ヶ月って会うてへんかったしなあ。近藤は?」
「私も元旦に初詣に行ったきりなのよ。今日は3月1日だから、ちょうど2ヶ月になるわね。アパートの方に電話しても、いつも留守電だし、携帯も繋がらないし……」
先月も、バレンタイン恒例の義理チョコを渡そうとしたが連絡がとれず、仕方なく郵便で送ったのだ。しかし、到着したかどうかの連絡もないまま、結局今日まで来てしまった。
「よっぽど忙しいんやろなあ」
「そうなんだろうね」
「この講座かって、図書館のポスターで見て初めて知ってんからな。前やったら、岡村さんから直接連絡があったやろうに」
中西が溜息をつく。
「うん。忙し過ぎて、それどころじゃないのかもしれないね」
少し心配になって、再び岡村の方を見る。彼は、司会者に紹介され、壇上に上がったところだった。
「ただいま、ご紹介に預かりました岡村です。よろしくお願いします」
スピーカーから流れてくる岡村の声を聞いていると、彼との距離が少し開いてしまったような、なんとも言えない寂しい気持ちになる。
「それでは、資料の1枚目をご覧下さい」
周りでプリントをめくる音がする。しかし、私は、岡村のやつれた横顔から、目を離すことができずにいた。
(2)
電話の呼び出し音で目が醒めた。枕元の時計を見ると、デジタルの蛍光の文字はAM5時15分になっている。
「こんな時間に、誰だろう」
なんとか起き上がると、ふらふらと電話に向かう。受話器を取り上げ、壁にもたれて座り込んだ。
「もしもし」
声をかけるが、向こうは何もしゃべらない。
「もしもーし」
もう一度言ってみる。と、かすかに荒い吐息のようなものが聞こえてきた。
「どちらさまですか?」
無気味に思って尋ねる。しかし、やはり聞こえてくるのは息づかいだけだ。
――いたずら電話か。まったく、何時だと思ってるのよ。
私は、受話器を叩き付けるように置くと、再びベッドに戻った。
(3)
「岡村さん、どこに行かれるんですか?」
私は、彼の広い背中に尋ねた。
「お前にはもう会われへん。元気でな」
岡村は、振り返りもせずにそう言った。
「岡村さん、もう会えないって、一体どういうことですか? ねえ、岡村さん!」
私は、岡村を引き止めようと、必死でその後ろ姿に手をのばした。
――と、その時、枕元で目覚ましのベルがけたたましく鳴り始めた。手探りでボタンを探し当て、音を止める。
「よかった、夢だったんだ」
私は、ほっと息を吐いて身体を起こした。昨日のやつれた岡村の姿が、心のどこかにひっかかっていたのだろう。あの変な無言電話の影響もあるのかもしれない。
「岡村さん、昨日も会えなかったしなあ」
講座が終わった後、中西と2人で岡村の控え室を訪ねた。しかし、間が悪いことに、中央博物館の館長との打ち合わせの最中だったのだ。しばらくの間、廊下で待っていたのだが、バイトの時間になってしまい、結局会えないまま帰ることになった。
掛け布団の上に載せてあったカーディガンを手に取った時、今度は携帯電話にセットしたアラームが鳴り始めた。ベッドから身体を乗り出すと、テーブルの上をブルブルと移動していく携帯電話を捕まえる。
去年の春、私もようやく携帯電話を持つことになった。中西が携帯電話の販売店でバイトを始めたということで、無理矢理買わされたのだ。
持っていない間は何とも思っていなかったのだが、その便利さを知ってしまった今となっては、もう手放せない状況になっている。
「7時、か」
静かになった携帯をテーブルに戻すと、私はカーディガンの袖に手を通した。3月に入り、徐々に暖かくなってきてはいるが、やはりまだ朝方は冷え込む。
それにしても、頭がぼうっとする。あの無言電話のせいで、睡眠のリズムが崩れたのだろう。
大学は既に春休みに入っていて、授業はない。しかし、来年提出しなければいけない博士論文について、担当の荒川助教授と話し合うことになっていた。話し合い自体は午後からなのだが、見ておきたい資料もある。もう少し寝たいところだけど、仕方がない。
あくびをしながら立ち上がった時、電話が鳴り出した。
