前半
月曜日の朝、デスクの上に予約票がなかった。
訪問案件のカードも、なかった。
代わりに、ミラが面談室のドアの前に立っていた。タブレットを持たずに、腕を前で組んで、坂口を待っていた。
タブレットを持っていないミラを見るのは、初めてだった。
「おはようございます」
「おはようございます」坂口はコーヒーをデスクに置いた。「今日のクライアントは」
「います」
「予約票がなかったですが」
「今日は、特別なケースです」
ミラは面談室のドアを開けた。中に誰かいるのかと思って覗いたが、誰もいなかった。
「入ってください」
「俺がですか」
「はい」
坂口はミラを見た。
右の口角が、一ミリも動いていない。いつもと違う顔だった。
「ミラさん、今日は何かが違いますね」
「入ってください」
二回目だった。
坂口はコーヒーを持って、面談室に入った。
ミラも入ってきて、ドアを閉めた。
そしていつも坂口が座る側の椅子ではなく、クライアントが座る側の椅子に、ミラが座った。
坂口は立ったまま、その光景を見た。
「……もしかして」
「次のクライアントは、あなた自身です」
坂口は少し間を置いてから、向かいの椅子に座った。
クライアント側の椅子に、初めて座った。
座り心地は、エージェント側と変わらない。でも、見える景色が違った。
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「坂口さん」
「はい」
「今日は、聞かせてもらえますか」
「何を」
「あなたのキャリアを」
坂口はコーヒーを一口飲んだ。
なんで俺が、と言いたかった。しかし言い訳を探している自分に気づいて、止まった。
グラークに「友人はいるか」と聞いたとき、グラークはすぐに答えられなかった。シルフィに「最後に休んだのはいつか」と聞いたとき、シルフィは「休んでいいのか」と逆に聞いてきた。
自分のことを聞かれると、人間は止まる。
今、自分が止まっている。
「……どこから話せばいいですか」
「好きなところから」
坂口はしばらく考えた。
「転職エージェントになったのは、二十五歳のときです」
「なぜ、この仕事を選んだんですか」
「たまたまです」
「たまたま」
「新卒で入った会社が合わなくて、一年で辞めて。次の仕事を探しているときに、転職エージェントの求人を見て。なんとなく、面白そうだと思って応募したら受かった」
「なんとなく、の中に、何かありましたか」
坂口は少し考えた。
「人の話を聞くのが、苦じゃなかった。むしろ、聞いている方が楽だった」
「楽、というのは」
「自分の話をするより、相手の話を聞いている方が、自然だった。気を遣わずにいられた、というか」
ミラは静かに聞いていた。
坂口は続けた。
「最初の会社を辞めたのも、そういう理由です。会議で自分の意見を言わなきゃいけない場面が多くて、それが苦手で。転職エージェントは、聞く仕事だから、向いてるかもしれないと思った」
「向いていましたか」
「向いていたと思います。少なくとも、最初の十年くらいは」
「最初の十年くらいは、ということは」
坂口は少し黙った。
ミラの聞き方が、うまい、と思った。繰り返すだけで、先を引き出してくる。自分がクライアントにやっていることを、今やられている。
「ここ数年、成約率が下がっています」
「なぜだと思いますか」
「若手に負けているのかと思っていました。情報の処理速度とか、SNSを使った求人の開拓とか、そういう部分で」
「思っていた、というのは、今は違うということですか」
「……ここに来てから、少し考えが変わりました」
「どう変わりましたか」
坂口はコーヒーカップを両手で持った。
「成約率が下がったのは、俺が古くなったからじゃないかもしれない。俺が、聞くことより成約させることを、意識しすぎるようになったからかもしれない」
「どういうことですか」
「若い頃は、ただ聞いていた。クライアントの話を聞いて、この人に合う場所はどこかを考えて、それだけだった。でも年数が経つうちに、成約させなければ、という意識が前に出てきた。会社の数字のプレッシャーもあって」
「聞く仕事が、売る仕事になってきた」
「そういうことかもしれないです」
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ミラはしばらく、坂口を見ていた。
「坂口さん、離婚されていますよね」
唐突な話題転換だった。
坂口は少し間を置いた。
「……はい」
「理由を聞いてもいいですか」
「仕事ばかりで、家にいなかった。それだけです」
「それだけ、ですか」
坂口はミラを見た。
それだけ、と言ったのに、ミラは繰り返した。グラークに対して自分がやったことと、同じことをされた。
「……家にいなかったのは、仕事が好きだったからじゃないです」
「では」
「家にいると、妻と話さなきゃいけない。話すのが、苦手だから。仕事を理由にして、逃げていた部分があります」
「逃げていた、と気づいたのはいつですか」
「離婚してから、しばらく経ってから。気づいたときには、遅かった」
「娘さんとは」
「月一回、会っています」
「どんな話をしますか」
「……たいした話はしないです。飯を食って、近況を少し聞いて。娘は壁を作っているので、深い話はできない」
「なぜ壁を作っていると思いますか」
「俺が、いなかったから。子供の頃、父親がいなかった。それが今も続いている、という感覚があるんだと思います」
坂口はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「ミラさん、これ、転職の話じゃないですよね」
「キャリアの話をしています」
「キャリアと、家族は別じゃないですか」
「別だと思いますか」
坂口は少し黙った。
別だと思っていた。仕事は仕事、家庭は家庭、と切り分けてきた。
でもクライアントたちの話を聞いていると、そうじゃないことが多かった。レオンの「勇者として期待に応えなければ」という重圧は、家族からの期待でもあった。グラークの孤独は、仕事と生活が一体化した六百年から来ていた。
「……別じゃないかもしれないです」
「なぜそう思いますか」
「仕事で聞けるのに、家では聞けなかった。技術の問題じゃなくて、向き合いたくなかった。それは仕事の話でもあるし、人間としての話でもある」
ミラは静かに頷いた。
「坂口さん、一つ聞かせてください」
「はい」
「この仕事を、好きですか」
坂口は少し止まった。
好きですか、という質問を、クライアントに何百回と聞いてきた。でも自分が聞かれたのは、たぶん初めてだった。
二十年間、誰にも聞かれなかった。
「……好きだと思います」
「思います、というのは、自信がないということですか」
「好きかどうか、考えたことがなかったです。向いているから、続けてきた」
「向いていることと、好きなことは、違いますか」
坂口はその質問を、しばらく眺めた。
レオンに同じことを聞いた。レオンは「得意なことと好きなことは違う」と言っていた。
今、自分が同じ問いの前に立っている。
「違うと思います」坂口はゆっくり言った。「ただ、俺の場合は——」
「ただ」
「クライアントが、これだ、と気づいた瞬間の顔を見るのが、好きです」
言ってから、少し驚いた。
二十年間、一度も言葉にしたことがなかった。
「その顔を、見るために、この仕事をしてきた気がします」




