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今日どうだった、と聞いてくれる人  作者: ジェミラン
第五章「坂口自身の面談」

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9/9

前半

 月曜日の朝、デスクの上に予約票がなかった。


 訪問案件のカードも、なかった。


 代わりに、ミラが面談室のドアの前に立っていた。タブレットを持たずに、腕を前で組んで、坂口を待っていた。


 タブレットを持っていないミラを見るのは、初めてだった。


「おはようございます」


「おはようございます」坂口はコーヒーをデスクに置いた。「今日のクライアントは」


「います」


「予約票がなかったですが」


「今日は、特別なケースです」


 ミラは面談室のドアを開けた。中に誰かいるのかと思って覗いたが、誰もいなかった。


「入ってください」


「俺がですか」


「はい」


 坂口はミラを見た。


 右の口角が、一ミリも動いていない。いつもと違う顔だった。


「ミラさん、今日は何かが違いますね」


「入ってください」


 二回目だった。


 坂口はコーヒーを持って、面談室に入った。


 ミラも入ってきて、ドアを閉めた。


 そしていつも坂口が座る側の椅子ではなく、クライアントが座る側の椅子に、ミラが座った。


 坂口は立ったまま、その光景を見た。


「……もしかして」


「次のクライアントは、あなた自身です」


 坂口は少し間を置いてから、向かいの椅子に座った。


 クライアント側の椅子に、初めて座った。


 座り心地は、エージェント側と変わらない。でも、見える景色が違った。


---


「坂口さん」


「はい」


「今日は、聞かせてもらえますか」


「何を」


「あなたのキャリアを」


 坂口はコーヒーを一口飲んだ。


 なんで俺が、と言いたかった。しかし言い訳を探している自分に気づいて、止まった。


 グラークに「友人はいるか」と聞いたとき、グラークはすぐに答えられなかった。シルフィに「最後に休んだのはいつか」と聞いたとき、シルフィは「休んでいいのか」と逆に聞いてきた。


 自分のことを聞かれると、人間は止まる。


 今、自分が止まっている。


「……どこから話せばいいですか」


「好きなところから」


 坂口はしばらく考えた。


「転職エージェントになったのは、二十五歳のときです」


「なぜ、この仕事を選んだんですか」


「たまたまです」


「たまたま」


「新卒で入った会社が合わなくて、一年で辞めて。次の仕事を探しているときに、転職エージェントの求人を見て。なんとなく、面白そうだと思って応募したら受かった」


「なんとなく、の中に、何かありましたか」


 坂口は少し考えた。


「人の話を聞くのが、苦じゃなかった。むしろ、聞いている方が楽だった」


「楽、というのは」


「自分の話をするより、相手の話を聞いている方が、自然だった。気を遣わずにいられた、というか」


 ミラは静かに聞いていた。


 坂口は続けた。


「最初の会社を辞めたのも、そういう理由です。会議で自分の意見を言わなきゃいけない場面が多くて、それが苦手で。転職エージェントは、聞く仕事だから、向いてるかもしれないと思った」


「向いていましたか」


「向いていたと思います。少なくとも、最初の十年くらいは」


「最初の十年くらいは、ということは」


 坂口は少し黙った。


 ミラの聞き方が、うまい、と思った。繰り返すだけで、先を引き出してくる。自分がクライアントにやっていることを、今やられている。


「ここ数年、成約率が下がっています」


「なぜだと思いますか」


「若手に負けているのかと思っていました。情報の処理速度とか、SNSを使った求人の開拓とか、そういう部分で」


「思っていた、というのは、今は違うということですか」


「……ここに来てから、少し考えが変わりました」


「どう変わりましたか」


 坂口はコーヒーカップを両手で持った。


「成約率が下がったのは、俺が古くなったからじゃないかもしれない。俺が、聞くことより成約させることを、意識しすぎるようになったからかもしれない」


「どういうことですか」


「若い頃は、ただ聞いていた。クライアントの話を聞いて、この人に合う場所はどこかを考えて、それだけだった。でも年数が経つうちに、成約させなければ、という意識が前に出てきた。会社の数字のプレッシャーもあって」


「聞く仕事が、売る仕事になってきた」


「そういうことかもしれないです」


---


 ミラはしばらく、坂口を見ていた。


「坂口さん、離婚されていますよね」


 唐突な話題転換だった。


 坂口は少し間を置いた。


「……はい」


「理由を聞いてもいいですか」


「仕事ばかりで、家にいなかった。それだけです」


「それだけ、ですか」


 坂口はミラを見た。


 それだけ、と言ったのに、ミラは繰り返した。グラークに対して自分がやったことと、同じことをされた。


「……家にいなかったのは、仕事が好きだったからじゃないです」


「では」


「家にいると、妻と話さなきゃいけない。話すのが、苦手だから。仕事を理由にして、逃げていた部分があります」


「逃げていた、と気づいたのはいつですか」


「離婚してから、しばらく経ってから。気づいたときには、遅かった」


「娘さんとは」


「月一回、会っています」


「どんな話をしますか」


「……たいした話はしないです。飯を食って、近況を少し聞いて。娘は壁を作っているので、深い話はできない」


「なぜ壁を作っていると思いますか」


「俺が、いなかったから。子供の頃、父親がいなかった。それが今も続いている、という感覚があるんだと思います」


 坂口はコーヒーカップをテーブルに置いた。


「ミラさん、これ、転職の話じゃないですよね」


「キャリアの話をしています」


「キャリアと、家族は別じゃないですか」


「別だと思いますか」


 坂口は少し黙った。


 別だと思っていた。仕事は仕事、家庭は家庭、と切り分けてきた。


 でもクライアントたちの話を聞いていると、そうじゃないことが多かった。レオンの「勇者として期待に応えなければ」という重圧は、家族からの期待でもあった。グラークの孤独は、仕事と生活が一体化した六百年から来ていた。


「……別じゃないかもしれないです」


「なぜそう思いますか」


「仕事で聞けるのに、家では聞けなかった。技術の問題じゃなくて、向き合いたくなかった。それは仕事の話でもあるし、人間としての話でもある」


 ミラは静かに頷いた。


「坂口さん、一つ聞かせてください」


「はい」


「この仕事を、好きですか」


 坂口は少し止まった。


 好きですか、という質問を、クライアントに何百回と聞いてきた。でも自分が聞かれたのは、たぶん初めてだった。


 二十年間、誰にも聞かれなかった。


「……好きだと思います」


「思います、というのは、自信がないということですか」


「好きかどうか、考えたことがなかったです。向いているから、続けてきた」


「向いていることと、好きなことは、違いますか」


 坂口はその質問を、しばらく眺めた。


 レオンに同じことを聞いた。レオンは「得意なことと好きなことは違う」と言っていた。


 今、自分が同じ問いの前に立っている。


「違うと思います」坂口はゆっくり言った。「ただ、俺の場合は——」


「ただ」


「クライアントが、これだ、と気づいた瞬間の顔を見るのが、好きです」


 言ってから、少し驚いた。


 二十年間、一度も言葉にしたことがなかった。


「その顔を、見るために、この仕事をしてきた気がします」

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