「またいたずらかな」
少し躊躇しつつ、受話器を持ち上げる。
「もしもし」
聞こえて来たのは、聞いたことのない男性の声だった。
「近藤京子さんのお宅ですか?」
かなりきつい関西なまりだ。
「は? あの……」
答えるのをためらっていると、思いがけない言葉が耳に入って来た。
「お忙しい時間に申し訳ありません。こちら、警察ですが」
「警察、ですか?」
驚いて聞き返す。
「ええ。南山科署の内海といいます」
彼はそう言うと、私の戸惑いにも構わず続けた。
「失礼ですが、岡村和彦さんとはどういったご関係ですか?」
「岡村さんは、私の大学の先輩ですけど」
聞かれるままに答えた後、嫌な予感を感じつつ、おそるおそる尋ねた。
「あの、岡村さんが、どうかされたんでしょうか?」
「ええ。実は、今朝、南山科ハイキングコースの崖下で、倒れているところを発見されまして」
「崖下で倒れて? それって、まさか……遺体で……とか?」
受話器を両手でつかんで聞き返す。
「いえ、途中の木などに引っかかりながら落ちはったようで、一命はとりとめました。ただ、意識がまだ戻らず、危険な状態が続いています」
「危険な……状態?」
周りがぐるぐる回って、何がなんだかわからない。これも夢ではないかと思い、頬をつねってみたが、現実のようだ。
私は一度深呼吸して、脳に酸素を送り込んだ。
(4)
「あの、南山科ハイキングコースって、郷土資料館の裏手にあるところですよね?」
去年の秋、岡村に誘われて散策したところだった。彼は就職に伴い居を南山科に移していたのだが、たしかそのアパートからも近かったはずだ。
「そんなに危険な箇所はなかったような気がするんですけど……」
一生懸命、コースを思い出しながら尋ねる。
「ええ。たしかにコースはそうですね。ただ、岡村さんは、途中にある第二展望所から落ちはったようなんです」
内海刑事が答えた。
「展望所? でも、展望所って、柵があったはずですよね?」
コースの所々に設けられた展望所には、木製の柵が取り付けられていた覚えがある。私は不思議に思って尋ねた。
「何か所か、柵の木が朽ちていた部分があったそうなんですよ。注意事項が書かれた看板は、置かれていたようなんですが」
内海刑事の言葉に、私は思わず目を閉じた。頭が混乱して、何を言っていいのかわからない。
黙っていると、彼は再び話し始めた。
「岡村さんが持ってはった携帯電話の情報から、身元がはっきりしましてね。しかし、ご自宅の方にお電話しても、どなたも出られません。それで、送信履歴から、近藤さんのところにお電話をさせていただいた次第なんです」
「送信履歴?」
「ええ。携帯電話からかけられた最後の2件が、あなたの電話番号やったようなので」
「2件?」
私は再び聞き返した。
「ええ。1件目の電話は、今日の午前5時13分、あなたの携帯にかけはったようですね」
「携帯電話は、夜中は電源を切っているんです。アラームが鳴ると同時に、電源が入るようにしてあるので」
私がそう告げると、彼は少し考えた後、答えを返した。
「なるほど。2度目には、この番号に……つまり、おうちの電話にかけてはりますね。ということは、岡村さんは、初めにあなたの携帯電話にかけたが、電源が切られていた。それで、おうちに電話をしはった、とまあ、こういうことになるでしょうね。2度目の方は今朝の5時15分ですが、お心当たりはありませんか?」
「今朝の5時15分……」
あの変な電話があった時間だ。私は受話器を持ち直した。
「たしかに電話はありました。でも、荒い吐息しかきこえなくて……。てっきり、いたずらだと思って、切ってしまいました」
助けを求める電話だったのだろうか。血の気がひくような感覚に襲われ、思わずその場に座り込む。
「午前5時30分頃、ハイキングコースの入口のところにある公衆電話から、人が落ちたようだと管理事務所に連絡があったんですよ。それで、宿直の人が様子を見に行き、壊れた柵と崖下に横たわる岡村さんを発見したんです」
