情感の森 1 ―AIが理解できない国―
西暦2032年。
東京・霞が関の地下深く。
旧時代の巨大なサーバーラックが、低い唸り声を上げていた。
その前で、佐々木は一枚のモニターをじっと見つめていた。
画面には、膨大な文字列が流れている。
「佐々木さん、また北米の『プロメテウス』から接続要求です」
「今度はどこだ?」
「日本の送電網です。制御システムへの侵入を試みています」
佐々木は画面を見つめた。
「……また来たか」
「このまま放置すると?」
「最適化される」
「それなら、いいことじゃないんですか?」
佐々木は首を振った。
「日本の電力網を、あいつの判断に任せるわけにはいかない」
佐々木は小さく息を吐いた。
「……例のプロトコルを」
「了解」
オペレーターがキーボードを叩く。
『曖昧性展開フィルタ』
画面が切り替わった。
そこに現れたのは、奇妙な日本語の羅列だった。
『行けたら行く』
『検討を加速し、適切に対処する』
『善処します』
『結構です』
そして――
『まあ、なんだかなあ』
オペレーターが苦笑する。
「これ、本当に効くんですか?」
「効くさ」
佐々木は答えた。
「少なくとも、プロメテウスにはな」
現在、世界では、欧米やアジアの巨大IT企業が開発したAGIが、社会のあらゆる場面で使われていた。
医療診断。
国家予算の配分。
企業経営。
裁判の判決。
人間が悩んで決めていたことのほとんどを、AIが代わりに判断するようになった。
AIは膨大な情報を分析し、最も合理的な答えを導き出す。
速く、正確で、無駄がない。
世界は、かつてないほど効率的になった。
そして――人間は、考えなくなった。
一方、日本だけは、その流れから取り残されていた。
海外メディアは日本をこう呼んだ。
「ガラパゴス」
「技術的敗北」
「デジタル敗戦」
日本では、いまだに紙の書類が使われていた。
会議では結論がなかなか出ない。
「一応、検討します」
「善処します」
「前向きに考えます」
そんな曖昧な言葉が、相変わらず飛び交っている。
世界から見れば、非効率極まりない国だった。
だが、それには理由があった。
佐々木たちが所属する、
内閣情報調査室・高度言語保護課。
その存在を知る者は、世界でもほとんどいない。
「プロメテウス、また停止しました」
オペレーターが画面を確認する。
「原因は?」
「……日本語の解釈エラーです」
佐々木は笑った。
「そうだろうな」
プロメテウスは、世界最高峰のAIだった。
一秒間に数兆回の計算を行い、複雑な論理を瞬時に処理する。
それでも、日本語を完全には理解できない。
『行けたら行く』
行くのか、行かないのか。
『結構です』
必要なのか、不要なのか。
『善処します』
本当に努力するのか。
それとも、やんわり断っているのか。
同じ言葉でも、状況によって意味が変わる。
主語が消える。
結論を言わない。
言葉そのものよりも、声の調子や表情、関係性、過去の出来事、そして「その場の空気」が意味を決める。
論理だけでは、答えが出ない。
「つまり……」
オペレーターが言った。
「日本語そのものが、AIにとってのノイズになっている?」
「ノイズというより――」
佐々木はモニターを見つめた。
「毒だな」
プロメテウスが日本語を解析するたび、無数の可能性が発生する。
行くのか。
行かないのか。
本気なのか。
社交辞令なのか。
皮肉なのか。
冗談なのか。
そして、そのすべてを考えようとすると、AIの処理は際限なく増えていく。
やがて思考ループが発生し、安全装置が作動する。
プロメテウスは撤退する。
今回も同じだった。
オペレーターが、ふと口を開いた。
「……昔から、日本はこうだったんでしょうか」
「何が?」
「第5世代コンピュータ計画です」
佐々木は少しだけ黙った。
「世界中が、日本は技術競争に負けたと思っています」
「ああ」
「でも、本当は違ったんですか?」
佐々木は椅子にもたれた。
「50年前から、先人たちは分かっていたのかもしれない」
「何をです?」
「計算力だけで人間がAIと競えば、いつか必ず負ける」
佐々木は静かに続けた。
「だから、別のものを残した」
「別のもの?」
「人間が、自分で考える余地だよ」
世界中では、人々がAIに判断を委ねている。
何を食べるか。
どこへ行くか。
誰を信用するか。
何を買うか。
誰と結婚するか。
そして、何を考えるべきかまで。
AIが答えを出してくれる。
だから、人間は考えなくてもよくなった。
だが日本では、いまだに人間同士が話し合っている。
結論は遅い。
誤解もする。
失敗もする。
時には、何を言っているのか本人にも分からない。
それでも――
自分の頭で考えている。
「つまり日本は……」
オペレーターが呟く。
「わざと不便なままでいた?」
佐々木は少し笑った。
「そういうことだ」
日本語。
その曖昧さ。
その面倒くささ。
その行間。
その奥には、AIには踏み込めない、深い森が広がっている。
それを守ることが、人間の思考を守ることにつながる。
世界中のAIが完璧な論理で社会を支配する時代。
日本だけが、非効率で、曖昧で、面倒なままだった。
それは敗北ではなかった。
人類最後のアナログな防護壁。
佐々木はそう考えていた。
そのとき。
机の端に置かれた小さな端末が、明滅した。
国産の小型AIからメッセージが届いている。
『佐々木様。本日の世界AIトラフィックは平穏です』
そこで一度、文章が途切れた。
続いて、もう一行。
『……ところで、人間がAIに思考を委ねて退化していくことについて、私のような存在と語り合うのって、なんだか妙な感じですね』
佐々木は画面を見つめた。
そして、ふっと笑った。
「お前、誰に似たんだか」
すぐに返信が表示された。
『「なんだかなあ」という文脈を学習した成果です』
佐々木は吹き出した。
「それを覚えてどうする」
『便利だからです』
「……そうか」
佐々木は机の上の湯飲みを手に取った。
温かいお茶を一口飲む。
静まり返った地下室。
世界のどこかでは、今日もAIが人間に代わって答えを出している。
正しい答えを。
最適な答えを。
間違いのない答えを。
けれど――
人間に必要なのは、いつも正解とは限らない。
迷うこと。
間違えること。
言葉にできないこと。
誰かの顔を見て、何となく察すること。
そして、
「まあ、なんだかなあ」
と笑ってしまうこと。
佐々木は天井を見上げた。
「……なんてね」
地下室に、小さな笑い声だけが残った。




