Stay beside me
「あの、クロシュ様」
「何かな?」
「やっぱり私はお邪魔では無いでしょうか?」
「とんでもない!(元より貴方に触れる口実ですから)」
「そうですか」
現在の体勢に釈然としないものを感じながら、人の言葉を疑わないエルネインは素直に引き下がる。
クロシュはエルネインを股の間に座らせて、片手で開いた本を持ち、反対の手でエルネインの髪を撫でていた。当のエルネインは縫い物をしているのだが、何だか落ち着かない。
『今日は私の傍にいてください』
その言葉通りに、クロシュは片時もエルネインから離れる様子が無い。それを邪魔だとは思わないのだが、いつにも増して心が騒ついて落ち着かった。それが、昼を過ぎても帰って来ないゼファを心配してなのか、それともクロシュがいつもよりずっと近くにいるから?
考えても出ることのない答えを諦めて針を置く。
「これは"サーフィ"の花?」
クロシュに肩越しから覗き込まれ、急激に体温が上昇していくのを感じながら、エルネインは頷いた。
「私が拾われた時に髪に付けられていたそうです。院長先生が押し花にしてくれていて、私が本を読めるようになった時にくださいました」
「……貴方に似合うと思ったんだ」
「え?」
「ううん、エルネインの花だねって話」
「ご存知でしたか」
普段から本を読んでいるだけあってクロシュは博識だった。但し、言葉としては知っていてもそれがどんな行為なのかは知らない事も多く、その度にエルネインが実際にやってみせることもある。
「唯一、竜王にだけ許された誓約の地に咲き誇る白き可憐な花、エルネ。一般には【無垢なる】を意味するサーフィと呼ばれる事が多いけど、よく知っていたね」
エルネの単語が使われるのは、この大地がまだ空に浮いていた時代にまで遡る。当時の言語体系はかなり複雑で、天帝が嘆きのあまりに大地を海に落とした後、大地を治めるのが天帝から竜や人の時代になってから、新たに一般向けとして作られたのが今の言語だ。天帝が去る前に使われた言語を旧天語と言い、現在でも扱えるのは上級神官か王侯貴族に限られる。
「院長先生が教えてくれました」
「クレスが?ああ、そうか。彼は上級神官だったね」
「はい。少しだけですけど、旧天語も教わりましたから」
「じゃあ、エルネの意味は知っている?」
「【無垢なる】ではないのですか?」
「間違ってはいないんだけど、他にも意味を持っているんだ。花言葉と言って……確か、城の書庫にあった筈だ。今度持ってこよう」
「花一つに色んな意味があるなんて知りませんでした」
「でも、エルは今知ったよね。知識はそうやって培っていくものだよ。だから、焦らないで少しずつ学んでいけばいい。私もエルから多くの事を学ばされたよ」
「……私、お役に立ててますか?」
「勿論!いや、エルの場合は居てくれるだけで私の癒しになってくれる」
「大袈裟ですよ」
「事実だよ。貴方と離れていたこの12年間、私がどれだけ苦痛に満ちていたか、エルには分からないだろうね」
クロシュの苦しみが伝わってくるようで、エルネインは堪らず抱きしめた。
「私はここに居ます」
「ああ、そうだ。貴方はここに居る!」
腰を引き寄せられ、クロシュの膝に座ってしまう。
「でも足りない。もっと貴方が欲しい」
まるで逃さないとでも言うように、後頭部を固定される。クロシュの真剣な目がエルネインを捕らえれ放さない。
「ねえ、エルネイン。私を好きになって。……愛して」
エルネインの耳を侵すのは狂おしいまでの感情を秘めた懇願。分厚い雲から降ってきた雨が地面を強く叩く。暗闇の空を奔る光が、一瞬だけクロシュの顔を照らし出す。
逃れられない。
初めて触れた薄い唇は、氷のように冷たかった。