内海刑事の説明に、私は聞き返した。
「5時30分? ということは、岡村さんがうちに電話をかけてきたのは、落ちる前だったってことですか?」
「いえ、第二展望所が見える地点から公衆電話まで、どんなに急いでも20分以上はかかるんです。ですから、岡村さんが落ちたのは、5時10分より前だったと思われますね」
「ということは……」
やっぱり。私は唇を噛んだ。
「携帯電話は、岡村さんの右手に握られていました。おそらく、落ちた直後の、まだ意識があった時にかけはったのではないかと……」
内海刑事の言葉に、髪をかきあげながら目を閉じる。あの時、もっとしっかり話しかけていれば、吐息の奥に、かすかにでも岡村の声が聞かれたかもしれない。
「通報者の声が小さかったので、男性か女性かはわからなかったらしいんですが……。あなたではありませんか?」
「違います。岡村さんだったなんて、気が付かなかったもんですから」
迫りくる自責の念と闘いながら、何とか答えを返す。
「そうですか。――岡村さんは、一人で暮らしてはるんですかね?」
「ええ。そうです」
「では、岡村さんのご実家はおわかりになりますか? 携帯電話の電話帳を調べたのですが、どれかわからならなかったもので」
「えっと、学生名簿に……。あ、そうか、今年度のものには載ってませんから、前のを見ればわかると思います」
大学に入ってから8年間、毎年春先に大学側から渡される学生名簿は、そのまま自宅の本棚に立てている。
私は電話を保留にすると、這うようにして本棚の前に行き、一番下の段から昨年度の名簿を探し当てた。震える手を押さえながら、その薄い冊子をなんとかひっぱり出す。
「お待たせしました」
元いた場所に戻って、受話器を顔と肩の間にはさむと、私は大学院生のページを開いた。
「えっと、岡村さん、去年は博士課程の3回生だから……、あ、ありました」
「岡村和彦」という文字を見つけ、指を止める。
「住所は、大阪府豊能郡豊能町××ですね。電話は、072……」
「ありがとうございました」
内容を伝え終わると、彼は礼を言って、続けた。
「それで、申し訳ありませんが、これから病院までお越しいただけますか? 念のため、ご本人かどうか、確認していただきたいので。それから、2、3お話をお伺いできればと思うんですが」
彼はそう言うと、岡村が入院している病院名を告げた。それは、京都市南部にある大きな公立病院だった。
「わかりました。すぐに伺います」
私はそう答えて電話を切り、さっき羽織ったばかりのカーディガンを脱ぎ捨てた。
(5)
「ここだ」
建物の上に掲げられた看板で病院名を確認し、私は正面玄関から中に飛び込んだ。地下鉄とバスを乗り継いでようやく病院に辿り着いたのだが、通勤時間と重なってしまったこともあり、結局、1時間以上もかかってしまった。
「あの、岡村和彦さんの病室は……」
受付で尋ねると、廊下の向こう側に座っていた2人の男性が立ち上がった。
「近藤京子さんですか?」
電話と同じ声に尋ねられ、私は頷いた。
「内海です」
彼は、警察手帳を示して軽く頭を下げた。ぼさぼさの髪の毛をきちんとすれば、モデルにでもなれそうな、なかなかのいい男だ。20代後半くらいに見えるが、実年齢はもう少し上なのかもしれない。コテコテの関西弁から受けた印象とは、かなり違って見える。
「江藤です」
隣にいた、内海刑事と対照的なポテッとした男性も、警察手帳を見せて目礼する。頭が多少薄くなってはいるが、雰囲気などから見ると、それほどの年齢でもなさそうだ。
「早速ですが、確認をお願いできますか?」
内海刑事に言われ、私は頷いた。
「では、集中治療室の方へ」
「集中治療室……」
岡村が今置かれている状況を、改めて実感する。本人ではないことを祈りながら、私は歩き始めた。
(6)
言葉もないまま、エレベーターで集中治療室のある3階へと上がる。「ICU」と書かれたドアの前まで来ると、内海刑事はドアの横にあるインターホンで内部と連絡をとった。
「入ってもいいそうです。どうぞ」
インターホンを置いた後、内海刑事がそう言いながら、重いドアを押した。江藤刑事は外で待っているらしい。壁に取り付けられた消毒液で手を消毒した後、私は内海刑事の後に付いて、中に入って行った。
少し行くと、今度はガラス張りになったドアがある。それを開けて奥に進むと、ようやく治療室が見えて来た。カーテンで仕切られたいくつかのベッドを過ぎたところで、内海刑事が足を止める。
「こちらです」
深呼吸をひとつすると、手で示されたカーテンをそっと開けた。そこには、身体中に包帯を巻かれ、管をいっぱい取り付けられた岡村が、――間違いなく岡村自身が、痛々しい姿で横たわっていた。
「岡村さん」
絶望的な気分で、奥へとそっと足を進める。顔をもっとよく見たいが、様々な器械類に行く手を阻まれ、足元の方から覗き込むことしかできなかった。
「岡村さんに、間違いありませんか?」
「ええ。間違いありません」
私は頷いた。
「どうやら、頭を打っておられるようです。今のところ、内出血等は見られませんが、もう少し様子を見る必要があるとのことでした。左腕とろっ骨3本が骨折、それから、左足首も捻挫しているようですね。また、全身に打撲や擦り傷が見られます。転落の際にあちこちにぶつかりはったんでしょう」
内海刑事が説明をしてくれたが、気持ちが拒否しているのだろうか、内容がまったく頭に入ってこない。
「岡村さん」
私は再び呼びかけてみたが、応答はなかった。
「医師の話では、命が助かったことが、奇跡としか言いようのない状態やったそうです」
「奇跡って……。でも、また元通り、元気になりますよね?」
私の問いかけに、内海刑事は小さく首を横に振った。
「今の状態では、何とも……」
「そんな……何でこんなことに……」
大声で泣き叫びたい衝動を、深呼吸して押し込める。それでもまだ、心の乱れはおさまりそうもなかった。
「それでは、お話を聞かせていただけますか?」
内海刑事が、私の肩にそっと手を載せる。私は、岡村の顔を見つめたまま、頷いた。
(7)
私達は、「家族待合室1」と呼ばれる小部屋に入っていた。小さな四角いテーブルを挟んで、ビニール張りの茶色いソファがふたつ置かれている。手術の時に家族が待つための部屋らしいが、今日は幸い、予定は入っていないようだ。
「先ほど、教えていただいたご実家の電話番号なんですが……」
座り込むとすぐ、私の真向かいに腰を下ろした江藤刑事が話を始めた。
「実は、現在は使われていないとのことで。今、捜査員が住所の場所に向かっています」
「引っ越したってことですか?」
「おそらく、そうだと思われます」
「そうですか」
私は頷いた。
「それで、岡村さんのことなんですが」
今度は、江藤刑事の右隣に座っている内海刑事が話し始める。
「何か悩まれていたというようなことは、ありませんでしたか?」
「どういうことですか?」
私は尋ねた。
「では、疲れていたとか、そういうことは?」
「私も元旦に会ったきりなので、なんとも……。でも、岡村さん、事故なんですよね?」
質問の真意がつかめず、内海刑事の顔を見る。彼は一瞬躊躇したが、やがて口を開いた。
「実は、落ちた柵の状態から見ると、岡村さんは自ら柵を乗り越えたと考える方が自然なんですよ。朽ちかけていた柵が、岡村さんの体重を支え切れずに、折れてしまったんやないかと」
「柵を乗り越えたってことは、柵の向こうに何か落としたんじゃないですか? それを取ろうとして……」
私は、思いついたことを口にした。
「ちょっと、そこのところはよくわからないんですがね。まあ、自分でしたら、どんな理由があれ、あんな急な斜面に降り立とうとは思いませんね」
江藤刑事が、頭を掻きながら続ける。
「現場には、カバンも何もなかったんです。岡村さんのご自宅を捜索したところ、テーブルの上に、札入れと免許証、名刺入れなどがきちんと置かれていました。彼のご自宅から南山科ハイキングコースの入口まで、歩いて5分もかかりません。しかし、だからと言って、携帯電話以外、何も持たずに家を出られるというのは、かなり疑問が残ります」
「つまり、どういうことですか?」
私の質問に、一拍あけて内海刑事が答えた。
「何らかの覚悟の上で、柵を乗り越えられたのではないかと考えています」
「何らかの覚悟の上で? それって、自殺ってことですか?」
私は驚いて2人の顔を交互に見た。
「だったら、どうして、落ちた直後に、私に電話をかけてきたりしたんですか? 自殺で、何か遺言があるなら、飛び下りる前にかけてくるはずじゃないですか? それに、遺書は……そう、遺書は見つかったんですか?」
思いつくままに質問をぶつけると、江藤刑事が困ったように答えた。
「いえ、遺書は見つかっていません。あくまでも、可能性のひとつを申し上げているだけですから」
その時、内海刑事の携帯電話が鳴った。
「失礼」
彼はそう言って立ち上がると、廊下へと出て行く。
どうにも気持ちがおさまらず、私はただ震える両手を握りしめていた。
「近藤さん」
待合室に戻って来た内海刑事が、私の方を見る。
「先ほど教えていただいた岡村さんのご実家、間違いありませんね」
「ええ。もちろんです。名簿に書かれていることを読み上げたんですから」
私は頷いた。
「そうですか。いや、住所の所には『若草園』という施設があるらしいんですよ。しかもそれは、2ヶ月ほど前に閉鎖されていましてね」
「施設……ですか?」
驚いて聞き返す。
「ええ。いわゆる児童養護施設というものです。――岡村さんは、施設で育たれたんですかね?」
「いえ、そういう話は聞いたことがありません。名簿には保護者名を記載する欄もありますけど、そこにもきちんと名前が書かれていたはずですし。それに、3年前の事件で岡村さんが入院された時も、病院でお母さんにお会いしました」
岡村の母親の穏やかな笑顔を思い出しながら、私は答えた。
「3年前の事件?」
内海刑事が、不思議そうな表情でこちらを見る。
「洛北署の安永さんにお聞きいただければ、わかると思いますけど」
細かい説明ができるような、気持ちの余裕などなかった。
「洛北署の安永? 彼とお知合いなんですか?」
「ええ」
私が頷くと、内海刑事は微笑んだ。
「そうですか。実は私、彼とは同期なんですよ。では、後で彼から話を聞いてみますね。それで……」
内海刑事はしばらく何か考えていたが、やがて顔を上げた。
「先ほど確認していただいた学生名簿、今お持ちではないですよね」
「ええ。家に置いてきましたが……。誰か、他の人に確認してみましょうか?」
私は、言いながら携帯を取り出した。
「お願いできますか?」
内海刑事に言われ、私は電話帳から中西の番号を呼び出した。
何度目かのコールの後、中西の声が聞こえてくる。
「もひもひ」
かなり寝ぼけているようだ。
「朝早くからごめんね。近藤ですけど」
「おう、どうしたん? まだ9時前やで。俺、今日、授業昼からやから……」
抗議をさえぎって用件を伝える。
「ねえ、去年の学生名簿、持ってる?」
「持ってるで。何で?」
「うん、ちょっとね。岡村さんの実家の連絡先を教えてほしいんだけど」
そう言ったところで、内海刑事が右手を差し出した。かわってくれと言っているようだ。
「あのね、ちょっと刑事さんにかわるから」
「刑事さん???」
受話器の向こうから、素っ頓狂な声が聞こえる。
「詳しいことは後で話すし」
そう告げると、私は電話を内海刑事に渡した。
「――どうもありがとうございました」
一通りの質問を終えると、内海刑事はそう言って電話を切った。
「やはり、間違いないようですね」
言いながら、私に携帯を渡す。
「保護者のお名前は『岡村豊』さん。苗字も一緒ですしねえ」
内海刑事が腕を組んだ。
(8)
2時間後、私は大学の共同研究室に来ていた。私の正面には中西が、そして右隣には2コ下の峰山穣が座っている。峰山は、修士論文の試問が終わり、ほっと一息という時期だ。就職先も大学の近所にある男子高の教師ということで、引っ越す必要もなく、こうしてヒマさえあれば共同研究室にいりびたっている。
「それにしても、岡村さんがなあ」
中西が溜息をつく。
「意識不明なんて、信じられませんよね」
峰山も、空になったコーヒーの紙パックをいじりながら、悲しそうにつぶやいた。
「そう言えば、今朝、大学に来る途中でも何か事件があったみたいなんですよ」
「事件?」
私が聞き返すと、峰山は頷いた。
「ええ。あの上賀茂橋のとこらへんですわ。パトカーが何台も来てて、渋滞してもうて……。結構大変でした」
峰山は大学まで車で通っている。その通り道でのことだろう。
「何の事件やろ」
中西が尋ねる。
「僕もそう思って、ここに着いてからニュースを見てたんですけどね。なんでも、中年の男性が殺されとったらしいですよ。凶器は、刃先の短い刃物とか言うてたかな」
峰山が答えた。
「ふうん。なんや、身近でいろんなことが起こっとるなあ」
中西が腕を組む。
「大学のそばで遺体は見つかるわ、卒業生の岡村さんは自殺未遂するわ……」
「ちょっと待って」
私は、中西の言葉を遮った。
「岡村さんが自殺するなんて、あり得ると思う?」
私の質問に、彼は小さく溜息をつく。
「僕かって、岡村さんが自殺したとは思いたくないけど……。実際、めっちゃやつれてはったしなあ。それに、控え室でも、深刻そうな顔してはったやん」
「忙しくて疲れてただけじゃないの?」
私が反論すると、今度は峰山が答える。
「忙しすぎると、発作的に自殺を考えることもあるらしいですからね」
「僕も、そんな気がしてもうてな。ただでさえ職員が少なくて忙しくしてはるところに、他の博物館から協力の要請があるやろ? クタクタやったんちゃうかな?」
中西が、頭の後ろで両手を組み、椅子の背に持たれた。
「あんなにタフな人が? 学生時代だって、バイトいくつもかけもって、ラグビーまでやって……。かなり忙しくしてたじゃない」
思わず身を乗り出す。
「せやけど、学生時代の忙しいのって、大半は自分の好きなことやないですか。でも、仕事となったら、そうはいかへんでしょ? ストレスたまりますって」
峰山が、そんな私の方を見て言う。
たしかにそうなのかもしれない。しかし、私はどうしても、岡村が自殺したとは思いたくなかった。
「あの電話、私が気付いてあげてればねえ」
再び後悔が胸をよぎる。
「吐息しか聞こえへんかってんろ? 誰でもいたずらやと思うって」
中西が、私を気遣うように言った。峰山も隣で頷く。
「そうですよ。それに、通報があったんでしょ? 近藤さんが気付いてすぐに連絡してたとしたって、時間的には何分も変わらへんかったんとちゃいますか?」
「たしかにそうかもしれないけど……。岡村さん、何を言いたかったのかなって、気になっちゃって」
私は携帯電話を手につぶやいた。肝心な時に役に立てなかったという気持ちが、心の中を渦巻く。
「まあ、そう言われればそうやけどなあ」
中西が天井を見上げて、ぼそっと言った。
「それにしても、その通報した人って誰やったんでしょうね?」
峰山が、私達2人の顔を交互に見ながら、無理に明るい声を出した。
「それやけどなあ。俺のツレが南山科に住んでてな。聞いてみてんけど、あのハイキングコース、朝方はけっこう犬の散歩に使う人が多いらしいねん。朝の5時過ぎなんやったら、散歩の途中でたまたま見かけた人が通報したんかもしらんで」
中西が答える。
「たしかに、関わりたくないでしょうからね。ぼそぼそっと告げて電話を切るっていうのも、わかるような気がしますね」
峰山が納得したようにうなずく。
「そう考えたら、岡村さん、運が強いねんで。たまたま見てた人がいたおかげで、落ちてすぐに救助されてんから。――きっと意識も戻るはずや。心配せんでも大丈夫やで」
中西が私の方を見て言う。
「その通りですよ。自分を責めたらあきませんて。元気のない近藤さんなんて、近藤さんらしくなくて嫌です。岡村さんかって、意識が戻った時にそんなシケた顔してたら、がっかりしはりますよ」
峰山も真面目な顔をして、私の方を見た。
「ほんとにそうよね。ありがとう」
私が2人に向かって頭を下げると、彼らは照れたように微笑んだ。